路上からの実力

一昨日、NHKのEV特集で作家の瀬戸内寂聴とエグザイルのATUSHIとの対談があっていた。
結びつきつきようもない二人の対談は、「表現の最終的な価値は~愛を表現すること」という共通項であった。
ATUSHIはミュージック界の「絶頂」にありながらも、瀬戸内が今という時代をどうみるか、話を聞きたかったのだという。
もっとも瀬戸内の方は、ATUSHIの名前を全く知らず、対談が決まってからエグザイルのコンサートを「お忍び」で見に行ったという。
この対談を前に、NHKのナレーションがフルっていた。「ふたりを対談させたらどんな化学反応が起きるか」と。
全く個人的な話だが、全くカケハナレタものを1つの「稿」に収めてネットにアゲたくなるのは、似た気持ちの作用かもしれない。
もっとも、単なる「併記」では大した意義はないので、対比(対話) させつつ「併記」するようにしているが。
そこで例えば、アメリカのポップス歌手マドンナと演歌の「こまどり姉妹」が対談したら、ドンナ化学反応がおきるか、ヒョウタンからコマドリ姉妹なんてことが起きるかもしれない。
実は、マドンナと「こまどり姉妹」には共通点がある。
それは「カネめあてで歌ってます」と公言しても、あるいは「マテリアルガール」(物質的な少女)とハバカラズ歌っても、ソレが「似合って」しまうところである。
そしてモウとつの共通点は、両者が「路上から」這い上がった実力の持ち主であり、それはマドンナが「執念」のように出演にコダワッタ映画「エビータ」の主人公アルゼンチンのエバ・ペロンにもアテはまることである。

1960年代「双子の歌手」といえばポップスの「ザ・ピーナツ」と演歌の「こまどり姉妹」だった。
「こまどり姉妹」は1959年のデビュー以来、数多くのヒット曲を飛ばした。
NHK紅白歌合戦には7回連続出場し、演歌界のアイドルとして絶大な人気を誇った。
現在74歳のこまどり姉妹はド派手なファッションに身を包んでいる。
演出家の蜷川幸雄氏は、こまどり姉妹の2人に惚れこみ舞台への出演を依頼し、40年間オファーし続けた「待望」の作品が今年2月に出来上がった。
さらに、「こまどり姉妹」を題材にした映画も上映され若い世代からも「大反響」を呼んた。
今日コソは「こまどり姉妹」の再来の時なのかもしれない。
こまどり姉妹は1938年、北海道釧路に生まれた。
生活は貧しく毎日食べていくのがやっとだった。
11歳の時、父が結核にかかり職を失い、父の代わりに2人は店や人前で歌う流しの仕事をした。
しかし、稼ぎは1日10円~20円で駅のホームで寝泊りする生活が続いた。
空腹に耐え切れないときは、畑から野菜を盗み、雑草を食べたという。
そんな極貧生活は1年も続いた。
そんなある日、ある男に東京に行った方がお金になると言われ、家族は上京した。
浅草で流しの仕事を始めたが、お金を払ってもらえなかったり、お金を奪われることもあった。
我慢と努力が報われ、17歳の時には料亭に呼ばれ政治家や社長の前で歌を披露するようになる。
そして日本コロンビア社長の目にとまり、1959年21歳で「浅草姉妹」で歌手デビューを果たした。
これが100万枚のミリオンセラーとなった。
この映画の画像を見たことがあるが、ケナゲナ姉妹がいそいそと働く姿が感動を呼び起こす。
そして、デビューから3年でNHK紅白歌合戦に初出場した。
この年から7年連続で紅白出場を果たした。
紅白に出ることでギャラがアップするのが何より嬉しかったと言う。
紅白で知名度が上がると、こまどり姉妹には出演の依頼が殺到した。
それぞれ自宅を購入し裕福な生活を送ることができるようになった。
しかしそれ以後も、「順風満帆」というわけにはいかなかった。
ふたりが28歳の時、鳥取の公演中にステージ上に男が上がってきて妹は左腕と左脇腹を刺された。
犯人はこまどり姉妹の熱狂的なファンで、姉と妹をとり間違えたことが判明している。
この事件がトラウマとなった妹は、ステージに上がれる状態ではなくなってしまった。
