「声」の贈り物

NHKのアイススケートのアナウンサーの解説は、スケートの「演技」に優るとも劣らず素晴らしい。
随所にでてくるNHKアナらしくないコメントにクスッとくることシバシであった。
例えば映画音楽「ロミオとジュリエット」をバックに踊り終った浅田真央に、アナウンサーは「どうしてあなたは真央ちゃんなの」という言葉で締めた。
(「ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」から来ている)
そのアナウンサーとは、アテネ・オリンピックで「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」と名文句を放った刈屋富士夫アナウンサーである。
刈屋アナといえば、「トリノのオリンピックの女神は荒川静香にキスをしました!」でも知られる。
またカーリングの解説でも「マリリン・コール」が(本橋麻里選手のこと)評判だったようです。
最近、刈屋アナの「NHKらしくない」アナウンス以上に、「らしくない」名文句で話題となった人がいる。
サッカーW杯予選を突破した日、サポーターで大混雑の渋谷交差点にて行われた、見事なおまわりさんの「アナウンス」が報道され、人々は彼を「DJポリス」とよんだ。
後に、コノ警察官が「警視総監賞」を頂くことになったと聞き、あの「アナウンス」誘導がソレホドの価値のものかと少々疑問を抱いた。
当日渋谷交差点は、異様な盛り上がりになっていた。
サッカーW杯予選で、0-1で負けていたところからの、ぎりぎりのロスタイムで本田選手のPKから日本は見事ブラジル本戦へのチケットを手に入れたからだ。
渋谷のスクランブル交差点では、とてつもない人数のサポーターが横断をして、スレ違いざまに知らぬ人同士でもハイタッチをくり返し、騒然としていた。
DJポリスは、普通の警察官なら「ルールとマナーを守りましょう」と言うところを「サポーターのみなさんは12番目の選手でもあります。ルールとマナーを守ってフェアプレーで今日の喜びを分かち合いましょう」と語った。
また車に寄りかかる若者には「イエローカードです」と諭し、「怖い顔をしたお巡りさんも、心の中ではW杯出場を喜んでいます」と共感をアラワにした。
そのうち若者たちから「お巡りさん」コールさえ起きたのだという。
このお巡りさんは、宮城出身で、高校を卒業し2008年に警視庁入りした。
浅草署勤務を経て10年に第9機動隊に配属された。
剣道4段で当初は武道小隊にいたが、昨年9月に「広報係」に異動した。
この時のアナウンスはほぼアドリブだったそうだが、実はサッカーよりは「野球好き」なのだという。
実は今年の正月には明治神宮の警備で「急がなくても神様は逃げません」との名文句を放ったほか、庁内のアナウンス技術の競技会で優勝するなど、「話術」には元々定評のある人物だったようだ。
DJポリスのW杯当日の名アナウンスを民放テレビで見ていた西村泰彦警視総監は、さっそく「警視総監賞の授与」を決定したのだという。
渋谷のスクランブル交差点周辺ではこれまで、W杯や新年のカウントダウンの際、逮捕者や死傷者までが出ていた。
西村総監は警備のエキスパートとして知られ、2000年の九州・沖縄サミットでは沖縄県警本部長として、2002年の日韓W杯は警察庁警備課長として、2008年の北海道洞爺湖サミットは警視庁警備部長として、「警備の指揮」を執った。
西村総監がトップに立つ警視庁が、若者の暴動も抑えられないのではメンモクが立たない。
DJポリスの誘導のおかげで、今回の負傷者、逮捕者はゼロであった。
DJポリスへの「警視総監賞の授与」の決定の背景には、警視総監のソウシタ強い思いがあったと推測される。

警官の中にも、実益なのか趣味なのか「腹話術」に長けた人がいる。
その「話芸?」をTVで見て感動し「腹話術界」の第一人者となった人がいる。
