ナツメロとその時代

江戸時代の町奉行大岡越前守忠相の命令で1720年頃「町火消し」が設置された。
大江戸町火消しは「い組」、「ろ組」などからはじまり全部で48組あったそうだ。(「AKB48」はここからきたのでは?)
ただし「ヘ組」や「ひ組」などは気が抜けるか、縁起が悪いかで存在しなかったそうである。
1983年ラッツ・アンド・スタ-が歌った「め組のひと」は、ビ-チを闊歩する目元涼しい粋な女性をイメージして歌詞としたが、東京下町の「祭り」などでハッピ・ハチマキ姿で江戸っ子のお姐さんとイメ-ジと重ねながら、この歌詞は書かれたのではないかと推測する。
ところで、この歌の歌詞がなぜ「め組」なのかは疑問だった。
女性の名前「めぐみ」とかけたのかとは思ったが、調べてみると江戸時代に「め組の喧嘩」として講談や芝居で知られた事件がおきたことを知った。
この事件は1805年3月に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件で、火消し衆は江戸町奉行、相撲側は寺社奉行と、それぞれを管轄する役所へ訴え出て事態の収拾をはかった。
しかし騒動はおさまる気配を見せず、与力、同心が出動して乱闘に割って入り、火消しと力士合計36人が捕縛されたという。
というわけで、「町火消し」の中で「め組」は最も目立った存在であったのだ。
とはいえ、「め組のひと」が「町火消し」を下敷きにしつつも、1980年代の「時代の歌」となったのは、1983年夏、資生堂化粧品 CM のオリジナルキャンペーン・ソングとして作られ、目元のスズヤカサを宣伝し、それを身につけた女性達を「め組」と洒落たわけである。
当時の「め組」に一番ピッタリだったのは、伊集院静氏プロデュースのカネボウのCM(1977年)で注目を集めた夏目雅子さんみたいな感じだった。
ちなみに「シャネルズ」は、資生堂のCMソングを歌うのに名前が「シャネル」では、いけないと言うことで「ラッツ・アンド・スター」にグループ名を変更している。

伊藤左千夫の名作「野菊の墓」では、若い純愛の二人の別れの場所が「矢切りの渡し」であった。
1616年幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヶ所を定船場として指定し、それ以外の地点での渡河を禁止した。
その1つが現在、葛飾区柴又から松戸市下矢切を結ぶ矢切りの渡しで、主に近郊の農民が対岸の農耕地に渡るために利用した。
現在、都内に残る唯一つの渡し場で、手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復している。
細川たかしの「矢切の渡し」は、コノ「野菊の墓」を舞台として作られた歌であった。
個人的な思い出として、歌のタイトル「矢切の渡し」が「夜霧の私」ではないことを知った時の驚きは、刑法でいう「未必の故意」が「密室の恋」ではないことを知った時の驚きに匹敵する。
ところで、小説「野菊の墓」は主人公・政夫がまだ少年のころ、家にきていた従姉の民子との幼い恋を回想したものである。
周囲のあらぬ誤解から清純な恋が妨げられ、民子は親のすすめで嫁いだ先でまもなく亡くなる。
その時手には政夫の思い出の品が握られ、それを知った政夫は少女の愛していた野菊をその墓の周囲に植えるという、切ない話です。
この「切なさ」は、細川たかしの「矢切の渡し」の切なさに通じるものがある。

春日八郎の「お富さん」は楽しげなお座敷小歌のように聞こえるが、歌詞の内容はとても尋常ではない。
♪♪粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦様でも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄治店♪♪
何か「お富さん」にちなんだ「故事」でもあるのかと調べてみたら、「与話情浮名横櫛」(よわなさけ うきなの よこぐし)という歌舞伎「世話物」の名作のひとつがあった。
江戸の大店の若旦那であった与三郎は木更津でお富に出会い、一目惚れする。
