力及ばぬ処

この社会が求めることとは、人々の期待にこたえることであり、「成果」をだすことコソを「最高善」として生きる生き方である。
それが共同的成果であったとしても、組織の目的にそった成果を出せる「個人」コソが最高の評価を受けることになる。
つまり、「成果主義」ということだが、人間には様々な制約があって「力及ばぬ」ことノ方が多い。
逆にアマリニ「成果主義」に陥ると、検事の冤罪ストーリー作りやスポーツ界の「体罰事件」などにみるような無理をカサネ、一転して「人民裁判」にかけられるかのように「謝罪」を求められるハメに陥る。
ところで人間は、いつごろから自分の意思と努力だけで生きることを「普通」のことだと思うようになったのだろう。
人間には、「ホモ・ファーベル」(作る人)やら「ホモ・ルーベンス」(遊ぶ人)やら様々な定義がある。
最近、「ホモ・コントリービュエンス」(貢献する人)という新しい言葉を聞いたが、今のところ「ホモ・プレイトス」(?)(祈る人)ナンテいう定義は聞かない。
現代人は、「祈り」を喪失した人種なのである。
ここでいう「祈り」とは、日本人が神社で行う「合格祈願」や八幡宮に「安産祈願」などのような「願い事」のでコトではない。
新約聖書の「ピリピ人への手紙」の中に「絶えず喜べ、絶えず祈れ、絶えず感謝せよ」とあるとうり、「祈り」は少なくとも信者にとっては「呼吸みたい」なものなのだ。
しかし人間は(信者でさえ)、いつごろからか「祈る」ことをしなくなったのだろう。
もっといえば、「祈る」機能を喪失したのだろう。
デカルトの「我思うゆえに我あり」あたりからか。
ところで、「旧約聖書」の詩篇とは、イスラエルの二代目の王ダビデ王が神に捧げた「詩」であるが、その本質からすると詩の形式をとった「祈り」である。
この詩篇における、ダビデの「祈り」の本質は「神様 働いてください」という祈りである。
そこから発せられる最も強いメッセージとは次のようなものである。
「自分がこの世界で生きていく上は、あまりに力が足りないため、神様が力(栄光)を現してください。そうすれば自分ばかりではなく、神を”知らない”人々も神を崇めるようになります」という「祈り」である。
こういう生き方は、「自助努力・自己責任」を旨として生きている人には、アンマリ感心できる態度ではないのかもしれない。
また人によっては、これがイスラエルという一国の王が詠う詩なのか、と思うかもしれない。
しかし、ダビデは神の前に己を限りなく「低く」することが、「神が働く」つまり「祝福を受ける」極意であることに気がついていた。
サリンジャーの小説「フラニーとゾーイー」か「ナイン・ストーリーズ」か(記憶が定かではないが)、その中に「主よ憐れんでください」と絶えず祈る男の話があった。
不思議なことに、この男の「祈り」はコトゴトク実現していくのだ。
巷間によく知られた言葉「神は自ら助ける者を助く」という言葉がある。
しかしコレは聖書の言葉ではない。
当時アメリカで印刷工であったベンジャミン・フランクリンが、カレンダーを売り出すために月ごとに「警句」をつけたら大ヒットした。
そのために創った「警句」の一つにすぎない。
今、大国の火器の「レーザー照準」に晒されている状況にあって、「自助努力」で充分だといえる人がイルだろうか。
一体どれだけの日本人が「自分さえシッカリしておきさえすれば」、自分ばかりではなく家族もチャント守っていけるナンテいえるだろうか。
新約聖書には、「あなたがたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできない」(マタイ5章)、あるいは「あなたがたは、夕方には、”夕焼けだから晴れる。”と言うし、朝には、”朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。”と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのか」(マタイ16章)とあるとうりである。
要するに人間は、こうあって欲しいという問題をたくさん抱えつつ、スルーしながら生きているのだ。
