天空のカケラ

最近の隕石墜落ニュースで気になって調べると、日本各地には星上山、大月町、天川村など、天体に関する字が付く地名は全国各地に数多く見られる。
その全てが天体や天文現象に関わる訳ではないが、中にはソノ地に星が降ってきたという伝説や実際に落ちてきたとされる石を祀る場所もある。
京都貴船には、実際に「天降石」なるものがあるし、鳥取県には「落岩神社」という隕石ソンモノを祀る神社もある。
少し意外なところでは、福岡県直方市の須賀神社で行われる祭りは、「世界最古」と銘打った「隕石」を輿で担いで街を巡るというものだ。
須賀神社の御神幸大祭では、境内に落ちたと伝わる隕石を輿に乗せて地域を巡る。
5年に1度開かれ、「社宝」が公開される奇祭で、一目見ようと、県外からも天文愛好家らが詰めかけるという。
神社の伝承によると、コノ「隕石」は平安初期の861年4月7日夜、光や大きな爆発音とともに落ちてきたものとされている。
菅原道真が大宰府に流され、福岡県筑紫野の「天拝山」で祈り始める40年くらい前のことである。
その「隕石」は赤黒く約500グラムあり、拳より一回り小さい程度のものだったが、宮司家が大切に保存してきた。
1981年に国立科学博物館の専門家らの鑑定で「目撃記録を伴う世界最古の隕石」と確認され、神社に記念碑も建立された。
ところで、現在日本で発見された隕石は50例ほどがあるそうである。
奈良県吉野の「天河神社」は、能楽の発祥の頃より深く関わってきた「芸能の守り」本尊といわれており、密かに芸能人がしばしば訪れる場所でもある。
天河社に能面・能装束多数が現存していて、いずれも桃山文化財の「逸品」として世に知られている。
能面三十一面、能装束三十点外に小道具、能楽謡本関係文書多数は室町から桃山から江戸初期にかけて我が国の能楽草創期から成熟期にかけてのものばかりで、能楽史上稀有のものとして「文化的価値」のきわめて高いものだという。
平安期の以来、悪霊を鎮めたり、祖霊を祀ったりするのに「田楽」が行われてきた。
後南朝初期、「観世三代」の嫡男十郎元雅が心中に期することを願って、能「唐船」を奉納し「能の面」を寄進したことが嚆矢となった。
ところで、この芸能の神様が何ゆえに「天河」と名付けられたのかというと、天河神社の古い名称、天の安河の宮からきている。
天の安河(天の川)八百万の神々が天岩戸にこもった「天照大神」を「引き出す」ために集まって話し合った場所ということらしい。
ところで天河社にはもうひとつの「顔」があった。
それは、赤ん坊の頭ほどの三つの「隕石」が柵に囲まれて存在しているのである。

実は隕石なるものは、頻々と地上に落下してきているものらしい。
その隕石が人間に被害をもたらしてきたかというと、必ずしもそうではなく、天からの「贈り物」という側面が大きい。
隕石の中には「隕鉄」という種類がある。つまり、鉄やニッケルの塊である。
金属の精錬技術を持たなかった時代あるいは地域の人々は、「隕鉄」を貴重な金属として、道具に使っていたのである。
おそらくは「目撃情報」などから、天からもたらされた物質であることが知られると、「宗教な意味」づけが加わり珍重されることもあった。
46億年前に太陽系が誕生したとき、微惑星どうしは衝突を繰り返して成長していった。
衝突すると大きな熱が生まれ、金属は溶けるが、溶けた金属は重いので中心に集まる。
やがて比較的大きな天体と衝突して粉砕された中心から金属の塊が飛び出し、宇宙を漂流することになる。
いかなる運命のイタズラか、地球の引力圏にまぎれこみ、地上に落下したものが「隕鉄」となる。
