啓蒙首長

世界の歴史の中に「啓蒙専制君主の時代」というのがあった。
啓蒙と専制が結びつくのは変な感じもあるが、ソレ故にこそ「君主の個性」が「国創り」に生かされることにもなった。
そしてこの時代が、面白く思われるのは、啓蒙君主同志の「個性」のブツカリアイだといっていい。
プロイセンの最初に発展の基礎をつくったのがフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~40)である。
あだ名が「兵隊王」というくらい、軍隊を強化して「軍国主義的」国家建設をすすめた。
プロイセン軍を強大にすることが主題だった。
傭兵は金がかかるし、質も悪いから、徴兵制で農民を集めて軍隊を作り上げた。
それでも兵士が足りないので、徴兵係がずうっと農村を廻って、体格の立派な若い農夫がいたら無理矢理さらってくる。
さらわれて気がついたら兵隊にさせられていたというわけだ。
無理矢理集められた兵士だから、彼らを命令に従わせるために、「厳罰主義」をとる。
「列間鞭打ち」というのをやった。脱走した兵士は、裸にされて走らされる。
どこを走るかというと、自分の部隊の兵士たちが二列に並んでいる真ん中を駆け抜ける。部隊の兵士たちは、おのおの鞭を持っていて、裸で走ってくる脱走兵を打つ。
仲間に打たれる方もつらいけど、仲間を鞭打つのもつらいよ。走り終えたら、身体はズタズタで虫の息。
さらに、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、とくに背の高い兵士を集めて「巨人軍」というのを作り、閲兵して楽しんだ。
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世のあとを継いだのが息子のフリードリヒ2世(位1740~86)である。
プロイセンを絶対主義国家として完成させたので、フリードリヒ大王と呼ばれる。
彼は小さい頃から父親の「兵隊王」とうまくいかなかった。
とにかく父親は、軍隊を強くすることしか頭にないような男。
息子のフリードリヒ2世はそんな父親が嫌いで、正反対の趣味を持つようになる。
フランスから詩集や小説を取り寄せて読んだり、音楽が好きでフルートを自分で演奏したりする。
そうすると、父親は将来の王がこんな「軟弱」なことでどうすると殴ったり、文学書を取り上げたりする。
それで、少年フリードリヒはますます自分の世界に逃げ込み、父と息子の距離はマスマス遠くなっていく。
日本で言えば源実朝といったところか。
18歳のある日、とうとうフリードリヒ2世はフランスに逃げることを決意した。友人も同情して一緒に逃げるが、息子が逃げたことを知った父親は激怒する。
軍隊でいえば、家出は「脱走」と同じだから、絶対に許せないと追っ手を差し向けて、逃亡の二人を捕まえた。
二人はベルリンに連れ戻されて、友人は見せしめとしてフリードリヒ2世の目の前で処刑された。
皇太子のフリードリヒ2世は処刑はマヌガレたが、この事件をきっかけに引きこもりがちな「陰鬱」な人間になった。
自分がいずれプロイセン王にならないのならどんな王になるのか考えた。
そうすると、「啓蒙専制君主」というそれまでのヨーロッパにないタイプの王になっていた。
フリードリヒ2世の有名な言葉に「朕は国家第一の僕(しもべ)である」が、フランス絶対主義全盛のルイ14世「朕は国家なり」をモジッタかのような言葉である。
迷信や偏見を打ち破り、合理的、理性的に社会を改革しようという「啓蒙思想」である。
フリードリヒ2世は、若い頃からフランスの本をたくさん読んでいたから、プロイセンがフランスと比べて、制度や文化の面で随分遅れていることを知っていた。
だから、フランスの「先進」思想を積極的に取り入れた。
