ドリームチーム

わが人生たった一度だけ見た大リーグの試合は、「オ-クランドアスレチクス対ミネソタツインズ」戦である。
もう30年も前、カリフォルニアのオークランド球場で友人と観戦したが、この試合1-3でアスレチクスはツインズに敗れた。
大リーグの試合を見て印象的だったのは、投手が投げるテンポの速さで、ポンポン投げるという感じだった。
また「応援風景」も日本とは随分違っていた。
アメリカ人は皆に合わせて応援したりせず、また誰にも強要せず、個人個人が勝手気ママな応援をする。
また、日本ではそれまで見たことのなかった「ウェイブ」が行われていたことであった。
最近では、2011年のわずか1年、松井秀喜選手もオークランドアスレチクスに在籍していたが、あまり活躍の機会はなかった。
松井がイタこの年の秋、ニューヨーク・ウォール街から広まった「経済格差是正」を叫ぶ住民の声は、カリフォルニアまで広がっていた。
10月10日から「オークランドを占拠せよ」運動が本格的に始まり、オガワ・プラザ=市庁舎前広場の占拠と、金融資本及び連邦・州・市当局に対するデモが連日行われた。
その出撃拠点となったオガワ・プラザは150のテントで埋め尽くされ、ココに警察が襲いかかり、「大激突」となったのである。
溯れば1869年に、オークランドは「大陸横断鉄道」の完成により開けていった町である。
バークレーとサンフランシスコの間にある港湾都市で、労働者が多い町である。
また1906年にサンフランシスコに大地震が多くの避難民が流れ込み人口がふえ、オークランドにもチャイナタウンができた。
実はこのオークランドの町は、日本の戦前の「労働運動」と関わりが深い。
高野房太郎は1886年に17歳にしてサンフランシスコに渡った。
そして印刷所を経営する在サンフランシスコの日本人労働者たちに働きかけ「加州日本人靴工同盟会」を結成した。
これが1897年に東京で結成される「労働組合期成会」の母体となったといわれている。
また幸徳秋水は、1904年、堺利明とマルクスの「共産党宣言」を翻訳発表し即日発禁されるが、翌年「新聞紙条例」で入獄し、7ヵ月後に出獄し1905年11月14日、伊予丸でサンフランシスコに渡っている。
出獄後の健康回復のためと同じ、高知出身で印刷所を経営する岡繁樹らが設立した平民社桑港支部を日本の革命運動の「震源地」とするためであった。
ところが、渡米中の1906年サンフランシスコ地震に遭遇し、一時的に私有財産や貨幣価値が無効となった事態に接し、皮肉なカタチで「平等な配給社会」を垣間見た感じがしたという。
幸徳秋水はオークランドの地で仲間と共に「社会民主党」をつくった。
実は、幸徳秋水がオークランドの社会民主党のために書いた文書が、帰国後に明治国家によってフレームアップされて「大逆事件」へと発展し、その結果「死刑」となるのである。

さて最近、かつて見た「オ-クランドアスレチクス対ミネソタツインズ」の戦いを「30年ぶり」に見た。
といっても、球場に行ったわけではなく「マネーボール」(2011年公開)と題した映画の中でのことである。
それは2002年アリーグ優勝決定戦で、アスレチクスが2勝3敗で敗れた「最終戦」の映像であった。
また映画「マネーボール」は、2003年に「新生」アスレチクスがアリーグ記録の「20連勝」を達成した時のドラマを描いていた。
序盤11-0でアスレチクス「楽勝」と思われたが、ロイヤルズの反撃で11-11に追いつかれた。
しかし、延長10回サヨナラホームランで、アスレチクスは12対11でロイヤルズを破り、奇跡の「20連勝」を達成したのである。
イイ選手はどんどん他球団にもっていかれ、スター選手はいない、金もない球団としては「20連勝」はマサに奇跡だった。
そして映画に描かれたとうり、この球団が強くなった要因は、1人のジェネラル・マネージャーの存在が大きかった。
主人公のジェネラル・マネージャーは、今日の「ビッグデータ」時代を予感させるようなカタチで「統計学」を用いたのである。
彼は、エール大学出身の若者が行う野球データの分析に着目し、若者を自分の「参謀役」に置く。
そして「打率」ではなく「出塁率」でデータを見直すと、選手たちの評価が全く変わってくる。
映画では、ジェネラルマネージャー自身、名門大学かプロ野球かで迷った末に、プロを選び選手として「挫折」した経験をもっている。
球団やスカウトなどの「人間の目」や人間のカンのようなものをアマリ信用していなかったのかもしれない。
そして「貧乏球団」の予算制約の中で、あくまでも「費用対効果」をネラッた。
しかし新生メンバーにおける大胆な「守備の入れ替え」でシーズンがスタートするも、最初はツマヅキの連続で一体何をヤッテンダ、何をヤリタイんだと「非難の的」となっていった。
