呪いを祝福に変える

// 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
(「ローマ人への手紙」9章)//
コレを読むと、神がパロという人物のあり様を尊んで、「神の力」を表したようにも聞こえるが、全くそうではない。
紀元前13世紀頃に飢饉のためエジプトに寄留していたイスラエルの民が、いつしか奴隷の待遇を受けて苦しむに至り、神がイスラエルの指導者モーセをエジプトの王パロの元に送り、「イスラエルの民を去らせよ」とセマル。
しかしパロは幾度もそれを「拒絶」して、ソノたびごとにエジプトで、ナイル川が血の色に染まるなど、神のワザが現われることになる。
そして、パロはエジプトを襲った疫病で息子を失うことにより、ついに「イスラエル人解放」の決断を下す。
この「出エジプト」とよばれる出来事の中で、聖書はパロの「拒絶」の理由について意外なことを語っている。
パロが拒絶したのは、「神がパロの心を頑なにした」というのである。
つまり、パロがモーセの言葉に耳を貸さなかったのは、神がソウさせたということである。
神はモーセを通じてパロに、「イスラエルを去らせよ」といわせながらも、当のパロの心をもカタクナにさせ、その結果「神の力」を次々に表われていく。
その結果、「神の名」ヤハウエェの名が諸民族に広まったのである。
つまり「出エジプト」の出来事では、地上で様々な人間が動いているのだが、結局は神の「一人舞台」であったということモできる。
また、神はこの出来事を通じて、人間の過ちをも「神の栄光」として用いるという人間の及びがたき叡智を示している。
さて、冒頭の聖書の言葉に続く言葉は次のとうりである。
//だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者をかたくなになさるのである。 そこで、あなたは言うであろう、”なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか”。
ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。//
さて、世界の宗教の中には、善と悪の戦いという世界観があるが、このヤハゥエの神は「悪」や「過ち」サエもご自身の事業のために、用いられる。
さらに、神の計画にとって「尊くもちいられる器」と「卑しく用いられる器」とがあるということ、また神の召しはユダヤ人ばかりではなく「異邦人」にも及ぶということを教えている。
「出エジプト」では、エジプトの王パロは、イスラエル人にとってのイワバ「引き立て役」となった感があり、「卑しく用いられた器」となった。
また、「出エジプト」のテンマツは、イスラエルが単にエジプトを脱出するダケでは終らない。
イスラエル人はその後、海が分かれる奇跡によって紅海を渡りきり、シナイ山で「十戒」をうけ、アラビアの沙漠をさまよった後、乳と蜜あふれるカナーンの地に「帰還」する。
このプロセス全体は、ユダヤ人の共有する「民族的体験」となり、ユダヤ人の「選民意識」とユダヤ人の律法を中心としたユダヤ教を生むことになった。

さて、「聖書」とはいかなる書物かといえば、シバシバ神と人間との間の「契約の書」といわれる。
旧約聖書は「律法」を内容とした神とユダヤ民族との「旧い契約」が書かれているが、新約聖書は神と人類との「福音」を内容とした神と人類との「新しい契約」が書いてある。
ちなみに、旧約の「出エジプト」は新約における「この世」(エジプト)から救い出し、「神の国」(蜜の流れるカナーンの地)に入ることの「ひな形」であり、旧約はシバシバ新約の「型」という関係でもある。
新旧の契約の大きな違いは、旧い契約が「イスラエルの民」と結ばれたのに対して、新しい契約の方は広く「人類」と結ばれたということである。
いいかえると、神との契約の対象が選民たる「イスラエル(ユダヤ人)」から「異邦人」に広がったということだ。
それは、前述の聖書の言葉のなかの「神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである」にもあらわれている。
復活したイエスが使徒にむけて語った「全世界に出て行って福音を述べ伝えよ」に応えて、使徒パウロやペテロの使命は、「救いの福音」をユダヤ人ではなく、むしろ「異邦人」に宣べ伝えることにあった。
「福音」とは、イエスの名により洗礼と聖霊を受けることに人は救われ、ヤガテ到来する「神の国」に入るということである。
そして今度は、イスラエル人の「不従順」(心の頑なさ)さが、「福音」の異邦人への広がりとなっていくのである。
つまり、エジプト王パロの「かたくなさ」がユダヤ教成立の契機となったように、今度はイスラエルの民(ユダヤ人)の「かたくなさ」が、キリスト教成立の契機となるのである。
ユダヤ人は、イエスを「十字架につけた」人々であるから、在世していた当時のイエスの「本質」を全く見誤っていた。
しかしイエスの死後50日を経た後に聖霊が降り、人々は「あのイエス」が膨大な旧約の預言に応じた「メシア」であることを使徒の復活の「目撃証言」などを通じて知り始める。
イエスは、「十字架」に向かう前に、この点について次のように語っていた。
