ミュージンに歴史あり

ミュージンとは、個人的に記憶に残る「音楽人」(ミュージック人)のことである。
1960年代ゴールデン・カップスの「長いの髪の少女」のメロディーラインは、オジサン世代にとっては懐かしい。
ゴールデン・カップスは、雨後のタケノコのごとく登場した他のグループ・サウンズとは際立って「異色」だった。
デイヴ平尾/エディ藩/ルイズルイス加部/ケネス伊東/マモル・マヌー/ミッキー吉野/ジョン山崎/というメンバー。
名前からわかるように、「全員がハーフ」であり、横浜あたりを拠点にした音楽好きの若者達のバンドだった。
彼らは、米軍基地の「フェンス越し」でアメリカに憧れ育ったというよりも、体内流れる血からすればフェンス内にイタともいえる。
そして実際に、彼らは米軍キャンプ回りをして、米兵が通いつめた横浜本牧のクラブの「専属バンド」になった。
そのクラブの名前が「ゴ-ルデン・カップス」であったのである。
さて、このゴ-ルデン・カップスのメンバーで最近まで活躍し、知名度が高かったのがミッキー吉野や、中途から参加した柳ジョ-ジ(2011年死亡)である。
米軍基地のフェンスを行き来して成長したゴ-ルデンカップスであったが、その後の日本の経済成長の過程で、アメリカはもはやフェンス越しにアフレ出していった。
アメリカは、音楽ばかりではなくファッションやスポ-ツ、フ-ド、ライフスタイルなど日本の隅々にまで流出していた。
ところで、「ゴールデンカップス」のメンバーと交流が深く、実際に参加を誘われた人物に「ジョニー野村」という人物がいた。
彼自身も横浜のセント・ジョセフ・スクールに通いながらバンドを結成し、米軍キャンプに出入りして演奏していた。
ジョニー野村は国際キリスト教大学に進み、東京オリンピックや大阪万博の「通訳」を経て音楽出版の社長となり、タケカワユキヒデを見出した。
そして、ミッキー吉野とタケカワユキヒデを結びつけ、「ゴダイゴ」というグループを作り、そのプロデューサーとなった。
さて、「ジョニー野村の家系」が辿った歴史はハンパなものではない。
ジョニーの父は元ルーマニア・ブカレスト駐在武官・野村三郎で、陸士ー陸大時代、瀬島龍三と同期である。
「5・15事件」で首相官邸を襲撃して連座するが、当時はまだ現役の陸大生だったため、処刑を免れ「無期懲役」となり、8年で下獄し釈放後、東欧でスパイ活動に従事した。
ブカレスト駐在武官時代に旧ソ連(現モルドバ共和国)より亡命したボリソビーナ・タチアナ(当時ブカレスト大学物理学科の学生)と知り合い結婚した。
二人の間の息子が「ジョニー野村」なのである。
ジョニーの母の野村タチアナは、早稲田大学でルーマニア語の講座を1970年代半ばに「先進的に」担当し、1990年まで教鞭をとった。
野村タチアナ女史は日本における「ルーマニア語教育」の先駆者であっただけでなく、「ロシア語教育」においても多くの功績を遺した。
日本を代表するロシア関係の学者で、女史からロシア語を学んだ者も多い。
さてジョニー野村の父・野村三郎は戦後「公職追放」されるがソノ「情報網」は生きており、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻をいちはやくキャッチして、日米両政府に伝えた世界で最初の西側の人間だったといわれている。
この「野村三郎」という人に、オノヨーコの一族の「小野俊一」という人物を思い浮かべる。
小野俊一は俊才の誉れの高い人物で、東京帝大を中退して動物学を学ぶべくロシアのペトログラード大学に留学した。
そこで帝政ロシア貴族の血を引くアンナ・ブブノアという女性と恋愛関係におちいる。
二人はロシア革命のさなかに結婚し駆け落ち同然にして日本にやってきた。