しかし、選手たちもヤッタこともなかったポジションにも次第に慣れ、選手たちにジェネラル・マネージャーの考え方が定着するにつれ勝数が増え、ついにはアリーグ記録の「20連勝」をなしとげてしまうのである。
しかし前年に引き継いでアリーグ優勝決定戦でレッドソックスに2勝3敗で破れる。
結果が出なければ、ソモソモ「統計学」で勝とうなんてトンデモナイ、「邪道だ」とコキオロされた。
しかし、有力選手を引き抜かれた上で、勝ち星は去年に優っていたのだから、充分に褒められても良いハズの成績だった。
しかし、ジェネラル・マネージャーの表情にも笑顔はなかった。
二年連続で「あと一歩」届かなかったからだ。

「オークランド・アスレチクス」の物語を見て、自分の記憶の中で蘇ってくるチームがある。
1970年代の終わりごろ当時「雑草軍団」と呼ばれた「近鉄バッファローズ」が快進撃をした。
ある時期まで近鉄は完璧な「弱小球団」だった。
近鉄バッファローズの歴史は、1950年のプロ野球の「2リーグ分裂」と同時に始まっている。
近鉄は、1950からパリーグで4年連続最下位、1958年からも5年連続最下位、1964年から4年連続最下位という「実績」がナニヨリもそれを物語っている。
「万年最下位」と酷評されていた球団に「転機」が訪れたのは1974年の名将・西本幸雄の監督就任であった。
西本監督は大毎で1度、阪急で5度のリーグ優勝を果たした実績を持っていた。
そして、西本監督就任から6年目の初のリーグ優勝と続く年の優勝は、「日本シリーズ」で忘れがたいドラマを生んだ。
日本シリーズで2年連続広島と対戦し、まるでビデオの「再生」を見るような第七戦・最終回の「2死満塁」の場面ことである。
二年続けて、広島のピッチャー江夏豊がマウンドにいた。そして近鉄は江夏の前に二年連続で抑えられ、優勝にアト一歩届かなかった。
結局、西本幸雄監督は、監督として8度のリーグ優勝を果たしながら、1度も日本一になることができず、「悲運の名将」と呼ばれるようになった。
そして1981年にはフタタビ「最下位」転落して以降、近鉄は再び弱小球団に戻っていた。
しかし、1987年も最下位だったが近鉄バッファローズが1988年に、仰木彬監督が就任して新しい「局面」を迎えることとなった。
エースに育った阿波野秀幸や「途中」入団のブライアントらがいて、シーズン最終試合となる10月19日のダブルヘッダーで2連勝すれば王者西武を超えて「逆転優勝」というところまでコギツケタのである。
ブライアントが入団したのは、主砲のデービスが大麻不法所持により逮捕・退団となり、デービスに代わる選手が必要だったからだ。
そして当時、中日ドラゴンズで「第三の外国人選手」だったラルフ・ブライアントを、6月28日に金銭トレードで獲得した。
この時、首位の西武ライオンズと2位近鉄は8ゲーム差だった。
それが9月半ばの段階で、首位西武と2位近鉄は6ゲーム差ついていたので、やはりゲーム差は大きかった。
近鉄は10月7日から19日にかけての13日間で15連戦(ダブルヘッダー2回)というハードスケジュールの戦いをこなす。
コノ頃からの近鉄の勝率の高さは、映画「マネーボール」で解説者がいったような「何か不思議なことが起きている」という表現がピタリだった。
そして10月19日、運命の対ロッテ戦・ダブルヘッダーの日を迎えた。
1試合目は1-3とリードを許していた近鉄が8回に村上隆行の2塁打で同点とした。
まず、ダブルヘッダーでは1試合目は何があろうと9回で打ち切り、「延長はなし」と決められている。
そして9回表に4-3で逆転という試合展開は「奇跡」に近いものがあった。
逆転打は現役最後の打席である捕手の梨田であった。
これでナイターで行われる2試合目で勝てば「優勝」が決まる。しかし「引き分け」でも、優勝は西武にもっていかれることになっていた。
騒然とした雰囲気で「2試合目」は始まった。
近鉄は7回で4-3とリードし、8回裏にエース阿波野がマウンドに立った。
近鉄のナインも観客も全国のファンも目の前のリーグ優勝を確信した。
しかし、ロッテの主砲高沢が同点のソロホームランを打った。
テレビは9時で終了だが、視聴者の要望で急遽この試合にキリカエ放映していた。
22時から開始の「ニュースステーション」でもメインキャスターの久米宏が番組冒頭から「今日はお伝えしなければならないニュースが山ほどあるのですが、このまま野球中継を続けます」と語ったのは今でも覚えている。
また「伝えなければならないニュースもあるし、誰か助けてください」の一言と共に当初予定していた放送内容を全て飛ばして中継を続けた。
当時、4時間を超えたら新しいイニングに進むことはないという規定だった。
9回裏ロッテの攻撃中、牽制球で二塁ベースから離れていたとしてアウトを宣告した。ロッテ側は、近鉄の大石が走者をを故意に押し出した「走塁妨害」を主張した。
この抗議の時点で、試合時間は3時間30分を過ぎていたが、有藤監督の執拗な抗議に約10分も費やした。
