真綿色の日本経済

小椋桂の歌詞にあるような「真綿色したシクラメンの花」というのは、モトモト存在しないそうだ。
小椋氏は、この歌の世界はつくりごとナンダと抑える意味でアエテ「真綿色したシクラメン」としたそうだ。
しかしその曲が大ヒットしてしまい、街の花屋サンは自然界に存在しなかった「真綿色したシクラメン」を本当に作り出した。
シクラメンには、「豚の饅頭」という別称もあるくらいの花だったが、たった一曲ですっかりロマンスに相応しい花になってしまった。
同様に、経済の世界も嘘がマコトになる「真綿色した」世界である。
現代の管理通貨体制では、価値のない紙幣が価値あるモノと交換されるのだから、実は紙幣そのものが「虚」なのだが、それが「虚」であることを国民に意識させないことが、「政府の役割」ともいえる。
政府はとにかく紙幣を刷ってオカネを増やすが、それをもって日銀が市中の銀行の国債を買うという方式、いわゆる「買いオペレーション」である。
これ自体は目新しいものではないが、安倍首相は景気回復まで「輪転機を回し続ける」とガチでいっている点で、一味違っている。
しかし、いかにコストがかからないからといって、そんなにオカネを印刷していいのでしょうか。
虚多きマネー世界が「実体経済」(雇用や生産水準)を引っ張らせるように仕向けるのが金融政策だといえる。
安部首相の果敢な金融緩和への提言は、真綿色した「シクラメンの香り」サエがするのだが、公共事業拡大策の方は旧態衣前たる「豚の饅頭」の香りがする。
「豚の饅頭」のココロはと問われれば、自民党の旧態依然たる「集票のエサ」と答えたい。
というのも、すでに我々は公共事業の景気浮揚効果は大きくはないことを学習しており、かえって国債の負担のツケをまたも後代に残していまうことになりかねない。
ところで、安部政権の経済政策(アベノミクス)はカツテ「暴論」として遇されてきたリフレ派の主張を、公式に経済政策として取り入れたことを意味する。
「リフレ派」というのはマイルドな「インフレ」を意図的に起こすというというものである。
「通貨価値」の安定を至上命令とする日銀とは真っ向から対立し、日本ではナカナカ陽のめを浴びなかった。
ところで、安部氏のブレーンの一人である浜田宏一氏や伊藤元重氏が「リフレ派」に属する経済学者だが、リフレーションを単なるスローガンとしてではなく理論として提示されたのは当時上智大学教授(現学習院大学教授)であった岩田規久男氏であったと思う。
ところで、経済誌紙上で岩田氏と日銀官僚の翁邦雄との間で繰り広げた「マネーサプライ」の管理についての熾烈を極めた「岩田ー翁」論争こそが、「リフレ派対日銀派」の狼煙として位置づけられる。
経済学の教科書では、「マネーサプライ」(貨幣供給)は、市中の「現金通貨」と「預金通貨」の合計である。
ところで日銀がイジレルのが「ハイパワードマネー」といわれるもので、市中の「現金通貨量」と銀行の「預金準備」としての「現金通貨量の合計量」である。
日銀が操作可能な貨幣量「ハイパワードマネー」と実際に流通する「マネーサプライ」の比率が「貨幣乗数」で、「ハイパワードマネー」×「貨幣乗数」=「マネーサプライ」という式が成り立つ。
そして「金融緩和」とは「ハイパワードマネー」を増やして、「マネーサプライ」を増やそうとする政策である。
マネーサプライが増えるということは、資金需要があり、銀行が貸し出しに積極的で、預金通貨が次々に創造されていることである。
つまり「信用創造」が大車輪で稼動していることで、それは経済活動が「活発化」し、雇用も拡大していることを意味する。
問題は日銀が何度か金融緩和をやっても、なぜ「マネーサプライ」が増えないのかということなのだ。
これは、人々(企業)がオカネをなぜ「退蔵」させるのかという問題にも言い換えることができる。