フリードリヒ2世は、当時ヨーロッパの思想界で一番もてはやされていたフランスの啓蒙思想家にヴォルテールと文通するが、それだけでは我慢できなくなって、最後はヴォルテールをベルリンに呼び寄せてサンスーシ宮殿に一緒に住まわせたりする。
君主と思想家の仲は長続きはしないが、フルードリヒの時代にプロイセンは一流国家に仲間入りすることになる。
さて、このフリードリヒ2世と二度も戦いを交えたのが、オーストリアのマリア・テレジアである。
1740年、父王・カール6世の急死でオーストリアにハプスブルク家の女性の王マリア=テレジアが即位した。
カール6世には、男の子がいなかったので、娘のマリア=テレジアに位を譲るつもりであった。
しかし、オーストリアでは、これまで女性の王はいなかった。しかもオーストリア王は同時に神聖ローマ帝国皇帝の称号を兼ねることになっている。
三十年戦争以降実体のない称号といえども、伝統ある称号を女性が名乗ることに対して、ドイツ各領邦国家から反対があるにちがいない。
そこで、カール6世は前もって各領邦国家の君主に根回しをして、マリア=テレジアが即位しても、反対しないという「約束」(国事詔書)を取り付けていた。
しかし、実際になってみるとそ手の平を返したように、マリアの継承を認めないという動きがおこった。
フランス、バイエルン、ザクセンが決起し、特にプロイセンは強行だった。
弱冠23歳の頼りナゲな女王を相手に、親父が作り上げた強大な軍隊を利用して領土を拡大するチャンス到来である。
要するに、オーストリアと戦争する口実があればナンデモよかったということである。
これが「オーストリア継承戦争」とよばれるものである。しかし、あにはからんやマリア=テレジアは有能な人物であった。
ウイ-ンにいる家臣たちは狼狽するばかりであったが、若きマリアは毅然として対応していった。
小娘と馬鹿にされた面影はそこにはなく、もって生まれた芯の強さと才を遺憾なく発揮した。
マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
そこで彼女はハンガリーへ乗り込み、9月11日ハンガリー議会で演説を行った。
そして軍資金と兵力を獲得し、戦う体勢を整える。
そして切々とハンガリ-議会で自らの窮状を応援を求めた。
ハンガリーを味方につけたときの議会での演説は、北条政子が頼朝亡き後に源氏の武士団を前にブッタ演説に優るとも劣らぬものだったに違いない。
この行動は、足元を見られ反旗を翻されるおそれさえあったのだが、マリアは粘り強く交渉した。
その熱論は5ヶ月にも及んだ。ようやく生まれた息子のヨ-ゼフを胸に抱き、時として嗚咽さえ漏らしながら訴えたという。
そしてついにハンガリ-の救援を得、プロイセン・フリ-ドリヒ2世の軍隊に応戦することができた。
即位したばかりなのに多民族国家のオーストリアをよくまとめて戦った。
最終的に「アーヘンの和約」が結ばれて、マリア=テレジアはシュレジエン地方をプロイセンに割譲する条件で、オーストリアの相続を認められた。
しかしマリア・テレジアにとって、やはり領土を奪われるのは悔しい。
もともと、自分の即位は「了解済」みだったハズなのに、あとから文句をつけてきたプロイセンに大事な領土を奪われて、このまま黙って引き下がるわけにはいかない。
そこで、シュレジエン地方を取り返すための「復讐戦」の準備をしたが、これが七年戦争(1756~63)とよばれる戦いになる。
マリア=テレジアは「オーストリア継承戦争」の経験から、単独でプロイセンに勝つのは無理だと考えた。
そこで、軍事同盟を結ぶが、その相手国がフランスとロシアである。
フランスは伝統的にオーストリア・ハプスブルク家とライバル関係で、常に敵対していた。
それを、外交交渉を通じてオーストリアはフランスを味方につけたものだから「外交革命」とよばれた。
