逸品生まれる

NHKNのBSプレミアムで「イッピン」という番組があっている。
「イッピン」は「一品」とも「逸品」ともとれる。
日本各地で作られるものを「特産品」というが、その特産品の中のさらに特別なものをその土地の「イッピン」とよんで紹介している。
土地の歴史や人々の流れや、偶然にソノ時ソコにいた才能や努力によって「イッピン」が生まれる。
我が地元の博多の名産「メンタイコ」は、韓国で暮らした日本人夫妻が博多に帰郷して考案したものだ。
NHKの「イッピン」は日本人の秀悦な芸術性や器用さによって生み出されたモノを紹介しているが、モノに限らずその土地でなされた人間の「行い」の逸品や「アイデア」の逸品も含めて紹介したい。

ジ-ンズは、日本で最初からそれほど好意的にうけいれられたわけではない。
マイク真木が紅白歌合戦に「バラが咲いた」をジーンズで歌ったら作業服で出るな、Tシャツででたら下着を見せるなと苦情がきたというエピソ-ドもあった。
覆面どころか、市議会に議員がジーパン姿で登場すると、何事かと問題化された。
もっとも倉敷市議会では、2007年にPRをかねてジーンズ議会を開いている。
1960年代は「反抗のシンボル」、最近ではジーンズが最もよくにあうタレントに賞を与えるなど「美しく見せるためのスタイル」というようにジーンズに対する意識もまったく変わってしまった。
要するにジーンズは広く受け入れられたため、何かをシンボライズするものではなくなったということだ。
ジーンズといえばアメリカの「Levi's(リーバイス)」がイメージされる、というくらい「ジーンズ=アメリカが本場」という印象が強い。
さらに海外には、「EDWIN (エドウイン)」や「BIG JOHN (ビッグジョン)」「BOBSON(ボブソン)」といったメーカーがある。
しかしソレに負けないクオリティのジーンズが日本国内で製造されている。
そんなジーンズの知られざる「聖地」が岡山県である。
実はジーンズはアメリカ発祥ではない。
、ジーンズという言葉の起源は、イタリアの港町ジェノバである。
フランス南部の町ニームで製造された「サージ織り生地」を原型で、フランスの伝統産業の青い丈夫な「帆布」のことで、ジーンズはデニム生地をインディゴ(藍)の自然染料で染めたのがはじまりである。
藍染はインディゴは、そのにおいが虫除けや蛇避けになると言われている。
ニームから輸出された生地はフランス語でセルジュ・ドゥ・ニーム、すなわち「デニム」とよばれた。
イタリアのジェノバで布地で作ったパンツを履いた水夫たちを「ジェノイーズ」と呼ばれたが、これが現在の「ジーンズ」の語源だと言われている。
ところでリーバイ・ストラウスというドイツ・バイェルンの生まれの兄弟が、14歳の時ニュ-ヨ-クに移住した。
兄弟は、1860年代ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで、殺到した試掘者や開拓者たちに日用品を調達する仕事に従事していた。
リ-バイの会社(リ-バイス)は、こうした男達の「作業服」として、デニムの布とジェノヴァの水夫のズボンを「組み合わせ」たのである。
また、槌や道具がポケットに収まるよう縫い目を馬具用の「真鍮の鋲」で補強することを思いついた。
こうしてアメリカのドイツ移民が、フランスの素材とイタリアのスタイルをもちいて、典型的なアメリカ製品を生み出したのである。
ジーンズはゴールドラッシュによりブレイクし、いつしかアメリカの若者文化のシンボルとなり、リーバイスにより大量生産され、日本にも輸入された。
一方、日本にも優れた「藍染」の伝統技術をもつ職人達がいた。
戦後、アメリカより大量に輸入されてくるジーンズをみて、その染めムラが気になり自分ならモットいいものが作れると思った一人の男がいた。
広島出身の藍染職人・貝島定治である。
貝島は女性の作業服のモンペなどの染色を行っていたが、農業の比重の低下と都市化進行によるモンペ需要減少のため、方向転換を模索していた。
そんな中、貝島はアメリカ産ジーンズの「染めムラ」に染色職人としての血が騒いだのである。
しかし貝島は「染めムラ」のないジーンズを生産できたにもかかわらず、自分がジーンズはアメリカ産と比べ、ナニカが欠けていることに気がついた。
一言でいえば、「風味」といったものである。
貝島製とアメリカ製とは、生地を縦糸と横糸を交互に編むという方法は共通しているのだが、デニム(生地)を紡ぐ糸ソンモノに原因があった。
アメリカ産のデニムは芯は白く糸の外表だけを青く染めたもので、ジ-ンズが古くなると白い繊維が浮き出て独特の風味が出てくるのである。
そこで貝島は、糸をそのまま藍にツケテ染めるのではなく、糸をピーンと張り伸ばしきった状態で染めることにより、芯は白く表面だけが青いアメリカ産のデニムと同じものを作ることに成功した。
貝島は、岡山に会社工場をつくり国産ジーンズを生産し始めた。
岡山県倉敷市児島地区はもともと、日本三大絣の一つ「備後絣」の産地で、「織り」と「染め」の技術を持った職人がたくさんいた。
その技術を活かし、現在の広島県と岡山県は、世界に名だたるジーンズ生産地として有名になったのである。
というより、「聖地」となったといってよい。
ところで、アメリカ文化と江戸文化はまったく「正反対」のようだが、ジーンズを通して意外な共通項を見る思いがする。
例えば「粋」という文化がある。江戸時代に奢侈禁止令などによって着飾ること禁止された江戸町人が、隠れたところにちょっとしたお洒落をするというスタイルを生み、それが「粋」という生き方や文化にも繋がったものである。
現代人はジーンズを、「破いてはく」、「崩してはく」、わざと「古く見せる」などして「粋」を楽しんでいる。
ジーンズの色落ちによる独特の風雅は、日本人の伝統的な「わび/さび」の世界に通じるのではなかろうか。

