憲法96条

日本人にとって憲法はオボロゲに世界観をカタッドッテきた。何しろ全く変らなかったから。
ソロソロ変ってもイイという気がしている。
ただし、最大の問題は「憲法96条」から変えようという気配があることである。
何しろ憲法改正のルールを変えようというのだから、何でもアリの国になっていく懸念がないわけではない。
ところで日本国憲法は、戦後一度も改正されたことがない。そんな国は他にあるだろうか。
イギリスである。
ただしイギリスの場合、ソモソモ憲法がないのだから、「改正」のシヨウがない。
イギリスには憲法に「代わるもの」があるから、憲法をワザワザつくる必要がなかったのである。
長い民主主義への歴史をもつイギリスには、マグナカルタにはじまり「権利の章典」や、裁判で積み上げられた判例(コモンロー)が憲法にあたる役割を果たしてきたため、新ためて憲法をつくる必要がなかったのである。
それだけにイギリスという国の「奥深さ」を感じる。
また、東西ドイツ統合前の旧西ドイツにも憲法がなかったといったら、驚くかもしれない。
旧西ドイツの最高法規は「基本法」というものであり、東西ドイツの統合のアカツキに「憲法」にしようとしたという「特殊事情」のためである。
ドイツでは、コノ基本法から統一ドイツの憲法を含めて、実に50回もの「改正」が行われているという。
ドイツは、国際情勢の変化で何度も「戦場と化した」ことがあるために、憲法も「柔軟な」対応を常に迫られているからだろう。
日本国憲法の改正が一度も行われなかったのは「硬性憲法」であることが大きい。
憲法96条の「衆参両院2/3以上で発議でき」、「国民投票で過半数で成立」という高いハードルがあったからだ。
安倍政権におい今て、日本国憲法を「改正」しやすくしようという動きがある。
ツマリ憲法改正の手続きを定めた96条の改正である。
まず「外堀」から「本丸へ」ということだろうが。
ところで日本人は、将来につき危機や不安を感じても、現実の火の粉がフリかからなければ、ソレを言葉や文字にすることをしようとしない。
そうした「言霊信仰」的要素は、本気になって「憲法条文」を見直そうとはならなかった側面がある。
しかし一旦、日本の領海線上で武力衝突で「火花」が散るようなことが起きれば、国論はイッキに「動き」出す可能性がある。
その時コソ慎重に「平和解決」の道を探るベキだが、日本の歴史を振り返る限り、危機に直面して180度態度がウッテ変る要素をもっている。
日本人は「黒船来航」の時も「1945年敗戦」の時も、見事に態度を変えた。
それは、ソレまでの世界観を「崩す」ような出来事に直面したからだといえる。
現状では、小さな火花でも「憲法的世界観」をかなり揺るがすことになる。
後述するように「憲法的世界観」はそういう性格のものなのだ。
「憲法死守」を訴えていた人々、あるいはマスコミや新聞も、論調を「一変」させる可能性サエある。
起きぬ方がヨイことだが、もしソウなれば憲法96条が定めた「憲法改正」の高いハードルを、クリアするのはムズカシイことではない。
右も左も「真の危機」を認識した時コソが憲法改正の時であり、それを今のうちから「憲法改正」をシヤスクしておこうというのは、なんだかルール変更で「勝ち」に行こうという感じである。
いわば「禁じ手」を使うようなものではないか。
もちろん「火花」が散ってからでは遅スギルという見方もありうるが、武力に頼らず最後まで「平和解決」の道を探ろうというのが、この憲法が出来た時点での日本と日本人の「決意」ではなかったか。
安易にハードルを下げては後悔を生むのみである。
したがって憲法改正のハードルの高さは、急激な世論の傾斜に対する「歯止め」として、むしろ甘受スベキではなかろうか。

このたびの参議院で自民党が圧勝し、国会のネジレが解消したといわれている。
それが「憲法改正」の議論に繋がっているが、ネジレているのは「憲法的世界観」である。
実は、日本にとって憲法が「硬性憲法」(改正しにくい憲法)であったことは、トテモ大きな意味があった。
戦後「護憲勢力」が政治勢力として必ずしも「優位」ではなかったにもかかわらず、「憲法的世界観」が人々の意識に拡がり定着したのは、日本国憲法が改正が困難な「硬性憲法」であったことが大きな要因だった。
日本人は知らず知らずのうちに、憲法にヨッテある種の「世界観」を抱き、それに支配されたといってもよい。
それを「憲法的世界観」とよぶが、具体的にはドノようなものだろうか。
憲法前文には、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、憲法はかかる原理に基づくものである」とある。
これはフランス革命の理論的根拠を提供したジョン・ロックの「社会契約論」を思わせる内容である。
つまり日本国憲法は、人類の歴史が営々と築き上げた成果をとりこみ、人類の普遍原則である「主権国民」を旨とすることを明言している。
そしてもうヒトツは、徹底した「平和主義」である。
ソレを一言で表せば、「武力なき」平和世界の実現である。
語弊があるかもしれないが、日本国憲法は「武力衝突」が起きる事態をアンマリ想定していない。
それは「憲法前文」の「我々は平和を愛する諸国民の信義と公正に信頼して我々の生存と安全を保持しようと決意した」という言葉に代表される。
日本国の安全は、「平和を愛する」諸国への「信頼」を第一のスタンスとしているカラである。
さらに前文には「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を永遠に除去しようという国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」とあるように、平和社会実現のために世界唯一の被爆国たる日本が「先導的な役割」を果たすという含意も読み取れる。