アンナは、ペテルブルクの音楽院で世界最高水準の音楽環境の中ヴァイオリンを学んでいた。
二人は長男の死をキッカケに離婚するが、小野アンナはその後も日本に留まり、音楽教室を主宰し1960年ソ連に帰国するまでの42年間を日本ですごした。
小野アンナの門下生に、巌本真理をはじめ数多くのバイオリニストが育った。
また、ジョニー野村が見出したゴダイゴのヴォーカルのタケカワユキヒデの家系も由緒ある「歴史」を誇っている。
タケカワの母方・曽祖父が国産バイオリンメーカー鈴木バイオリン創業者の鈴木政吉である。
母方大叔父に、バイオリン教育の「スズキメソッド」で名高い鈴木鎮一がいる。
またタケカワの父・武川寛海は「ベートーヴェン研究家」として著名であり、音楽評論家としてもよく知られている。
タケカワは音大には進まず、東京外国語大学・英米語学科に進んだ。
というわけで、タケカワユキヒデは、ゴダイゴのメンバーである横浜の音楽狂いの青年達とはカナリ遠い存在ではあった。
そしてソレを結びつけたのがジョニー野村であった。
ゴダイゴのリーダーであっったミッキー吉野は、1974年バークリー音楽院卒業後に帰国し「ミッキー吉野グループ」を結成し、ジョニー野村の「紹介で」タケカワユキヒデのレコーディングに参加している。
ゴダイゴは、ジョニー野村プロデュ-スで1978年「ガンダーラ」のヒットで人気グループとなった。
なお、ゴダイゴのメンバーの一人・スティ-ブ・フォックスは音楽をキリスト教「宣教」に生かすべく1980年に脱退し、宣教師として各地を回った。
現在は京都市内のキリスト教会の牧師である。
ちにみに、ゴダイゴの名前は、「GO DIE GO」つまり「死んでもまた生き返って進む」ということを表す。
「DIE HERD」の意味は「なかなか死なない」だから、「死んでも生きる」ゴダイゴの方がブル-ス・ウイルスの方よりもシブトイかもしれない。
実際に、1999年には3ヶ月限定で再結成され、NHK紅白歌合戦にも出場したこともある。
さて「野村三郎」の名に同じ外交官で、太平洋戦争直前でギリギリまで日米交渉にあたった「野村吉三郎」を思い浮かべる。
ブカレスト駐在武官「野村三郎」とアメリカ駐在武官「野村吉三郎」の名は「一文字違い」なので同族かと思ったが、特に血縁関係はみられない。
ただし野村吉三郎も日本の「音楽業界」と深い関わりをもっている。
野村吉三郎も戦後「公職追放」されたが、1953年より同郷の知人・松下幸之助の要請を受けて、「日本ビクター」の社長を務めた。
太平洋戦争が勃発した時に、アメリカには日系人の他、大使館員、外務省役人、商社員、学者、留学生、旅芸人、サ-カス団など様々な人々が滞在していた。
そこでソレゾレの滞在者が帰国できるように「日米交換」が行われた。
1942年6月に「第一次日米交換船」がスタ-トし、交換船は「6つの階層」にわかれて乗船が許された。
最上階のAには野村吉三郎(駐米大使)・来栖三郎(特派駐米大使)などが乗船した。
第一次日米交換船で乗り込んだ人々の中には、都留重人・鶴見俊輔・和子兄妹など後に日本のオピニオン・リ-ダ-になる人もいた。
また、竹久千恵子などモダンガ-ルとよばれた女優、さらには後にジャニーズ事務所を設立する「ジャニー喜多川」など異色の人々もいた。

ところで、ゴダイゴの「ガンダーラ」ヒットの背景には、当時の「シルクロード・ブーム」があった。
1979年の「日中友好条約」締結と、平山郁夫画伯が1966年以来中央アジア深くに入って描いたシルクロードの絵が脚光を浴びた。
またジュディ・オングの「魅せられて」(1979年)はエーゲ海が舞台だったが、オリエンタルな雰囲気が漂っていた。
