官兵衛の汚点

「タイタニック号」の沈没(1914年)にまつわるエピソ-ドは数多くあるが、タイタニック号が存在する14年前にこの事件を予言するような「小説」がアメリカ人によって書かれていた。
その小説のタイトルは「愚行」である。
イギリスの巨大客船「タイタン号」が北大西洋上で氷山にぶつかり沈没するという話である。
この小説に描かれた「タイタン号」も「タイタニック号」とホボ同じ大きさであるから驚く。
もうひとつの「驚き」は、このタイタニック号にはエジプトのツタンカーメン王の王墓で発掘された女預言者のミイラが入った「棺」が運ばれていた。
この棺は、それが置かれるトコロドコロで「災難」をもたらしてきた、イワクつきの「棺」であった。
柩には、「この墓を荒らす者には、汝の目のひとにらみが汝に抗うものすべてを滅ぼす」と不吉な「護符」が刻まれていた。
タイタニック沈没当時から、密かに「ファラオの呪いか」とウワサされていたという。
特別に「怪奇談」に興味があるわけではないが、人間がなにかしら目にみえぬものに突き動かされているのではないかと信じる者にとって、以上の話を頭から否定しようという気は起こらない。
江戸時代の日本でも「呪われた振袖」の話が伝わっている。
1657年に江戸の町の半分を消失させたという「明暦の大火」があったが、この火事は別名「振袖火事」という。
これは同じ振袖を着た若い女性3人が次々と死亡したのでその振袖を寺で焼いたところ、その火が燃え広がり大火事になったたがあめに、この名がついた。
また肥前佐賀にはよく知られた「化け猫」の話が伝わっている。
九州における最大勢力の一つとなった龍造寺家は、島津との戦いで当主や重臣の多くが戦死してしまう。
家来筋の鍋島直茂は、病弱な跡継ぎである龍造寺政家に代わり国政の「実権」を握り主家である龍造寺に取って代わる。
ある時、鍋島勝茂は家臣、龍造寺又一郎と碁を打ったが些細なことから口論となり、鍋島勝茂は龍造寺又一郎を手打ちにしてしまう。
飼い猫が又一郎の首を又一郎の母の元に持ち帰ると、母も自害して果てた。
その血を吸い怨念を受け継いだ飼い猫は「化け猫」となり、鍋島家に怪異をもたらす存在となったのである。
「鍋島化け猫騒動」は映画化され、「四谷怪談」「番町皿屋敷」とともに、その怖さが「トラウマ」になって、夜に便所に行けなくなる人が続出したという「日本怪奇映画」の傑作として知られている。

福岡市の地名は、岡山県の「福岡」の地名からきていることは比較的よく知られている。
それは、黒田氏が幕命による国替えで「岡山・福岡」の地から、玄海灘に面する博多の地に入城したからである。
しかし黒田家はそれ以前に豊臣秀吉の命令で一時期、太平洋に面した「中津」の地を城下としたことがあった。
この黒田家のその後の「暗い運命」の一端は、この中津での怪奇談メイタ「或る出来事」と深い関わりがあるのではないか。
ソノ話をする前に、豊臣秀吉・家臣と黒田家・家臣にまつわる有名なエピソードを紹介したい。
10年ほど前まで、福岡市舞鶴に「長屋門」という居酒屋があった。
何気なくその店に入って、槍や鎧の置物を横目に「飲食」をしたことがある。
ある時、ラジオのパーソナリティをしているクリス・フリンというアメリカ人が書いた「Faces of Fukuoka」を読んでいたところ、そこに「長屋門」の店主の紹介文が書いてあった。
そして、その時はじめてアノ長屋門の店主が、「黒田節」の主人公である母里太兵衛(ぼりたへい)の子孫であることを知ったのである。
母里太兵衛は黒田長政より使いにだされ、豊臣秀吉配下の実力者・福島正則に面会した。
太兵衛は福島正則が「酒豪」であるというウワサを聞いており、本来の役割を果たすためにも、酒の相手をすることを「控える」ツモリでいた。
しかし太兵衛は、福島正則からこの大杯で酒を飲みほすならば欲しいものは何でも与える、飲まぬならそれでも武士かという「挑戦」をうけ、意を決してソノ挑戦を受けることにしたのである。