しかしソレデモ、どうにも「神に助けて」もらわなければならない問題に遭遇することになる。
「ダビデ流」では自分の力でどうにかなるにせよ、アエテ神様に働いてもらう「余地」を残して麗しい解決を得て、自分の感謝と同時にマワリまでもが神を崇メルようにもっていく「神中心」の生き方なのである。
あえていえば、徹底した「不完全主義者」なのである。
ダビデは現代人のような「家内安全・無病息災」などという公約数的な祈りをしたのではなく、神と自己との間に通じる祈りのパーソナルな「チューニング」を見出した人であり、竪琴の名プレイヤーであったことを含めて、全身全霊の「祈りの人」であった。

今、家庭や学校でも「手立て」ナキことのように映る問題に「ニート」問題がある。
そうして、こうした問題にある部分答えてくれる言葉に、「下流志向」という言葉がある。
内田樹氏は、「下流志向」という本の中で「なぜ子どもたちが勉強をしなくなったのか」という問いについて「子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している」と語っている。
では、子どもが「消費主体」としての自己を確立しているとはドウイウこということかというと、「商品」に向かう場面ばりではなく、絶えず「等価交換」を意識しながら生きているということである。
子どもたちがアラユルことについて「それが何の役に立つんですか? それが私にどんなイイコトをもたらすんですか」「試験にでますか」と訊ねるようになる。
その答えが気に入ればヤルし、気に入らなければヤラナイ。
そういう「採否」の基準を人生の早い段階で身につけてしまっているということである。
かつての徒弟制度にみられるごとく、若いうちは当面マイナスと思える苦労してでも技術を取得し、初めて一人前になっていくといった「生産の過程」のなかに自己を確立するということとは、「正反対」の態度が生まれているということだ。
また少し前の子供達は、家事によって「労働主体」として自分を立ち上げていたという部分もある。
家族の皆が忙しく家事に時間ががかる時代には、「家事」を手伝うことで家庭という小社会における自己を確立できたりもした。
しかし今や、家事ロボットまで登場し、家事に参加して最小単位の社会の承認を得るといった機会さえもなくなっている。
つまり、「働く」よりも先にお金を使うことによる「消費主体」として社会に参加する方が、ハルカに先行している。
社会的能力がほとんどゼロである子どもが、潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な「全能感」だったハズである。
子供でも、お金さえあれば大人と同じサービスを受けることができる。
このような「全能感」はイカナル時代の子どもがマッタク経験したことのなかった質のものである。
それが「俺様化する若者」という概念に繋がっているのかもしれない。
ところで、内田氏のいうように今の子供達が「消費主体」としての自己を確立してシマッテイル論は納得できるとしても、「努力しなかったからとか、何かから逃げているからではない。子供たちはそう志向しているのだ、むしろ努力して(私たちから見ると)下流に向かっているのだ」とまで書かれると、エッ!と思ってしまう。
「下流志向」(講談社文庫)から引用しよう。
//ヨーロッパのニート化は階層化の一つの症状です。本人に社会的上昇の意志があっても機会が与えられない。でも、日本のニート問題は、社会的上昇の機会が提供されているにもかかわらず、子供達が自主的にそのソノ機会を放棄しているということである。日本では社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという仕方で階層化が進んでいる。この点では世界的でも例外的だと思います。自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、階層降下していくという子供が出現したのは、もしかすると世界史上初めてのことかもしれない。//
とまで書いてあるのを読むと、サスガにマサカ?と思いたくなる。