そんなオリエンタル・ブームの中で久保田早紀の「異邦人」が140万枚を超えるメガ・ヒット曲となった。
久保田は、東京・国立(くにたち)の通訳の父に生まれ、4歳頃からピアノを習い始める。
小さい頃から教会にかよい、教会音楽特にバッハが好きだった。
子供の頃、父が仕事でイランに赴いた際に購入してくれた現地のアーティストのアルバムを繰り返し聴いたことが、「異国情緒」をともなう音楽性を養うことにつながった。
そして自分で曲を作り、自分で歌う女性歌手に憧れをもつようになる。
久保田が心酔した松任谷由実も教会音楽に親しみ「バッハ」の音楽に心酔していた点で共通している。
高校の頃に、詩を書く文学少女がいて、彼女に曲を書いてといわれて曲を作りはじめた。
短大時代、八王子から都心へと通学する電車の中、広場や草原などで遊ぶ子供達の姿を歌にして「白い朝」というシンプルな曲を書いた。
「子供達が空に向かい 両手をひろげ 鳥や雲や夢までもつかもうとしている」と。
そして、自分の曲がプロの世界で通用するかチャレンジしてみようと、自分の歌を弾き語りで録音したカセットテープを送った。
そしてこのテープにある「哀愁のある声」に注目した、新進の女性音楽プロデューサーがいた。
その音楽プロデューサー金子文枝は、「魅せられて」の制作スタッフの一人で、久保田の声の「哀愁」に自分が探していたものに「出会った」と感じた。
金子文枝は、ポルトガルの郷愁を帯びた音楽「ファドの世界」に引き込まれていた。
そして久保田のテープを聞いてポルトガルのファドに近い曲がデキナイカと考えた。
そして久保田にファドの女王「アマリア・ロドリゲス」のレコード数枚を渡した。
それは郷愁に溢れた曲で、レコードを聴いた久保田は、何も「恋愛」を歌う必要はないと思ったという。
一方、金子文江の中には「次はオリエンタルなもので行こう」という思いがあり、オリエンタルの雰囲気を強く出そうと、中森明菜「少女A」などで知られる萩田光雄に「編曲」を頼んだ。
萩田光雄は、シルクロードの雰囲気をだすために「ダルシマー」というペルシアの民族楽器を使い「シルクロード」のイメージを完成させた。
そして、分厚いオーケストラと「ダルシマー」の音色が溶け、久保田の透明な声がよく響き合い、そして壮大な「郷愁の世界」を築きあげた。
さらに「異邦人」ヒットには、CMタイアップの「仕掛け」もあった。
シルクロードをコンセプトとする「企画」を狙っていたプロデューサーにより、「シルクロード」を背景とした大型カラーテレビのコマーシャルソングとして使われた。
そのオリエンタルで神秘的なムードのCMソングに注目が集まり、ジワジワと売上げを伸ばしてブ大レイクする。
久保田本人によれば、自分のデビュー曲がCMにも流れ「雲の上を歩いている」感じだったという。
この「夢の中」のような物語は、久保田にとっては大きな「悩みの種」となった。
次も売れる曲をつくってくれ、ヒットするとはどういうことかわかってるよね、とプレッシャーをかけられた。
電車の中で作った「白い朝」が、音楽や画像の専門家集団によって「異邦人」という曲に変えられてしまったのである。
久保田自身は努力をしたわけでもなく、ナゼ曲が売れたかわからないから、次に売れるものを作ってよと言われてもわからない。
次の曲を作っても、最初の輝きを越えることはできなかった。音楽がイツシカ「音苦」になっていた。
そして久保田は自分は何者か、自分のルーツは何かと自分自身に問うようになる。
そして久保田がタドリ着いたのは、幼い頃に聞いた教会音楽であり、賛美歌であった。
1985年に結婚とともに引退し、今は「音楽宣教師」として各地の教会をまわっている。
東北の被災地の教会でも賛美歌をピアノ演奏した。
リクエストがあれば「異邦人」を演奏するという。