さて、今憲法を読んでみると大きな「違和感」を感ぜざるをえない。
その一つの理由は、前述の如く「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあるように、あまりに「理想主義的」なことである。
「違和感」のもうひとつの原因は、世界は未来に向かって段々良くなるといった「進歩主義」的世界観に溢れていることである。
今の国際情勢を見るかぎり、長引く不況や地球温暖化、民族紛争やテロの頻発などによって、世界は未来に向かって「前進」していくとどころが、「破滅」に向かっているという感が強まっている。
実際に憲法的世界観は、国際社会の現実を前に段階的「色あせ」てきた。
ソノ「陰り」がハッキリと見えたのが1992年代以降である。
自衛隊の海外派遣は、専守防衛に徹するものの、「戦力」が「平和」と結びついた点である。
1992年に「世界平和」への貢献の為に自衛隊(戦力)を外国に派遣するなどしのたは、ナンラカの武力行使が伴なわなければ世界平和は実現しないという「世界観」への道を開いたということではなかったであろうか。
そしてそれが「普通の国」の国際貢献のあり方として定着したのである。
また1994年の自社連立政権で社会党が「自衛隊を合憲」としたことは、現世においては、武力行使なくして平和はない、生き残る為には武力をもって戦わなければならないことがあるということをホボすべての政治勢力が認めたという意味で、従前の「武力なき平和」を目指す「憲法的世界観」をナカバ「放棄」したといえる。
それが安倍政権のいうごとく、同盟国を守る「集団的自衛権」を認めるとなると、憲法的世界観の「否定」にもあたり、これでは「憲法前文」マデ書き換えなければ収まりがつかなくなる。

