イルカとドイツ菓子

人はその一生で、色々な人と出会う。
時に「数奇な」出会い(or再会)というものもある。
思いつくところでは、作家・水上勉と、戦争で死んだと思われた長男・窪島誠一郎氏の再会であり、窪島氏は自分の父を知らぬまま水上作品の「愛読者」であったことも「血の強さ」を思わせる。
また唐津で高橋是清が英語を教えた生徒辰野金吾が、二十数年後に日本銀行の設計事務所でペルー金山で失敗し帰国した高橋是清を「部下」として迎え入れたという「師弟逆転」の再会もある。
また「皮肉な」出会いもたくさんあるに違いない。
フィクション上だが、Oヘンリーの「20年後」では、一方が警察官として片方が「指名手配中」の男として、20年後に再会を誓った場所で出会う物語である。
また辻仁成の「海峡の光」では元イジメラレッコの刑務官が働く刑務所に、元イジメッコの男が「囚人」として入所してくる話である。
刑務官は必死で自分を隠そうとして「支配する者/支配される者」が逆転する。
また、地図ナキ人生にあって「何か」に導かれたような出会いにある。
同じ相手であったとしても、出会った時と場面で、出会いの「深さ」が違うのカモしれない。
だから「何か」に導かれたとは、「その時」「その場面」でなければ、「スレ違った」ダケだったカモしれないということだ。
さらに、出会いの深さでいえば「邂逅」といった極めて精神的な「出会い」もある。

1ヶ月ほど前に、TV番組の「ソロモン流」の「イルカと泳ぐ○○」というタイトルにひかれて見た。
個人的に、もしもイルカと泳ぐ体験ができたとしたら、世界中の至福を集めたような「体験」ではあるまいかと常々思っていたからだ。
この番組で「鈴木あやの」という人を知った。
その海中でのシルエットは、まるで人魚とイルカが泳いでいるようだった。
写真をみたら、こんなに絵になる泳ぎ見たことないと思うに違いない。
東京から南へ200キロ、黒潮本流の真っただ中にイルカが集まるところで知られる御蔵島がある。
波間に揺れる船から海に潜った鈴木あやのさんが、深さ5メートル付近で斜め上方向に浮き上がり、アオムケに泳ぎながらイルカの群れに近づいた。
5メートル離れた所では、夫福田克之さんがカメラを構えている。
やがて船上に戻り、二人でモニター画面で写真を確認する。
そこに鈴木さんの泳ぐ肢体と、無邪気に戯れるイルカの曲線美が「絶妙」な構図で収まっていた。
つまり、鈴木さんは「水中カメラマン」であると同時に、「被写体」でもあるわけだ。
男性でも使いこなすことが難しい「足ひれ」(長さ75センチ/重さ3キロのバラクーダ)を自在に操り、指先の形まで美にこだわる。
このあたりの大海原は波穏やかとわけではなく、けっこう過酷な自然を相手の仕事に違いない。
福田さんは、水中で鈴木さんの魅力を引き出すため、カメラに改良を加えている。その結果総重量は4キロとなった。
また素潜りの時間を延ばそうと毎日20キロ走りこむ。
しかし、海中で捉えられた写真は、そのことを忘れさせてしまう。
鈴木さんの話を聞いて印象的なのは、あおむけでイルカにゆっくり近づくと目と目が合い、お互いににコミュニケーションをとりながら自由に泳ぐことができるのだという。
プロのスイマーでさえ「脱帽」させられるのは、鈴木さんが目でイルカを引き寄せる力である。
その結果、鈴木さんが映したイルカは、他のカメラマンが撮ったものに比べ、シグサや表情がとても豊かなのだという。
さて、鈴木さんとその夫福田さんは、このイルカを通じての「出会い」があった。
互いに、それまでの様々な人生の紆余曲折を経ての「出会い」であった。
そのことが「イルカに魅せられ」前人未踏のドルフィンスイマーの道を歩ませることになった。
鈴木さんは、子供の頃から生物に興味があり、東京大学・大学院に籍を置いて研究の道を歩んだ。
研究の道は楽しかった反面、続けていく自信がなく、大手化学薬品会社に就職し、「酵素」の研究に従事した。
しかしどんなに魅力的な研究テーマでも、ビジネスにならない研究はボツになる。
そのことを疑問に感じると同時にヤリガイを失っていった。
その後研究の成果がカタチになる仕事がしたいと、大手食品メーカーに転職し商品開発を手がけた。
しかしそこでも同じような思いをいだき退職する。
友人が設立したベンチャー企業でも働いたりしてヤリガイを求めたが、「本当は何をやりたいのか」とモガキ続けた。
そしてついには「袋小路」に入り2007年に休職、自宅に引きこもってしまった。
実は、鈴木さんの両親は高学歴で、鈴木さんはアタリマエのように東京大学に進んだ。
出来て当たり前と周囲に思われ、褒められることの少ない人生だった。
ダカラ出来ない自分に悩んだ。
また、心の奥は両親の期待に沿わねばならないという思いにいつも縛られていたのだ。
結局鈴木さんは、仕事に行き詰まり、逃げるように結婚した。
しかしソノ結婚は長くは続かなかった。
そんな時、タマタマ行った小笠原諸島父島でイルカと出会った。