それでマリア・テレジアの16番目の末娘マリー・アントワネットが、フランスのブルボン王朝に嫁いだのもその同盟の証である。
プロイセンのフリードリヒ2世は、オーストリア相手に負けるハズがないと考えていたが、オーストリアとフランスの同盟を知ってかなりショックだったにちがいない。
さて、七年戦争がはじまると、オーストリア、フランス、ロシアの連合軍に押されて、さすがのプロイセンも苦戦する。
ロシア軍がベルリン近くまで攻め込んでくると、フリードリヒ2世も、もはやこれまでかと覚悟をキメタらしい。
胸には毒薬をぶらさげていたくらいだ。
しかしここでプロイセンにとって奇跡が起きる。
ロシア皇帝エリザヴェータが突然死に、あとを継いで即位したのがピョートル3世は、ナント「啓蒙専制君主」フリードリヒ2世の崇拝者だったのだ。
「啓蒙専制君主」としてのかれの政治姿勢は、ロシアにも伝えられていた。
ピョートル3世は自分の崇拝するフリードリヒ2世と戦争する気は全然なく、講和を結んで、ロシア軍を撤退させてしまった。
フランスもアメリカ大陸におけるイギリスとの植民地戦争で敗れて兵をひいた。
というわけで土壇場で助かったプロイセンはソノ後、盛り返して最後は逆転勝ちし、結局はシュレジエン地方はプロイセンの領土として確定してしまったのである。
マリア=テレジアの「シュレジェン奪還」の目的は果たせなかったものの、自分の領土をホボ守りつくしたということはいえる。
一方 二度の戦争を通じて、プロイセンはドイツの領邦国家の中ではオーストリアに次ぐ大国の地位を確立した。
また、フルードリヒ2世の「啓蒙専制君主」という政治スタイルは東ヨーロッパに流行することになる。
ロシアのピョートル3世みたいに、彼の大ファンが現れるのである。
またマリア=テレジアの長男がヨーゼフ2世だが、将来はオーストリア王・神聖ローマ皇帝である。
彼女は息子を大事に育てるし、息子も母親を愛し尊敬していた。
マリア=テレジアは1765年、共同統治者として、かれを神聖ローマ皇帝に即位させて、自分と二人で国政をみることにした。
この親子は仲がよいが、マリア=テレジアとしては一つだけ我慢できないことがあった。
息子ヨーゼフはプロイセン国王フリードリヒ2世のファンで崇拝さえしている。
短期間でプロイセンを一流国に押し上げたフリードリヒ2世の政治手法を学びたい、少しでも近づきたいと考えていた。
マリア=テレジアからすれば、オーストリアから領土を奪った憎い敵ナノニ、それを息子が崇拝しているというのは、困ったモンダ。
ヨーゼフ2世は、マリア=テレジアの死後、啓蒙主義的な内政改革を次々に実施し、あまり成功したとはいいがたいが、ヨーゼフ2世も「啓蒙専制君主」といわれる人物である。

世界史の中で好きな人物といえば、ロシアのピョートル1世をあげたい。
ロマノフ朝ロシア発展の基礎を築いたのがピョートル1世(位1682~1725)で、彼の時代から正式に「ロシア帝国」という国名になる。
ピョートル1世は、なんとかロシアをヨーロッパ風の国に仕立てあげて、近代化したいと考えた。
ヨーロッパ風の国造りのためにはヨーロッパ諸国の研究をしなければいけないと考えて、1697年、総勢250名の「大使節団」をヨーロッパ諸国に派遣した。
この時、じっとしていられない性格のピョートル1世は、随行員ピョートル=ミハイロフという変名を使い、身分を隠して使節団に加わる。
各国を視察してまわるが、オランダでピョートル1世は「造船所」がすっかり気に入ってしまう。
そしてナント、「一職工」として就職してしまったのである。
身分を隠して働きはじめるが、2メートルを超える長身の男はロシアの皇帝にちがいないと噂が広まり、見物人が増えて仕事にならなくなってやめてしまう。
しかし、船造りが大好きで、毎晩のどんちゃん騒ぎの宴会も大好きで、宿屋から損害賠償を請求されることもあった。
