私流「需要と供給」

注意:下の図はフォントサイズ(大)でご覧ください。
価格軸
↑A
| \
|   \ ←需要曲線
|     \
|B---------\C
|価格水準線(BC) \
|         \
|           \
0ーーーーーーーーーーーーー→人数
△ABC:消費者余剰

価格軸
↑                                 /
|                              /
|                           /
|価格水準線(BC)/←供給曲線
|B--------------/C
|                /
|            /
|D      /
0ーーーーーーーーーーーーー→企業数
△DBC:生産者余剰

需要と供給によって価格が決定するという理論で、少々「奥行き」のある話をしたい。
教科書によくある図では、縦軸を「価格」、横軸を「数量」で表しているが、今横軸を「人数」で表すことにしよう。
その際、「1人1個の商品を購入する」と仮定すれば、横軸の数量は「人数」としてもサシツカエない。
さて需要曲線は右下がりであるから、或る商品につき、価格が3万円なら50人が需要し、価格が2万円なら100人が需要し、価格が1万円ならば150人が需要するとする。
そして、需要曲線と供給曲線が交わるところ「2万円」で価格が決定すると、当然100人がこの商品を買うことになる。
しかしこの需要曲線をよく見て推測できるのは、「価格が3万円なら50人が需要する」ということは、50人の人々は3万円支払っても買ってイイと思った人々の数である。
にもかかわらす、価格は2万円だったのだから、この50人は実際には1万円得しているといえる。
さて、実際に我々の「消費行動」を今一度ふりかえってみよう。
第一に、「(商品の)満足度>価格」の関係がないと我々はモノを買わない。つまりなんらかの得がないカギリ「買い物」はしないのである。
或る時、スーパーにいって最高500円払ってもいいと思う中身の弁当が実際には300円だったら、ラッキーとばかりに即・購入を決めるであろう。
しかし、最高500円まで払ってもいいと思う弁当が502円で売られていたら、迷いに迷って購入するのを控える。
つまり「満足度<価格」では買うことはないし、「満足度=価格」では買うべきか、買わざるべきか、優柔不断なハムレット状態に陥っている。
つまり最高支払ってもいいと思える価格を一応この商品の「満足度」と評価するのである。
このように考えると、横軸から水平に立てた需要曲線の「高さ」は大雑把な言い方ではあるが、「満足度」を表しているといってよい。(*注意:旧い経済学はこれを「限界効用」という言い方をしたが、今のミクロ経済学では「限界効用」の可測性を否定しているので絶対的金額で表すことはしない)
さて、需要曲線と供給曲線とが「交わる」ところで価格が決定するが、コノ交叉ポイントまで縦軸から水平に引いた線を「価格水準線」とよぶことにしよう。
左図では、BC線である。
需要曲線の高さが人々の「満足度」ならば、その高さが「価格水準線」より高い部分は、この商品の購入がもたらす消費者全体の「得」であるといってよい。
需要と供給の図で言うと、価格を表す「縦軸」、右下がりの「需要曲線」、「価格水準線」の内側に窪んだ三角形全体(△ABC)が消費者全体の「得」であり、これを「消費者余剰」ともいう。
つまり、「消費者余剰」というのは、この商品を掘り出し物だと思って満足して買った人々の満足度から、家計と相談してギリギリ買った人々の満足度までを、すべて総計したものである。
この「消費者余剰」が生まれる理由は、貧乏人にも金持ちにも、ある商品の価格が平等に「一つ」だからである。これを「一物一価の法則」という。
さて企業は、この「消費者余剰」というものがあんまりウレシイものではない。できることならば奪い取って自分達の利益としたい。
ではどうすれば、企業は「消費者余剰」を奪って自分の利益とすることが可能だろうか。
