カナダ発「日本史」

「赤と黒のエクスタシー」と聞いて、何のことか思い出せたら、カナリの映画通かもしれない。
1990年、海音寺潮五郎の歴史小説「天と地と」が映画化された時、このキャッチコピーが用いられた。
上杉謙信の生涯を、生まれる前から川中島の戦い直後まで描く物語だが、上杉軍を「黒一色」、武田軍を「赤一色」に統一して川中島の合戦を描く映像美が、「公開前」から注目されていた。
とこらが、この映画の合戦シーンの撮影はカナダ・カルガリーで行われた。
戦場で戦う兵士のエキストラも実はカナダ人であった。
鎧かぶとの奥に光る目は青い目であり、兵士達がこころなしか猫背であったことを覚えている。
また、この映画は非常な「不運」に見舞われた。
上杉謙信役には1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」でブレイクした若手男優渡辺謙を抜擢したが、カルガリー・ロケ中に渡辺が「急性骨髄性白血病」に倒れ降板した。
「角川」が代役にと望んだという松田優作もドラマのスケジュールの折り合いがつかなかった。しかも松田は同年に死去している。
「緊急オーディション」で榎木孝明を代役に立て、何とか撮影続行・公開に漕ぎつけたという「不運続き」の映画であった。
2007年の日本アカデミー賞で渡辺が最優秀主演男優賞を獲得した際、この作品を「降板」したことの無念と、その後の苦労をスピーチした。
バブル景気の頃に企業から出資を受けて、企業の団体動員に支えられた「前売り券」映画と呼ばれる映画が数多く作られたが、30社以上の出資を受けた「天と地」とは、「前売り券」映画の代表作といわれる。
そして「配給収入」で50億円を突破して数字の上は「大ヒット」でありながら、前売り券が金券ショップで叩き売られて劇場は「閑散」としていたという点で、前代未聞の映画であった。
映画の質はどうあれ、日本の歴史のハイライト「川中島」が、カナダの風景の中で撮られたという点でも「記憶に残る」映画であった。

カナダと「日本史」との関わりといえば、今、ハーバード大学を「熱」くさせている「日本史」を講義する日本人女性がいる。
若き32歳の歴史学者、北川智子さんはカナダの大学でハジメテ「日本史」と出会った。
北川さんは、1980年福岡県生まれで、福岡の進学校・明善高校を卒業した。
カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に留学し、同大学院でアジア研究の修士課程を修了後、プリンストン大学で博士号を取得している。
専門は日本中世史と中世数学史である。
そして、アメリカ屈指の名門・ハーバード大学で、受講生がたった2人という不人気講座「日本史」を、就任2年目にして100人以上の学生を集め、さらに3年目には250人を超える「白熱教室」に押し上げた。
2012年7月からは、英国ニーダム研究所を研究・執筆の拠点とし、講演や講義で世界中をめぐっている。
北川さんの経歴は、「戦略的」につくられたというより、ナリユキでそうなった感じがある。
そもそも「歴史学」の研究者になったのも、そう「志した」わけではなく、「自然の流れ」でソウなったというべきである。
北川さんがカナダの大学に留学したのは、高校時代にホームステイしたとき、「景色の素晴らしさ」に感激して、ココで学びたいと思ったからだそうだ。
高校時代は「理数系」で、大学では当初数学とライフ・サイエンスなどを学んでいた。
しかし、アルバイトで日本史の教授のリサーチ・アシスタントをしたことが転機となった。
仕事の中身は、過去の人が書いた日記などの史料と、学者の論文の研究テーマを黙々と読むことであった。
両方を読み「比べる」うちに、ダンダン歴史研究の中にナニカが抜けているような漠然としたカンジを抱いた。
