J・ダルクを探して

コノ世の中、色々な処に「ジャンヌダルク」と称される人々がいる。
思いつくだけでも、韓国のジャンヌダルク、ベトナムのジャンヌダルク、卓球界のジャンヌダルクがいる。
変ったところでは「不起立界のジャンヌダルク」とよばれる女性教員もいらっしゃるらしい。
しかしコノ方々、本当に「ジャンヌ・ダルク」とよぶにふさわしい人々か、と思わぬでもない。
そもそも「ジャンヌ・ダルク」とはどういう存在なのか。
13世紀フランス王・フィリップ4世の娘がイギリス王に嫁いだ。
その子であるイギリス王エドワード3世が、フィリップ4世の孫にあたる自分に、フランス「王位継承権」があると主張して、フィリップ6世(バロア家)の即位に反対した。
ソレが英仏「百年戦争」のハジマリである。
15世紀、戦いはフランス領内で行われたが、イギリス軍がフランス軍の拠点・オルレアンの町を包囲し、フランスは絶対的な「窮地」に追い詰められていた。
そんな1429年2月のこと、1人の16歳の少女が「神のお告げ」をきき、抗戦を続けるフランス王太子シャルルのもとに出向いて、「一軍」を自分に授けるように願った。
そして軍の先頭に立って勇敢に戦う少女の姿にフランス軍兵士は奮い立ち、オルレアンからイギリス軍を追い払って勝利する。
そしてシャルル王太子は念願の戴冠式を行い正式にフランス王「シャルル7世」となる。
そしてジャンヌもその「戴冠式」に立会い、一躍「オルレアンの少女ジャンヌダルク」の名前は、両軍に知れ渡ることになった。
ところでNHK大河ドラマ「八重の桜」で、スペンサー銃片手に「新政府軍」と戦った新島八重は、「日本のジャンヌダルク」とよばれている。
確かに、圧倒的な「劣勢」の中で自ら武器をとって戦ったジャンヌダルクの姿と重なる。
しかしジャンヌと八重との「末路」は、アマリニ「対照的」であった。
王の意見を聞かずに戦いを進めた結果、ジャンヌは「反国王派」に捕まるが、シャルル7世はジャンヌの身代金を払わず、かえって「ジャンヌ憎し」のイギリス側が身代金を払って彼女の「身柄」を確保する。
そしてジャンヌは「宗教裁判」にかけられ「異端・魔女」と決め付けられ「火あぶり」の刑となった。
結果的に、ジャンヌはシャルル7世によって「見殺し」にされたわけである。
その時、ジャンヌはワズカ19才にすぎなかった。
一方、新島八重は会津戦争でスペンサー7連発銃で、西軍の指揮官を狙撃して戦ったが、会津は破れ敗残の悲しみを味わう。
しかし、明治政府下で教師となり「新生」の道を歩む。
京都府知事の紹介で新島襄と知り合い同志社設立に奔走した。
かつて、会津戦争で負傷者の世話をした経験から看護の仕事に関心を持ち、夫の死後3か月後に日本赤十字社の社員となる。
1887年、同志社が「京都看護婦学校」を設立すると、八重は助教師として教鞭をとった。
日清戦争時には、篤志看護婦として傷病者の看護にあたり、10年後の日露戦争時にも、大阪の陸軍予備病院で篤志看護婦として活躍した。
結局八重は、夫の死後42年の間、看護婦の育成に務め、茶の湯を楽しみ、同志社の学生たちに「お母さん」「おばあさん」と慕われた。
看護婦としての道を歩み、多くの門下生から見守られながら、86歳で亡くなった新島八重は、その末路において「ジャンヌダルク」とは違いすぎる。
さて、ジャンヌ・ダルクたる条件として、次のような「条件」を思いつく。
①年齢的に非常に若い、②圧倒的強敵を敵にまわす、③劣勢を一気に挽回する、④自ら武器をとって戦う、⑤悲劇的な末路を辿る。
これだけの条件を満たす人物はザラにはおらず、日本でその人物を探せといえば、島原の乱で活躍する「天草四郎時貞」が一番あてはまるが、イカンセン男である。
そこで少々無理を承知で、歴史の中の「ジャンヌ・ダルク」を探した。

現在の内戦で世界の耳目が集まるシリアにも、ジャンヌ・ダルクがいた。
紀元3世紀頃、砂漠の国シリアの中央に、パルミラという小さな町があった。
今では廃虚のみで見る影もないが、強大な「ローマ帝国」を向こうに回し、地中海の覇をかけて雌雄を争った偉大な歴史を残している。
その当時、この地に君臨したのは、ゼノビアという気丈で美しく気高い女王であった。
彼女はシリア東部のある砂漠に誕生した。
ジプシーの首領だったアラブ人を父とし、母は美しいギリシア人女性だった。
ゼノビアは子供の頃から、才色ともにすぐれ、12才になる頃には頭角を表わし、ラクダに乗れば大人顔負けの技量を発揮し、父に代わってジプシー全体を指導できるほどになっていた。
パルミラのオアシスは、タクラマカン砂漠を経て延々と続く「シルクロードの終着点」に位置しており、東西貿易中継の要として繁栄の絶頂にあった。
パルミラではたくさんのバザールが開かれ、東西から金、銀、宝石、絹、塩などの商品や装飾美術品、様々な珍しい品々が取り引きされ、各国の商人で賑わう毎日であった。
それゆえに、東のササン朝ペルシアや西のローマ帝国が、コノ国を虎視眈々と狙っていたのである。
そしてローマ帝国はその軍隊を送り込み、パルミラを自らの支配下におき、思惑通り重税を課すことに成功したのである。