「大気圏突入」で発熱した隕鉄は空気抵抗を受けて減速し、進入角度にもよるが、地表付近では秒速15~16mくらいの速度になっている。
隕石なら地面にクレーターを作ることもないし、充分に冷えているので草地を焦すこともない。
そほとんどの隕鉄はそれと気づかれずに舞い降りたのである。
もちろん、巨大隕石が「急角度」で落下するような場合には、周囲にすさまじい破壊を引き起こす。
地表に衝突した隕鉄は、衝撃型の自由鍛造が行われ、表層のキメがより細かくより強靭になっている。
「地球起源」の鉄は地表ではスグニ酸化してしまうので、「高純度」で錆びにくいものか、ある種の環境下で「再還元」されたものだけが「自然鉄」として残っている。
こういう「自然鉄」が簡単に見られる土地は案外と少ないが、逆に「隕鉄」は万遍なく地表に降り注がれているため、剥き出しの場所でムシロ見つけやすかったのである。
古代の人々は、「隕鉄」をとても大切に扱い畏敬の念すら抱いていた。
第一に希少であり、第二に天上を起源としていたために、「天空の力」が宿っていると解釈した。
「天空のカケラ」で作った剣や斧などの武器は、そのまま神秘的な霊力に直結して、敵を打ち滅ぼし持ち主と仲間を守ってくれると信仰した。
そうすると「天来の武器」を持つ民族は、天から降り来った神々の末裔として畏れられたのである。
ところで、隕鉄も自然鉄同様に錆びるが、表面が「頑強な皮膜」で覆われているため、内部は腐食されずに残っている。
この「皮膜」の形成は、「自然鉄」や還元法によって作られた「人工鉄」とは、まったく異なる性質をもたらす。
通常、隕鉄は「音速」に近い速度で大気圏に突入し、大気との摩擦熱で表面に「溶融皮膜」を形成する。
この時の高熱とガスの影響で、しばしばガスホールを生じその周りに「不純物」が形成されている。
こうした欠陥は、鍛造した刃物の表面に黒いキズやしわ目となって現れるものの、古代においては霊力を持ったものコソが貴重品とみなされたのである。
人類学者エリアーデによれば、「天空は石で出来ている」という共通の信仰があったと書いている。
とすると、隕石は「天空のカケラ」なのである。
天空が石であるという観点から、世界各地に見られる地上の「ストーン・サークル」を見直してみると新しい視野が開けソウナ気がする。
古来、宗教上の御神体として、天から降って来た巨石が祭られることも多い。
イスラム教の聖地・メッカのカーバにある黒い石は隕石だといわれるが、その代表例である。
また、アルタイ系の民族には星と神々にまつわる信仰が多く、隕石群の近くに築かれたストーン・サークルや鉄器文化の存在を示す遺物が密接に関連しているという。
出土した鉄器に、4~5%のニッケルが含まれていることから、剣もおそらく「隕鉄」を鍛えたものと考えられている。
つまり、鉄鉱石や砂鉄(いずれも酸化鉄)を「還元」して鉄を作る技術が発見される以前に、人類は鉄の塊を拾ってきて「隕鉄」を原材料として武器などをを作ってきたということである。
古代で「鉄の文明」とえばヒッタイトを思い浮かべる。
しかし、その数百年前にトルコのアンカラ郊外の王墓で発見された約4300年前の全長約30センチほどの「鉄剣」がソレで、「世界最古」とされている。
それから長い時代を経て、人々は鉄を火によって加工することを覚えた。
鉄の場合は、熱しながら打撃を加えることではるかに容易にツナグことが出来た。
また、同じ方法で容易に変形させる(鍛造)ことも出来た。
「鍛接」は金属の溶解とともに、石器時代と金属器時代とを明確に区分する画期的な技術だったといえる。
