人間の羊

この世の中で、一点の曇りもない成功とか、偉業とかいうものをアンマリみたこともない。
カリスマとよばれる人に突然の死が襲ったり、その「名声」が引き金になって不幸を招いたり、英雄の「偉業」も値引きしなければいけないような「真実」が判ったりもする。
病気や事故が人生の設計をすべて壊してしまうことも多い。
年をとるにつて健康になっていく人とか、高潔になっていく人間とか、「回復する家族」なんていうのは、アンマリ見ない。なぜか。
人間は老いて「死」が近づくにつれて様々な「ほころび」がアラワになるようだ。
ソノ壊れ様は、ある意味人間の「真実」がアラワになる過程であり、その「真実」とは滅びに向かっていく人間の姿ということである。
新約聖書(ローマ人6章)に「罪が払う代価は死なり」という言葉がある。
罪と死を結びつけるのは「原罪」意識のない日本人にナジマない観念ではある。
しかし、聖書によればスベテの人間が死から免れナイということは、スベテの人間が「罪人」であるという動かしがたい「証拠」ということだ。
最初の罪によって、人類に「死」が入ったからである。
それゆえに人間は、滅多なことでは充分に満足できるサイワイを受けられなくなっている。
聖書では、人間は神よりサイワイを得るために「イケニエ」というものを捧げた。
そこには人間が、日々神のオキテにそむくもの、神を怒りをマネき易い存在であるという意識があったからであろう。
それどころか現代人は、もとより神の存在を否定しているのでソノ意思さえ尋ねることもなく生きている。
当世の人間は、生活に役だてようと便利なモノを生み出すが、自然を破壊し、大気を汚染させ、大量のゴミを生み出しつつ、さらに大地を汚している。
この現代文明の悪のサイクルから逃れようもなく生きている。
一方で大災害などが起きると、イカニに信仰心がない人でも、現代文明に対する「何か」の怒りということに全くのアパシーではいられない。
東北で震災のおきる前年の夏、東京丸の内のビル街で冷房がキキすぎて夏にオデンが売れているというニュースがあっていた。
その半年後に津波が福島の原子力発電所を襲った時、意識の底に沈んでいた「夏オデン」のニュースが、浮かび上がってきた。
六本木ヒルズというようなアタリを睥睨するかのようなハイテク建造物の威容に感動する一方で、その開業当初に小さな子供がエレベーターの事故でなくなったり事故が起きたりすると、「怒りの神」がふっとヨギッたりする。
それは、人間が「神のごとくナル」ことを徹底的にキライ、蹴散らそうとする神の姿である。
ところで現代人にとって「イケニエ」などという言葉はあまりにも無知な「迷妄」として聞こえるかもしれない。
古代の世界では、誰が教えてるでもなく「イケニエ」を捧げることが、カナリ普遍的におこなわれていた。
しかし、原初の人類に見られる意識にこそ、ムシロ人間の「本質」をツクもがあるのだと思う。
現代人は利益や業績をあげること関して、別に神の意思を問うことなく、己の意思を貫徹する。
それがこの世で高い評価を受けることだし、世の為人の為になることなのだから、全く問題もないと思う。
その為かどう定かではないが、意外な「落とし穴」にハマッタりする。
そこには、人間が神の意思を恐れたり、「何か」を神に捧げるという意識は消滅している。
ところで旧約聖書の創世記やレビ記には「イケニエ」の捧げ方がコマゴマと書いてある。
それによって祭司職の者は、日々罪の許しをえた。
その神は人間の犯した罪に対して、「イケニエ」を求める峻厳なる神である。
罪の支払う代価は死であり、罪の許しには「血を流す」(ヘブル人9章)必要があることまでいっている。
そこで、イスラエルの祭司達は毎日、キワメテ厳格に定められた手続きにのっとって、子牛や羊などの「イケニエ」を捧げた。
旧約聖書(出エジプト記29章)には、「イケニエ」の儀式を執り行うときの「手順」が細かく指定されている。
これを読むと、「イケニエ」を神に捧げる儀式において、「油を注がれるもの」(これがキリストの意味)は、犠牲になる動物ではなくて、動物を祭壇で神に捧げる儀式を行う「祭司」であることがわかる。
「あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちはその雄羊の頭に手を置かなければならないとある」。