それまでは海にもイルカにも興味がなかったが、間近に寄って来る愛らしい姿を見て「恋に落ち」、雄大な自然と無邪気なイルカの表情を見て、心が解放されるのを感じた。
そして仕事を辞めた。またイルカの気持ちに近づきたいと、「素潜り」の練習に打ち込んだ。
2008年夏、御蔵島でイルカを見るツアーに参加し、福田さんと出会いお互いに写真を見せ合う中で、会話がハズんだ。
実はこの時、福田さんも「傷心旅行中」だった。
福田さんは半年前、乳がんで妻を失いナカバ「もう死んでもいい」といった状態であった。
しかし死ぬ前に、妻が好きだったイルカを見に行こうと決めた旅であったのである。
福田さんは、鈴木さんと出会って「まだ自分には人の役に立てる」と思い、気持ちが変ったのだという。
そして二人は互いに「再婚」した。
仲人は「イルカ」ということになろうか。
ところで、シンクロナイズドスイミングの小谷実可子さんにも人生を変える「イルカ体験」がある。
中米バハマでイルカと並走して泳いだ時に体の中に電流のようなものが走ったという。
海と一体化し自分のちっぽけさを知り幸福感に浸り、人生観が変わった。
イルカはこちらの心の持ちようで「親しみ方」が違うのだそうだ。
かっこよく泳ごうとか、カメラ映りをよくしようとか、こちらの気持ちに邪心があるとイルカは近寄ってさえ来ない。
自分が自然と「一体化」して、イルカとたわむれようという気持ちになったとき、イルカも近づいてくる。
だからイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったそうである。
長くオリンピックの「代表争い」など、点数を伸ばそう、自分少しでも大きく強くしようともがいてきた。
世にあって、様々な競争やシガラミに巻きとられてきた自分を見つめなおした。
小谷さんにとってイルカ体験は自分の「小ささ」の体験であった。
しかしそれは、自分がイルカを通じて圧倒的に「大きなもの」の一部であるという体験であった。
そのことが、エモいわれぬ幸福感に導いたのである。
また小谷さんは、ハルカ以前にエジプトのピラミッドの壁画にあったイルカの絵が強く記憶に残っていた。
見知らぬ人からの「君より美しく泳ぐ者がいる。バハマにいってみなさい」という電話も不思議だった。
こういう小谷さんの体験は、単にイルカと出会ったのではなく、イルカを通じて「違う世界」と「邂逅」したということがいえるかもしれない。

第一次世界大戦、中国青島で日本軍に捕らえられたドイツ人達は、日本各地に送られていた。
そして瀬戸内海に浮かぶ似島でドイツ人捕虜達が日本人に本場のサッカーを伝えた。
広島高等師範(広島大学)の学生達が、毎週似島を訪問しドイツ人捕虜と練習試合をしている。
この学生達の中から少なからぬ者がサッカーの指導者になり、日本のサッカー界をケンインした。
またドイツ人達は、ホットドッグやバームクーヘンの作り方を日本人に伝えた。
これらは現在原爆ドームとして知られる「広島物産陳列館」で紹介され一般に知られることになった。
また 特にドイツ人捕虜の一人カール・ユーハイムは、クリスマスにドイツケーキを焼き、解放後も日本に残って「バームクーヘン」の店を神戸三宮に開き、今日までその店は発展し続けている。
ユーハイム自体はサッカーをしたわけではないが、サッカーを深く学んだ一人の男と不思議な縁で結ばれることになる。
実はユーハイムの店の発展を築いたのは、似島でサッカーを学んだ学が育てた「チーム」を率いた人物によるものであったからだ。
カール・ユーハイムは、1908年、中国・山東省青島のドイツ菓子の店で働いていた。
ドイツの軍港であったこの地は、第1次世界大戦中、イギリスと同盟していた日本軍が1914年に占領し、カール・ユーハイムは捕虜となった。
そして1915年から「似島」の捕虜収容所で暮らすことになる。
似島といえばドイツ人捕虜達が日本にサッカーの技術を教え、この島で育った森健兒(Jリーグ創設)森浩二(元アビスパ福岡監督)らが日本のサッカー界の牽引役となった。
さて1919年のドイツ降伏で自由の身となったユーハイムは、東京・銀座で働きやがて横浜で妻の名を冠した「E・ユーハイム」という店を持った。
しかし1923年の関東大震災に遭い、着の身着のままで神戸へやってきた。
そして、神戸・三宮にケーキと喫茶店を出して成功した。
ドイツ菓子のメーカー「ユーハイム」は、バームクーヘンの店として知られ、ハイカラ神戸の「象徴的」な店となった。
しかしそのユーハイムは、1945年8月14日ツマリ終戦前日に亡くなり、経営は夫人のエリーゼ・ユーハイムに託されることになった。
しかし太平洋戦争が起きた頃から店の経営は一気に傾き、戦後の様々な「難事」も重なって、エリーゼ・ユーハイムは「会社の実権」を失うところにまで追い詰められた。
そんな焦心のエリーゼが見込んだのが、ユーハイムに乳製品を納めていた河本春男という人物であった。