ここに至って、石と鉄とは、明らかに異なった性質を持つものとして認識された。
金属器時代に入ると、人々の手足となって働く道具は、石器時代とは比べ物にならないほど性能が向上し、生産(作業)効率も著しく高まった。
その一方で、おそるべき殺傷能力をもった剣や斧が生み出された。
ひとつの文明と別の文明とは、互いに脅かしあい、生命を賭けた「覇権争い」が始まり、鉄兵器の鍛造技術を持つ民族と持たない民族とをクッキリと分かったのである。

ところで、日本では、隕鉄を星鉄、隕星、天降鉄などと呼び、やはり「霊的」な力が備わった鉄と信じた。
製鉄技術は、AD4世紀以降に大陸から渡来したといわれる。
それより古い弥生時代の遺跡から出土した鉄器は、おそらく大陸から持ってきたものだという。
AD6世紀以降、砂鉄を原料とする「たたら製鉄」に結実した。
玉鋼や包丁鉄など一風変わった性質の鉄が生み出され、日本刀に神秘的な切れ味と強靭さとをもたらした。
日本の鉄器は、最初から還元・精錬された鉄を使ったために多量に遍在する砂鉄や鉄鉱石で足りた。
したがって、希少な隕鉄を探し求める必要性は生じなかったのである。
隕鉄は、百万年に1℃といわれる限りなくユルヤカな「冷却過程」で生じた結晶構造は、自然鉄でも人工鉄でも実現しようのないものだという。
自然鉄は柔らかいがかなり粘り強く、隕鉄は多量に含まれるニッケルが組織を硬くしている。
人工鉄は、数%以下の炭素を含み、熱処理によって硬さや粘さを調整できるが、典型的な隕鉄は、炭素分が10ppm以下と少ないため、熱間加工後も、生のママの性質が保たれる
つまり日本刀のように刃に焼きが入らない。
というわけで「隕鉄」は日本刀の素材にはあまり向いていないのだが、ソコデ神鏡や身装品にするなら全く問題ない。
一種の儀礼的アイテムとして、隕鉄そのものや、隕鉄を加えた霊剣を神社に奉納し、「御神体」とした例もある。
日本でも隕鉄を原材料とした「刀剣」が作られている記録があるが、それは比較的に最近のことである。
明治以降、何人かの刀匠が隕鉄を使って剣の製作を試みている。
一番有名なのは、1898年、農商務大臣・榎本武揚から、時の皇太子(大正天皇)に献上された「流星刀」である。
素材には、1890年、富山県白萩村で発見された隕鉄が用いられた。
漬物石に使われていたのを、譲り受けたものらしいが、この「漬物石」という点には問題はなかったのだろうか。
榎本は、「霊験」アラタカな日本刀の素材には、隕鉄がピッタリだと考えて、作刀を思い立ったのである。
しかも少量を玉鋼に混ぜるのではなく、隕鉄だけで作らせようとした。
請け負った刀匠、岡吉国宗は、榎本に宛てた手紙に、「星鉄で刀を作ることは伝授も経験もなく、玉鋼と同じ方法を試みたが困難だった。色々考えながら3度やり直した結果、白熱するまで加熱してようやく出来た。研ぐと美しい地肌が出た」と書き残している。
日本刀は、本来赤熱状態で(より低温で)、折り返し鍛錬するもので、白熱するのは作法に外れるが、ともかくもナントカやり遂げたのである。

戦後、GHQのによる日本占領の主要な目的は、民主的憲法の制定と軍国主義的傾向の除去である。
有態にいうと、憲法法で武器の保持を禁止し、近代戦を遂行するだけの工業力をもたないするようにすることであった。
財閥解体や「経済力の集中」の排除などがソレであるが、スト承認やスト黙認もその「ライン上」で考えた方が理解しやすいところである。
占領軍にとっては日本の軍国主義を再び「復活」させナイようにするというのが「第一の目的」であり、その目的の上に様々な「理想」が糊塗されたということではないだろうか。
