幸せの在り処

タブン「幸せのベクトル」とは、なかなか正しい方角を指さないのだろう。
それどころか、しばしば正反対を指すので「悲劇」が訪れる。
映画「華麗なるギャツビー」が1974年以来、「新作」再上映されている。
主人公のギャツビーを演じたのは、旧作のロバート・レッドフォードにかわって、レオナルド・ディカプリオである。
豪奢な邸宅に住み、日毎宴会を催すキャツビーと名乗る一人の男がいた。
栄華に包まれているかに見えるギャッツビーだったが、貧乏な西部の百姓の子として生まれた。
好きになった東部出身の大金持ちの娘ディズィとは結ばれず、彼女は愛人をたくさん持つ金持ちのトムと結婚していった。 
ギャツビーは、努力して自分の手に入れることができないものはナイと信じて求め続けている。
ソノ絢爛豪奢に見える外面と違って、その裏側はあまりにも「空疎」なものでしかなかった。
人々は、ギャツビーの「富の源」のことや「過去に人を殺したらしい」ナドとウワサした。
しかし、彼の胸の中には、かつて一途に愛をささげたディズィを再び取り戻そうというという情念が燃えていた。
自らの才覚と努力によって力をつけていく。
そのために違法な仕事をしてまで富を追い続け豪邸を持つに至った。
そして、キャツビーはその豪邸から、対岸の恋する人のいる場所をじっと見つめ続ける。
そして日ごと上流階級の人々を宴会にまねき、そしてギャツビー自身が、必死で上流階級の人々のように振舞う。
そしてついに、アメリカ東部の名門の娘ディズィを「招待」したのである。
二人は再会に心震わせるのだが、純粋にディズィを求めるギャッツビーとはウラハラに、ディズィの態度は常に浮ついており、一貫したものが感じられなかった。
名門の富裕者特有の、何をしてもスベテ誰かが必ず「尻拭い」をしてくれるダロウという雰囲気が漂っていた。
そしてある事件に巻き込まれて、ギャツビーはディズィの「尻拭い」をするかのように射殺される。
そしてディズィはギャツビーとの再会を忘れたかのように、元のサヤに収まる。
ギャッツビーの悲劇は、自分がディズィやトムが住んでいるような「特殊な世界」の人間ではナイにもかかわらず、そういった世界の女性に恋焦がれ、そういった世界に憧れを持ってしまったことである。
どんなに頑張ってみても届かない世界にアコガレ、しだいに破滅しく。
過去を取り戻すことナド出来ないのに、ソレができると信じたヒタムキな男であった。
原作は、フィッェ・ジェラルドの「グレート・ギャツビー」である。
夢破れて滅びていくもののはかない美しさと、輝かしい青春の名残の光と影に包また物語である。
訳者である村上春樹氏が、「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、「グレート・ギャツビー」「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)「ロング・グッドバイ」(レイモンド・チャンドラー)をあげ、その中で一冊と言われたら、「グレート・ギャツビー」をあげると書いていた。

所詮自分が入れない世界でもがいたギャツビーのように、自分が出あったことのない「貧しさ」に生きることにモガイタ人もいる。
1953年、まだ戦後の混乱も収まらぬ中、須賀敦子という女性が「自律の道」を探してヨ-ロッパに飛び立った。
彼女は阪神芦屋生まれの裕福な家庭に育ち、東京広尾の聖心女子大学に進み、慶応大学大学院で学んだ。
聖心女子大学第一回生である彼女と同期には緒方(中村)貞子や、少し後輩には同大学英文科を首席で卒業した正田美智子がいた。
須賀敦子は1971年にヨ-ロッパから日本に帰国し、社会改革運動に打ち込んだが挫折した。
その後、大学講師から教授へ、そして翻訳家として知られ、さらには60歳を過ぎて書いた「イタリア記」は、彼女の晩年の内面から再び照らし返され、この種の「外国生活記」としては出色のものとなった。
何しろ、イタリア人と生活を共にした体験から、その場に居合わせたような「生活の息吹」がソノママ伝わったきたからである。
その「体験記」は、バブル熱ハジけ散った日本人の心に、静やかに「沁み込む」ように届いた。
須賀氏が1953年ヨ-ロッパに渡り最初に学んだのはパリ大学だった。
しかし、あまりにも個人主義的で理屈っぽいフランス人の性格に「疎外感」を感じる日々であった。
須賀氏自身はその体験を「この国のひとたちの物の考え方の文法がつかめない。対話だけでなく出会いそのものが拒まれている。岩に爪をたてて上ろうとするが、爪が傷つくだけだった」と表現している。
1955年気質的には合わないパリから帰国し、その3年後には知りあいの勧めで陽気で明るいイタリアの地に渡った。
ローマのレジナムンデイ大学で友人と旅を楽しんだり歌ったり踊ったりで、笑いの絶えぬ留学生活を送ることになった。
しかしソレだけだったならば、彼女がイタリアの「核心部」に出会うことはなかったハズである。