そして太兵衛は、黒田武士の「威信」をかけて見事大杯を飲み干した。
そして今度は「飲み干したら何でも欲しいものを与える」ハメとなった福島正則は、逆に母里太兵衛に挑戦をうける立場となった。
太兵衛は臆することなく、部屋にかかげてあった名槍「日本号」を受けトリ颯爽と帰国したのである。
「日本号」はモトモト正親町天皇が所有していたもので、信長・秀吉の手をへて福島正則が所有していたものだったから、単なる「名槍」で済まされるもではなかった。
ソレがゆえに、母里太兵衛のこの話は、福岡城内で有名となり、昭和の時代に今様風の音がつけられた「黒田節」によって国民一般にも広く知られるようになった。
「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、飲みとるほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」
ところで20年ほど前に、居酒屋「長屋門」の主人である母里忠一氏と会い、名槍「日本号」のその後の顛末を直接話を聞くことかできた。
母里氏によると、名槍「日本号」は、代々家宝として伝わり秘蔵されてきたが、明治の半ば母里家の某かが、質にだしてしまったそうである。
この名槍をタマタマ見つけた炭鉱経営者の安川敬一郎氏が、これではいけないと買い戻し黒田家に献上し、黒田家が保管する事になった。
その後、前福岡市長の進藤一馬氏らの努力によって福岡市美術館に保管されることになったそうである。
現在は福岡市博物館に保管されている。
なお母里太兵衛の自宅の門・長屋門が、福岡城址で平和台陸上競技場近くに保存されている。
福岡国際マラソンで選手がゲートを出て、すぐに右折するマサニその角が母里家の「長屋門」である。
ただしコレは移転したものであり、母里太兵衛の自宅がもともとあった場所ではない。
母里太兵衛のもとの自宅は、現在の明治通りに面してありちょうど天神の「野村證券ビル」が建っているあたりである。
ビルの真下の植え込みで気付きにくいところだが、「母里太兵衛の自宅跡地」の説明書きがある。
伊藤伝右衛門・柳原白蓮夫妻の銅御殿といわれた場所のスグ隣あたりに位置していることになる。
また名槍「日本号」と大杯をかかえた母里太兵衛の像が西公園にある。
その像の顔が居酒屋「長屋門」の主人である母里忠一氏にトテモ似ていることに驚くと同時に、酒豪・母里太兵衛の子孫が「酒」にまつわる仕事に就いておられることに何か不思議な因縁を覚えるのである。

豊臣配下の武士としては、少々愚鈍な感じのする福島正則であるが、それと対照的なキレモノが名参謀(軍師)・黒田官兵衛孝高である。
来年度のNHK大河ドラマは、黒田官兵衛孝高が主人公であるため、以下に述べる出来事がドラマの中でどのように描かれるか、または描かれないのかが、興味深いところである。
豊臣秀吉が1587年に九州遠征をし、最大勢力・島津氏を屈服させると、その軍師・黒田官兵衛孝高は今の豊前12万3千石を拝領して中津城を居城とした。
この中津の地には戦国時代より、現在の栃木の地から出た宇都宮家が、「城井氏」という名で国人として勢力をはっていた。
そこで、黒田氏と国人・宇都宮氏(城井氏)との争いは自然の成り行きであったともいえる。
黒田官兵衛の主人にあたる関白・秀吉は、「九州制圧」にあたり宇都宮氏に完全服従を求めるが、宇都宮氏は鎌倉以来の「名族の誇り」からか秀吉への謁見を「長男」に代行させ、伊予今治への「国替え」の命にも従わなかった。
そこで秀吉は、黒田官兵衛孝高に「宇都宮氏討伐」の命令を出すのである。
1589年、秀吉より宇都宮鎮房に中津城で、後に黒田藩の初代藩主となる孝高の子・長政と対面せよという教書がくだった。