一つの方法は、金持ちには高く売りつけ、貧乏人には安く売り、みんなが金をだせるギリギリのところで買わせることができればよいのである。
つまり上手に「差別価格」を設けて消費者余剰を奪い取ることである。
では、「一物一価の法則」が貫徹しているように思える現代社会において、「差別価格」なるものを設定することは可能だろうか。
実は、「一物一価の法則」は江戸時代までそれほど普遍的であったわけではない。
反物を売っていた商人は、大名に提示する価格と下級武士に提示する価格は同じ商品でも異なっており、金持ちからは多くとり、貧しい者からはそれなりに取るという具合にしていた。
つまり、相手の懐具合に応じて「消費」を促すのである。
自由市場経済が進展するということは、商人と大名との間の価格決定といったような「個別」の価格交渉といった「垣根」を崩していくということである。
そこ故に、現代では表立った「差別価格」は存在しないが、それに近い例をいくつか見出すことができる。
同じコ-ラが映画館のなかとセブン・イレブンとは違うし、同じビ-ルが福岡ドームとご近所の橋本酒店とでは異なる。
つまり同じ商品に値段が二つついているわけだが、これは映画館とか福岡ドームとか、一旦入ってしまえば「外にでられない」という特殊条件を利用して、二つの価格(差別価格)の存在を可能にしている。
遊びにきている人は、財布の紐がゆるやかなので、高いものでも買う傾向がつよい。
2年前に、博多駅の駅ビルが新装になった時、さっそく最上階のレストラン街にいき食事をしたが、値段はいずれも1500円以上のものばかりで、とても日常的に利用する気にはなれなかった。
すぐに店がツブレそうにも思ったが、あにハカランヤ結構繁盛している。
なぜかといえば、レストラン街は「日常的」なお客を想定しておらず、「非日常的」なお客(旅行者)を想定しているからだ。
彼らはオカネを使いに旅しているわけだから、日常客よりもハルカニ財布の紐がゆるいのだ。
つまり、企業は「日常客」と「非日常客」に差別価格を設定しているのだ。
また「大口需要者」たる企業向け電力料金と、一般家庭向け電力料金にも「差」をつけることができる。
ところで、20年ほど前に、ある中堅スーパーの社長が新聞に、日本には「法人円」と「個人円」が流通しているというようなことを書いていた。
ちなみにこの社長はペンネ-ム安土敏といい、「社蓄」という言葉をつくり、伊丹十三は氏の小説「小説スーパーマーケット」を元に「スーパーの女」という映画をつくった人物である。
この社長によれば、社長を含む日本のサラリーマンが「交際費」で使う時と、個人の生活で使う時とでは、「金銭感覚」が3倍から5倍も違うという。
例えば交際費でお客を接待する場合、銀座の高級クラブで御1人様10万円などというのはザラである。
個人で払うなら、ソウソウ1万円を越えられない。
つまり日本には「法人円」と「個人円」が流通し、その交換レートはおおよそ「1対5」というわけである。
銀座の高級紳士服店の1着100万円もする服が並んでおり、こうした店が一般客を相手にしていない証拠に、日曜や祝日は「休み」なのである。
このあたりのバーや高級料亭も、会社のカネで支払う人ツマリ「法人円」を使う人間を相手にしており、一流コックや板前はほとんど、そうした店に流れている。
というわけで、同じサ-ビスや商品内容でも、「法人向け」と「個人向け」の「差別価格」が存在しているのである。
ところで、一流料亭で日々を過ごしてきた社長達は、存分に「法人円」を仕えるという立場にあり、そのポストを去れば自らの生活を「個人円」で過ごさなければならなくなる。
退職してしまったら最後、家計と相談して高い酒も呑めず、結構寂しい状態に陥るかもしれない。
会社でのオイシイ生活が懐かしく思えてくる。
というわけで、引退後も会長や名誉会長など就きたがるのである。

前述の「消費者余剰」の話を今度は、生産者側つまり「供給曲線」の側にアナロジカルにあてはめてみたらドンナことがいえるだろうか。