結論を先にいうと、人々の心に「デフレ(物価下落)予想」が定着しているからである。
しかし、「インフレ(物価上昇)予想」に転換できればコノ問題は解決できる。
今安倍氏がやっていることはソノヘンの「心理戦」であり、これに成功しなければ嘘が誠の「真綿色した」日本経済はつくれない。
ところで最近の貨幣退蔵については「災害のトラウマ」または「災害予想」というものがあって、なかな根深いものがありそうだ
ケインズは貨幣を保有する動機を3つに区分した。「取引需要」、「投機的需要」、「予備的需要」の3つに分類したが、今の情勢の中で「予備的需要」が肥大化しているからではなかろうか。
予備的需要は、緊急にオカネの出費が必要な時にオカネを保蔵しておこうとするもの、つまり不測の事態に対処するために準備しておくオカネのことで、ケインズ理論の中でアマリ重要視されないものである。
それは予備的動機に基づく貨幣保有が、経済システムの「内政変数」ではなく経済外の要因によって決まる「外生変数」だからである。
「災害不安」は、防災面での設備投資を増やす面もあるが、それが「想定」を超える災害がおきる不安感であるとした場合に、企業が今行う設備投資をするのを控えたり、消費者が住宅投資をひかえたり、さらには株や債券などリスクをとる投資するよりも、「現金」を保有しておくという心理が働いているのではないか。
つまり、イツシカ大災害が起きると不安を持っていると、知らず知らず人々は「流動性選好」(貨幣保有)をする傾向がある。

ここで前記の「岩田ー翁」論争について簡単にふれたい。
リフレ派の岩田氏は「ハイパワードマネー」×「貨幣乗数」=「マネーサプライ」式に基づき、バブル崩壊後の90年代に適切なマネーサプライを行わなかった日銀を批判した。
それに対して、日銀の翁氏は、岩田氏が用いた「貨幣乗数」には「乗数」の意味はなく、マネーサプライとハイパワードマネーとの「事後的な」比率に過ぎないとした。
翁氏によると、市中銀行の「貸出し態度」によってマネーサプライの大きさが決まり、それに見合うように日本銀行はハイパワードマネーを「受動的」に供給するしかなく、「超越的」にマネーをコントロールしているわけではないからだという。
翁氏の主張は、理論的というより日本銀行が所要準備の「後積み」を行っているという実態に基づくものであった。
つまり不況に陥ったのだから、日銀も市中銀行の「貸出態度」に受動的に動かされて、ハイパワードマネーの供給を縮小したのだという。
岩田氏は「貨幣乗数」の安定性を前提としたが、「貨幣乗数」を実証的にみると1992年頃には約13だったものが2000年以降は10を切るまでに低下し続けている。
そのカギリでは貨幣乗数は「安定的」ではなく、翁氏がいうとうり日銀がマネーサプライをコントロールしているとはいえない。
しかしソモソモ、日銀は「市中銀行」の貸出態度に影響されて「ハイパワードマネー」の供給を変えるものなのか。
また翁氏の主張どうりなら日銀の80年代末のバブル膨張並びにバブル崩壊の失敗の責任を回避できたとしても、逆に日本銀行の「存在意義」を弱めることになる。
面白いのはリフレ派の浜田宏一氏と、日銀総裁の白川方明氏は、東京大学で子弟関係である。
ちなみに岩田氏は東大で小宮隆太郎の弟子である。
浜田氏は教え子の白川氏について次のようなことを書いている。
経済学者には、数理的な能力と、そこで得た洞察を政策問題に適用して考える能力が必要だ。
白川氏には、その二つが兼ね備わっていた。論理的な構想力、つまり論理とその背景を精密につかむ力にも、目を見張るものがあった。そして、真面目で努力家でもあった。
白川総裁誕生の時、きちんとした理論、数字の裏づけをもって、外国語で世界のリーダーと対等に話ができる総裁が出たと思った。
しかし、彼は出世への道を進むと同時に、世界でも異端というべき「日銀流理論」にスッカリ染まっていき、何度となく落胆させられたと語っている。