その時、黒田長政は「政略結婚」の話で鎮房を誘い出し飲食を供し、その最中ヤニワに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけて皆殺しにしたのである。
合元寺はその後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が絶えないくなり、ついに「赤壁」に塗られるようになったという。
現在も塀の壁は全面に真っ赤な色で塗られている。
また、当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱に刃痕が点々と残されている。
官兵衛の息子・黒田長政は福岡城に「城井神社」を建立し宇都宮鎮房の霊を慰めたが、この出来事はその後も長く福岡に恐ろしい影をナゲかけることになる。
黒田藩は六代にしての血統が「断絶」し、その後・「親幕」藩主を迎えるにあたっての家臣団間の「血ぬられた争い」と処分(栗山大膳処分)やら、最後の藩主・長知の「贋札作り」の発覚による処分など、暗く不穏な出来事が続いていく。
そして、その度ごとに「宇都宮氏の呪いか」とササヤかれてきたのである。

黒田家の豊前・中津から福岡入城にあたっては、博多の商人たちとの確執にも暗い影がまとわりついている。
平安時代の末、平清盛が太宰大弐として博多にいた時代から日宋貿易で大発展し、中国の先進文化の波に洗われた「最前線」の町だった。
つまり博多は「商人の町」であったといっていい。
博多駅に近い承天寺の境内には、「うどんそば発祥の地」、「お饅頭発祥の地」、「博多織発祥の地」を示す石碑が建っており、いずれも中国の文化が商人によって博多を「入口」として持たらされたことを物語っている。
中国に留学して聖一国師・弁円こそが「承天寺の開祖」であり、博多で新型ウイルス(疫病)が発生した際に、施餓鬼棚に乗っかって博多の町に聖水をまいたのだ。
これこそが「博多祇園山笠」のルーツであり、承天寺こそは「山笠発祥の地」である。
あの長谷川法世の漫画「博多っ子純情」で知られる櫛田神社が「山笠発祥の地」というのは思い違いである。
そしてNHK大河ドラマの「北条時宗」の準主役・謝国明こそは、中国出身の博多商人の元締め(綱主)で、承天寺の最大のスポンサーである。
承天寺すぐそばの聖福寺は、栄西が最初にお茶を最初にもたらした地でもあり、東長寺は空海が最初に「本格的」に密教をもたらした寺である。
そして今日の博多は豊臣秀吉が九州遠征の折、戦国の争乱で焼け落ちた地を新たな「町割り」で再興し、現在の「大博通り」はそのセンター・ストリートであった。
ソンナ旧き歴史をもつ「誇り高き」博多商人にとって、中津から黒田氏を新たに藩主として迎え入れることは、ある種の「屈折」を生む結果となった。
特に近松門左衛門作の歌舞伎の定番「博多小女郎浪枕」の材として、今も語り継がれる伊藤小左衛門の話は、そうした「屈折」を生む大事件となったのである。
1667年博多の豪商、黒田藩に多大なる功績を残した御用商人・伊藤小左衛門は、黒田藩の藩経営上の「支え」として「密貿易」を行ってきた。
しかしその「密貿易」が発覚するや藩から見放され、幕府による密貿易取締りの「見せしめ」として、幼子を含めた一族郎党、使用人を含めた多くの人々が処罰され、その数は270人にも上った。
この時、ともに処刑された伊藤小左衛門の幼児である二人「小四郎と萬之助」も処刑された。
このことを不憫に思った博多商人達が呉服町に建てた神社が「万四郎神社」である。
以後、海の向こうに大いなるロマンを求めて駆け回っていた博多商人は、幕府に睨まれるのを恐れた藩役人達の「保身」によって、その翼を矯(た)めなければならなくなったのである。
那珂川から東を福岡ではなく、依然として「博多」とよび慣わしたのは、そうした博多商人の「矜持」をうかがわせる。
「博多にわか」は、商人達が「お面」をして顔を隠し藩役人の失策などを、軽い笑いにしたところから生まれた。
