ポートフォリオ感

「人生はベクトル」と口癖のように言っていた人がいた。
人生は「力」の入れ具合と「方向性」によって決まるということを意味するみたいだった。
最近自分には、「人生はポートフォリオ」という言葉が浮かんでくる。
日本人が慣れ親しんだ「人生モデル」がベクトル的なら、これからは「ポートフォリオ感覚」をもって生きてはどうか。
ポートフォリオとは、「資産運用」で使われる言葉で、ベクトルのように一つの方向に向かうのではなく、リスクとリターンに応じて、人生の様々な資源を「分散」して割り当てようとするものである。
ここでいう「人生の資源」とは、時間、労力、体力などで、「リターン」とは、経済的な豊かさに限定されのではなく、気持ちの豊かさを含んでいる。
つまり人生のほとんどを一つの方向に投入するのではなく、適度な「ポートフォリオ感」をもって生きようということだ。
アップル社のスティーブ・ジョブスは稀に見る才能の人であったことは間違いない。
ジョブスの生き様は、本人は意図しなかったものの「ポートフォリオ感」豊かで、別の出会いがあったならば他分野でも成功をおさめただろう。
しかし、日本に彼のような才能がある人がいたとしても、残念ながらジョブスを育てる「社会的土壌」がなく、日本人ジョブスは現れそうもない。
その理由は、社会が求める生き方がアマリに「ベクトル的」であり、学校制度はじめ社会構造も「ベクトル的」だからである。
、 今年、4月1日より労基法などが改正され施行され、60歳を超えても働くことがアタリマエの社会となった。
多くの人は働くのはヨシとしても、同じ仕事をいつまでもしたくはないと思いにカラレルのではなかろうか。
まして給料を半減され、同じ会社でかつての部下に使われて働くのも面白くない。
それで、同じベクトルの延長にはいたくない、もっと心豊かな生き方はないかと思う。
以前テレビで、伊勢神宮近くの川でミソギをして新人社員教育をしている会社を見たが、そこまでする会社が果たして一生をささげるほど社員を大切にしているようには思えない。
「少子高齢化社会」で年金もアテできないとなると、早い時期からセカンド・ライフ、あわよくば「NEXT青春」を生きれるように「しておく」気持ちが大事になってくる。
その為には健康が第一だし、第一の人生でスリキレてはいけない。
それまで「ポートフォリオ感」をもって生きていたなら、イザという時に助けになる。

1970年代半ば山本浩二・衣笠祥雄とともに広島カープ全盛期に3番打者として活躍した外国人選手に、ホプキンスという選手がいた。
1977年引退後は、選手時代から勉強を重ねていた医者の道を志し、シカゴの医大に再入学し整形外科医になった。
カリフォルニア州ローダイ市で病院を開業し、意義深い「第二の人生」を送った人といえる。
広島カープ時代にダッグ・アウトでドイツ語を勉強していていたら、他の日本人選手からドイツ語を学んでどうするのかと尋ねられた。
ホプキンスは「お前たちこそ40過ぎたらどうするのだ、自分は今から医者になる」とハッキリ答えたという。
試合の合間に医学書を読むばかりではなく、試合前に聴講生として広島大学で実験を行っていたエピソードもある。
日本には「○○」道という言い方がある。
茶道や華道ならマダシモ、「料理道」から「主婦道」から「掃除道」まで一つの道に精進して極めることが尊ばれる。
「ベクトル社会」では一つの道に励むことが仕事で信頼をうる生き方であり、チームプレイを要する仕事の場合は特にそうである。
アメリカでは、野球の一流プレイヤーがシ-ズン・オフにアメフトの選手として活躍しているニュースを聞いて驚いたことがあった。
日本だとソンナ時間と体力があるんだったら、「野球道」に励めといわれるだろう。
しかしホプキンスにいわせれば、変なのはムシロ日本人の方なのだ。
また日本では転業は多くの社会的リスクをともなうため、「挑戦」を諦める人が多い。
また、外国では一流アスリートが、医者や弁護士、作家などになるケースが結構みられる。