「下流志向」というと、まるで子供達が「下流を望んでいる」ように見えるが、「学ぶこと・労働すること」を拒否する人々は、「等価交換的」スタイルを繰り返しつつ、そういう状態に陥っているという方が近いのではなかろうか。
若者の中には、「働きたくない」でもなく「働けない」でもなく、「働いたら負け」といった「確信犯的」なカタクナさでニートを続けている者もいる。
ソレは一見「経済格差社会」へのプロテストにも見えるが、逆で資本主義が教えたロジックに忠実に思考し行動している結果にすぎない。
この資本主義社会のロジック「等価交換的」消費態度とは、カツテ存在した時間をかけ手間をかける農業的「生産態度」とは対極にあるような態度である。
一般に、消費者は非常に傲慢である(傲慢になる)。
それは「消費者側」ではなく、「売る側」の態度をみればわかる。
頭を下げるし、美辞をならべ買ってもらおうとする。
買ってもらえるのなら、できることは何でもしましょうという雰囲気さえ漂っている。
それが小学生・中学生であろうと、お金を出す以上は平身低頭して「サービスを提供する」大人に対峙することになるわけである。
そういう子供達は学校においては「サービスの受け手」つまり「消費者」なのであり、消費者にこそ「選択権」があるという意識を持ち込むことになる。
なかなか自分の直接の利益を見出せない勉強はしたがらない。
学校の方としては、ナントカ生徒たちの「将来」と結びつけて勉強に勤めるように仕向けるが、「将来」というのは「時間をかけて成果をうる」という、どらかといえば「生産者的」態度によって獲得できるものである。
消費者的態度は、今と将来を交換するものではない。
まして「日本の未来」はとても確定的な未来が約束されているわけではなく、そんな不確かなことに今日という「楽しみ」を犠牲にできるかという発想ではなかろうか。
そして「学んでほしい、成長してほしい」という学校や親の圧力に絶えず逆らっていくことになる。
大人の側からすれば、「不確か」だからこそリスク・ヘッジするためにも努力してもらいたいのだが。
子供達のソウイウ態度は、結果的に「学ばない子供」「働かない若者」をますますリスクにさらすことになる。
彼らとてそれを望んでいるのわけではなかろうが、結果的にそうなっていくのである。
子供達が「等価交換」を絶えず意識した態度のアリヨウは、若者が自主的に「社会的上昇」の機会を放棄している、つまりは「下流志向」しているようにしか見えないのである。

個人的には、消費者保護の為の「製造物責任法」(PL法)の考え方が、最近話題の「クレーマー」とオーバーラップしてしまうが、そんなこと誰もいわない。
その意味で、この法律が試行された1995年あたりは日本社会の「曲がり角」だったのかもしれない。
「製造物責任法」は、消費者にとって大変ありがたい法律である。
有難いからこそ問題が大きいともいえる。
ナンラカの商品を使って「不具合」が生じた場合、その商品を作った製造元を裁判で訴えることができるアタリマエのような法律である。
問題は、製造元に過失がありやなしやの「立証責任」の問題である。
例えば、アル化粧品を使って肌に異常がおきた場合、従来の法律ではその化粧品のドコニ欠点があるのか消費者の側に「立証責任」があった。
消費者にそのような化学実験で立証する時間や知識がないのが一般的だから、消費者を補助する目的で「消費者センター」などの機関が設けられていた。
ともあれ、この法律ができるまでは製造者は「推定無罪」の立場にたっており、消費者側がその「有罪性」を立証する立場にあったわけである。
ところが製造物責任法では、化粧品を使って異常が起きた場合に、その事実関係だけを証明すれば、製造元を訴えることができる。
つまり、製造元は「推定有罪」の立場に立っており、製造元が自分達に「過失」がなかったということを反証することになる。
そしてそうした「過失責任」が追求されないために、取り扱い説明書の文言には非常な神経を使うことになる。
消費者は、被害にあって泣き寝入りすることなく、製造元の責任を追及できるので、大変「有難い法律」ということになる。
この法律の細かいところはあまり知らないが、大体このようなものだと理解している。