また藩としても、博多商人のその程度のカタルシスを認めざるをえなかったのであろう。
「博多にわか」で使われる「お面」の目が垂れ目でトロンとしているところがなんともいえない。
そしてこのお面こそは「博多ッ子」の藩権力者に対する「屈折感」をモットモよく表しているのではなかろうか。

幕末から明治に至って財政難に苦しむ少なからぬ藩で「贋札つくり」(太政官札贋造)が行われていた。そして、黒田藩もその例外ではなかった。
しかし、ヒョンなことから「贋札つくり」が発覚することにより、黒田藩最後の藩主は「処分」を受けることになった。
ただこの「発覚」がヤヤ「怪奇談」メクのは、その贋札作りの舞台となった屋敷コソは、前述の「宇都宮(城井氏)惨殺事件」で一番乗りをした野村氏の屋敷であったということであった。
それがため、黒田官兵衛・長政親子の中津におけるアノ「血なまぐさい出来事」が亡霊のように蘇り、その出来事との関わりが噂されたのである。
ところで映画監督・黒澤明は、福岡藩の「贋札作り」の出来事を介して、黒田家の歴史とチョットした「接点」をもつことになる。
実は、黒澤明の卒業した小学校は、黒田藩の名がついた「黒田尋常小学校」なのである。
といっても黒田尋常小学校は、福岡にあったわけではなく東京にあり、その卒業生には永井荷風もいた。
現在は文京区立第五中学校という中学校になっておいる。
では、ナゼ福岡藩の「黒田」の名前をもつ小学校が東京に創られたかというと、廃藩置県で東京在住を義務付けられた福岡藩最後の藩主黒田長知は「藩知事」として東京文京区水道端2丁目に住んでいた。
しかし、長知が知らない間に福岡藩内で「太政官札贋造」があったため、ソノ責任をとられ「藩知事罷免」となった。
そこで福岡藩は「失政回復」のために奥羽列藩との戦いでの「戦功」の章典の一部を、東京府の「教育費」に寄付したのである。
東京府は、小石川小日向町に学校を新設し、その教育費で創った学校名を「黒田尋常小学校」としたのである。
この小学校の校章は黒田家門の藤巴にちなみ「藤の花」となり、1946年学制改革で「文京区立第五中学校」に改称され再建された。
現在、神田川が流れる地下鉄・江戸川橋駅近くに区立第五中学校がある。
そして正門すぐソバに、今なお藤棚が設置されている。

ところで、血の色が滲み出るために「赤壁」となった元合寺の開山は空誉という僧侶であった。
空誉は、中津より黒田兵衛孝高にしたがって福岡に入国し、博多橋口町にあった智福寺の住持となった。
しかし、三代・黒田忠之の怒りにふれ、釜責めによって殺され、智福寺も廃されたという。
黒田忠之の怒りの理由は定かではないものの、「宇都宮氏惨殺」との何らかの関わりが推測されておかしくはない。
そして時下って「昭和の時代」、この智福寺があったあたりに旧・福岡県知事公舎が建てられた。
今のアクロス福岡の裏手あたりである。
当時の新聞によると二十四代福岡県知事は亡霊に悩まされて夜ごとうなされて眠れず、知事の書生もモノノケとりつかれたようになったたという。
そこであの「出来事」の記憶が亡霊の如くに蘇った。
空誉が「釜責め」のあったといわれる草木生えていない庭に、小さな銅ぶきの「祠」を建てて怨霊を慰めたという。
そこには、現在「福岡藩刑場跡の碑」が立っている。
目に付きにくいが、福岡済生会病院から、旧県庁跡地に向かって歩くと「人知れず」この碑がある。
ところで、福岡で一番よく知られた一族といえば「麻生家」である。
一方、黒田家の末裔の話は、ほとんど聞かない。
近年、内閣総理大臣も出した麻生家は、安川家、貝島家とならぶ「炭鉱御三家」とよばれるが、麻生家の歴史は古く中世にまで溯る。
麻生家は中世期に遠賀郡に所領を得て、幕末には飯塚の立岩村、下三緒村などの庄屋、大庄屋を務めた。
炭鉱経営資料を含む「麻生文書」を伝えてきた家柄である。
その「系図」を見て驚いた。
麻生家の血筋は、傍流ではあるものの、アノ宇都宮氏と繋がっているのである。