しかしパルミラの人々は、いつの日か反乱を起こし、ローマの「束縛」から逃れるべく機会をウカガッテいた。
その頃、ローマ帝国支配の下でパルミラを統治していた若い貴族オーデナサスが、当時18歳のゼノビアを見初め、二人は結婚し、ゼノビアはパルミラの王妃として宮殿に移り住んだ。
オーデナサスもゼノビアもローマの支配から逃れるべく、密かに砂漠に野営しては「兵の訓練」に大半の時間を費やすようになっていった。
ゼノビアの誇り高く類マレナ美貌とで、部下の兵士たちを魅了し、士官たちの心を完全に掌握するようになっていた。
そして今や、ローマ帝国からの解放の時が到来したとばかり、満を持してパルミラの北に駐屯しているローマ軍に襲いかかったのである。
不意を突かれたローマ軍は、たちまち大混乱を起こし、算を乱して敗走した。ゼノビアの軍は、敗走するローマ軍を徹底的に打ち破り、ここにパルミラ市民の「悲願の独立」は達成されたのである。
この勝利に喜び、驚嘆した周辺の国々は、次々にゼノビアの軍団に寝返って、たちまちのうちに強大な力に膨れ上がった。
しかし、夫であるオーデナサスが行軍中に暗殺されるという突然の悲劇に見舞われた。
ゼノビアはオーデナサスの意志を受け継ぐことに全力を傾けて、自ら「絶対専制君主」となり、一息つく間もなくローマの「属州の」一つであるエジプトに7万の大軍を進めた。
彼女の軍団は一度の戦いで勝利をおさめ、エジプト全土を制覇してしまったのである。
ゼノビアは、すべての民から慕われ、快く最高君主として受け入れられた。
また人々はゼノビアの軍をローマからの「解放者」として歓迎したのである。
しかしやがて、ローマ帝国は、パルミラを一気にタタキ潰さんと「最精鋭」とうたわれた最強の軍団を多数くり出してきた。
戦いは地中海沿岸の都市で幾度となく繰り返され、ゼノビアの軍は後退を余儀なくされていった。
しかし紀元272年ローマ軍の追手は、たちまち従者数人を殺して、ゼノビアを捕らえてしまった。
女王を捕らえたローマ軍は、パルミラにわずかの守備兵を残して、ゼノビアを連れてローマに凱旋すべく帰途についたが、まもなくパルミラの住民が守備兵を皆殺しにして反乱を起こしてしまった。
この知らせを聞いたローマ軍は、ただちに引き返すや否や、パルミラの住民に情け容赦なく襲いかかり一人残らず虐殺してしまった。
一方、ローマに連れていかれたゼノビアは、その後の記録は途絶えたままである。
歴史家ギボンは、「褐色の肌、異常な輝きを持つ大きな黒い目、力強く響きのある声、男勝りの理解力と学識をもち、女性の中ではもっとも愛らしく、もっとも英傑的である彼女は、オリエントで最も気高く最も美しい女王であった」 と書いている。

平家全盛の時代に、伊豆の豪族北条時政の長女、とはいってもかなりの田舎娘だった政子は罪人として伊豆に流されていた源頼朝に恋をした。
親の反対を押し切り、半ば駆け落ち同然にして2人は結ばれることになった。
政子の父・時政は源頼朝の監視役であったのに、よりによって娘・政子が頼朝と恋仲になってしまおうとは苦りきった思いもあったであろう。
しかしこの結婚を最終的に認めたことが、北条氏の命運をも変えてしまうのだから歴史とは面白いものである。
北条氏は以後、源氏方に「鞍替え」して平家方と戦っていくことになる。
1180年、皇族の一人・以仁王が源頼政とともに平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。
頼朝もそれに呼応して、緒戦の石橋山の戦いで惨敗し北条時政、義時とともに安房に逃れたものの、再挙し東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じた。
頼朝は数万騎の大軍に膨れ上がり富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧し鎌倉に本拠をかまえた。
1185年には頼朝の弟・義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすが、平氏滅亡後、源頼朝と義経は対立する。
結局、頼朝は東北・衣川で義経を破り、義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼして1192年に「鎌倉幕府」を開いている。
政子は、頼朝の女性に対するハクアイ主義に手を焼き、「恋がたき」の家に火をつけるなどの気性の激しさもノゾカセている。
その頼朝も1199年1月、不慮の死でなくなり長子の頼家が家督を継いだ。
政子は出家して尼になり「尼御台」と呼ばれた。
苦労しらずの頼家は、自分思い通りの政治を望み、老臣たちを疎み、若い側近たちを重用した。
御家人たちから「反発」が起きるのは自然の成り行きである。
頼家の専制を抑制すべく1200年に、北条時政、北条義時を含む老臣による十三人の「合議制」が定められた。
頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に「幽閉」され、後に暗殺されている。