そんな時、事務所の社員がお金を持ち逃げすることが起きた。
税金としておさめるために用意していたお金を持ち逃げされ、2人は「脱税疑惑」をかけられてしまう。
こまどり姉妹は、再び「お金を支払うために」舞台で歌い始めた。
ようやく「借金返済」の目処がついた矢先、妹がガンに冒されてれてしまっていた。
ガンは肺にまで転移していて、「余命」は1ヶ月と宣告された。
どうしても妹に助かって欲しい姉は、新薬の実験になることを受け入れた。
新薬の副作用で妹の髪は抜け、体重は20kg台マデになった。
姉は高額な治療費のため、1人で舞台に立った。
治療費のため姉は1億円のもの借金を負うことになる。
妹はガン宣告から2年で「自宅療養」できるまでに回復した。
そして1973年、こまどり姉妹は芸能界の第一線から姿を消した。
残っていた1億円の借金は音楽教室やスナックで働き地道に返済した。
その後、妹のガンは奇跡的に再発せず現在は元気な姿で再び舞台へと立っている。
彼女達がステージに立つ時に、今デモいう言葉がある。
「私たちは歌いたくて歌っているのではありません。お金が欲しくて歌っているんです」と。

マドンナは、こまどり姉妹がデビューした頃、1958年、アメリカ合衆国ミシガン州ベイシティで、8人兄妹の3番目として生まれた。
父はイタリア系アメリカ人で、母はフランス系カナダ人である。
幼少期を、同州ポンティアック市 で過ごし、後に家族が増えたため、同州ローチェスターヒル市 へ転居した。
父は、GMのデザインエンジニアで、実母はマドンナが5歳の時ガンで亡くなっている。
父はほどなく再婚した。
母の死や後の父・継母との確執は彼女の精神性に大きな影響を及ぼしたことが、彼女のヒット曲の歌詞に表れている。
マドンナは弟や妹の面倒もよく見ていた。
そんな中でも、多くの習い事を幼い頃からしており、最初はピアノを習っていたが、父親に「バレエを習いたい」と懇願して変えてもらう。
その後、モダンダンスやジャズダンスなど、ダンスを多く習い始める。
ミシガン大学に進学したが中退し、1977年、35ドルを手にグレイハウンドの長距離バスで郷里を後にニューヨークへ向かった。
ニューヨーク到着後、タクシーの運転手に「この街で一番大きな場所へ行って!」と言い、タイムズスクウェアで降りたマドンナは「この世界で誰よりも有名になる」と誓ったという。
1978年 ニューヨークで、「パトリック・エルナンデス・レビュー」にダンサーとして出演した。
そこに到るまでも、数々の職に就いて生活をたてている。
そしてマドンナは1980年代初頭のニューヨークのダンスクラブ・シーンに登場し、1982年にデビューした。
1984年に、シングル「ライク・ア・ヴァージン」が大ヒットし、その大胆かつ「挑発的」なイメージで一躍世界的なスターとする。
彗星のように現れ、デビューからの10年間、なんのコネも無く自分の力だけでのし上がり、数多くのミリオンセラーを生み続けた。
セクシーで挑発的で刺激的できわどいイメージを売りとしていた初期のマドンナは、業界関係者からは最初のころは「一発屋」と辛らつな見方をされていた。
しかし、マドンナはそんな声にまったく動じず、快進撃を続けた。
ミュージシャンとして驚異的な成功をおさめていたにもかかわらず、マドンナにはモウヒトツ夢があった。
それが、「女優」で、高校時代、演劇部に所属し舞台で浴びたスポットライトの「快感」を忘れることが出来なかったからだ。
これまでにも6本の映画に出演し、ブロードウェイの舞台にも立っていたマドンナだが、どの作品も評価はイマヒトツだった。
1989年当時、ハリウッドのボスとも言われていた、俳優のウォーレン・ベイティの新作映画「ディック・トレーシー」の相手役に抜擢されたこともあった。
しかし1995年、ブロードウェイミュージカル「エビータ」の映画化が決定した時、マドンナは自分コソが主役エバ・ペロンにふさわしいと信じて疑わなかった。
