素人が強い

通常、素人が専門家に勝つのは難しい。しかし素人には素人なりのメリットがある。
それは、専門家集団の序列にハマラズにいられること、既成の枠に捉われない自由なモノノ見方ができることである。
専門家でいるのは、ある種のギルドに生きることであって、ギルドの秩序を乱すような 「新しい価値」や「発見」をすることは許されない、という世界もナイではない。
特に、アカデミズムのある分野では、その傾向が強い。
つまり、業績をあげるのは実力者の息がかかったものに限られるといった世界である。
そこに専門家の弱点があり、ギルドフリーな素人の勝ち目がある。
素人が専門家に優るというのは、ハタ目から見ても「痛快」である。

2012年2月「静かな落日」が、新宿の紀伊國屋サザンシアターで上演された。
祖父と父と娘の「作家三代」のおかしな家族の近景をユーモラスに描き出した劇である。
、 思わずこぼれる笑い、知らず知らずのうちにあふれる涙、心にしみるセリフの数々で、多くの人々の共感をよんだ(そうだ)。
この「作家三代」の血脈は、福岡県・八女福島に江戸時代より続く「儒者」に溯ることができる。
豊臣秀吉の島津征伐の時、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久から何代か後に、久留米の有馬家に仕えた「儒者の家柄」が広津家であった。
そして、明治時代「この家系」から一人の小説家が生まれた。
広津柳朗で、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
ソノ息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津氏の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年、鉄道に関わる「不可解」な事件が相次いだ。下山事件・三鷹事件・松川事件である。
同年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの目的をもって「工作」したことは明らかであった。
こうした「謎」に満ちた「三事件」に共通した点は二つあった。
「第一」には事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」を信じ、広津和郎でさえその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって、「世論」を味方にすることもできず、「馘首」は相当スミヤカに行われていったという。
「第二」には、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がチラツクことであった。
列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであった。
では、この松川事件の「真相」と同様に興味を惹かれるのは、小説家・広津和郎がドウシテこの裁判を終生のテーマとしたか、についてである。
広津氏は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津氏自身はモトモト、三つの事件を「共産党の仕業」と思い込んでいた。
ところが、広津氏がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による「無実の訴え」である文集「真実は壁を透して」を読んでからである。
この文章には、一片のカゲリもナイと直感した。
この点では、アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。
陪審員の一人が、被告になった青年を見た時、その陰りのない「透明さ」に、犯罪者とはドウシテモ思えなかったことによる。
しかし広津氏はアクマデ小説家であり、「刑事事件」の専門家ではない。いわば「素人」である。
当初は「素人が口出しをするな」「文士裁判」「老作家の失業対策」などとはげしい非難中傷を浴びた。
広津氏は松川裁判の「虚偽性」を暴くために、「新しい証拠」を見つけたり、「極秘資料」を探したりしたわけではない。
そもそも公開された資料自体がキワメテ少なかった。
広津氏はアクマデモ「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していったのである。
裁判記録は、通常文学者が使うような「濡れた」言葉ではなく、「乾いて」いるといっていいが、言葉であることに変りはない。
広津氏はソノ乾ききった「言葉」の背後にあるナマナマしい真実を暴くために、言葉の端々を「吟味」していったのである。
だから、広津氏の最大の武器は、論理的思考と文学者としての「言葉のアヤ」に対する「嗅覚」あったといえる。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その「調書」から「架空の」組合員による「共同謀議」にもっていこうという「プロセス」をウキボリにしていった。