「聖霊はあながたにすべてを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。
私は 平安をあなたがたに残していく。私の平安をあなたがたに与える。
私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」新約聖書(ヨヘネ14章)
イエスの一つ一つの行動を降り返ってみると、旧約聖書でなされた「預言」の成就であることをベールが剥がれるように理解しはじめたのである。
ところでイエスが「預言に応じて顕われたメシア」であることを人々が受け入れることは、ユダヤ人にとって自分の犯した「過ち」や「誤り」を認めることである。
一般に自分の「過誤」を認めることは、人間が一番出来にくいことであり、ユダヤ人の多くは「イエスがメシア」であることを受け入れなかった。
しかし神は、イエスを十字架につけたというユダヤ人の「過ち」を、けして「過ち」のママで済まそうとはしなかったのである。
なぜなら、「イエスの十字架」がなかったなら、全人類的な究極の「罪の贖い」は成就しなかったからである。
聖書では、血を流すことなくば罪は許されないとある。
神の計画の下で、「イエスの十字架の死」はどうしても必要なことであり、ユダヤ人は「過ち」を犯したというよりも、むしろな歴史的な「大役」を果たしたともいえるのである。
ヨーロッパに広がったキリスト教社会では、ユダヤ人は「イエスを十字架に架けた」民族として差別されるが、実はこの「十字架の死」で血を流すという「罪の贖い」がなければ、イエスの教えが「福音」なる「キリスト教」が成立することもなかったのである。
ローマ総督ピラトの民衆への念を押すような問い「バラバを許すか、イエスを許すか」に対するユダヤ人の答えは、「イエスを十字架につけよ」であった。
この答えコソが結局、人類の「罪の贖い」を実現し、人類と神との「新しい契約」の根拠となったのである。
民衆がバラバを十字架をつける方を選んでいたならば、単なるローマへの反乱分子が一人死んだだけのことである。イスラエルは「正し く」誤った。
つまり、ユダヤ人が「イエスを十字架」にかけたという「過ち」こそが、実は人類に「富」をもたらしたのである。
「ああ深いかな、神の智恵と知識の富とは。そのさばきは究めがたく、その道は測りがたい」(ローマ11章)と祈り、パウロはイエスを十字架につけたユダヤ人について次のような「驚くべきこと」を語っている。
「彼らがつまづいたのは、倒れるためであったのか。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
しかしもし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことろう」と語っている。
そしてパウロは、イスラエル人が実際に「顔覆い」がとられ、回心し救うわれる時がくることをも預言している(第二コリント3章)。
ところでユダヤ人は、前述の「出エジプト」後にシナイ山で「十戒」を授けられるなどの「民族的体験」を通じて強烈な「選民思想」を抱く人々であった。
従って、律法をによって救われるという「契約」に生きるユダヤ人以外、つまり「異邦人」が神に救済されることはないと信じていた。
ところが、ナザレで育った大工のイエスという男が十字架にかかり、そのイエスが復活したことを目撃するものが表れ、ユダヤ人が信じてきた「律法による救い」とは異なる「救い」(=福音)を述べ伝える人々を見て、ユダヤ人達は彼らの教えが広がることをナントカ「阻止」しようと考えていた。
その一人であった熱心な律法学者のパウロは、「クリスチャン」の名乗る人々を捕縛するためにダマスコの街に乗り込もうとした途上、一時的に目が見えなくなるほどの「強烈な光」を浴び、「あなたの迫害しているのは私である」という神の言葉をきいて、劇的な回心を果たす。
そして、いままでユダヤ教徒として受けてきた教えを「糞土」のように捨て去る。
パウロはソレマデの自分を「その当時はキリスト無く、またイスラエルの民籍に縁無く、(従ってアブラハムとその子孫に対する神の大なる)約束に基づく種々な契約にも与らず、この世において希望なく、また神無き人であった」(エペソ2章)と語っている。
しかも回心したそのパウロも「救いはユダヤ人のもの」であると思い込んでいた。
ところが、異邦人が聖霊をうけて祈る言葉を聞いて、「異邦人」がユダヤ人と同じく「神の救い」にあづかることを目撃した(「使徒行伝」10章45節)。
パウロはコレ以降、神の救いを「拒絶する」ユダヤ人よりも、「異邦人」伝道に方向を変えて力をそそいでいく。
それは一見「ユダヤ人の救い」を忘れたかのようであったが、パウロの「本心」は決してそうではなかった。
パウロは「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪過によって救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためであり、神は、イスラエルの不信仰の罪を、むしろその恵みの福音(救い)が異邦人の世界すなわち、全世界に伝達される驚くべき機会とされたのである」(ローマ人へ手紙11章)と語っている。
