待つ風景

机の上に黒光りする小銃が置いてある。
ソレが、どんなに静謐の装いをしていても、その目的上「暴発する」宿命をもっている。
小銃が一気に変身するある種の「妖気」を漂わせているのは、火を噴くその時をひたすら「待つ存在」だからかもしれない。
ところで、現在の世界の核管理体制の中心となる条約は、「核拡散防止条約」(NPT)である。
それによって核保有の独占状態を堅持し、「静謐」を維持しようとするものである。
そして、この「静謐」を乱そうとするものを「ならずもの」とよんでいる。
「核の独占保有状態」とは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5つの国は、「合法的」に核兵器を保有している状態である。
一方、イスラエル、パキスタン、イラン、インド、北朝鮮などいずれも「核開発」を行っていて、「核保有」を充分に疑われている国である。
つまり「非合法」に核兵器を保有している可能性のある国である。
したがて「核保有」に、合法と非合法とを「区別」するNPTとは根本的にアヤウイ条約といえる。
NPTは、国際社会は核兵器を持つ国がコレ以上「増えない」ように、また核をスデニ「合法的に」持っている国も、今後は核兵器を「増やし」たり「性能向上」をハカッタリしないように、1968年に制定された。
NPTは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5つの国に対して、けして「核廃絶」を求めているわけではない。
北朝鮮が2003年にNPT脱退を宣言し、核開発に乗り出したとしても、「持てる」国がドレダケの説得力をもって非難・攻撃できるだろうか。
つまり、北朝鮮のタビタビの「挑発的言動」は許し難く映るが、ソレをこうした「国際的核秩序」への反発として捉えるのならば、「一分の理」もないといいきれるだろうか。
今回の北朝鮮による「核発射(準備)により、国際協調や「核管理体制」の強化が求められているが、マズハその体制の根本的な「危うさ」コソが問われるべきである。

長いこと、日本人は「原発」と「核兵器」とは別モノという意識に慣らされて来たところがある。
しかし、両者には中身も技術的にもナンラの「違い」がないことが、東北の震災のを目の当りにしてあらためて認識された。
NPT(核拡散防止条約)は、1970年に発効したが、この条約がつくられたのは、原子力発電の技術が全世界的に広まったことと深い関係がある。
原子力発電の技術は、使用するウランの「濃度」を上げることによって「核兵器」に転じることが可能だからである。
天然ウランには、非核分裂性のウラン238に対して、核分裂性のウラン235が約0.7%の割合で含まれている。
ウラン235の割合をウラン濃縮によって人工的に高めたものを「濃縮ウラン」といい、濃縮後のウラン235の割合を「濃縮度」という。
低濃縮ウラン燃料は、主に原子力発電所の「核燃料」として利用されている。
世界の原子力発電所で主流となっている「軽水炉」では、濃縮度2%から5%程度の低濃縮ウランを燃料として利用しなければならない。
低濃縮ウラン燃料は天然ウランの核燃料よりも高価であるが、原子力発電所の総合的な安全性や経済性から、「軽水炉」を導入する国が増えている。
「軽水炉」とは、普通の水(=軽水)が核分裂を緩める減速材・冷却材を兼ねているものである。
核爆弾において核分裂を爆発的に「連鎖」させるためには、最低70%以上の濃縮度が必要とされている。
なお、原子力推進機関を搭載した艦艇は、原爆としても使用できる濃度の「高濃縮ウラン」により運転されているという。
こうした原発からの転用(濃縮ウランの製造)を防止するために、当時「核兵器開発」で先端を行くアメリカとソ連、さらにイギリスが一緒に作ったのがNPT(核拡散防止条約)である。
NPTは、核兵器を持つ国がコレ以上増えないようにするための条約だから、新たに核開発をする国の存在は認められない。
そしてNPT加盟国は、本当に核兵器を開発・所持していないかチェックするための「査察」を受け入れなくてはならない。
この「査察」を行う国際機関が国際原子力機関(IAEA)という組織で、2005年にIAEAは「核不拡散」への貢献が評価され、エル・バラダイ事務局長とともにノーベル平和賞を受賞している。
IAEAによる査察には定期的に行われるものから、「核開発疑惑」がある場合に行われるものまで様々あり、NPT加盟国はこれを受け入れる義務を負う。
ただし「持てる国」アメリカ、ソ連(今はロシア)、イギリス、フランス、中国の5カ国は、こうした義務を負わず、核兵器を保有しつづけてイイことになっている。
国連の安全保障理事国に名を連ねるコノ5カ国に対して、「査察」の対象とならず、核兵器「合法化」しているのだから、カナリ都合のいい条約である。
実際、「核保有国」とそれ以外の国との対立状況は厳しくなっており、NPT再検討会議でもナカナカ合意がみられなくなってきている。