しかし彼女はついにミラノで「居場所」を見つけ出す。
ソレハ1960年、教会の側に造られた「コルシア書店」という小さな書店であった。
彼女はこの書店に立ち寄るうち、この書店が単なる本屋ではなく、「カトリック左派」とよばれるインテリ集団のサロンとなっていることを知った。
そして須賀氏はその仲間に受け入れられ、その仲間と交流をし、その交流を本にもしている。
須賀女史はここでペッピーノというこの書店を経営する人々の一人と知り合い、1961年に仲間達に祝福されて結婚する。
しかし彼女がイタリアの「裏面」を知ったのは、夫や書店の仲間との出会いよりもムシロ鉄道員であった夫の実家との「出会い」であったかもしれない。
義父の仕事は、わずか半畳の広さの中で仕事を行う「信号夫」であった。
「たしかにあの鉄道線路は、二人の生活のなかを、しっかりと横切っていた。結婚したのは、夫の父が死んですでに十年近かったのに、鉄道員の家族という現実はまだそのなかで確固として生き続けていた。
私自身にとってはおそらく、イタリア人と結婚したという事実よりも、ずっと身近に日常の生活を支配していたように思える」と書いている。
須賀氏は裕福な家庭に生まれ大学院まで進み、二度の留学生活までも体験している。
鉄道員の夫の家族との出会いは、彼女が生まれて初めて知る貧しい労働者の生活との出会いを意味した。
しかも彼女が出会った「貧しさ」は単なる経済的な意味での貧しさだけではなく、夫の実家を次々と襲う不幸(夫の兄と妹が結核で亡くなる)によるでもあり、その「孤独」が毒のように当時の彼女の意識を蝕んでいったようである。
「この薄暗い部屋と、その中で暮らしている人たちの意識にノシカカカリ、いつやむともしれない知れない長雨のように彼らの人格そのまものにまでもじわじわと沁み渡りながら、あらゆる既成の解釈をかたくなに拒んでいるあの貧しさ」と書いている。
ところで須賀氏がイタリアで暮らした年月から遡ること約10年、イタリアの貧しさをリアルに描いた二つの名画が制作されている。
「鉄道員」と「自転車泥棒」である。
映画「鉄道員」は、主人公が運転する列車に若い男が飛び込み、気持ちが動転したために信号を見落とし衝突事故を起こし左遷された男とその家族を描いている。
主人公は労働組合にそれを訴えても取り上げてもらえず酒におぼれ、逆にスト破りをおこなって孤立していきます。
映画「自転車泥棒」の方は、ポスター貼りを仕事にする貧しい親子が自転車を取られて仕事ができなくなり、父親が再び雇ってもらうために自転車を盗もうとしたところ警察に捕まるという話である。
誰よりも真正直でケナゲに生きてきた人々が、そういう悲運や失意の中にあっても、なお家族や友人のヌクモリ支えに生きていこうとする切なさが勇気と感動をよぶ「名作」だったように記憶している。
須賀氏の夫ペッピ-ノの「鉄道員」である実家は線路に面したの官舎にあり、ここで須賀女史が真夜中に聞く列車の音は彼女のミラノでの運命を暗示するように不気味なキシミをもって響いてたという。
「夫の出張で、姑の家に泊まっていることだけもせつないのに、この音で目覚めてしまうと、なぜか心細さがドット押し寄せてきて、自分が宇宙のなかの小さな一点になってしまったような気持ちになる」マデと書いている。
そして彼女の内面でワダカまっていた不安が的中する。夫のペッピーノは肺を病み、41歳の若さで亡くなってしまう。
須賀女史の作家としてのデビュ-作となったのは「ミラノ霧の風景」であったが、「霧の風景」という言葉に彼女の気持ちが込められているようである。
須賀女史は夫の死後もしばらく書店の経営を続けたが、それも4年をもって日本に帰国した。
しかしコルテア書店で受けたカトリック左派の思想的な影響で、東京練馬で社会改革運動「エマウス運動」をはじめた。
つまりキリスト教精神を基にした貧富の「格差解消」のための運動であった。
この運動は「廃品回収業」をしてその純益を福祉事業にあてるというフランスではじまったボランティア活動であったが、この時の須賀氏と一緒に活動した一人の女性がTV番組で語ったことが印象的だった。
須賀女史が廃品の家具を運びこみ、手についた汚れを見つめる彼女の眼差しが、ドコカ遠いものを見つめているような「距離」があったと言っている。
彼女自身がコノ活動について「間違えた場所に穴を掘ってそのことに気づかないウサギみたいだった」と振り返っている。
彼女にとっての「幸せのベクトル」は違う方向にあったのだ。
須賀氏は「社会改革運動」に身を投ずるよりも、むしろ詩や文学で表現することにだったのか、原宿のマンションに居をかまえ「執筆活動」に専念するようになる。
須賀女史は、ミラノを襲ってきた霧を追い払うよりも、むしろ「霧の正体」を一心に見つめて、一生をかけて追求していたようだった。
そして、この霧の「発生源」はイタリアの鉄道官舎であり、夫の実家を次々に襲う不幸であった。