人の見方は色々あろうが、「日銀流理論」は国際スタンダードからはずれていることは確かである。
日本銀行は伝統的に「通貨価値」の安定を第一の責務としており、インフレ懸念が強い金融緩和に微温的にナラザルをえない面がある。
そのことに一石を投じる発言をしたのがアメリカのノーベ賞学者のクルーグマン博士だった。
実は「リフレ派」の理論の基盤を提供した人こそ、このグルーグマン博士であった。
クルーグマン博士の提唱以来、ほとんどの先進国が「インフレターゲット」を導入してきたのだが、日銀理論がハバをきかせたのか、その導入を渋ったのは先進国では日本ぐらいであった。
クルーグマン博士の提言には「インフレ予想」の形成を経済回復のポイントとしており、安部内閣もそれを踏襲している。
この「インフレ予想」がオカネを回すことは我々の生活実感からも容易に推測できる。
反対にオカネの回りを悪くするのが「貨幣の退蔵」であるが、「貨幣退蔵」についてはケインズ経済学の「流動性のワナ」に教えられるところ大である。
人々は、モノの取引以外のオカネで金融資産に投資すれば利子を稼げるのにナゼ貨幣の形で保蔵するのだろうか。
資金需要がなく、市中の利子率がほとんどゼロ近くまで下落すると、貨幣保有のコスト(もらえたはずの利息)もゼロになるからである。
この時、人々は資産を債券ではなくスベテ貨幣で保有しようとする(流動性選好)ので、政府がどんなに「ハイパワードマネー」を拡大しても、人々の「貨幣退蔵」によって、信用創造は拡大せずマネーサプライも増えない。
ケインズ理論はこの状態を「流動性のワナ」といい、このワマにはまってしまうとイカナル金融緩和をもってもしても利子はこれ以上さがらず、その結果「デフレギャップ」が消えず、政府が公共事業をもってそのギャップを解消するほかはないという理論である。
ところで、前述のクルーグマン博士は、「貨幣の退蔵」について「インフレ予想」(デフレ予想は、マイナスのインフレ予想とする)の観点から説明している。
つまり、クルーグマン版の「流動性のワナ」論である。
名目金利はゼロ以下には(物理的)に下げられないが、金利が非常に低くても人々が将来に物価がさらに下がるという「デフレ予想」の下では予想実質金利はプラスなのである。
予想実質金利がプラスということは、今どんなに金利が低かろうと、オカネを借りる側の負担はデフレによって大きくなるという予測であり、有効需要に転じるハズの資金需要が「過少」になるということである。
だから金融緩和で短期金利(政策金利)をゼロにしても、マクロの超過供給は解消せず物価には「下落圧力」がカカリ続ける。
こうして経済は金融政策では不況を脱出できなくなってしまう。
これが、クルーグマン流の「流動性の罠」論である。
結局、金融が景気を刺激するほどに緩和されているかの基準は、公定歩合でもその他の金利ではなく、資金の最終的借りてにとっての「予想実質金利」ということである。
「予想インフレ率」を加味した「予想実質金利」でみるかぎり、金融はバブルがはじけた90年以降93年まで、緩和どころかムシロ引き締められ続けたのである。
これでは景気刺劇効果がないのは無理もなく、日銀はモット金融緩和すべきであったということになる。
この観点は、リフレ派が日銀政策を批判する際の大きな論点となった。
クルーグマンの分析は日本銀行を中心にした日本の政策当局者の多くをトマドワせ、さらには彼らにクルーグマンに対する反感を持たせた。
日銀の金融政策政策委員会の大勢はクルーグマン提案の受け入れを拒否し、ついには「ゼロ金利」ですら解除してしまった。
では、安部氏が導入した「リフレ」派が描く日本経済復活のシナリオというものはどのようなものだろうか。