「いっこく堂」である。「いっこく堂」といっても知らない人が多いかと思うが、 秋川雅史の「千の風になって」のモノマネをする人、といったら見たことあるという人が多いに違いない。
「いっこく堂」とは、腹話術師である「いっこく」と腹話術「人形」によるチーム名をサス名称である。
本名・玉城一石(たまきいっこく)は1963年に神奈川県で生まれた。
両親は沖縄出身で神奈川のタイヤ工場に一家で働きに来ていたが、一石が五歳の時に、コザ市(現在の沖縄市)の借家に引っ越すことになった。
沖縄の子どもたちは、「いっこく堂」が関東の言葉を使うのが気に入らなかったらしく、石を投げられたこともある。
そして取っ組み合いの喧嘩が始まって、散々転げまわった末に仲良くなったりもした。
つまり一石は、あまり人見知りをしない明るい子で、ノビノビと過こすことができたといってよい。
しかし、そんな性格も中学に入ると一変した。
中学に入ると、プロ野球選手を夢みて野球部に入った。一年生の頃ちょっとした行き違いから、チームメイトの「悪口」を言っていると勘違いされて、「一石と話をするなよ」という話が野球部からクラスに広がり、しまいには学年全体に広がってしまった。
そして、ひと言も口をきかずに家に帰ることもあった。
それでも、自分が学校全体でシカトに会っていることを両親に相談することはできなかった。
そして、中学卒業までの二年半、イジメがなくなることはなく、ほとんど喋らない人間になってしまった。
ただ「救い」だったのは、僕は家族と仲が良かったということで、家に帰れば年の離れた「弟の子守」という役目があった。
一石を必要としてくれる存在がいて、一石のための居場所があったといえる。
それに、家の近所には(現在の)特別支援学級に通う友だちが住んでいて、彼らが今までと変わらない態度で接してくれたので、学校でのイジメにも追い詰められずにスンダのだという。
「高校で変るんだ」と言い聞かせて、自分のなかに「明るいエネルギー」をタメ込んでいた。
そして、話し相手のいない中学生活から「腹話術」に興味をもった。
それは自分の思いをストレートに語ることに対する「トラウマ」からきたのかもしれない。
高校卒業後は、日本映画学校に入学し同校卒業後、1985年に「劇団民藝」に入団した。
一石は、ものまね芸人、劇団員を経て28歳の時に独学で「腹話術」を始めた。
そんな時、たまたまテレビで見た婦人警官の「腹話術」に強い衝撃を受けたという。
高校卒業後、「劇団民藝」に入団するも行き詰まった折、「余興」のかくし芸で披露したモノマネがウケた。
そんな一石に、劇団の大先輩の俳優である米倉斉加年氏は、「お前はひとりでやったほうがイキイキしている」と告げられた。
そして劇団を辞めて「ひとり芸」を模索した。
そしてフト脳裏にひらめいたのは、かつて見た婦人警官の「腹話術」だった。
30歳を目前にして、「新しい腹話術」を志し、図書館で本を借りるなどして、独学で勉強を始めた。
そして文化庁芸術祭新人賞受賞、浅草芸能大賞新人賞受賞、ゴールデン・アロー賞・芸能新人賞受賞などの受賞を経て、今や「腹話術界」の中心的存在となったいってよい。

数年前、テレビで「アメージンググレイス」の歌声で、亡くなったハズの本田美奈子さんの「肉声」を聞くことができた。
入院中に病室で歌ったア・カペラの「アメイジンググレイス」は2006年7月から一年間、公共広告機構の「骨髄バンク支援」キャンペーンのテレビコマーシャルに使用されたものである。
本田美奈子といえば「マリッリ~ン」を歌った頃アイドル時代しかイメージはなかったが、ミュージカルに出演していることは週刊誌などで知っていた。
帝国劇場での「レ・ミゼラブル」で 彼女が歌う「オン・マイ・オウン」は、彼女の力量を世に示した素晴らしいものだったという。
そして、さらに本田美奈子の最大の「当たり役」がミュージカル「ミス・サイゴン」のキム役であり、彼女はミューカルスターとしての地位を不動にしたものだった。