教科書にあるとうり、縦軸を価格、横軸を数量として右上がりで描くのが「供給曲線」である。
今、横軸を数量のかわりに「企業数」としてみよう。
1つの企業が1単位を生産するという「強い」仮定をしておけば、数量を「企業数」としても差し支えない。
当然のことながら、「費用<価格」の関係がないと企業は利益が出ない。つまり儲けないモノは作らないので供給もしない。
ということは、供給曲線は右上がりであるのは、価格が上がれば利益を出せる「企業数」が増えていくことを意味する。
或る商品につき、価格が1万円なら10社が供給し、価格が2万円なら30社が供給し、価格が3万円ならば50社が供給する。
そして、需要曲線と供給曲線が交わるところ「2万円」で価格が決定したとする。
しかしこの供給曲線をよくみて推測できることは、10社の企業は1万円だしても利益をだせた企業なのだ。
だからこそ1万円の価格であっても、10社はこの製品の生産(供給)を行ったのである。
にもかかわらす、実際の価格は2万円だったのだから、2万ー1万の差である「1万円分」の余分の「利益」をだしているのである。
この10社は1万円という低い価格でも利益が出せるキワメテ効率のいい企業といえる。
そして価格が2万円になると「利益が出せる企業数」が30社に増えて、当然供給が増えていく。
さらに価格が3万円になると、他の事業をヤメテまてこの製品の生産に携わろうという「参入」がおこり、50社もの企業が生産を行って利益を出し、サラニ供給が増えていくことになる。
さて企業は絶えず価格と費用を比べながら生産の決定をしているわけだから、この企業群が生み出す供給曲線の「高さ」は、大雑把な言い方をすれば「費用」なのである。
つまり、供給曲線とはこの商品の費用曲線なのだ。(*注意:経済学は「限界費用曲線」と「平均費用曲線」を区別するが、企業参入と撤退が起こる「長期」においては両者は特に区別する必要がない。)
さて供給曲線の横軸からの高さが「費用」ならば、その高さが「価格の高さ」より低い部分(価格ー費用)は、この製品の生産がもたらす企業群全体の「追加的利益」であるといってよい。
需要と供給の図で言うと、価格を表す「縦軸」、右上がり「供給線」、「価格水準線」の外側に膨らんだ三角形全体(DBC)がその「追加的利益」であり、これを「生産者余剰」ともいう。
「生産者余剰」が生まれる理由は、効率のよくコストを抑えて利益を出せる企業にも、ギリギリの利益しかだせない効率の悪い企業にも、平等に「一つ」の価格と対峙して生産を行うからである。
ただし現実の企業は製品の「差別化」によって独自の価格設定をするなどをしていることを断っておこう。

ところで、需要といっても貨幣の裏づけのない「夢のような」需要については想定していない。
例えば、自分の家の前に高速道路が欲しいといっても、高速道路を建設するお金が個人で出せるわけではないので、こうした需要は市場にはあらわれない「夢の需要曲線」なのである。
JMケインズは、そういう需要と区別して貨幣の裏ヅケのある需要をわざわざ「有効需要」という言葉で表した。
また、仮に公園を作るなど多額のオカネが出せる奇特な人がいても、「共同で使用する」ものについては、「需要」は正しく市場に表明されないという問題がある。
例えば、クラスで行く遠足で使うシートを使いたいが、誰かが買ってくれるであろうと皆が思うと、結局誰も購入しないことになる。
経済学ではこれを、「フリーライダー(ただ乗り)問題」という。
フリーライダーが生じる場合、需要は「真の需要」よりも過少になる傾向がある。
実は、カネの裏づけのない「夢・需要」やフリーライダー現象を生み易い性格を併せ持つ財が「公共財」なのである。
こういう公共財の需要は、市場で正確に反映される事はない。
これを「市場の失敗」というのだが、少し専門的にいうと「外部経済」や「外部不経済」が生じる場合に市場は失敗する。
例えば、自宅に植えた桜の木が隣家の主人の目を楽しませたとしても、弾いたピアノの音色が隣家の奥様を楽しませたとしても、隣家に金を要求する人はいないだろう。