1990年代の前半、神戸製鋼でラグビーをしていたウィリアムズは、実は弁護士でもあった。
1930年代にゴルフでグランドスラムを達成したボビー・ジョーンズは弁護士でもあったし、1950年代頃のヤンキースのブラウンは、心臓を専門とする医師であった。
1980年にオリンピックでアメリカの水泳の金メダリストであるマーク・スピッツは医学生だったし、マラソン金メダリストのチェルピンスキーも医者だった。
日本では幼少期から例えば野球だけにドップリ浸る生活になってしまって、学業が十分に出来ないのはもちろん、他のスポーツに参加することさえ批判の目で見られる。
ツネニ諦めるのは早いと「スポ根」を叩き込まれるため、本人もなかなか心の切り替えがつかない。
最近の甲子園常連校の選手が、医学部や法学部に進み医者や弁護士にナルことはほとんど聞かない。
一つのスポ-ツをやってきた生徒が途中で故障したり挫折したりすると、ツブシがきかず、非行に走ってしまうケースさえある。
中途ハンパな才能の持ち主が、一番気の毒である。
広島のホプキンスは、一流アスリートとして働ける期間にはカギリがあると、常にネクストを意識していていた。
また野球人生の残りを「余生」とする気はなかったのだ。実は、ホプキンスは医者になった後、60歳を過ぎて転身し、ミッション系大学で「聖書学」を教えている。
聖書には有名な「タラントの譬え」があるが、敬虔なホプキンスは、天地創造の神に、自分の能力を眠らせてはナラナイという「思い」を抱いていたに違いない。

東京・品川のソニー旧本社ビルは、現在「御殿山テクノロジーセンター・NSビル」と改称されている。
この8階建てのビルの最上階に「キャリア・デザイン室」がある。
かつては大賀典雄名誉会長が執務室を構え、役員室が置かれていた由緒正しきフロアであったが、今や中高年の社員を集めてスキルアップや求職活動を行わせる部署に「衣替え」している。
そしてここの人々は「キャリア」とよばれている。
「キャリア・デザイン室」は全国三箇所にあり、計250人ほどの「キャリア」がいて、その人数は増加傾向にあるという。
午前9時前に出勤すると、自分に割り当てられた席に着き、パソコンを起動させる。ここまでは普通の職場と変わりない。
違っているのは「仕事の中身」で、会社から与えられた仕事はなく、自分でやることを決める。
スキルアップにつながるものであれば、何をやってもよい。
羨ましいようにも聞こえるが、「キャリア・デザイン室」が、人員削減のための部署であることは、社員ならば誰もが知っている。
多くの「キャリア」が取り組んでいるのは、市販のCD-ROMの教材を用いての英会話学習やパソコンソフトの習熟、ビジネス書を読むことである。
しかし、自分が置かれている境遇で頭がいっぱいで、いくら勉強しても身にツカナイという。
この室にいる期間が長くなるほど、給与がダウンする仕組みになっている。
そして「上司」に当たる人事担当者と1~2週間に1度のわりで個別面談があり、その際に他社への就職活動の進捗状況などの説明を求められる。
もし会社に踏みとどまろうとするならば、PDFのファイル化など誰でもできる単調な仕事や下請け会社での清掃業務などしかないという。
「キャリア」という美名でよばれる人々は、ベクトル型の生真面目な人々だったかもしれない。
しかし、そのベクトルの先が「キャリア・デザイン室」では遅すぎる。
「キャリア・デザイン室」は実質「追い出し部屋」ともトレルが、人生に多少でも「ポートフォリオ感」をもっていれば、この部屋で悲壮な思いにかられることもなかったかもしれない。
さて、ネットに出ていたこの「キャリア・デザイン室」の記事が目に入ったのは、韓国ドラマ「逆転の女王」に描かれた「特別企画室」の人間模様とピタリと重なったからである。
美容業界の大手クイーンズの企画開発室でチーム長を務めるファン・テヒは、バリバリのキャリア・ウーマンであった。
女性のハン常務に気に入られ、仕事が恋人のような毎日だったが、内心では平凡で幸せな結婚生活を夢見ていた。