そういう占領軍の「ホンネ」は、1950年の朝鮮戦争の勃発による「占領政策」の頓挫と転換によって、ハッキリと「読み取る」ことができる。
占領軍は、日本の経済力を「町工場の集積」ぐらいのレベルに抑えておこうとしたかもしれないが、日本人の本来もつエネルギーが「貧しく慎ましく」で収まりキレルはずもなかった。
そして、こうした「日本弱体化」プランに最初に抵抗しえた稀有の人物が、川崎製鉄社長の西山弥太郎である。
当時の製鉄業界の勢力図は、高炉をもつ八幡、富士、日本鋼管、平炉をもつ川崎製鉄、神戸製鋼、住友金属があった。
このうち平炉による企業は製鋼メーカーとはいっても、原料として一貫メーカーから「銑鉄」を買わなければならない「情けない」存在で、高炉の企業とは大きな格差があった。
しかも、その「原鉱石」のホトンドは中国から輸入をあおぎ、品質も種類も雑多な原料から製造しなければならなかった。
こういう企業では、広大な敷地の工場で真っ赤に溶けた鉄が勢いよく帯状に流れていく姿からはほど遠く、1950年代に至っても、下駄を履いた工員が働いていたという。
靴ではなく下駄を履いたのは、溶鉄が飛び散ったのを瞬時に飛び退くことができるからだ。
さらに人間の五感にたよって鉄の「出来具合」を判断するといいったまるで江戸末期の「反射炉」ソノママのことがおこなわれており、実際に生産された「鉄の質」自体もマバラであった。
このままでは、毛沢東の「大躍進」の末路さえ彷彿とさせるものがある。
西山は、アメリカのような「銑鋼一貫」の大工場を作らなければ、今製鉄の状況が続く限りは日本は「貧相な町工場」だけの国になってしまうと考えた。
西山のビジョンは、熔高炉(高炉)、平炉(転炉)、圧延設備を「一貫し」て連動させる設備で、そこまで原料を運び貯蔵し製品を送り出す船、貨車、トラックなどの「輸送設備」がワンセットとなった「一貫大工場」の実現であった。
日本は資源を欠くとはいえ、その供給先は太平洋にむかって無限に開いている。
そして銑鋼一貫の大工場の立地条件を検討した上で、最終的に千葉に決め、1950年ごろから各界の協力や資金集めに奔走した。
そして様々な困難を乗り越え、1955年に千葉製鉄所第一期工事が完成し、川鉄は高炉二基をもつ本式の製鉄所になったのである。
豪放磊落な西山であったが、全身全霊をあげて事業に取り組み、1966年水島製鉄所の完成を目前にして亡くなった。
そして、千葉製鉄所の完成、そして川崎製鉄による「先陣」をきった戦いが経済界に与えた影響は計り知れないものがあった。
占領政策で押さえ込まれオズオズとしていた経営者達は、これ以後世界が驚くほど「借金」をして、「大胆」に設備投資するように変貌したのである。
そこからは川崎製鉄に住友金属、神戸製鋼が続き、「地鳴り」がするかのごとき「日本製鉄業」の前進が始まったのである。
そして川崎重工の時代には新幹線の車体の製造するなどして、川崎製鉄/重工は日本高度経済成長の「牽引役」の一つとなったのである。
地上には地球の内部で生成し地表に「昇って」きた「自然鉄」と、天上を起源とする「隕鉄」とが存在している。
「膨大な」埋蔵量を誇る鉄鉱石(酸化鉄)が利用可能になるまで、長い間、鉄はきわめて珍しい金属であったということがいえる。
しかし、この世界中に降り注いだ隕石(隕鉄)の活用なくして、「自然鉄」を探し出し利用することはカナリ遅れることになったかもしれない。
また隕石は今日、「宇宙の起源」を教えてくれる貴重な資料ともなっている。
天空からのものは、大きな「固まり」でなくカケラであるカギリ、人類のはかりしれない「贈り物」となってきたのである。