ソノ「思い」を教授に伝えたところ、大学院で研究してみないかと誘われて、「歴史学」の研究に転じたという。
そして、大学院に進学する前の夏休みに、たまたま参加した「ハーバード大学のサマーセミナー」が、大きな「収穫」となった。
北川さんの「授業スタイル」は日本でも有名なハーバード大学・サンデル教授のそれは「ディベート型」ではない。
北川さんの場合は、独特な「アクティブラーニング型」を実践するクラスを築いた。
例えば中世の京都について学ぶクラスなら、16世紀日本に渡来してきたヨーロッパの宣教師たちの「書簡」を読んでのグループ・プレゼンテーションを行う。
また、秀吉の外交政策や天正遣欧少年使節団としてヴァリニャーノが派遣した少年4人組の外交・見聞に関する2分間の「ラジオ番組の制作」が課題となっている。
ほかにもラップダンスで行うプレゼンテーションや、「映画制作」などを通して学んだ内容を自ら「表現する」など、ユニークさ満載である。
こうしたクラスを可能にしているのは、北川さんのもともとの得意分野であるITを積極的に取り入れることへの「抵抗感」のナサにあるのではなかろうか。
そして、北川さんの思いの根本は、学生たちに歴史を学ぶことで「普遍的なもの」を学んで欲しいというものである。
実際、アメリカの大学で「日本史」を学ぶことは、それほどメリットがあることではない。
だからこそ、北川さんは歴史を学ぶ要諦は、「普遍的なもの」を意識することだと考えている。
それは、出来事の中に「歴史的な意義」を見出すことといってもよい。
そして「時代」の雰囲気をつかみとり、それを自分なりの表現をすることが、「理解」を深める手助けとなると語っている。
ハンーバードの学生たちが選ぶ「ティーチング・アワード」を3年連続で受賞した。
また時々、授業に着物姿で現れる北川さんだけに、「ベスト・ドレッサー賞」も受賞している。

ハーバート・ノーマンという人物は、カナダの外交官でありながら、秀逸な「日本史」研究家であった。
ノーマンは宣教師ダニエルの次男として長野県軽井沢町に生まれた。
ノーマンが長野の農民とともに少年期を過ごしたことが、ノーマンの「思想」に大きな影響を与えないハズはない。
ノーマンは17歳まで神戸のカナディアン・アカデミーに通い、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーバード大学で学んだ。
1939年外務省に入り、翌年東京のカナダ大使館に語学官として赴任する。
だが太平洋戦争が勃発すると、1942年本国へ送還された。
そして、日本が戦争の泥沼にはまり込む1940年、ノーマンの博士論文「日本における近代国家の成立」が出版された。
その中で彼は、「軍国主義」の起源を昭和だけでなく、近代国家成立の過程にあると「構造的」に解明した。
日本研究が皆無であった時代に、これだけの研究が日本生まれの西洋人によって書かれたという点でも、大きな「反響」を呼んだ。
また「日本政治の封建的背景」(1945年)の中で、日本が「国粋主義」に突入するうえでの右翼団体の役割について論じている。
さらに「忘れられた思想家―安藤昌益のこと」(1949年)では、元禄の泰平の世にあって「身分制度」を批判した安藤昌益に焦点をあてた。
日本史家の誰も注目しなかった安藤が、男女の愛を説き、農耕を尊び、宗教を否定した「平等主義者」である点を明らかにした。
こうした著作によって、ノーマンの「日本史家」としての地位は「不動」のものとなった。
終戦後、日本史家として知られたノーマンはGHQ(連合国軍総司令部)スタッフとして「再来日」する。
彼は農地改革、財閥解体、婦人解放など民主化政策を遂行するマッカーサーを慕い、マッカーサーも日本の「実情」に詳しいノーマンを重用した。
ノーマンはエマーソンという人物ともに、共産党の指導者・志賀義雄や徳田球一、アルイハ反戦主義者など「政治犯」の釈放に当たった。