そんなある日、紳士的で完璧なルックスの新入社員が部下となって入社し、胸トキメク日々を送ることになる。
そして意外に愛らしい面を見せたテヒに、その男性も心惹かれ二人は結婚することになった。
しかしテヒの結婚と退職に、ハン常務は「裏切られた」という思いをいだき、テヒの夫を冷遇する。
またハン常務の手足として仕える女性が、テヒの夫とかつて恋人関係にあり常務に取り入った結果、夫はリストラされてしまう。
「逆転の女王」では、リストラにあった夫婦のゴミ捨て場での会話がトテモ印象的だった。
リストラがバレて責められた夫は、妻に代わってゴミだしに行ったママ、帰ってこない。
心配した妻がゴミ捨て場にいくと、「自分は役に立たずに捨てられたゴミだ」と涙を流して謝る。
妻はそんな夫を抱きしめ、「世の中にこんなに素敵なゴミがあるか/そのゴミを好きになってくっついた女です/ゴミだってリサイクルされる」と慰める。
夫はトッポギ屋台を始めようとするが、妻の方は懸賞論文が認められて、再びコノ会社の追い出し部屋「特別企画室」の班長として再雇用されることになる。
そしてクイーンズのハグレ御曹司が、社長とハン常務に嫌われて、追い出し部屋「特別企画室」の責任者となって来る。
そしてテヒに好意を寄せ、テヒの「逆転」を予感させる。
会社にいながらにして「何をやってもいい」といわれる「特別企画室」の様子はまさに、ソニーの「キャリア・デザイン室」ソノモノであった。
テレビドラマ「逆転の女王」は、人々の自尊心、焦りや卑下をユーモを交えながら描き、テヒとハグレ御曹司を中心に、かつて自分を追いやった社長や常務らに逆襲する物語である。
とはいっても「逆転の女王」はフィクションであり、なかなかこういうドラマは実際には起きそうもない。
実際に人々に勇気を与えた「逆転劇」といえば、2000年にNHKで放映された「プロジェクトX/窓際族が世界規格を作った~VHS・執念の逆転劇」を思い起こす。

サンフランシスコの大学に通う女子学生とシリア系ボーイフレンドの間に一人の男の子が生まれた。
彼女は、スティ-ブと名づけた赤ん坊を養子に出すことにした。
赤ん坊はポール・ジョブズという機械工とクララ・ジョブズ夫妻に引き取られた。
後に「世界を変える」スティーブ・ジョブスはごく平凡な中流階級の人々が多いサンタクララで育った。
ジョブスは裕福な子供時代を送ったのではなかったが、彼の生みの母は、養父母に「子供を大学に通わせること」と約束させていたため、養父母は乏しい家計をヤリクリしてジョブスをリード大学に進学させた。
しかしジョブスは、自分が興味を持った授業である「カリグラフィー」(西洋書道)以外はほとんど出席せず、すぐに大学をドロップアウトした。
当時空き瓶を拾って金を稼ぎ、時折ハレ・クリシュナ教団で無料の食事にありつくというヒッピー生活を送った。
ハレ・クリシュナ教団は、インド系はヒンドゥー教から分派した教団で、伝説のロックコンサート「ウッドストック時代」の若者達から絶大な支持を集めていた教団である。
また、ビートルズのジョージ・ハリスンが帰依したことで知られている。
スティ-ブ・ジョブスも、当時のヒッピー文化に惑溺しつつ、ボブ・ディランやビートルズ、その他あらゆるミュージックをこよなく愛した。
ジョブスは大学中退後の1976年、自宅のガレージで友人のオタクであるウォズニアックの電子チップを組み込んだ「基盤」を見て、これは売れると直感した。
そしてスティーブ・ウォズニアックとアップルコンピュータ(現アップル)を創設した。
そして、マウスを使った家庭用パソコン「マッキントッシュ」が大ヒットし、一躍「若手起業家」の仲間入りを果たした。
しかし20歳代のコンピュータ・オタクばかりではアップル社の経営はママならず、「おとなの経営者」が必要となった。
そこでアップルの取締役会は、ペプシコーラの社長であった37歳のジョン・スカリーに白羽の矢を立てた。