沖縄の街で生まれた五人兄弟は、Aサインバー(アプルーブド・サイン・バー)スナワチ米軍が入ることを認められた飲食店で育った。
小さい頃から聞いたのはアメリカ音楽だった。
ハジメ子供達は、ホウキをギター代わりに遊んでいた。
アメリカのロック、ポップスに触れる機会が多い環境のもと、当時小学生だった長男・一夫、次男・光男、三男・正男が「オールブラザーズ」という名でバンド活動を始めた。
三人でベンチャーズの真似事をして、沖縄のテレビ番組のコンテストで優勝した。
これをキッカケにテレビ局のプロデューサーにも薦められ、1969年に「本土」で音楽の夢を果たすべく一家7人で東京に向かった。
最初に住んだ都心のアパートでは音がウルサイと追い出され、東京東村山市の一軒屋にコロガリこんだ。
上京した一家は、東京の人々が歩くのが早い、しゃべるのも早い、お札の色が緑(米ドル)でないことに驚いたという。
母が自ら車を運転し、日本中の在日米軍基地を回ったりイベント会場の仕事を探しながら「デビュー」の機会を待った。
しかしイベントのステージで得意の英語のナンバーを歌うが、客たちは最初はモノ珍しげに見るモノノ、彼らの音楽をきくことはしなかった。
1970年に「ベイビー・ブラザーズ」と名を変え、メジャーデビューを果たした。
しかし「子供」のバンドでは売れずに、転校した学校では沖縄の人々は靴はいてるのか、英語が話せるなら話してみろといわれたろした。
小学生だった妙子はソレマデ着たこともない琉球王朝時代の服を着てステージに上ったりもした。
ただ米軍の横田基地では忘れられない経験をした。
当時マイケルジャクソンがボーカルをしていた「ジャクソンファイブ」が人気絶頂だったが、米兵が下士官クラブのコンサートで、それまで盛り上がっていたのに、「アイル・ビー・ゼア」を歌うと、兵士たちは静まり返り、涙をながしたという。
時はベトナム戦争の真っ只中、「アイル・ビー・ゼア」は郷愁の歌であった。
「ベイビーブラザーズ」は、まだ幼い兄弟のバンドだったが、チャント歌えば人々に感動を与えられることを知った。
そして1972年「沖縄本土復帰」をテレビ番組で見ていた父が涙を流していた。
兄弟たちは、先の見えない暮らしから早く抜け出し、早く沖縄へに両親を返してあげなければならないと思ったという。
実際に、曲はヒットせず両親はイヨイヨ「帰郷」を考えたが、そんな時「彼らの声」に自分の一生を賭けて見ようと思った人物が表れた。
その人物・井岸義測はたまたま聞いたテープの声をホンモノだと思い、イままでいた会社をやめてまで沖縄から出てきた「五人兄弟」にカケようと思ったという。
井岸は、カツテ矢沢永吉のいた「キャロル」をプロデュースしたディレクターで、「ベイビーブラザーズ」のソウル・スピリットに心をウタレた。
そして、彼らの「歌心」を潰してはならないと思い、彼らにできるだけ自由に歌わせるようにした。
そうして井岸は「一世一代」の大勝負に出た。
五人兄弟をヒットメーカー作曲家・都倉俊一、作詞阿久悠のコンビの前で演奏させることにした。
このときヴォーカルの晃は、小学校1年生だった。
幼い五人はヨク状況もわからず必死で演奏した。
その時都倉と阿久悠は目をクリクリさせて、五人の演奏をトテモ楽しげに聴いていたという。
そして彼らの演奏は、間違いなく作詞家・作曲家の「想像力」を刺激した。
都倉は、彼らは素人ではないことを感じ、阿久氏は、五人はアメリカを身に纏っていたと感じた。
それは、ローラースケートとバスケットボールとソフトクリームの香りがするアメリカだったという。
そうして二人のコンビで生まれたのが、「個人授業」であった。
フィンガーファイブのデビュー曲「個人授業」は、1980年70万枚を超える大ヒットとなった。