これは、祭司(当時アロン)の罪を「イケニエ」の動物に転移して自身らは潔くなれということである。
さらにその雄羊をみな祭壇の上で焼かなければならない。これは主にささげる「燔祭」である。
すなわち、これは香ばしいカオリであって、主にささげる火祭である。
生贄を火で焼いて立ち上る煙と香りが天に昇り神に届いて、はじめて神の宥めを得るということができる。
しかし聖書にソッテみても、この世はもはや「イケニエ」の必要のない時代である。
すでに完全な「イケニエ」が捧げられているからである。
しかし、現代文明の病巣が噴出したようなニュースを見るにつけ、神を恐れることを失った人間が強制的に「イケニエ」を取られたたのではないかと思わぬではない。
今日「イケニエ」ほ不要でも、人間の生活や文明がツネニ何らかの「ツケ」を支払うべくあることには変わりがない。

最近の映画で名作の評判が高まっている「レミゼラブル」は、格差と貧困にあえぐ民衆が自由を求めて立ちあった19世紀のフランスがよく描かれいている。
ソンナ時代を背景に、登場する人々に「罪の許し」とか「自己犠牲」といった主題が、何層にも重なって表れてくる。
キリスト教がいまだ人々の心を強く支配し、キリスト教の「犠牲」の精神が、全体を覆っているように思った。
1789年にフランス革命がおこり、革命の輸出を恐れた諸外国のフランス「包囲網」に対して、ナポレオンは革命の成果を守っただけではなく、ソレを周辺諸国にまで広げた。
そのナポレオンは没落したものの、ヨーロッパの人々は一度は味わってしまった自由を忘れることはできない。
ナポレオン没落後、ブルボン家のルイ18世が、再び王位につく。
しかし、ブルボン朝が復活したからといって、すべてをフランス革命の前の状態に戻すのは不可能である。
ナポレオン後の「ウィーン体制」は、自由への動きを力で押さえつけようとしたから、当体制に反発して、自由や民族独立を求める運動が起こっっていく。
それで1820年代に自由主義運動の大きな波がおきる。この時代こそがヴィクドル・ユーゴー「レ・ミゼラブル」の時代である。
映画「レ・ミゼラブル」は、1815年、ツーロンの徒刑場の話から始まる。
主人公の、ジャン・バルジャンが、妹の子を助けるためにパン一切れを盗んだ罪で、19年間も投獄された後、仮釈放される。
19年という長い期間は、バルジャンが脱獄を何度も企てたためである。
仮釈放で外へ出れたものの定期的な出頭命令を無視して そのまま逃げてしまい刑事のジャベールに一生追われる身となる。
仮釈放ということが判れば、バルジャンは仕事をしても他人の半分しか給料をもらえない、宿屋からも宿泊を断られる等、世間の冷たい風にさらされる。
泊まるところを探しあぐねていたところ、親切な司教が、泊まるところを提供してくれたばかりかパンとワインまで与えてくれる。
しかし、バルジャンは、司教の善意を裏切り、銀の燭台を盗んで逃げ出す。
バルジャンはすぐに警察に捕まり、司教のところに連れてこられる。
司教は、「銀の燭台は彼にさしあげたものだ」と言い、さらに、別の燭台までも「忘れていったのであろう」とバルジャンに与えてくれる。
バルジャンは、司教の心に打たれ、生まれ変わることを誓う。
必死に働き、モントルイユ・シュル・メールで工場をつくり、町を発展させた功績で市長となる。
真人間として生まれ変わったバルジャンであるが、彼の町に彼を追う刑事のシャベールがやってくる。
そんな或る時、工場で働く女性たちに騒ぎがおきる。
騒ぎの原因は、工場で働いていたファンティーヌという女性に私生児がいるのが分かり、ファンテーヌに嫉妬した女性たちとトラブルになっていた。
バルジャンは、刑事ジャベール、自分の身が発覚することをおそれ、このトラブルを工場長の処理にまかせてしまう。
フォンティーヌに下心をいだいたが工場長は、フォンテーヌに拒絶されて、彼女を工場から追い出す。
結果的にフォンティーヌは娘コゼットの養育費を稼ぐために娼婦に身を落とし、まもなく病の床に伏し亡くなってしまう。
すべてを知ったバルジャンは 薄幸のフォンティーヌからコゼットを託され、父親となって出来る限りの愛を注いで育てようと決心する。
バルジャンは、イカガワシイ宿屋夫妻に預けられていたコゼットを引き取り、限りない愛をもって美しい娘に育てあげる。