BOROが世界の注目を浴びている。
BOROといっても「大阪で生まれた女」ではなく、「青森で生まれた布類」である。
「ボロは着てても心は錦」のあのボロで、青森の歴史館マタハ民芸資料館にさえも「恥じて」展示されなかったものである。
BOROの大きな特徴は麻布であることである。
藩政時代を通じて農民が木綿を着用することは禁じられていたこともあるが、そもそも寒冷地である青森では綿花の栽培ができず、農漁民の日常衣料は麻を栽培して織ったものである。
麻布は綿と比べて防寒には適していない。
一枚の麻布で寒すぎれば、何枚でも重ねていったり、糸を刺して丈夫にしたり、傷んで穴が空けば小布でつくろったり、また布と布のあいだに麻屑を入れて温かくしたりしていくうち、不思議な美しさをかもし出してきた。
BOROはパッチワークを思わせるが、パッチワ-クのように綺麗なものを作りたくて作ったのではなくて、その時あるものを何デモいいから重ねていったものだ。
時々の即応で布が継ぎ足されていき、少しでも温かく、少しでも丈夫にという人々のデェザィア-の加算から生まれた偶然のデザインで、だれも「美」を計略したわけではない。
それでもそこに美が宿るのは、そういった人々の思いの純度がなせる技なのかもしれない。
BOROは、青森の人々が何十年も何百年もかけて使い続けた衣類で、その深みのある美しさが今、世界のアーティストから注目されている。
ところどころでBOROのアートコレクション展が行われるようになり、海外でもその美しさが評価されるようにもなったのは、驚きという他はない。
青森には雪国の女性たちによって伝えられてきた「こぎん」や「菱刺し」が発見されて、一躍脚光を浴びるようになった。
しかし、もっと身近なところにあったBOROは、東北の「貧しさ」を象徴するものとして、恥ずかしさとともに隠されてきたのだ。
野良着から肌着から寝具に至るまで幾重にもツギハギされたBOROは、青森の人々が寒さを凌ぐために生み出した衣類で、そのスリ切れ、破れ、ホツレの中にこそ「美」が見出されるようになった。
BOROは、世代をこえた、連綿とした引継ぎは「リサイクル」という凡庸な言葉をはるかに越えている。
おそらくは、その美の要点は、何世代も受け継がれた「愛情」なのかもしれない。

冒頭で述べたように「逸品」はモノだけではない。
近年「保険商品」の中にアイデアの逸品が生まれた。
鳥取県智頭町は人口約8000人、面積の93%を山林が占め、杉、檜の産地として古くから知られる林業の町である。
また「日本で最も美しい村」にも加盟を認められた農村の原風景が残る緑豊かな町である。
しかし、主要産業の林業は安い外国材に押されて衰退著しく、高齢化率約35%と過疎高齢化が問題となっている。
智頭町の寺谷誠一郎町長は、「災害」を切り口とした町おこしのアイデアとして「疎開保険」を考えた。
災害などイザというときに身を寄せる場所を持たない都会の人のために、1年間ひとり1万円の掛け金で1泊3食7日間の宿泊場所を提供してくれるというものである。
図らずも2011年3月、東日本大震災の直前に発売した。
2人や3、4人のファミリーコースも設定し、加入者は1年に一度、農産物などの特産品を保険料の半額程度、「特典」として受け取ることができる。
主役として町内の元気なお年寄りにスポットを当てるというネライと、わずかでも同町のこだわりの野菜を都市部へ送り、新たなビジネスチャンスを作るネライもあった。
しかし、いざ「保険開発」を始めると地方自治体の業務では想像もできない障害が次々と起こった。
地方自治体としての保険業法の適用について、さまざまなヤリトリがあった。
適用となる場合は免許の取得や定期監査、報告業務など複雑な手続きがあり、適用を受けない場合、「保険」という名称を使用することの制限を受ける可能性があった。
金融庁や総務省と何度も協議を重ね、最終的に改正保険業法の適用除外の条件「1000人以下を相手とする」という項目に注目、1000人を上限として施行することで、「疎開保険」として発売することができた。
そのため「疎開保険」は加入者1000人が上限となった。
発売に当たって、寺谷町長自ら上京し、東京都内でチラシを配って「疎開保険」をPR、「疎開保険体験ツアー」などを行った。
震災後の不安もあり、問い合わせが殺到した。
現在400人ほどが加入し、順調に増えているという。
さらに田舎暮らしが気に入って、リタイアした後、都会から移り住んできた人や、送った野菜が気に入って、追加で取り寄せてくれる人もいた。
野菜を作ったお年寄りの励みになり、農業の活性化にもつながって、町にとっても大きな効果があった。
2012年3月、同町では「疎開保険」を商標登録し、次の展開を検討している。
「疎開保険」は、田舎だからこそ提供できる空間を利用したアイデアの「逸品」ではなかったろうか。