ところがお富は他の男の妾であり、情事は露見し与三郎は男の手下にめった斬りにされ海に投げ捨てられ、それを見て逃げ出したお富も手下に追われ入水を図る。
ところがナント二人とも命をとりとめ、お富は別大番頭の妾宅に引き取られ、与三郎は実家を勘当され無頼漢となり、三十四箇所の刃傷の痕を売りものにした「切られ与三」として名を馳せることとなる。
歌詞の中にある「玄治店」(げんやだな)は、この芝居で最大の見せ場の地名で、幕府の典医であった岡本玄冶法印の屋敷のあった辺りで, この周辺を玄治店と呼ぶようになったという。
現在の東京都中央区日本橋人形町あたりで、芝居関係者も多く住んでおり、今なお「玄治店」と名づけた料亭もあり、人形町三丁目交差点には「玄治店由来碑」が建っている。
この「故事」をまとめると次のようになる。
与三郎は他人の妾であったお富さんと許されざる恋に落ちたが、相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんも海に落ち「死んだはず」だった。
九死に一生を得た与三郎は三年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で「死んだはず」のお富さんと出会う。
新たな大旦那を強請ろうとし、お富と出会った場所こそが「玄治店」であった。
歌舞伎では、与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるが、「お富さん」の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。
過ぎた昔を 恨むじゃないが 風も沁みるよ 傷の跡 久しぶりだな お富さん 今じゃ呼び名も 切られの与三よ これで一分じゃ お富さん エーサオー すまされめえ
歌謡曲となった「お富さん」は普段馴染のない歌舞伎がテーマだか、肩の力が抜いた春日八郎の歌の軽快さが、当時の世相ともマッチして空前の大ヒットとなった。

坂本九の「上をむいて歩こう」の英語バーション「SUKIYAKI」が1963年全米週間ヒットチャート1位になった。
坂本九の人生は意外にも「お座敷」と縁がある。
坂本九の父親は川崎の港湾請負の会社を経営していた。
九番目の子供だったから「九」になったというのだが、坂本氏が中学二年の頃、両親が別々に暮らし始め、坂本氏は母親と共に川崎の「花街」に移った。
坂本氏にとってそこは三味線や義太夫がBGMの世界となったのである。
坂本九は、アメリカン・ポップスと「お座敷」という両方の世界を肌に感じながら育ったといってよい。
それゆえにか、「うへほをむふういてあ~るこほほう」という独特な歌い回しには、とこかリズム・アンド・ブルースに通じるものがある。
「オンリーユー」をカバーした日本人バンド(名前がでてこない)の歌い方を思い出していただければわかると思う。
ただし、「上をむいて歩こう」が大レコード大賞をもらえなかったのは、その歌い方に「難あり」という見方があったという。
外国で大ヒットした曲といえば、もう一つ千昌夫の「北国の春」がある。
ただし、コノ歌はアジア圏での大ヒットとなった。
中国でも「北国の春」は、故郷を離れて生きる青年の「望郷の歌」となったのである。
「北国の春」の歌詞をかいたのは、「いではく」という人物である。
レコード会社の依頼を受け、千昌夫は岩手県出身だから「北国の歌」をイメージして作ろうと思った。
いではく自身は、長野出身で雪深い故郷があることは共通であったが、歌詞にでてくる「コブシ咲く」は、実は作詞家いではくの故郷・長野県南牧村の風景なのである。
上京してこの歌詞を作曲家の遠藤実氏に渡したら、ちょっと待ってくれといって二階に上がっていった。
5分もせずに戻ってきたので、忘れ物かと思ったら、もう「北国の春」のメロディーが出来上がったという。
実は遠藤氏の故郷もやはり北国の新潟であった。
父は刑務所の看守で単身赴任し、母親は枯れた松葉を集めて売り3人の子を育てた。