当初、その候補には、メリル・ストリープ、ベット・ミドラー、オリビア・ニュートンジョン、ミッシェル・ファイファー、マライア・キャリー、グロリア・エスティファンと錚々たるメンバーが名を連ねていていた。
監督もキャスティングに頭を悩ませていたが、そこでマドンナは、自分こそがエビータ役にふさわしい女優であると便箋4枚もの手紙をしたため、監督のもとへ送った。
そのなかで彼女は、音楽活動を完全に休止し、映画のために全てのスケジュールを空けることを誓い、さらにこう書いた。
「あなたがチャンスさえくれれば、私は必ず、人の心を打つような歌と踊りと演技をします」と。
マドンナはなぜ、それほどまでにエバ・ペロン(通称、エビータ)役にこだわったのか。
それはエバが、私生児として貧しい家に生まれるも、持ち前の美貌で権力をもつ男に近づき「女優」という仕に就き、ヤガテ大統領夫人となり、ツイニはアルゼンチン初の「女性副大統領」にまでなった経緯が、マドンナ自身が歩んできたサクセス・ストーリーと重なっていたからであろう。
マドンナの強い意志を受け、監督は名ダタル名女優を押しのけ、彼女をエビータ役に大抜擢した。
しかし、マドンナを待ち受けていたのは、文字どうり「イバラの道」だった。
撮影のためアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに上陸したマドンナは、街のいたる所に書かれた「マドンナ帰れ」という文字を目にする。
伝説と化した聖女・エビータを、セックスシンボルとして世間を挑発してきたポップスターに演じて欲しくないという人々の気持ちが溢れていた。
しかし、彼女のコノ役にかける意思は堅く、お忍びで生前のエビータを知る人物たちに会い、「役作り」に没頭していった。
そして夏の最中、撮影はスタートした。
しかし、映画の最大の見せ場である、4000人の観衆の前でエビータが大統領官邸のバルコニーで歌うクライマックスシーンで思わぬ出来事が起こった。
当初、「撮影の許可」が下りていたにもかかわらず、「大衆の抗議」の高まりに、アルゼンチン政府がマドンナの官邸への立ち入りを禁止した。
マドンナは、エビータ本人が実際に立ったそのバルコニーで演じることを強く望んでいた。
そこで彼女は、大統領との会見を申し入れた。
何度と無く断られながらも食い下がり、ついにメネム大統領との「極秘会見」が行われることになった。
その会見当日、マドンナはなんとエビータが生きた1930年代の服装に身を包んでいた。
挨拶をすませると、自らが歌った歌を披露し大統領の前で流した。
曲が流れている間、大統領は目を閉じジット耳を傾けていた。
そして曲が終わったとき、大統領の目にも涙が浮かんでいた。
そして、マドンナは「なんとしてもこの映画を作りたいのです。いい作品になるとお約束します。エバの思いに出に敬意を払うつもりです」と訴えた。
マドンナの熱い思いを黙って聞いていた大統領は、「どうやら私は君を信じているようだ」と言って手をサシ伸ばし、「映画の成功を祈っています」と握手した。
総制作費60億円をかけて製作された「エビータ」は、確かにマドンナのイメージを一新した。
興行的にも大成功をおさめ、批評家たちもこぞってマドンナを絶賛した。
そして、ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディー部門において最優秀女優賞を獲得という栄誉を手にする。

さてマドンナが出演にコダワッた「エビータ」とはどんな女性だったのだろうか。
少女エバは、1934年ドサ周りのタンゴ歌手に誘われて田舎からブエノス・アイレス出てきた。
男を騙し騙されるうちに、お金持ちに体を売って芸能界にコネを作ることにも平気な女の子だった。
都会に出て5年後の1939年にはにラジオにも出演し、ヒトカドの女優になっていた。
しかし、スラリとして目元ぱっちりだったが、田舎ナマリがぬけずに演技も下手、ようやく「端役」をもらう程度でしかなかった。