そのほか重光葵、東郷茂徳の「減刑」を進言し、市川房江、河上丈太郎、犬養健の公職追放者リストからの「削除」に働いた。
一方、「新憲法制定」に動いていた近衛文麿元首相の戦争責任を問うたため、一転して近衛は「戦犯」に指名された。
近衛は自宅でピストル自殺をしている。
1946年にノーマンは「駐日カナダ代表部主席」に就任し、その3年後にはマッカーサーの推奨で「特命全権公使」に昇格した。
しかし「冷戦」が始まるや、GHQは日本を反共防波堤とする「逆コース」へと移行した。
民主化政策は経済復興政策にスリ換えられていった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは公職追放令を「逆用」して共産党幹部を追放し、かえって保守政党を「擁護」する動きサエ見せた。
そして警察予備隊の創設カラ500名にものぼるジャーナリストへの「レッドパージ」と続き、ノーマンはマッカーサーから次第に「距離」を置くようになっていった。
マッカーサーはその年「原爆使用も辞せず」の発言で解任され、ノーマンもその2ヶ月後に本国へ召喚されている。
その時代、北米ではマッカーシー上院議員をはじめとする「赤狩りの嵐」が吹き荒れていた。
そして、本国に帰国したノーマンを待っていたのは、カナダ連邦警察による「審問」であった。
GHQでも指折りの反共主義者チャールズ・ウィロビー少将はノーマンの思想を危険視し、「ノーマンにはスパイ容疑あり」とのレポートをFBIに送っていたのである。
確かにノーマンは日本の戦時中の「共産主義者」釈放に一役かったし、ノーマンが「発見」した安藤昌益の思想にせよ「共産主義」に通じるものがある。
あるいはウイロビーは、アメリカ人でもないのにGHQで大きな顔をしていたノーマンを目の敵にしたのかもしれない。
またノーマンが学んだことのあるケンブリッジ大学は、当時「共産主義」の活動が盛んなところであった。
そしてノーマンが、そのタグイの集会に出入りしたこともあり、そこのメンバーと「交際」がなかったわけではない。
1951年、実際にケンブリッジ大学出身でイギリス外務省職員の二人がスパイであることが「発覚」し、ソ連に「亡命」するという事件が起きている。
いやがおうにも、ケンブリッジの関係者は、一斉に「疑惑」の目を向けられることになっていたのである。
当時、共産主義者はソ連のスパイだという前提で次々と「審問」にかけられたが、その多くは中傷や捏造された「情報」に基づいたものであった。
被審問者は共産主義者だった「罪」を告白し、別の共産主義者の名を当局に告げることで赦される。
ソレ拒めば「議会侮辱罪」に問われるため、友人を売り、それもできず追い詰められて自殺する者さえいたほどであった。
ほとんどヨーロッパ中世の「異端尋問」を思わせられる「異様な」時代の雰囲気だった。
結局、4週間にも及ぶ審問においても、ノーマンがスパイという「証拠」は見つからなかった。
しかし1953年ノーマンはニュージーランド高等弁務官という、事実上の「左遷」をクラウことになる。
スパイ容疑のホトボリがさめた1956年、ノーマンは「駐エジプト大使」としてカイロに赴任する。
その当時エジプトはイスラエルと敵対していたため、東側(共産圏)から武器を購入するや、アメリカはアスワン・ダム建設の「援助」を撤回した。
するとナセル大統領は「スエズ運河国有化」を宣言し、イギリスは経済制裁でコレに応えた。
つまり当時の中東情勢は「一触即発」の状態にあり、駐エジプト大使であるノーマンの「外交手腕」に期待が寄せられた。
そして、イギリス・フランス・イスラエル連合軍がエジプトに侵入し、第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発した。