1954年1月 マグロ漁船第五福竜丸140トンは、筒井船長以下23名の乗組員を乗せ、一路中部太平洋のマグロ漁場へとむかっていた。
不漁のミッドウエ-海域から南西に方向を転じた第五福竜丸は、3月1日未明、マ-シャル群島の東北海上にあって操業にはいった。
その時乗組員達は海上に白く巨大な太陽が西から上るのをみた。
数分後、昼の最中に夜のような暗さが周囲をおおった。
そして生暖かくて強い風が吹きつけ船体を激しく揺らした。
船員達は突然の異変を訝しみながらついに 誰とは知れず一人の船員が原水爆の実験ではないかと言った。彼らはあわてて操業を中止し母港静岡県焼津港に向かった。
無線で助けをよぼうかと船員達は迷った。
それはできない、そうすれば傍受したアメリカ軍に「撃沈」される危険があるからである。
帰港の途上彼らはスデニ原爆症の初期症状にみまわれていた。
帰港した福竜丸の船体にも船員達には疲弊の色濃く滲んでいた。帰港した船員達は隔離され検査をうけた。
多くの船員は依然体調不良を訴えたが回復していった。
しかしただ一人回復せぬまま病床につくことになったのが、33歳の無線長である久保山愛吉さんだった。
また第五福竜丸の帰港後、焼津より水揚げされた魚に「放射能」が発見されたのである。
。 放射能に汚染された魚が食卓に上るのではないかと危惧を抱いた東京杉並区の主婦達を中心にして原子力についての「学習会」がはじまった。
そして、この学習会が開かれた杉並公民館を拠点として「原水爆禁止運動」が広範な広がりをみせた。
世界的な原水爆禁止運動の発祥の地・かつて杉並公民館があった地に奇妙な形をしたオブジェが立っている。
「オーロラ」とタイトルがつけられたこの碑は原水爆禁止運動の発祥の地であることを記念して建てられたものである。
被爆から半年後、久保山愛吉さんは 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との最後の言葉を残して亡くなった。
日本における「第五福竜丸」事件などをキッカケにして、冷戦中にアメリカやソ連などの核保有国によって繰り返された大気中や水中における核実験によって多くの一般人の被害や、環境に対する影響も問題となり、「核実験」に対する非難の声が高まった。
そこで、まず作られたのが1963年に署名・発効した「部分的核実験禁止条約」(PTBT)である。
この条約は、世界を米ソ間核戦争の恐怖に陥れたキューバ危機によって反核の意識が高まり、核開発・改良のために必要な核実験を制限することで、核兵器の増加や高性能化を防ぎ、世界を核の恐怖から少しでも安全にしようとする条約である。
しかし、この条約では大気中や水中での核実験は禁止されが、「地下」での核実験は認められていた。
アメリカ、イギリス、ソ連の三カ国は、「地下核実験」の技術を獲得していたため、大気中の核実験が禁止されても、核兵器開発には「支障」がなかった。
逆にいうと、地下核実験の技術をもっていない国が核兵器の開発を「できない」ようにすることに意義があったのである。
この条約に、地下実験の技術を持っていなかったフランスと、密かに核実験の準備を進めていた中国は反対した。
結局、フランス、中国が加盟しなかった上に、米ソはPTBTで許されていた「地下核実験」を繰り返すことになり、あまり「核実験」をなくす効果がなかったといえる。
その後、研究が進み「地下核実験」でも環境に対する悪影響が大きいことが立証されている。

上述のとうり「核拡散防止条約」NPTは1968年につくられたが、「不平等」だという問題意思が高くなり、持てる国も、持たない国も「平等」にあらゆる核実験を禁止するために作られたのが、CTBT(包括的核実験禁止条約)である。
この条約は国連で1996年に採択されたのだが、この条約ではスベテの「核爆発をともなう」核実験を禁止している。
しかし、イマダに「発効」に至ってはいない。
つまり、国際的に問題意識を「共有」しているに留まっている。
CTBTが発効するためには、発電用の原子炉を有する全44カ国が批准する(受け入れる)ことを条件としている。
この44カ国には、イラン、イスラエルなど、今日、核開発が疑われており、大国による「核の独占」に反発する国々が多く含まれている。
さらにインド、パキスタン、北朝鮮は署名すらしていない。
しかもNPTで核保有が認められている5カ国のうち、アメリカと中国がイマダ批准を見送っているという状態である。
おうやくオバマ大統領は「核なき世界」を掲げ、CTBTの批准に前向きな姿勢を見せているが、政権が変ればまったく逆方向に流れる可能性がある。
CTBTの例でみるとうり、先発の「核保有国」がリーダーシップをとって核軍縮を進めて行かないカギリは、「核拡散防止」は実現しようもない。
聖書の言葉を思い起こす。
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 」(マタイ7章)。