しかしエバの本領は、「美」ではなく「知」にあったようだ。
自分の下積み生活でなめた屈辱や辛酸を胸に、自分を売り出してくれる人々に大胆に近づいていく。
大した教育を受けていないにもかかわらず、新聞や雑誌を熱心によみ、政治や社会について素晴らしい理解力を示し、むしろ男性の方が彼女の判断を仰ぐようになったともいう。
しかし、彼女の力は「路上」で養われたといっていっかもしれない。
そこで労働者のリーダー格の男たちと知り合うことになる。 彼女のモウ一つの才能は「偉くなる男」を見つけ出す預言者的な嗅覚であった。
アルゼンチンの有力者達、政治や経済界の大物とも親しくなっていくとともに、エバの心にも新しい「視界」が開けていった。
エバの路上生活の中で、陽の当たらない都会の片隅をその日暮らしで生きる人々を知り合った。また自分を卑しめてきた一握りの金持ちとの、独裁政治のもとでの圧倒的な「貧富の差」が、彼女の胸中を重石のごとくに占めていた。
そして、エバが探したのは、単に財力や権力をもつ「偉くなる男」ではなく、この国を変えうる「英雄」を探した。
そしてついに彼女は、自身が出演するラジオ番組のパーティで、その「英雄に」出会うのである。
ペロンとよばれたソノ軍人は、立派な体格と、好感度で若い将校達に人気であった。
この時、フアン・ペロン48歳、エバは24歳である。
ペロンは最初の妻をなくしており独身であった。
ペロンはエバと付き合ううちに、エバが単なる「遊び相手」以上の存在であることに気付く。
それどころか、ペロンは彼女の知力や人脈からして、ペロンの片腕、モシクハ「守護神」になってくれるかもしれないと思うようになる。
そして、イツシカ2人は一緒に暮らすようになる。
そしてエバの「預言者的」才能は次第に現実味を帯びてくる。
第二次世界大戦後、大地主の封建的支配に不満を爆発させた都市労働者のために社会情勢は不安定となり、ペロンはそうした情勢をうまく利用し、彼らを扇動しつつ彼らの支持を集めていく。
こうした采配の陰には、労働者のリーダー格にもワタリをつけられるほどの「エバの人脈」があったことは間違いない。
そしてついにペロンは副大統領に選ばれることになった。
そしてペロンはエバを頼りにしていることを公衆の前でも決して隠すことはなかったのである。
ところがペロンの運命は「暗転」する。
ペロンを「新たな」独裁者として喧伝する勢力があり、また戦時中のドイツ派ともみなされ、その責任を追及され「逮捕」されるのである。
逮捕後、ペロン自身も自分の命運はつきたとエバに語ったという。
ところがここからがエバが本領を発揮する場面であった。
エバは、そこから10日間、ブエノスアイレスじゅうを巡り歩いて、ペロンを救うために、労働者達にゼネラル・ストライキをよびかけたのだ。
そしてなんと70万人の労働者がデモを行い、ついにはペロンは「釈放」されてしまうのである。
その釈放5日後に2人は正式に結婚した。
そしてフアン・ペロンは、1946年の選挙で圧倒的な勝利で大統領となった。
卑しい生まれの女性を「伴侶」としたことに批判もあったが、ペロンは自分の運命が彼女によって開けたと信じ、そうした批判にタジログこともなかった。
彼女は、大統領夫人として、富を手にし世界を旅し、南米のクイーンは世界で歓迎された。
その間、貧しい大衆のために公共施設をつくり民衆にも尊敬された。
しかし彼女の過去を知る者には厳しく、口封じをして、追放、逮捕なども辞さなかった。
彼女のことを悪く書いた新聞を許されなかったし、彼女に屈辱をあたえたかつての上流社会の人々も手痛いシッペ返しをうけた。
しかしその後、アルゼンチンは不況に陥り、ペロンも政治危機を迎えるなか、エバも病におかされていた。
1952年6月エビータは病に冒され33歳で亡くなった。
エビータの遺書には、「私は神が、私の多くのあやまち、私の欠点、私の罪によってではなく、私の人生を賭けた愛によって裁いて欲しいと思います」とあった。