つまり最近の「最初に結論ありき」の「国策捜査」であったのだ。
、第一審、第二審でそして死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決が言い渡されている。
友人・宇野浩二によると、二審の判決後、広津氏は一人泣いていたという。
広津氏は後に、「ああいう納得のゆかぬ裁判で多くの青年達が死刑や無期にされているのを黙視できない」と、語っている。
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津氏自身の「言論」活動にカカッテいたのである。
しかし、広津氏の「中央公論」に掲載された裁判批判は少しずつ「世論」を動かしていった。
何よりも、密室の取調べと自白偏重による判決の非論理性と非人間性を見事に明らかにしている。
広津氏の処女作は「神経病時代」という作品で、自己同一性を保つことのできない青年を描いている。
広津氏はそういう作家的な関心をバックに、松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
被告のひとりの身体障害と歩行の程度を調査した医師の鑑定書が非科学的な根拠づけによるものでないこと。
同一被告の数次にわたる調査の間にズレがあること。検事調書の中心から外れた記録などから、それ以前の警察調書における強制と誘導を論証していった。
後に、広津氏の「松川裁判」は中公文庫版で三冊におよぶ大著として出版された。
広津氏はもともと作家としてではなく、「文芸評論」家として執筆活動を始めた。
検事調書が「創作」ならば、広津のそれは「文学批判」ということになる。
最近、国策捜査の前で「社会正義」という言葉は色アセタ感さえあるが、松川裁判の被告の「全員無罪」という最高裁判決は、薫風が駆け抜けていくような「爽快さ」を今日にも伝えている。
そして2011年は松川裁判全員無罪判決50周年であった。
それを記念して、劇団「民芸」が、松川事件を題材として「静かな落日」を公演したのである。
広津氏は娘の桃子さんからみて、「父親」としてはあまり褒められた人ではなかったようだ。
家を出て行ったままに父への不信があったし、戦争協力をしない父への憤りや、自由の時代になっても仕事をしようとしない父への落胆もあった。
しかし娘は、松川裁判と「ペン一本」で粘り強く戦う後ろ姿に、次第に理解と愛情を深めていく。
広津氏は「含羞」の人であり、インタビューには、松川に関わったのは怠け者でヒマがあったから、放りだすことなく粘ったのは相手がやめないから、意志の強さを感心されれば、強いも弱いも意志なんかないとトボケテいる。
また、自身を弱い人間だと言っている。
娘・桃子を演じた女優の樫山文枝は次のように語っている。
「当時、私は俳優座養成所の二年生でした。白黒のテレビで、ちょっと猫背の広津和郎さんがインタビューに答えている姿に父が感動して、兄に”すごい人だね。こういう人がいるのだね”と言ったのを鮮明に覚えています」と。
ちなみに、小津安二郎監督「晩春」(1949年8月公開)は、広津氏の「父と娘」が原作である。
現在、松川事件事故現場には「松川の塔」が立つが、その「碑文」に刻まれた言葉は次のとうりである。
//この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援活動に立ち上がったのである。 この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救援は海外からも寄せられた。//

「素人が優る」ということで一番に思い浮かべるのが、考古学の分野において「岩宿の発掘」を行った相沢忠弘氏である。
それまでは、旧石器時代に日本人の遺跡は存在しないと考えられていた。
しかし1946年に、群馬県岩宿あたりを自転車で行商を行っていた相沢忠洋氏が、切り通しで露出していた赤土(関東ローム層)から石器を発見した。
関東ローム層は「旧石器時代」の地層である。
だから、関東ローム層にぶつかったら、発掘者たちは発掘をソレ以上行わなかった。
しかし、素人考古学の相沢氏は違った。そして相沢氏の報告を元に明治大学考古学チームが本格的な調査を行った。
「岩宿の発見」は日本の「旧石器時代」の存在を証明して先史時代研究の新たな扉を開いた。
この発見以降、日本全国で旧石器時代の遺跡発見が相次ぐことになった。
ところで我が地元・福岡にも、考古学者が考えも付かなかった「発想」で、古代施設の場所をピタリとあてた「医者」がいる。
中山平次郎という一人の九州大学の医学部教授が「歌に読み込まれた」少しばかりのデータをヒントに古代の迎賓館であった鴻臚館の位置の推定をし、その場所が後年の発掘によってソノ推定の正しさが見事に「立証」されたことに、イタク感動した。
中山平次郎は、まず鴻臚館を訪れた遣新羅使が故郷・新羅を思い詠んだイクツカの歌に注目した。