ピョートル1世も世界の趨勢にしたがい、ロシアのとるべき進路は重商主義と考えた。
海外貿易を活発化しなければならない。
ところが当時のロシアは内陸国で、港はあってもほとんど北極圏にある港で、一年の大半は凍っている。
もっとよい港が欲しくて、当時バルト海沿岸を領有していたのはスウェーデンと戦争をした。
これが、北方戦争(1700~21年)である。
この戦争に勝利して、獲得した小さな漁村に建設したのがペテルスブルクで、ここを新首都として貴族を強制的に移住させた。
ピョートル1世はペテルスブルクの宮殿では半日政務を執ったあとは、造船所に出かけて船を造っていた。
ただの船マニアではなくて、趣味と重商主義政策という実益を兼ねてハンマーを振るったので、いつしか「ハンマーをふるう帝王」というあだ名がついてしまった。
ピョートル1世の時代のロシアは東にも領土を広げて中国北方まで到達しています。中国は清朝の絶頂期。その清との間でネルチンスク条約(1689年)に結び国境線の確定をおこなっている。
ピョートル1世死後、娘の皇帝エリザベータの時代に、プロイセンとオーストリアの七年戦争に参加する。
彼女が死んで、甥のピョートル3世が即位するが、フリードリヒ2世の崇拝者であったがために七年戦争から撤退した。
敵の皇帝に膝まずくなんて、兵隊や国民の気持ちをサカナデする行為である。
実際、少々知能が低かったのかもしれない。
近衛隊に徹底的に嫌われて、ついには殺されてしまった。
近衛隊は、かわりにピョートル3世の妻を皇帝にしたが、ピョートル1世の遺志を継ぎ実現したともいわれるエカチェリーナ2世(位1762~06)である。
ドイツから嫁いできたエカチェリーナ2世は 教養ある賢い人で夫や宮廷の人々ともうまくつきあって親衛隊からも人気が高かった。
だから、夫の死後、皇帝に擁立されたのである。
ロシアの社会を見て、「遅れている」と感じるところがあり、様々な改革をこころみ「啓蒙専制君主」の一人にあげられる。
彼女の時代、プロイセン、オーストリアと共同でポーランドの領土を分けあい、オスマン帝国からクリミア半島を奪い領土は拡大する。
日本では、ラクスマンを漂流民・大黒屋光太夫を届けるという名目で派遣するロシアの皇帝としてチラッと登場する人物である。
大黒屋は1791年、皇帝エカチェリーナ2世に謁見することができ、ヨーロッパ「啓蒙専制君主」の謦咳に接した唯一の日本人ということができる。

今の時代は、ヨーロッパ「啓蒙専制君主」の時代とはアマリにも隔たっている。
しかし一国の「国創り」に個性の強い首長が智恵をシボリ、自分の能力と全エネリギーを使い尽くしたという点で、瞠目すべき時代である。
今は富国強兵というよりも、予算を使わないスマートなコミュニティ創りの方が求められる時代である。
ここ数年、「地方から国を変える」という意気込みを見せた地方首長が何人か現われた。
日本の政治は、中央政治はイギリス型「議院内閣制」、地方政治はアメリカ型「大統領制」をとっている。
従って地方の首長の権限は、中央の首相の権限より、管轄内では相対的に大きいため、中央ではできなかったことを 地方で速やかに実現できる可能性はある。
中央政治が「決められない」政治で行き詰った感があるからこそ、「よくゾやった」という地方首長がいたるところに出現すれば、 「群雄割拠」(?)なかなか面白いことにもなりそうだ。
翻ってみれば、「情報公開」にせよ「環境アセスメント」だって、地方が中央に先行したものだった。
また、最初にクールビズをやったのは横浜市だし、今はアロハシャツで仕事をしている自治体もある。
地方で成功したとならば、中央で取りいれないテはない、ということにもなる。
というわけで、日本各地に「既成の観念」に囚われない「啓蒙首長」の出現を望みたい。
ただし、「啓蒙」はヨシとしても、「専制」の方はホドホドに願いたい。