本田の恩師の一人である作曲家の服部克久は彼女の歌声にはミュージカルに必要な「悲壮感」があったことを指摘している。
それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が「生来」持っていたものだという。
ところが本田は2005年にはいって体の不調を訴え、診断の結果、白血病であることが判明する。
ところで、2008年2月に テレビのハイビジョン特集「本田美奈子:最期のボイスレター~歌がつないだ“いのち”の対話~」という番組があった。
この番組で、本田美奈子が白血病におかされ「ボイスレター」を通じて、最後の対話を交わしたのが作詞家の岩谷時子であったことを知った。
岩谷時子は、「ミスサイゴン」の日本語版の制作を行った有名作詞家であり、その関係で本田美奈子とも親交があった。
岩谷は「ミスサイゴン」で知り合った本田の才能を高く評価し、数多く詞も提供した。
そして、岩谷と本田には、何かに導かれるような「奇縁」が生まれた。
本田美奈子は2005年1月13日に、白血病のために都内の大学病院に入院したが、その5ヶ月後の6月20日、道路で転倒し、大腿骨他、複数の骨折をして、同じ病院に入院してきたのが、当時89歳の岩谷時子であった。
岩谷は、ミュージカルを通して出会って以来、本田にとって歌の心と言葉の大切さを教えた恩師であり、「母」のような存在であった。
無菌室から出ることを許されない本田は、岩谷を励ますために「ボイスレコーダー」にメッセージと自らの歌声を吹き込み、送り続けた。
遺された「ボイスレコーダー」には、みずから死と直面しながら、恩師のためにエールを送る本田の肉声と歌、そして生きることの意味を伝え続ける岩谷の「返事」が録音されていた。
その中で、本田は次のようなことを語っている。
「心にいっぱいキズをおってしまって、自分が生きているのも辛くなるような子供達が最近増えていると思うんですね。そういう子供達に、お母さんの詩のメッセージ伝えるために、子供達の前で歌うことができたらいいなって、今思いました。」
ソレに対し岩谷は、「とっても綺麗な歌声を聴いて、さわやかな気持ちで寝むれない春の夜を眠りました。やっぱり色々と考えることの多いこの頃だけど、あなたも私もこれから頑張って生きていかなければならない宿命を持っていると思うのね。だから、力を合わせて、何とか幸せに、周囲も幸せになるように頑張りましょうね。」と答えている。
本田美奈子は「アメイジンググレイス」のアルバムを出して急逝してした。
このアルバムは本田が病魔と闘いながら、岩谷を励まそうとの思いから、岩谷が手がけた曲をボイスレコーダーに吹き込みことによって生まれたものである。
その本田の肉声を「アメイジング・グレイス」の曲で、TVで聞くことができたのである。

さて、喉頭がんで失われた自分の肉声が「録音」され、それが「送り主不明」で送られきて、再起をハカッタ人がいる。
「ナゾー! 黄金バットがマサエさんを助けに来たゾ。いでや、黄金丸の切れ味、とくと見るがよい!」
これが、森下正雄氏の拍子木や太鼓の響きと共に始まる「紙芝居」のスタートの合図であった。
森下正雄氏は80歳を過ぎても子供達を前に紙芝居をつづけたが、81歳にして紙芝居士にとって欠かせない「声帯」を失った。
森下氏は1923年、荒川区日暮里で生まれた。父親も紙芝居の名人で「この世界でただ一人叙勲を受け、95歳まで続けた人」だという。
1939年、江崎グリコ蒲田工場に入社後、1944年より中国の奉天工場に勤務した。
そして現地で兵役に召集されたのち終戦を迎えた。
シベリアでの強制労働も体験し、紙芝居を本格的に始めたのは、終戦の翌年からであった。
荒川区は「紙芝居発祥」の地といわれ、当時二百人以上の業者がいて、子どもたちがいるところでは必ず「紙芝居」が演じられていた。