そしてパウロは、「キリストこそ約束のメシア、万民の主であることを悟り、彼ら(ユダヤ人)もまた悔い改めて、熱心に神を求め、キリストに立ち返る時が来る」ことを預言している。
神は、決してイスラエルを見捨ててはおられず、神は彼らの過誤や罪でさえも「支配」し、それを逆に「ご自身の栄光」のために用いるということである。
ところで「ユダヤ人の歴史」と「人類の未来」が、深くかかわっているということは、聖書全般の歴史観である。
そういう意味でユダヤ人はヤハリ、「神に選ばれた」民であるということに変わりはない。
聖書によれば、過去に起こったことと、これから起こることとは、「ユダヤ人の歴史」と「異邦人の救い」が交錯することによっておこる。
この点につき、パウロは自ら「奥義」と断って語っている箇所が「ローマ人への手紙」11章にある。
「兄弟たちよ、あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに到る時のまでのことであって、こうしてイスラエル人はすべてすくわれるだろう」
異邦人が全部救われるというのは、正確な翻訳では「異邦人の数が満ちた」時、すなわち異邦人の中で救われる人々の数が満たされた時、歴史は次の段階つまり「ユダヤ人の救い」の時代となる。
「ヨハネ黙示録」では、人類が体験したことのないような「患難時代」を経てようやくユダヤ人がイエスを神と認めるに至り、「神の国」が到来するというのである。
ところで多くの人々がキリスト教について抱く大きな疑問は、カトリックやプロテスタントまたその中にも様々な宗派があって、どれを取って何を信じてよいかわからないということではなかろうか。
しかし、それに対する回答は個人的には次の言葉に要約されるように思える。
「羊は飼い主(牧者)の声を聞き分ける。盗人の声にはついていかない」(ヨハネ10章)ということである。
またもうひとつの疑問は、ヨーロッパの歴史を見るかぎり、キリスト教が列強の南米やアジアの「植民地支配」に利用されたといった「暗い面」があった。
それは犯罪的行為に近いといってもよい。
しかし大半の人々は、欧米に広がって確立したキリスト教が、ホンモノのキリスト教だと「勘違い」している。
キリスト教がヨーロッパに伝わり、ギリシア風に加工された「神学体系」をもつに至って、むしろ「聖書」の教えから離れてしまったのである。
そこで神の教えの基準は、イエスの弟子たちがエルサレムやコリントやエペソに作った「初代教会」に置くべきで、コレこそがもっとも信頼すべき「教え」といえよう。
その使徒たちの行跡をあらわしたのが新約聖書の「使徒行伝」である。
幸いにも我々は、そうした「初代教会」の姿をコノ中で具体的に知ることができるのである。
「初代教会」においては、いわゆる「神学体系」といったものは整っていなかったのに、否、整っていなかったゆえにこそ、「徴(しるし)」と「不思議」に満ちており、それが信じる者に多大な祝福をもたらしている。
「神学」などという「虚しい騙しごとの哲学」(コロサイ2章)のトリコになるより、ただ単純に「使徒の教会」で「何をどのように行っていたか」を基準とすれば一番「誤り」が少ないということである。
ところがソノ初代教会におしてさえも「異なる教え」が入って、分派的動きも起こったことがある。
パウロはソノ「分派的」動きに対して、次のように警告している。
「アポロは何者か。また、パウロは何者か。この二人は、あなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたし(パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(コリントⅠ3章 )。

さて冒頭で、人類の「罪」や「過誤」でさえも神はご自身の栄光のために使われるとしたが、それどころか聖書は、「呪いを祝福に転じる神」とまでいっている。
旧約聖書の「出エジプト」以後、アラビアの砂漠をさまようイスラエル人が罪を犯して病にかかった時、神はイスラエルにカナリ「奇妙な」ことをいう。
「銅(あかがね)のヘビを見上げよ、そうすれ病はタチマチにして癒される」と語ったのである。
銅で創った蛇のように気味の悪いものを見上げて、何で「癒し」があるのか。
聖書でヘビは、エデンの園でイヴをだまして「呪われよ」とされた「のろいの象徴」である。
では、「呪いの象徴を見上げよ」とは一体何事なのだろうか。
しかしよく考えると、イエスの十字架は人間が受ける刑罰の中でも、モットモ「呪われた」の姿での刑罰を受けたのである。
実は「銅のヘビ」は、「のろい」の象徴として頭に「荊冠」を頭に置かれ十字架につけられたイエスの姿の「視覚的」預言であった。
この世の「悪の力」は、イエスを十字架に掛けた段階で、その「勝利」に酔いしれたかもしれない。
しかし神は、ユダヤ人が「救世主」を十字架につけてしまったという「罪」でさえも、その血によって贖いを成就させ、さらには「復活」という大逆転によって「福音」に転じさせた。
それは、呪いを祝福に変える神の力であった。
「あなたの神、主はあなたのために、そののろいを変えて、祝福とされた。あなたの神、主があなたを愛されたからである」(申命記23章)。