彼女が61歳を過ぎて書いた本は10冊を超え、執筆の絶頂期の1998年にガンを宣告され、69歳亡くなっている。
新聞の小さな死亡記事と、大学のキャンパスで見かけた姿が重なった。

近年読んだ本で、以前企業の最前線にいた柴田久美子さんという女性を知った。
柴田さんはかつて日本マクドナルドで働いていた。
日々、何万ものマニュアルを読み、大多数を占める男性社員に馬鹿にされまいと毎日必死で働いた。
女性だからとナメラレルのが嫌で、自分を見下すような男性社員には、イツカ見返してやりたいとばかり願った。
そんな気持ちで働いている者に、他人の心を思いやるユトリはなかった。
そして柴田さんは過酷なライバル競争を勝ちぬき、念願だった「アメリカ行き」切符を手に入れた。
シカゴにある親会社で研修をうけ、さらなる「飛躍」をとげていくハズだった。
端から見て彼女は、その時確かに、人もうらやむようなチャンスを「手中」に収めていたのかもしれない。
しかし柴田さんの心は、豊かな暮らしを手に入れればイレルほど、「空しさ」ばかりが込みアゲテきた。
そして或る時、店の売り上げを伸ばすことしか考えられない自分になっていたことに愕然とする。
心はスリキレ自分見失いモガキ苦しむうち、いつしか「死」をココロミルようになっていった。
そしてマクドナルドを退社し、東京と福岡でレストランを経営するがそれにも失敗し、夫の事故の入院代さえ払うことができないようになった。
その不安の中で、どこからともなく「愛こそが生きる意味」という声が聞こえたような気がした。
そして、先のことを何も考えずにレストランをタタンだ。
その時、近所に住む「特別老人施設」の女性から声をかけられ、「老人介護」と出会った。
機器に埋められて「延命措置」のうえ、病院で家族でもない医者や看護婦に看取られつつ死んでいくでいく老人達の死をマノアタリにした。
また或る日、マザ-・テレサの「死の家」で、愛に包まれて死んでいく人々のビデオをみて釘づけになった。
そして柴田さんは、高齢者(柴田さんは、幸齢者とよぶ)は家族や愛するものに見取られて自然死をむかえることこそ大事なことである、と悟った。
そして、かつて「落人の島」でもあった隠岐諸島の南端に位置する知夫里島に「なごみの里」という施設を設立した。
柴田さん自身が「企業戦士」から「落人」としてこの島に来たようなものだったが、幸いにもコノ地で「新生」をはかることがききた。
以前に「悼む人」という本をソノ題名にひかれて読んだことがある。
このタイトルの中に、何かこの社会に対する「異議」が潜んでいるように思える。
小説「悼む人」は、誰かのために悼まねばならないと意思している人の話である。
「悼む人」の主人公は、凶悪事件や大事故に巻き込まれ亡くなった人を悼む。
本来、もっと悼まれ看取られてイイハハズなのにそれがナサレナイという問題で、それは「なごみの里」の問題意識にも通じる。
家族や親族の代わりに知人でもない第三者が、あえて見ず知らずの死者のために「悼もう」とするのである。
マザー・テレサの「死を待つ人の家」で働く修道女達は、街角に捨て置かれた人々を介抱ししっかりと手を握り彼岸へとおくる。
看取る人が現場にいて死を用意することにより、亡くなる人の死はカケガエのないものとなる。
インドやアフリカでは餓えたまま打ち捨てられるように死ぬ人々が大勢いる。
とはいえ「悼む人」のいない死は、「飽食日本」とてけして無縁ではない。
「孤独死」に代表されるように、人知れず亡くなる人々の死の「偶然性」や「無名性」に何も感じなくなっている。
大事故や事件に見舞われ、誰が死んでもよかったかのような死を、何も準備されずに強いられる人々がいる。
そのうえ死者数百何十人の一人としてしか扱われないような死は、確かに「悼ましい」と思う。
それは花が手向けられることのない「無名戦士」の墓に似ているかもしれない。
昔、「ビルマの竪琴」という映画を見た。
ミャンマーの僧となって日本への帰国を拒んだ日本人兵士こそ「悼む人」の一典型といえないだろうか。
現代の死は「無名性」を帯びているので、「悼まれぬ死」を悼まねばならぬ、と思う人が居てもいい。
もっとも「悼む人」とは、ひょっとしたら大して「悼まれない」側にマワルであろう「自分」を悼んでいるのかもしれない、とも思う。
「悼む人」の主人公は災難に出会い亡くなった故人のことを知るために、故人の遺族にこう聞く。
「故人は誰に愛されたか、誰を愛したか、誰かに感謝されて生きたか」という問いである。
この問いは、自分を含む各人の生がユニークであり、その生死を愛しむ思いから、自然に湧き出た問いではないだろうか。
看取りの家「なごみの里」の最大のコンセプトは、マザーテレサの言葉「人生の99%が不幸であったとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人生は幸せなものに変わる」ということである。