スカリーはマーケティングの達人として知られ、アップルの大株主ばかりではなく、ジョブスも彼に惚れ込んだ。
しかし、ペプシでの輝かしい未来が約束されていたスカリーは、なかなかイイ返事をしなかった。
しかし、スカリーの気持ちを翻させたのは、ジョブスの次の一言であった。
「残りの一生を砂糖水を売って過ごしたいか、それとも世界を変えるチャンスを手にしたいのか」。
しかしジョブスは、マック・プロジェクトを立ち上げた人物との確執から1985年に、アップル社を追われた。
ジョブスには、「感情的に反応することが多く約束を守らない」とか、「無責任で物事を深く考えず、権威主義的な決断を平気でする」といった批判があびせられた。
ジョブス自身が「ひどく苦い薬だった」と振り返るこの追放劇を経て、新たにNEXT社を設立した。
「経営者の資質に欠ける」と言われたジョブスにとっては、アップルに対するリベンジの気持ちもあったに違いない。
その後、映画会社「ピクサー・アニメーション・スタジオ」を設立した。
「ピクサー・アニメーション・スタジオ」は、CGを駆使して世界的なヒット「トイ・ストーリー」(95年)を生み出した。
そして、アップル社がウインドウズ社にスッカリ遅れをとりつつあった1997年、12年ぶりに古巣「アップル」のトップに返り咲いた。
「トイストーリー」は見過ごされたり捨てられたりしているオモチャの世界を描いた映画だったが、モノは命が吹き込まれるとマッタク別の光を帯びて動き出す。
よく考えると、ジョブスのソノ後の「アップル復帰劇」を「予感」させるものがあったのではなかろうか。
ジョブス不在のアップル社はすっかり停滞していたが、ジョブス復帰後に命が吹き込まれた。
復帰にあたってジョブスは「Think different」と唱えて、今までのアップルとは違うゾというメッセージを世界に発した。
そして、デザインと機能性にこだわった一連の商品を発売し、iPodは音楽業界の形態に革命を起こした。
iPhoneも世界的な社会現象となり、iPadと合わせ「10年間で3度の革命を起こした」と評された。
しかし2012年に患っていたすい臓がんが悪化して亡くなった。

アップル社が作りだす製品のデザインに、そこはかとなく「東洋」が織り込まれていると感じるのは自分だけであろうか。
スティーブ・ジョブスの仕事は、ヒッピー時代の「日本の禅」を含む東洋思想への耽溺がある。
それはジョブスの「ポートフォリオ感」がもたらしたのかもしれない。
ジョブスは、自分の人生を「賭けて」アップルコンピュータを作ったのではない。
起業してもダメなら、それまで働いていたアタリ社に戻ってサラリーマンを続ければイイぐらいに考えていた。
アップルという得体の知れない会社に人が集まった人々も、誰ひとりとして起業に失敗したら、人生はダメになるとは考えていなかった。
気軽に起業できるから社会的土壌があるからコソ、多くの若者が第二のジョブスを目指して挑戦しようとする。
ノーベル賞のインタビューで山中教授は、「どんどん失敗しなさい」といわれたが、実際の職業人にソンナことが許されるだろうか。
日本では、新たに事業を始めても失敗すれば身ぐるみハガサレ、社会的地位も失いかねないという恐怖感がある。
ジョブスが辿ったようなヒッピー生活や会社追放からの同会社への復帰など、日本的「ベクトル社会」では考えにくいところである。
欧米で精神科にくる患者は、「皆と同じと思われる」不安を訴えるそうだが、日本では「人と違ったみたいに見られている」と訴える患者が多い。
これも「ベクトル社会」特有の不安症状といえるかもしれない。
日本では、すべてとはいわぬが最優秀と評される頭脳が霞が関に入り、利権にシガミツイテ天下りを繰り返してベクトルの「延長線」上に、私腹を肥やすことに智恵をしぼる。
日本では気軽に転職や転業するなどできないにせよ、自分のベクトルを少し「分散」しようぐらいの「ポートフォリオ感」が身を助けるかもしれない。
心を豊かにするリターンもあるし、実際のリスクに役立つこともあるかもしれない。