瀬戸内海に浮かぶ香川県豊島は、かつて日本最大の産業廃棄物不法投棄事件の舞台となったこの島である。
一時は甲子園球場の容積のざっと5倍、50万禔もの産廃が高さ20神まで積み上げられ、異臭を放ち、醜悪な姿をさらしていた。
その影響で豊島小学校では、全校生徒の9・6%がぜん息患者という事態まで起きた。全国平均の数倍の発生率だ。
しかし、野焼きとの「因果関係」を証明できず、泣き寝入りを余儀なくされた。
住民は県に何度となく訴えたが、島を訪れた担当者は産廃投棄現場に足を踏み入れることもなく、港の前の喫茶店で業者と談笑して帰り、文字どうり「お茶を濁す」ことしかしなかった。
しかし、強烈な個性を持つ中坊公平弁護士が熱情を傾けて島民を叱咤し、ともに怒り、涙しながら運動を指導した。
そして9年に及ぶ住民の長い戦いは、産業廃棄物の「島外撤去」を実現した。
2002年3月から、汚染土壌を処理して隣の直島に運び、リサイクルして資源化する「エコタウン事業」が始まっている。
今、産廃投棄現場には、巨大な中間保管・梱包施設が建つ。
ここで、汚染した産廃土壌からコンクリート片や岩石を取り除いて洗浄し、タイヤなどは細かく切断、有蓋ダンプトラックに積み込み、フェリー型専用船で約五礰離れた直島に運ぶのである。
豊島はいま、産廃問題の学習の場として脚光をあび、年間4千人を超える研究者や行政関係者、環境運動家らが訪れる。
環境問題を考える「アースデイかがわインてしま」や「島の学校」の取り組みには全国から参加者が集まる。
また。香川医療生協も健康調査に参加している。
とことで、香川県環境センター中間処理施設は、三菱マテリアルの直島・精錬所内にある。
ここで1300度の高温で焼却・溶融処理し、それで出来たコーヒークリープに似た燃えかす「飛灰」を水と混ぜ、泥状にしてパイプラインでつながる精錬所の「鋼精錬工程」で回収している。
実は、直島に観光協会ができたのは、2003年で、そのきっかけになったのが、「産廃処理施設」の建設であった。
当時、豊島に産業廃棄物の不法投棄問題が起きて、それを解決するために「豊島産業廃棄物等中間処理施設」を直島に作った。
普通の土地だったら「産廃処理施設を建設する」ということになれば住民の反対運動が起こりそうだが、直島の島民は表立って反対する人はいなかった。
もともと製錬所があったから、そういうことに島民は慣れていたともいえる。
直島が他の島のゴミ処理を気持ちよく引き受けたことにより、カエッテ県の「離島振興策」もすぐにやってもらえた。
直島観光協会がスタートした翌年、2004年に地中美術館がオープンした。
その直島が大変身して「アートの島」として世界中から人々が集まっている。
仕掛け人は建築家の安藤忠雄氏と岡山県に本社を置くベネッセコーポレーション社長の福武總一郎氏である。
福武財団の福武總一郎理事長は「ベネッセアートサイト直島」で街づくりをケンインしてきた。
「家プロジェクト」では、直島の本村地区に残る古民家を改修し保存しながら現代アートを展示し、アートと建築が融合した表現を探る試みである。
古民家を活用することで、ここにしかないアート空間を生み出している。
2004年には、観光客が5万9千人から10万7千人に倍増したのだ。
それからは毎年ウナギ上り、2009年はナント36万人の観光客が島を訪れている。
もともと島内に旅館は2軒しかなかったのが、今は30軒に増えている。
もともと空き家だった家を改造して泊れるようにした民宿も多く、島民のみんなが観光客を受け入れようとしている。
家プロジェクトのある本村地区の人たちは、観光客に見られるようになって、家の周りをきれいにすることを意識するようになったという。
世界中から人々が集まり、島民は自分達の「アートの島」を誇りに思っている。
福武氏と安藤氏のコラボは、かつての産業廃棄物の島を「アート・アイランド」に変身させた。
瀬戸内の豊島と直島は、離島振興の「逸品」である。