同級生からは「ボロ屋」とよばれ、夜中に雪が枕元に散っていたという少年時代だった。
歌う時だけが冷たい現実から解放される時だったという。
遠藤の中で、ソンナ思いが迸り出てきて、ほとんど歌う速さで「北国の春」のメロディーが出来上がったのだという。
千昌夫も「北国の思い」を込めてコノ歌を歌った。
小学校の時、父親が北海道の出稼ぎ先で急死し、母親が工場で働き3人の子供を育てた。
千は自ら身を立てようと高校でボクシング部に入り、相撲とりになろうと思った時期もあった。
しかし、根本的に「体」が不足していた。
家に橋幸夫のレコードがあり、そこに作曲家に遠藤実の名前があった。
弟子入りする他ないと、高校2年の春休み友人からカンパしてもらい上京した。
遠藤氏の家を訪ねたが、何度も断られ、三日三晩通いようやく「面接」の約束をとりつけた。
ただタイミングが良く、遠藤氏の内弟子に「空き」ができていた。
そして北国の美少年が歌う「星影のワルツ」が大ヒットしたが、美少年が一旦喋り出すと、「東北訛り」でイメージがコワレルのを避けるため、できるだけ「喋るな」といわれていたという。
さて、千昌夫は遠藤氏に呼ばれて「北国の春」を歌った時に、ヨレヨレのコートで街を歩く岩手県人の姿が脳裏を過ぎった。
そして周囲の反対もあったが、自身もそのヨレヨレコートを来てこの歌を歌うことにした。
千にとって、ヨレヨレコートに扮装して歌わない限り、「北国の春」は歌い辛かったのかもしれない。
すでに千氏は大スターであり「冬」の時代を通り過ぎていたからである。

景気とスカートの丈は反比例するというが、沈んだ時代には元気な歌が大ヒットするようだ。
好景気の時には意外にも「昭和枯れススキ」「赤色エレジー」などのクラ~イ曲がヒットしたり、「一杯のかけそば」なんという物語がウケたりするものなのだ。
つまり、歌の内容と世相は「背反する」ものだといことに気がついた。
今頃聞いてハット思わされた歌がモーニング娘「ラブマシーン」である。
「明るい未来に 就職希望だわ /日本の未来は 世界がうらやむ」とある。
この曲がヒットした年1999年、すでに日本は「就職氷河期」にはいっていた。
「ラブマシーン」は、落ち込む日本人への「景気付けソング」だったのだ。
とはいえ、「日本の未来は、ウオゥヲ~ウオゥヲ~ウオゥヲ~」という部分、何か「未来像」が描けないモドカシサがただよっている。
そして或る十代の「暗さが」うけたのは日本が元気だった高度成長期である。
十五、十六、十七の「暗さ」を歌ったのは、宇多田光のお母さん藤圭子(本名:阿部純子)だった。
石坂まさをがプロデュースした「藤圭子」のイメージとは裏腹に、阿部純子さんは意外とサッパリした性格ではなかったかと思う。
28歳で歌の道をあっさり捨てたのも、阿部純子が少々「藤圭子」に重さを感じたからではないだろうか。
娘の宇多田光の「アッケラカン」はアメリカ育ちだからでではなく、結構母親の性格のDNAを受け継いでいるような感じもする。
「藤圭子」のイメージはムシロ作詞家・石坂まさをの人生を映している。
作詞家石坂まさをは幼少の頃より病弱で肺結核を患った。昼間の学校をいくつか受けたがすべて不合格となり、夜間高校に通ったが入学してすぐに血を吐いた。
石坂にも母親に対してひとしおの思いがあった。
石坂は1951年5月東京生まれで父親は映画の看板書きであった。
小学校2年の時に父が結核で亡くなり、母親は毎朝早くおきて鉄くずを拾って子供を育て、そのうち駄菓子や開いて針仕事て生計をたてるようになった。
中学2年の時に本当の母親ではないことを知ったが、育ての母はあくまでも実の子のように石坂を育ててくれたという。
石坂にとって運命的なことは、浅草の町を「ながし」で歌うハスキーな声の持ち主・阿部純子に出会ったことだった。
翌年にはその女性を「藤圭子」の名前でデビューさせた。
石坂は小学校の頃より新聞配りをして見慣た新宿の街に生きる女性たち、特に新宿ゴールデン街に生きる夜の女性をイメージして、藤のデビュー曲「新宿の女」を書いたという。
藤圭子は岩手県一関生まれで北海道旭川に移った。両親は旅回りの芸人で浪曲の流しをし、母親は盲目だった。