森下氏は、1952年の第1回紙芝居コンクールで優勝を果たしている。
紙芝居は、簡潔な物語展開、絵師による図柄、軽妙な語り口やゼスチャー、紙芝居の「めくり」の臨場感、ドラや太鼓、拍子木の音といった「総合芸術」である。
収入面においては、日雇い労働者への定額日給が240円であったことから「ニコヨン」と通称されていた時代にあって、紙芝居はその倍近くの収入が得られ、紙芝居の「全盛期」であった。
子供達は、駄菓子を食べながら、古びた木枠の「舞台」で繰り広げられる「勧善懲悪」の物語にジット見入っていた。
しかし、高度成長とともに街角から空き地や路地が消え、子どもたちが家の中に閉じこもるようになると、紙芝居はしだいに姿を消していった。
テレビを始めラジオや漫画などの娯楽の普及につれて紙芝居は人気を失い、紙芝居師の数は激し、荒川でも次々に紙芝居師が廃業していく中、森下氏は伝統文化を守るため、現役の「紙芝居」師を貫き続けた。
夫人は森下の意志に理解を示し、困窮する家計を内職で支えた。
森下氏の家は駄菓子屋だったので、午前中にお菓子の仕入れや仕込みをする。
そして、学校が終わる午後1時半頃に街角に出る。
夏場なら一日で五か所にたち、日曜日は稼ぎ時であった。
森下氏は、子供の夢とロマンを残すため、「紙芝居児童文化保存会」を結成した。
かつてのように街頭で紙芝居を演じるのではなく、公民館、老人ホーム、日本全国の祭りなどのイベントに自ら出向き、一つの「出し物」として紙芝居を披露するスタイルへと移行していった。
悪漢どもに囲まれて絶体絶命の大ピンチ、だがそのとき、高らかな笑い声とともに、必ずやヒーローが駆けつける。
そんなヒーロー「黄金バット」を名口調で子供達に語り続け、50年を経た1990年の春、森下氏は喉に異常を感じた。
声がカスレて出てこない。病院の診断は「喉頭がん」だった。
一時、声が出るまで回復したものの、医師からは「声帯の摘出」を勧められた。
紙芝居は声がイノチなので、「声帯」を取ったら「紙芝居」生活とも別れなければならない。
結局、森下氏は、家族の説得もあって手術を受けることにした。
手術を前にした1990年9月10日の夜の病室で、自分の最後の肉声を残すため、テープレコーダーを前に「黄金バット」を独演した。
語りが終わると、同室の患者たち5人から拍手が巻き起こった。
森下氏と同じように声を失ったこの患者たち五人が、期せずして森下氏の「肉声での」最後の客となった。
それでも森下氏が懸命にリハビリに取り組んでいた時、「送り主不明」のカセットテープが森下氏の元に届けられた。「消印」は四国の丸亀市であった。
森下はカツテ巡業で訪れていた丸亀でのことが思い浮かんだ。
そしてテープには、黄金バットなどを含むかつての「名調子」で、六話が録音されていたのである。
また「これを使って子供たちに紙芝居を演じてほしい」との手紙が添えてあった。
森下氏は、この時のことを「感激で涙が止まらなかった」といっている。
テープの声に合わせて口を動かす訓練をすれば、「現役」を続けられる可能性がある。
森下氏は音声に合わせて口を動かし「紙芝居」を行う新しいスタイルを考案した。
そして声を失った森下氏の「紙芝居」は以前より更に朗らかな表情や表現力に磨きがかかり、子ども達はもちろん大人達も引き込んでいったという。
80歳を過ぎてからも月に2度ほど、公演、コンクール、商店街などの各種イベントで紙芝居を演じ、子供たちに夢と思い出を残すため、自分と同じ病気の人々を励ますため、精力的に活動を続けた。
同時に「食道発声法」のリハビリにも励み「第二の声」での実演も目指したが、今度は肺がんを発症した。
そして平成2008年12月、肺がんで亡くなった。85歳だった。
前月の11月に東京都台東区の下町風俗資料館で約40人の子供たちを相手に演じた舞台が、最後の実演となった。
死後は息子である森下昌毅が父の跡を継ぎ、「紙芝居」を演じている。