未亡人エリーゼは河本の「人柄」を見込んでだのだろうが、「サッカー人」であったことも関係しているだろう。
第一に河本はサッカーなくして神戸と「縁づく」こともなかったであろうし、サッカーで養った「何か」を持った人だったに違いない。
しかし、当の河本氏もエリーゼ・ユーハイムと同じく、太平洋戦争で「人生設計」を狂わせられていたのである。
河本氏は1910年愛知県に生まれで、中学校でサッカー部に入り3年時には全国大会で優勝した。
刈谷中学(現・刈谷高校)の初代の校長が「英国のイートン・カレッジに範を取る校風を創る」という理想から、愛知県では珍しく「フットボール」を校技としていた為、河本氏も自然にその校風になじみ、サッカーを始めた。
河本氏は、1928年に東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学した。
東京高等師範はその前身の「体操伝習所」(1878年設立)以来、日本サッカーの「草分け」として、すでに50年の歴史があった。
ちなみに日本のサッカーの始まりは、1873年、東京・築地の海軍兵学寮へ指導に来ていたイギリス海軍のダグラス少佐とその部下33人の軍人が、訓練の余暇にプレーしたということなっている。
実際に一般社会へ広まっていくのは「体操伝習所」の教科の一つに「フットボール」が加えられてからである。
ここでサッカーを覚えた卒業生が各地の学校で指導して、日本でのサッカーの普及が進んだ。
河本氏自身は1年生で東京高師のレギュラーとなった。
右のウイングFWとしてのクロスの精度を上げるために1日100本もの練習を続け、リンパ腺が腫れ高熱を発するほどの練習ぶりだったという。
そして1924年の東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)の創立メンバーでもあった。
1932年高師を卒業し、神戸一中(神戸高校)の校長のジキジキの要望によって神戸へ赴任した。
実は神戸一中は、似島でサッカーを学んだ広島高師出身の一人の教諭によってスデニ「強豪チーム」となっていた。
神戸一中の校長は、刈谷中学がかつて「神戸一中」を倒した時のキャプテン河本氏に早くから目をつけていた。
そして校長自ら、ワザワザ東京へ出向いて東京高師側に強く要請して「河本」を獲得したのだという。
しかしこの「神戸赴任」が、河本氏の「第二の人生」を決定付けようとは、誰も予想しなかったにちがいない。
神戸一中は小柄な選手が多いチームだったが、河本部長の下でその特性の素早さを生かして体格の不利を補い、数々の「栄冠」を獲得することになった。
河本氏が神戸での7年の指導期間で日本サッカー界に与えた影響は、彼の母校・東京高等師範が世に送り出した多くの優れた教育者、スポーツ指導者のなかでも、ヒトキワ輝くものだったといえる。
しかし、その河本氏とサッカーとの関わりを「突然」に断ち切ったのは、太平洋戦争の勃発であった。
河本氏は1939年に神戸一中から岡山女子師範に「転勤」したが、戦局の悪化とともに軍隊に入り中国大陸へ渡った。
終戦による復員後、岐阜県高山の実家に近い牧場でバターを製造・販売する商売をはじめ、「アルプスバター社」を設立した。
この会社は、河本氏にトッテ思い出の深き神戸の菓子メーカーにバターを売ることになった。
この時、神戸一中でのサッカー指導時代から、スデニ二十数年の月日が過ぎていた。
ある時、カール・ユーハイムの未亡人エリーゼ夫人から「降って湧いた」ような話が持ち上がった。
河本氏に、会社「ユーハイム」を引き継いでくれないかという話である。
実は、引き受けられるハズがないほど経営状態は厳しかったが、エリーゼ夫人の熱意に押しだされたカタチとなった。
そして、河本氏の下でユーハイムの「再建」がハカラレたが、そこには河本氏がにサッカーで培った「一歩先んじ、一刻を早く」という神戸一中時代の「出足論」が生きていたという。
また河本氏の経営には、選手の心をつかみOBたちの気持ちを一つにマトメタ誠意と気配りが底流にあったことはいうまでもない。
そして1971年エリーゼ・ユーハイム社長死去の後には、河本氏は同社社長に正式に就任した。
さらに河本氏の長男・武専務(当時)の案で、ユーハイムは1976年フランクフルトのゲーテハウスにケーキの店と日本料理店を出している。
河本氏は1985年に経営を長男に任せ、自身は会長に退いた。
息子の河本武社長は東京ディズニーランドのスポンサー企業となり、フランスのペルティ社と契約し、ドイツにも2、3号店をオープンさせるなど次々に布石を打ち、ともすれば守りに傾く老舗体質のなか、常に改革を図ってきた。
戦争で人生の計画を大きく狂わせられたエリーゼ・ユーハイムと河本春男を結びつけたのは、ドイツのお菓子「バームクーヘン」だったといえる。
また、ドイツ人捕虜と広島高師の学生達の似島におけるサッカー交流も、この「出会い」の布石を成したといえよう。