例えば「万葉集巻15」の736年の遣新羅使の詠唱する歌「山松かげにひぐらし鳴きぬや志賀の海人」の中の「志賀の浦」などに注目した。
この歌から鴻臚館(筑紫館)は、志賀島と荒津浜を同時に見渡せ荒津の波呂が同時に聞こえる小高い丘にあったことがわかる。
この歌は鴻臚館から朝鮮の故郷を望んだ歌とされるものであることから、志賀島が眺望できて山松のかげの蝉声が詠まれる条件を満たす場所が福岡城内において外に求められないとその所在を推定したのである。
1950年代の終わりから60年代のはじめの福岡城跡内の平和台球場は、西鉄ライオンズの黄金時代に燃えていた。
その半世紀後、平和台球場の下に多くの陶磁器が出土し、大宰府の迎賓館にあたる鴻臚館があったことが判明したのである。
鴻臚館の発掘は平和台球場のとり壊しの際に行われたものであるが、この場所の発掘により中山平次郎博士の予測の正しが証明されたのである。
1956年に亡くなった中山平次郎博士の死後約40年めのことであった。
現在、平和台球場跡には遣新羅使の作った歌をしるした万葉歌碑が立っている。1950年代に福岡の人々を熱狂の渦に巻き込んだ舞台のその下に、こうしたロマンを秘めた遺跡が眠っていたとは驚きである。
この地に生きた古人達の声が届いたのか、平和台を拠点とするホ-クスの拠点は百道の福岡ドームに移転した。
やはり古人の舞台としては、喧騒よりもの静寂の方がふさわしいであろう。
昔日の熱狂が嘘であったかのように蝉が鳴いていた。

「大きいことはいいことか」~軍隊の場合には、精鋭と「烏合の衆」いう言葉があるように、数が多いからといって強くないことは、歴史の教えるところである。
「戦い」にオイテは、「兵士の士気」コソが最も重要な要素である。
さて、旧約聖書の「士師記」に、300人の兵士が13万の敵(ミデアン人)を相手に戦って勝利したことが記してある。
このエピソードは、「ギデオンの三百」と呼ばれている。
しかも、この300人は戦いの「素人集団」であった。
ところで「ギデオン」という言葉をドコカで見た人も多いと思う。
ホテルに置いてある聖書に「ギデオン協会」という協会名が印字してあるのを見かけた人もイルに違いない。
「ギデオン協会」は、聖書をホテルに無料配布する団体である。
古代イスラエルの王がいなかった時代の部族のリーダー的存在を「士師」というが、士師の1人であるギデオンの名に由来している。
さて神様はギデオンに、ミデオン人を倒すために兵を集めよと命じる。
ミデオン人は13万人もいるので、相当数の兵力を集めなければならないと思イキヤ、神様はワズカ300人で充分だという。
その時の、神様の「言い分」がフルッテいる。
主はギデオンに言われた「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、”わたしは自身の手で自分を救ったの”というであろう」(士師記7章)。
神様は、人数が多いと自分達の力で「勝利」したと「慢心」するので、兵力を「極限」まで減らすというのである。
しかも、兵士を選ぶ選び方もフルっている。
「水飲み場」で、ヒザを突いて体を屈めて水を飲んだ人は不合格で帰らせる。
ちゃんと手で水をスクッテ飲んだ兵士ダケを選んだのである。
結局、「品のよく」水を飲んだ300人を選んだのだが、水を飲む際の品のヨサなどは、戦いとは何の関係もない。
それより300人という数は、13万人を前に「意気消沈」しそうなほど数が少ない。
そこで300人は、とにかく神様のイワレルとうりに戦う他はないことを覚悟したに違いない。
しかし彼らは、厳密にいうと「戦った」といえるかどうか疑問である。
ナゼナラ、この300人は「剣」を持って戦ったわけではない。
ナント彼らの武器は、ラッパ、空つぼ、そして松明である。
彼らは神が命じたように「グループ」に分かれ、夜松明を回しながら、敵の陣営の周りを走り回った。
ラッパを吹き鳴らし、空つぼをタタク、松明を振りかざして走り回る。
ただソレだけのことである。
しかし、13万の大集団は、彼らがたてる大音響や叫び声に集団パニックに陥る。
そして内部分裂して、ついには互いに殺しあうように仕向けられていく。
士師記は、「主は敵軍をしてみな互に同志打ちさせられた」とか「そしておのおのその持ち場に立ち、敵陣を取り囲んだので、敵陣はみな走り、大声をあげて逃げ去った」と戦いの様子を伝えている。
ところで、聖書の「主題」は、神ご自身の栄光を表すということと「人間の救い」とである。
そして両者は関わりあっている。
旧約聖書の「選び」は新約では「救い」のことであり、神の栄光は「救われた者」によって表されるからである。
世間一般では、「寄らば大樹」トカ「長いものにまかれろ」が一般的な生き方だが、アエテ近寄らず「極小」にまでになってもナオ、「生きる」道がアルということである。
「ギデオンの三百」の戦い方とは、「権勢によらす、能力によらす、我が霊による」(ゼカリヤ書4章6節)である。