さらに重大なことは、NPTを中心とした「国際的核秩序」は、実は「核廃絶」によって乱されているという皮肉な結果を招いていることである。
核兵器を削減するということは、一方で大量の核分裂物質が出てくるということでもある。
核兵器を解体すると、それだけ大量のプルトニウムやウランが出てくる。
これを、どう安全に確保するか。保管中に紛失したり、盗難にあう可能性もある。
2002年11月14日のロシアの国家原子力監視局長官の記者会見で、国内で過去10年間に、核兵器の材料となるウランの紛失事件が複数回発生していることを認めている。
「紛失した量」は核兵器をつくれるほどの量ではないと付言したが、核兵器の材料が、国外のテロリストの手に渡る可能性を現実に示したものであった。
米ソを中心とした東西冷戦の時代に「核の恐怖」が高まった時期が何度かあった。
しかしその時代は少なくとも「核の使用」が国家に委ねられた時代であり、国家同士の相互作用により、それなりに「予定調和」の世界が前提としてあった。
しかしソ連崩壊後に国家による「核の管理」は杜撰になっており、その核や科学者そのものが「売買」されその使用が、国家を離れある個人や団体に委ねられる可能性が大きくなってきた。
そういう意味では、国家同士の「核拡散防止条約」は意義を失いつつある。
それでは、すでに核という「パンドラのフタ」を空けてしまった世界は「核廃絶」に向かうことは不可能であろうか。
あまり注目されていないが、世界でただひとつ「核廃絶」した国がある。
1993年、南アフリカのデクラーク大統領は「かつて原爆を開発し、その後廃棄した」と記者会見で発表した。
アパルトヘイト政策に国際的な非難を浴びせられた南アフリカは、ひそかに原爆を開発し、製造していた。
1979年から1989年に、広島型の原発を6個も製造していたという。
1989年、デクラークが大統領に就任すると、アパルトヘイト政策の放棄を決断する。
そこで、南アフリカを国際社会の一員として復帰させるためには、「核兵器の廃棄」が必要だと判断したのである。
デクラーク大統領が、国内多数派の黒人から選ばれそうな政権に核兵器を渡したくはなかたのでは、という見方もあるが、とにかくデクラーク大統領の手で解体されたのである。
しかし一方で、南アフリカの例は、NPTがあっても密かに「核開発」を行うことが出来るという実例を示した。

かつてパリ200年祭(=フランス革命200周年)をテレビで見たことがある。
華やかにも映るパレードだが、中身は「軍事パレード」でしかない。
ミサイルの数と質を誇示することが、「自由と平等」の精神を謳ったフランス革命とドウ関係するのだろうか、という疑問が湧いた。
こうしたミサイルもまた、「静謐」を装いながらドコカの格納庫に、「待つ」コトを宿命づけられている
この「待つ」という状態を印象深く描いた本に「希望の血」という本があった。
「希望の血」は、サムエル・ピサールの自伝である。
サムエル・ピサ-ルは、ナチスのホロコーストを最年少(16歳)で生き残った。
父母も妹も皆殺されたのだが、とっさの機転と、生にシガミツク意欲のたくましさと、そして幾分かの幸運に支えられて生き延びた。
アメリカ軍によって解放され、各地を転々として紆余曲折を経たあげく、ハーバード大学、ソルボンヌ大学といった名門大学を出て、国際弁護士として活躍した。
そしてフランスの大統領・フランスのジスカール・デスタン大統領にスカウトされ、その「片腕」となった。
ピサールはフランスの政府高官してアメリカの国務長官との会談のためにニューヨークからワシントンに向かったことがある。
その途中に飛行機が事故をおこし、ニュージヤージーのマグワイア基地に緊急着陸したのだが、そこで見たシーンはピサールにとって一生忘れ難いものになったという。
「この基地は、きちんと並んだ無数の格納庫や事務棟、居住用の建物などで構成されており、その目的はただひとつ~" 待つ"ことであった。
将校や兵士と同じように、ここで働く者は全員、敷地内を歩き回ったり、ビールやコーラを飲んだり、あるいはテレビで昔の映画をみたり、フットボールを投げたりするほかは、ほとんど何もしていないのである。ただ座っているだけのものもいた。そしてただ待っているのである」。
あらゆるエネルギーと能力の発揚をスンデのところで「押し殺して」いる姿は、とても「不調和」な世界である。
そしてピサールは次のように書いている。
「この基地にいる男たちは、注意深く選ばれ、高度に訓練されており、その存在の目的といえば、命令一下、何の疑問もなく、ただちに、もはや取り返しのつかないあの最終行動をとることなのである」と。
そして、その光景を見たピサールに一瞬恐ろしい考えが閃いたという。
その「指令」はスベテからの「解放」をもたらす、のではないか、ということだった。
ソンナことを思わせるほど、砂漠の兵士達はジリジリとその時を待っていた。
あらゆるエネルギーを結集して「入力」がなされているにもかかわらず、「出力」はヤスヤスとは出来ない状態が永遠に続けられるのか。
それは「入力」と「出力」とがあまりにバランスを欠いた「異様な世界」といっていいかもしれない。