コゼットとともに育った宿屋夫妻の実の娘はエポニーヌは、革命に身をおく青年マリウスに片思いをする。
一方、マリウスはコゼットに一目惚れして、エポニーヌは皮肉にも二人の恋の「伝令役」となってしまう。
エポニーヌは、マリウスの後追って暴動に参加するものの、政府軍に撃たれて亡くなった。
バリジャンを追うジャベール警部も、革命軍に捕まるが、バルジャンはシャベールの処分を自分に任せてくれと銃殺に見せかけ逃がしてやる。
悪人だと思い追い続けてきたバルジャンに救われたシャベールは、法が与えた職務の間で困惑しセーヌ川に身を投げる。
バルジャンは、美しく育った娘にマリウスという恋人がいるのを知り、追われるれる者がソバにいては、コゼットに迷惑をかけると娘のもとを去る決心をする。
そして自分の身を人マリウスに明かし、マリウスにコゼットの未来をゆだねる。
マリウスは、暴動の日に瀕死の時一人の男に背負われて助かったことがあった。
後にマリウスは、瀕死の自分を背負って逃げた男こそがバルジャンであることを知らされる。
マリウスがコゼットを伴って、バルジャンの元を訪れたとき、バルジャンはスデニ臥せっていた。
マリウスとコゼットが見守る中、バルジャンは永遠の眠りについた。
この映画を見ながら、デビット・ジャンセンが登場する昔のテレビ・ドラマ「逃亡者」や、刑事シャベールに東野圭吾の「白夜行」に登場する刑事なども思いおこしたが、こういう物語も「レ・ミゼラブル」が下敷きとしてあるのではなかろうか。
いずれにせよ、人が幸福になるためには、様々な「犠牲」をと伴なって生きるということを教えられたドラマであった。

ところでユダヤ教と違ってキリスト教では「イケニエ」は不要である。
それは、子羊という「燔祭」は、イエス・キリスト自身だからである。イエスは人間の「羊」となられた。
キリスト教は「罪」、そしてソノ「贖い(あがない)」としての「十字架」という「いけにえ」があったことにより、罪の許しがある。
ヘブル人への手紙10章では、「こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。 」
そして18節には「これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。 こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」とハッカリと書いてある。
そればかりではなく、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」 (ローマ人8章)
イエス・キリストが「人間の羊」としてソノ十字架が「完全な生贄」となったために、つまり「罪の支払う代価は死である」という罪の法則からも解放されたということである。
問題は人間が、その「贖罪」にどのように与るかである。
一言でいえば、洗礼なのだが、水の中にはいる洗礼とイエスの十字架の「贖罪」がどう関係するか、という疑問がおこる。
それはイエスがカナであった親族の結婚式で見せた「奇跡」が示している。
その出来事を聖書からそのまま引用しよう。
// 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。//
このカナの奇跡は「水が葡萄酒に変る」という奇跡である。
言い換えると「水が血に変る」という奇跡である。
ナゼそのような解釈が成り立つかというと、最後の晩餐でイエス自身が葡萄酒を我が血といった場面がある。
また、冒頭の言葉に注目していただきたい。
ぶどう酒がなくなったので、母がぶどう酒がなくなったいうと、イエスは母に「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と答えている。
奇妙な答えだが、この「わたしの時」こそが、「十字架の時」(贖罪の時)とすると、この出来事の全体がよくわかる。
イエスは十字架の死をこの段階で予告していたのだ。
つまり「洗礼」とは単なる水で洗われるのではなく、「キリストの血」で洗われるということである。
しかもこの奇跡は誰の目にも明らかというわけではなかった。
「水をくんだ僕たちは知っていた」である。