この時、政子は頼家への愛をとるか、夫・頼朝が敷いた「路線」を踏襲し守りぬくかという決断が迫られていた。
そして息子・頼家を「切り捨てる」非情な決断をしたことになる。
さらに1219年右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った政子の三男・実朝は甥の公暁に暗殺された。
政子はこの悲報に深く嘆き、淵瀬に身を投げようとさえ思いたったと述懐している。
政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願ったが、上皇はこれを拒否し義時は「皇族将軍」を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えた。
三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を「後見」して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになった。
1221年皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は挙兵に踏み切った。
「承久の乱」の始まりである。
上皇は「義時追討」の宣旨を諸国の守護と地頭に下した。
上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。
武士たちの朝廷への「畏れ」は依然として大きかったのである。
ここで政子は御家人たちを前に歴史に残る「名演説」をする。
「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。 ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と涙ながらの演説であった。
これで御家人の「動揺」は収まり、腹は据わった。
軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする「防御策」が強かったが、政子は「積極策」を支持して幕府軍は出撃した。
幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がった。
後鳥羽上皇は、思わぬ幕府軍の出撃に狼狽し、幕府の大軍の前に各地で敗退して後鳥羽上皇は「義時追討の宣旨」を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世には3人いたが、長女マリア以下すべて娘であった。
当然、「皇位継承問題」がおきるであろう、という不安を抱えていた。
過去スペインへと分かれたスペイン系ハプスブルク家が、1700年に断絶したために、跡目争いのために「スペイン継承戦争」がおきている。
同様な事態を心配したカ-ル6世は、1713年「国事詔書」を出して、女系の継承も可能であるようにしていた。
しかし1740年10月、カ-ル6世は狩猟に出かけた際に、突然体調を崩し帰らぬ人になった。
そしてカ-ル6世の後に、長女のマリア・テレジアが大公女を継承した。
マリアはその時に23歳であったが、4年前に結婚しており、すでに2人の子供があった。
しかしカ-ル6世在世当時は「国事詔書」を認めていたが、王が死ぬと手のひらを返したように「マリアの継承」を認めないという動きがおこった。
フランス、バイエルン、ザクセンが決起し、特にプロイセンは強行だった。
マリア即位後の2ヵ月後には、その王フル-ドリヒ2世が、2万の軍隊を組織しオ-ストリアへ進入した。
ほとんど「奇襲」というべきものであった。
1740年から48年まで続く「オ-ストリア継承戦争」の勃発である。
ウイ-ンにいる家臣たちは狼狽するばかりであったが、若きマリアは毅然として対応していった。
小娘と馬鹿にされた面影はそこにはなく、もって生まれた芯の強さと才を遺憾なく発揮した。
マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで「窮地」に追い込まれた。
そこで彼女はハンガリーへ乗り込み、9月11日ハンガリー議会で演説を行った。
そして軍資金と兵力を獲得し、「戦う体勢」を整えとようしたのである。
そして切々とハンガリ-議会で自らの「窮状」を応援を求めた。
この行動は、足元を見られ「反旗」を翻される恐れサエあったのだが、マリアは粘り強く交渉した。
その熱論は5ヶ月にも及んだ。
ようやく生まれた息子のヨ-ゼフを胸に抱き、時として嗚咽さえ漏らしながら訴えたという。
そして、ハンガリーの救援を得、プロイセン・フリ-ドリヒ2世の軍隊に応戦し、自らが継承した領土のほぼ全体を守りとうした。
さて、ゼノビア、北条政子、マリアテレジア は、運命のイタズラの如く旋廻してきたた「一国の窮地」を自らの気力と才覚でハネ返した。
彼女らの「或る一時」は、ジャンヌダルクと重なる。
しかし、彗星のように現れ自ら「焼け落ちる」ほどの光芒を放ったジャンヌダルクとは、「謎の大きさ」という点での大きな違いがある。