1967年、音楽関係者が雪まつりに出演した15歳の藤圭子を見て、プロを目指しての上京をすすめた。
一家五人は、藤の歌手デビューを夢見て西日暮里の安アパートに越してきた。
両親は錦糸町のネオン街で流しをつづけたが、客はつかず藤の出番となった。
つまり「夢は夜ひらく」の歌詞どおりの生活が始まった。
昼間にプロ歌手のテストをうけたが声が嗄れ過ぎてなかなか合格することができなかった。
そして流しの拠点を錦糸町から浅草に移した時に、石坂との出会いがあった。
二つの人生の交錯だが、石坂の心を当初より捉えていたのは藤圭子よりも、むしろソノ母親だったかもしれない。
石坂は病弱な体を擦り減らしながら夜の街を歩きとおしで「営業」した。そして糖尿病が原因の網膜剥離によって左目を失った。
そして18歳の藤圭子が歌った「圭子の夢は夜開く」がレコード大賞新人賞を受賞した。

関東地方の中で、東北大震災の被害が最も大きかったのは茨城県であった。
この北茨城市に「磯原」という太平洋に面した町があって、震災で多くの家屋が倒壊している。
ここには野口雨情の生家がある。
この野口雨情の生家は東北関東大震災でどうなったのかと気がかりであるが、それにしても野口雨情は「大震災」と縁がある人である。
1921年野口雨情が作詞、同年に中山晋平が作曲で民謡「枯れすすき」としいう曲をだした。
翌年「船頭小唄」として改題されてヒットしたが、この歌の大流行の最中、1923年9月1日関東大震災が起こり、野口雨情の暗い歌詞、中山晋平の悲しい曲調から、この地震を予知していた童謡だったのではという風説が流布し、「震災小唄」と揶揄された。
その歌詞では「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき……」 と男女の間柄を歌っている。
この歌は1974年、さくらと一郎の「昭和枯れススキ」としてリバイバル・ヒットした。
ところで東北大震災のあと、被災地では松任谷由実の「ひこうき雲」がよく流されていたという。
八王子の呉服問屋の老舗に生まれたのが、松任冶由実(荒井由美)である。
松任谷由美が、ニューミュージックの旗手として活動を始めたのが、連合赤軍の浅間山荘事件(1972年)とホボ時期が重なっており、連合赤軍のたくさんの「若者の死」と重なっている。
あの「凄惨」さを「浄化」するように、荒井由美のファースト・アルバム「ひこうき雲」が登場した。
それは、政治性のない「ニュー・ミュージック」時代の幕開けを意味を意味していた。
「ひこうき雲」のオリジナルは、1973年11月20日に東芝音楽工業(当時)からリリースされた。
この曲つくりにはプロデューサーの村井邦彦、キーボード松任谷正隆、ベース細野晴臣というように、一流のスタッフが揃っていた。
そして「荒井由美」の名を世に知らしめる大ヒット曲となった。
松任谷正隆は、「ひこうき雲」のセッションで最初に出会い、この曲のコード使いの「意外性」に驚き、荒井と結婚をしようと心に決めたと後に語っている。
ところで、「ひこうき雲」のメロディーを聞いて、これが「死者」を歌った歌だとは気づかないくらい、明るくさわやかな曲となっている。
それは夭折の友人につき、「空にあこがれ 空をかける」ことを望んだと歌っている。
出だしの「♪ゆらゆらかげろうが あの子を包む/誰も気づかず ただひとりあの子は昇っていく♪」という歌詞は、火葬場から上って行く煙の情景を重ねているのもしれない。
だからといって「ひこうき雲」は、「死者」を見送る側の「生者」の悲しみが伝わらないほど「乾いた」曲ではない。
それは、亡くなった人の本当の気持ちは「ほかの人には わからない」と二度ほど強く「打ち消す」フレーズに伝わってくる。
そして、「彼女の命はひこうき雲」と結んでいる。
東北の震災後 松任谷由実自身さんは、「ひこうき雲」と題して「震災で天使になった子供たちへ ..」と副題がついたサイトを開設しておられた。
きっと亡くなった者を送る側の気持ちが、アノ「ひこうき雲」の歌詞と結びついたのだろう。