急遽開かれた国連臨時総会で、イギリスとフランスが「徹底交戦」を主張したが、ノーマンはピアソン・カナダ外相にエジプトを追いつめれば「東側」に傾斜するだけだと進言し、ピアソンはカナダ軍を「国連軍」として派遣することを申し出た。
そして、イギリス連邦に属するカナダに「不信感」を抱くナセルを、ノーマンは根気よく説得し、「国連軍」の導入と「連合軍」の撤退を実現させた。
このとき、国連軍に「紛争調停」という新しい役割を見出したカナダ外相(後の首相)ピアソンは翌年ノーベル平和賞を受賞している。
その「影の功労者」が、ハーバート・ノーマンであったのである。
ところでアメリカでは、スエズ戦争勃発直前にノーマンがベイルートで接触したエマーソンという人物の「喚問」が行なわれていた。
そこでの焦点は、エマーソンがGHQの任務でノーマンとともに日本の「共産党幹部」を釈放したことであった。
この席で彼がノーマンと、スエズ戦争開戦直前に会っていた事実が明るみに出たのである。
結局、ノーマンの一連の行動はエジプトを西側から離反させる「謀議」ではないのかという「疑惑」が浮かび上がり、ノーマンの「再審問」は確実となったのである。
ノーマンに、アノ辛く苦しい4週間の「審問体験」が蘇ったに違いない。
ノーマンが共産党員だった「証拠」はない。
しかし「共産主義的思想」に理解を持っていたことは、日本史に登場する「安藤昌益」への「関心」でもわかる。
そんなことよりも、アメリカという自由社会が、まるで「赤狩り」という名のケダモノに襲れた雰囲気であった。
この時代の雰囲気を正確に捉えることは難しく、ソレコソ前述の北川教授の「歴史学」のテーマにもなりそうだが、その犠牲はアマリニ大きかった。
ノーマンはこれからマタモ尋問に耐えながら、外交官として生き残るためには、友人を売らなければならない。
だが宣教師の子としてキリスト教の教育を受けてきたノーマンにとって、それは「ユダ」にも等しい行為だった。
1957年4月3日、ハーバート・ノーマンは気晴らしに映画を見に行った。その映画とは、日本の「修禅寺物語」であった。
そしてノーマンは「私は啓示を受けた」と周囲に語り、翌朝ビルの屋上から身を投げ、自らの命を絶った。
その約3後の1960年、「赤狩り」のあまりの邪悪さや理不尽さに心ある人々は「反感」を抱き、サンフランシスコ、市民が市会議事堂を包囲して「聴聞会」の開催を阻止し、「赤狩り」は幕を閉じた。
さてノーマンが最後に見た「修善寺物語」とはどのような映画であったか。
能面師が将軍源頼家に命じられて面を打つが、何度やっても「死相」が漂う面になってしまう。
待ち切れなくなった頼家は、強引に面を取り上げ、能面師の美しい娘も連れて行く。
娘は黙々と仕事に励む父を理解することに疎く、喜んで将軍の側女となる。
能面師は不出来な面を納めたことを悔やむ。そして源頼家は突如北条氏によって襲撃される。
娘は、頼家の命を救おうと、父が打った頼家の面をつけて頼家になりすまし、群がる敵を相手に戦い倒れる。
けれどもその甲斐なく、頼家は入浴中の不意を襲われ、抵抗むなしく23歳でその命を落とす。
能面師は、虫の息の娘を見ながら、表情一つ変えずに「面に死相が見えたのは、技芸神の域に入ったことよ」と言い放ち、筆を取って娘の死にいく顔を「写生」する。なんという父親だろうか。
日本文化に造詣の深いノーマンが、この映画からドンナ「啓示」を受けたかは軽々しく語れない。
あえてアテハメルと、能面師の娘に自分の身を置き換えたのではなかろうか。
とするならば将軍・頼朝は、上司であるノーベル平和賞受賞者ピアソン外相(後のカナダ首相)である。
そうして父である「能面師」は誰だろうか。
ノーマンを翻弄した「運命」か、それともノーマンの死を「解釈」する後の世の人々のことか。
結局、ノーマンの献身的な働きでさえも「政争」の具となり、彼の評価もまた「歪曲」されてしまった感がある。
「悲劇の外交官」といわれる所以である。