そしてこの法律の適用範囲が「製造物」というモノであるかぎりイイことなのだが、問題は製造物という「対象」を超えて至る所に蔓延していて、人々の意識に変化をもたらしているように感じられることである。
仮に製造物責任法の意識が「教育」や「医療」に広がっていったらどうであろう。
自分の成績が振るわないのは、自分の健康がすぐれないのは、サービスを提供する側の学校や病院に責任を簡単に押し付ける傾向がうまれ、一度でも自らの「非や不足」に心を至らせることをしなくなる。
子供の成績の悪さを簡単に教師のせいにするということだ。
また学校や病院で、できるだけ消費者(生徒/病人)に様々な選択を含む「自己責任」に任せるという傾向が強くなっているのも、そうした消費者側の意識の変化への「対応」の結果のように思えてならない。
製造物の供給側が「取り扱い説明書」に細心の注意を払うように、教育や医療のサービス供給側も「防衛」を策すということだ。
また現代日本人の特徴は「迷惑をかけられる」について、異常なくらいに敏感であることである。
生半可な親切心が大きなコストをまねきたくナイいという「等価交換的」意識の表れかもしれない。
自分が迷惑をかけられたくないので、他人にも極力迷惑をかけなようにする。
つまり「貸し借り」の関係をツクラナイということだ。
自分も含めてだが「関わらんドコ」という言動をしてしまう。
なんか寂しくもあるが、逆にいうと「自己決定・自己責任」という消費社会的態度で、社会を渡れると思えるくらいに豊かで安全な社会に住んでいるともいえる。
また二ートがこれだけいても、「餓死者」がでたという話はアンマリ聞かない。
今後の社会保障制度の設計は、今日本が抱える最大の政治課題といえる。
しかし、三人の若者で一人の老人を支えるという「超高齢化社会」になっとすれば、「自己決定・自己責任」だけではあまりに大きなリスクを抱えることになる。
こうしたで等価交換的「消費社会的」態度を皆が貫いていけば、野垂れ死がアタリマエという社会がやってくる。
そうなると「下流志向」は行き着くところまで行ってしまうということだが、また一方で「明日はわが身か」というぐらいの気持ちで互いにイイ意味「迷惑」をかけ合う社会が生まれてくる可能性モもある。

現代日本は「成果至上主義」といえるクライ自分のチカラですべてをやって人々の期待に応えるべく生きる、つまり「成果」をあげることに腐心する。
スポーツの世界でも「国旗」を担っている監督・コーチは必死になるだろう。
学校の学習やスポーツにおける「成果主義」も理解できるし、世間にはそれに応えられるだけの素晴らしい指導者というのは数多くいることは間違いない。
一方で上記のような「学ばない子供」「働かない子供」を相手に「大きな成果」を求められつつ、そういう子供達をツキ動かせる「指導力」をモツのは並大抵のことではない。
しかし、「過剰」に人々の期待に答えて生きようとすることは、「聖書」を読むカギリ、それほど賢明な生き方ではない。
少なくとも「要注意」なイキカタである。
人には評価された分「自分は何でもできるという」という心理状態を生み出しガチであり、ソノ上でさらに「期待」に答えようと無理を重ねる。
賞賛を浴びて生きてきた人が一機に「転落」するのも、そういう「悪循環」が行き着くところまで行った結果であるケースが多い。
冒頭のダビデの前のイスラエルの王サウルという王がいた。古代イスラエル初代の王である。
サウルは背が高く、誰よりも見た目が麗しかった。そして人々の期待も大きかった。
しかしそれがアダになったのか、いつの間にか人々の声バカリを聞き、神の声が細くなってくる。
その結果祝福を失い、悪霊に悩ませるようになる。
そのサウルを竪琴で慰めたのがダビデである。
ところがダビデもサウルから命を狙われるようになる。
サウルからハッキリと「神が去った」のである。
一般的に人間は、「力が及ばない処」については、諦める他はない。
しかしダビデ流は、「力の及ばぬ処」こそを「神の存在」を明らかにしうる「機会」としていたことである。
「神に働いてもらう」、すなわちこのワザが「人」からではなく「神」から出たワザであることを表すことを絶えず心がけたダビデには、最後まで「神の祝福」は途絶えることはなかった。