最近において「憲法的世界観」が現実の前に「色あせた」一例をあげると、「NPTの核不使用声明に署名せず」という日本政府の態度である。
先日8月6日の広島記念式典の市民の中には「被爆国として恥ずかしい」という声もあった。確かにそう思う。
NPTは1968年成立の「核拡散防止条約」である。そのポイントは以下の2つである。
(1)条約加盟の非保有国が新たに核を保有することを禁止する。
(2)加盟非保有国にはIAEA(国際原子力機関)の査察受け入れ義務がある。
核兵器をこれ以上他の国に広げないないようにすることだが、1993年に北朝鮮がこの査察に強く反発し、「脱退」を表明した。
核をコッソリ保有しようという国が出ないための決まりだが、一方、イスラエル、パキスタン、イラン、インド、北朝鮮などいずれも「核開発」を行っていて、「核保有」を充分に疑われている国である。
NPT(核拡散防止条約)は、1970年に発効したが、この条約がつくられたのは、原子力発電の技術が全世界的に広まったことと深い関係がある。
原子力発電の技術は、使用するウランの「濃度」を上げることによって「核兵器」に転じることが可能だからである。
また、1992年に核保有国であるフランスや中国も参加し、1995年に「無期限の延長」が決定した。
これでヨイことだらけのようだが、そうとばかりはいえない。
核開発の制限に関して、最初に作られたのが1963年に署名・発効した「部分的核実験禁止条約」(PTBT)である。
この条約は、世界を米ソ間核戦争の恐怖に陥れた「キューバ危機」によって反核の意識が高まり、核開発・改良のために必要な「核実験」を制限することで、核兵器の増加や高性能化を防ぎ、世界を核の恐怖から少しでも免れさせようという条約である。
しかし、この条約では「大気中や水中」での核実験は禁止されが、「地下」での核実験は認められていた。
アメリカ、イギリス、ソ連の三カ国は「地下核実験」の技術を獲得していたため、大気中の核実験が禁止されても、核兵器開発にはナンラ「支障」がなかったのである。
裏返していえば、この三国は地下核実験の技術をもっていない国が核兵器の開発をデキナイようにするネライがあった。
従って、フランスと密かに核実験の準備を進めていた中国はこの条約に反対した。
結局、フランス、中国が加盟しなかった上に、米ソはPTBTで許されていた「地下核実験」を繰り返すことになり、実際は「核実験」をナクス効果はなかったのである。
結局、PTBTでは効果薄くNPTは不平等だという問題意思が高くなり、持てる国も、持たない国も「平等」にあらゆる核実験を禁止するために作られたのが、CTBT(包括的核実験禁止条約)である。
この条約は国連で1996年に採択されたのだが、この条約ではスベテの「核爆発をともなう」核実験を禁止している。
しかし、イマダに「発効」に至ってはおらず、国際的に問題意識を「共有」しているにトドマッテいる。
CTBTが発効するためには、発電用の原子炉を有する全44カ国が批准する(受け入れる)ことを条件としている。
この44カ国には、イラン、イスラエルなど、今日、核開発が疑われており、大国による「核の独占」に反発する国々が多く含まれている。
さらにインド、パキスタン、北朝鮮は署名すらしていない。
しかもNPTで核保有が認められている5カ国のうち、アメリカと中国がイマダ批准を見送っているという状況である。
オバマ大統領は「核なき世界」を掲げ、CTBTの批准に「前向きな姿勢」を見せているが、政権が変ればまったく逆方向に流れる可能性がある。
核保有五大国はNPTで、外交上最高のカードとして「核」をちらつかせられるのでコレ以上都合のいいことはない。
反対に、そのカードをやすやすと他国に握らせるわけにはいかない。
だからNPTは、ズット「無期限」でも構わない。
一方で、本気で核軍縮を望んでいる国々は自分たちの力を強めようと動く、それがCTBTの方だが、ナカナカ発効しないのである。
2013年4月24日の共同声明は、ジュネーブで行われているNPTの「再検討会議」に向けた準備会合で、南アフリカの代表団が提出したものだ。
声明では「核兵器の使用によって、直接に人が死ぬだけでなく、社会や経済の発展は停止し、環境は破壊され、将来の世代は健康や食糧や水を失うことになる」として、核兵器の非人道性を強調した。
そのうえで、「いかなる状況でも核兵器を二度と使わないことこそが人類生存の利益につながる」として、「核兵器の不使用」を訴えた。
この人類の「普遍的な願い」に対して、日本政府が「同意」できなかいイカナル事情があるのか。
それは「いかなる時でも核を使わない」という部分である。
中国が核保有国であり、北朝鮮もその可能性が濃厚にナッテいる。
その日本がアメリカの傘で守られている。
日本が核保有国をメザサナイといっても、「いかなる時でも核を使わない」に賛同することは、アメリカの「核の傘」をある意味否定したということになりかねない。
したがって日本政府は、アメリカなどの大国に配慮し、同盟関係を保つことの方が優先したといえる。というよりアメリカからの陰に陽に圧力がかかったからかもしれない。

日本人は「憲法的世界観」の灯火を支えとした人は多いだろう。
「恒久の原理」や「人類普遍の原則」に日本国民がツラナリ、そこから価値観を汲み取ることは悪くはナイ。
しかし、日本国憲法は「押し付けられた」とまでイワナイにせよ、どこかヨソヨソしさがつきまとうのを禁じえない。
コレカラ次代を担う者達が、果たして日本国憲法(例えば前文)の中に、自分達の価値の源泉タリウルものを見出し得るだろうか。
ソノ一つの原因は、上述のごとく「憲法的世界観」が空洞化していることである。したがって日本人の心の「内奥」に響くものがない。
日本人が今自らの価値を汲みとれるような「憲法」であって欲しいと願う。
少なくとも、伝統が培った「倫理意識」や「自然への畏敬の念」などをベースにした「価値観」を前文に記述したらどうであろうか。
ヨーロッパにはキリスト教などの憲法を「超える」価値の原泉があり、シッカリした世界観の下で「憲法改正」もヤリ易かった面があったのではないか。
また、キリスト教あっての「人権思想」であったが、ソレ抜きの「人権思想」が日本社会にどのようなものをもたらしているか。
世界観を失い、道徳的基盤もなく、「権利」バカリを主張するクレーマーの群れである。
冷蔵庫に学生が入り込んだり、パンの上に寝そべったりしている姿をネットに「投稿」する人間マデ登場している。
現実を前に空洞化しつつある「憲法の見直し」には大賛成だが、問題は安倍政権が「憲法96条の改正」からハジメようとしている気配である。
これは、最近の政治の効率化、スピード化という傾向の表れの一つともいえる。
「96条を改正」して憲法を「軟性化」することは、イトモヤスヤスと「国の行く末」を、せいぜい「暫定多数」の政権に明け渡してしまいそうな、そんなアヤウサを感じる。