貨幣供給(マネーサプライ)を拡大するためには、ハイパワードマネーを拡大しなければならないので、震災対策を「奇貨」として(例えば)10兆円ほどの国債を発行行して基本的には全量日銀に買いオペレーションしてもらう。
その際に、それに見合うだけのお札を刷ることになる。
これは直ちに建設に向かうから、直ちにお金は(市中に)出ていく。
これは間違いなく円安そしてインフレに誘導されると言う筋書きである。
ハイパーインフレにならないように、2パーセントあたりを目標値として制限をかけておくき、これを上回った場合には直ちに(金融緩和を)止めるという政策である。
これが「インフレターゲット」論である。
ただし、公共事業の財源調達(国債発行)によって長期金利があがり、さらに財政負担を重くさせるばかりではなく、金利上昇は民間投資を締め出す「クラウディング・アウト」を引き起こすという問題点がある。

就任前から安部首相が語った「日銀法を改正しても金融緩和を行う」という発言は、政府の「本気度」を示すという意味ではヨシとしても、少なからぬ波紋をよんだ。
金融緩和は本来中央銀行が行うものだが、果たして政府がどれくらい口出しできるものなのか。
政治には三権があり「司法の独立」という言葉があるが、「日銀の独立」という言葉はあまり聞かないものだが、ちゃんと存在している。
中央銀行の独立性の当初の意義としては、政府の資金調達からの「分離」が挙げられる。
西南戦争(1877年)の戦費を賄う財源が当時の明治政府にはなかった。
政府は紙幣を大量に発行してその支出に充てたが、それが激しいインフレを招いた。
お金を生み出せる「打ち出の小槌」が手元にあると、為政者はそれに誘惑されてしまう。
そこで大蔵卿(財務大臣)の松方正義は、欧州を見習って、政府から分離した日銀を発足させ、紙幣発行をそれに行わせることによって通貨価値の安定を狙った。
しかし、紙幣発行を政府から分離しても、中央銀行に国債購入を約束させて政府が財政赤字を膨らませたら同じことが起き得る。
戦前・戦中の軍事費調達のための日銀国債(直接)引き受けの失敗を反省して作られたのが、「日銀の国債引き受け」を禁じる「財政法第5条」である。
実は日本銀行は、1997年の日銀法改正によってその「独立性」を高め約15年間、独自に目標を設定し手段を選択してきたのであったから、ここで「日銀法」を改正するというのであれば、「日銀の独立性」が危険にサラサレルことになる。
現総裁である白川方明氏は、物価安定と独立性を掲げる人物なのだそうだが、新聞によると安倍氏が復活させた経済財政諮問会議が、両者の「政策協定」の場になりそうなのだという。
ところで、インフレターゲットというのはマネーサプライを管理する日本銀行が設定するのが自然だが、その目標値を安倍首相が宣言したというのだから、政府・日銀が一体となって「真綿色した」日本経済をつく出すんだという意気込みを見せたといえる。
それに応えるかのように、市場は反応し株価は上がり、円安となったからだ。
政府と日銀が一体化することの危険は、何もハイパーインフレの危険性にツキルものではない。
政権主導の経済政策は、選挙のタイミングを見計らって短期的な好景気対策を発動したり、アナウンス効果によって株価を上げたり、後世代にツケを回したりすることによって、経済の実勢から外れてしまい、結局は金融政策の信頼性を損なう可能性が高いということである。
最近、原子力規制委員会の一人が語った言葉が印象に残った。
その委員によれば、「活断層」かどうかをヨウヤク科学的見地から発言できるようになったという。
逆にいうと、今までは様々な思惑に絡み取られて「非科学的」な発言をしてきたということなのだ。
「日銀の政策」についても同様な問題を孕んでいる。
果たしてアベノミクスは、真綿色した日本経済を本当に作り出せるか、香りで誘っておきながら「真綿」で国民の首を締めるダケのものなのか。