逆に、工場の煙突の煙が自分の家の洗濯物を汚したところで、洗濯代を工場に要求するほどの猛者(もさ)もいないだろう。
前者のように「代価もとらず」外部に「利益」を与えるのが「外部経済」、後者のように「代価を支払うことなく」外部に「不利益」を与えるのが「外部不経済」である。
代価の支払いや受け取りがないということは、こうした利益や不利益は「市場を経由」することなく生じているということだ。
以上のような経済学的な話からは、様々な「寓話」を引き出すことができそうだ。
人の運なり、知識なり、威光、なども一見、個人に付随したもののように見えながら、実は相当な「外部性」があり、他者の人生をも大きく左右するものなのである。
また、そういうものは目に見えず「数値化」もできず、その対価や「見返り」を相手に要求できそうにもないという点でも、公共財や公害に非常によく似ているのである。
実際、人々の生活は、知らぬうちに他人に利益を与えたり被害を与えながら、何らの対価を支払うことなく、見返りを要求されることもなく、何もなかったかのように営まれているのだ。
他者に関わるなかで、外部経済や外部不経済に当てはまるような悲喜劇がまだまだたくさん起きていそうな気がする。
例えば、イイ人なのに遠慮がちなものは「過少」にしか評価されず、パフォーマンスに優れた人は「過大」に評価されるとか、善人は早死にし、憎まれっ子世にハバカルなどなどである。
また、外部経済的思考を無理やり「愛の世界」に適用すれば、男女の恋愛のやりとりは排他的な私的財(サ-ビス)である一方、少々不謹慎な言い方をすればマザーテレサの愛は多くの人に感動を与え人を救うために、公共財(サ-ビス)に近く、やたら街で博愛主義に徹する「遊び人」は公害的にエロ-スを振り撒いているという見立てもできる。
また、ある種の統制国家での反体制的思想は、一機に伝播蔓延する恐れがあるために、その外部性を断ち切るために、汚染源は「元からたたなきゃダメ」と、収容所への隔離・弾圧・転向などを行うのである。
純経済学的な話に戻ると、外部経済のカタマリが「公共財」で、図書館や道路など一度作られたら誰ももその利益から排除できないし、反対に外部不経済のカタマリが「公害」で、一度発生しはじめると誰もその被害から免れることができないのである。
そこで、「マイナスの公共財」が「公害」という関係になる。
一般に、皆で金を出しあって公共財を作ろうとすると、人々の中には「タダ乗り」しようとする人がいて少なめにしか金を出さないので、公共財の供給は「過少」にしか供給されない傾向がある。
他方、公害は汚染発生者がその費用(洗濯代など)を外部に転嫁して負担を「減らす」ため、企業は内部費用を負うことなく「過大」に供給される傾向がある。

ともあれ、「外部経済/不経済」性の高い問題についてはアダムスミスのいうような「予定調和」はありえず、「市場機構」によって解決することはできない。
従って、政治的プロセスによる「公共選択」によって、その供給量(または規制)を決定する他はないのである。
しかし、こういう「政治プロセス」も、「官製談合」などの様な悪習ゆえにユガミを生じ、正しい「公共選択」は行われにくいのが現実である。
これを「市場の失敗」にナゾラエて「政治の失敗」といってよさそうだが、「政治の失敗」は範囲が広すぎてこのケースに「この言葉」を限定して使えそうもない。
ところで「核の抑止力」ということがいわれている。
自由主義に属する日本は、当然にアメリカの「核の傘」に入るわけであり、アメリカの経済力の衰退原因の一つが日本の「対米貿易黒字」であるという認識から、日本の「安保ただ乗り論」という議論が澎湃と湧き起こった時のことを思い出す。
折りしも、JMブキャナン教授(1986年ノ-ベル賞受賞)らによって創始され世間で注目されはじめた「公共経済学」のテーマのひとつが「フリーライダー」(ただ乗り)問題であり、それはまさにアメリカの「核の抑止力」がスケールの大きな「公共財」として認識されるようになったということかもしれない。