そして延長10回表(近鉄の攻撃)が終わった時点で10時40分となった。
イワユル「4時間ルール」まであと4分しかなかった。
諦めムードが支配し守備に着く選手の足取りが重い中、或る選手が「1人1分で抑えれば11回に入れる」と励ました事や、加藤哲郎が投球練習を拒否してすぐプレーをかけさせた事などの「美談」も残っている。
しかし、近鉄「守備」の途中で「時間切れ」で新しい回にはハイレズ、「引き分け分け」で優勝を逃した。
しかし「近鉄劇場」はこれで終幕とはならず「つづき」があった。
ちょうどアノ最終戦最終回2死満塁での江夏との対戦の時のように。
1989年にシーズンの近鉄は、西武・オリックスとの「三つ巴」の壮絶な首位争いを繰り広げていた。
そして、近鉄は追い込まれた状態で運命の10月12日を迎えることになる。
今度は、4連覇中の王者西武とのダブルヘッダーで、またしても「逆転優勝」するためには「2連勝」が必要であった。
ブライアントがこの試合の4回に46号ソロ、6回に47号満塁アーチで5-5の同点に追いついてしまう。
そして、圧巻は8回表、西武が慌てて出したエースの渡辺久信からブライアントは、48号逆転の勝ち越しソロを放ってついに6-5となった。
そして3連発のブライアントは、試合の全6打点を1人で叩き出し、近鉄ハソノママ勝利した。
そしてダブルヘッダーの第二試合、ブライアントは1試合目から続いて4連発目となる先制の49号ソロを放ち、あとは近鉄の猛牛打線が爆発するだけだった。
そして14-4で大勝し「優勝」を決めた。
最終順位は、1位近鉄 71勝54敗5分 「勝率.568」、2位オリックス 72勝55敗3分「勝率.567」、3位 西武69勝53敗8分「勝率.566」である。

映画「マネーボール」は、オークランド・アスレチクスという貧乏球団を強力球団に変えたジェネラル・マネージャーの物語である。
この映画のタイトル「マネーボール」の意味は映画を見始めてスグニわかる。
選手があたかも「人身売買」のようにお金で取引される。
「1対3」というふうに選手がマルデ品物のように「交換トオレード」される。
新聞などでは、選手年棒の総合計から「何万ドル対何万ドルの対決」という書き方がなされた。
マネージャーの会議では「欠陥品」「中古品」「消耗品」といった言葉がとぶ。
主人公であるジェネラル・マネージャーの考え方は、「選手を買うのではなく勝利を買う」という発想の転換である。
また、選手登用やランナップを、統計データを参考に全く「新しい視点」で選手を見なそうとしたところに特徴がある。
この「マネーボール」の提示する問題は、野球界ダケの話ではなく組織一般に通じる。
組織の「改革」は自分達の存在、ヤッテキタことを否定することになるので困難を伴なう。
従来とは違う「新しい視点」が生かされると、多くの人々の長年の経験が生かされない。つまり「存在価値」がなくなる。
具体的には、スカウトなどの存在意義がなくなるのである。
ビジネスや政治の世界でも、既得権力を築いた者達が「改革」に反対するのは、そのヘンなのだ。
しかし球団の事情はどうあれ、観客は野球に「夢」を求めている。
しかし名門チームであればあるほど「既成権力」が強く「改革」はママならないことが多い。
落ちるところまで落ちないと、人間は自分を組織をナカナカ変えようとはしないからだ。
シーズン終了後、このジェネラルマネージャーはレッドソックスからの「高額の給与」でオファーを受ける。
しかし彼は、この球場でしか果たしえないことに気がつき、アスレチクスでしか出来ないことがあると考えた。
オークランド・アスレチクスという「弱小球団」だったからこそ改革できたのであり、「貧乏球団」だったからこそ、多くの人々に「夢」を与えることが出来たのだ。
そして「何倍もの報酬」を拒否して、オークランド・アスレチクスに留まることになる。
そしてアスレチクスの「快進撃」はオークランドの町の人々に勇気と夢を与えたに違いない。
映画のタイトルは「マネーボール」だが、映画のメッセージは、「お金じゃないよ」ということである。
お金以上に夢をボールで追うのが野球、つまりは「ドリームボール」ということである。
そして2006年アスレチクスは「アリーグ優勝」を果たして、ジェネラル・マネージャーの理論の正しさを証明した。
さて日本の野球界を見ると、当時の読売巨人軍は金にまかせてスター選手を集めて「ドリームチーム」などとよばれていた。
対照的に1979年に近鉄バファローズが初の「リーグ優勝」を果たしたとき、みんな「野球界のエリート」ではなく、西本監督の指導の下に、ファームから叩きあげの男達だった。
「平野、羽田、栗橋、小川、石渡、有田、梨田、吹石(吹石一恵の父)」ら。
失礼ながらイケメンはおらず、華のある選手もいなかった。
唯一イケメンの梨田の打法は「こんにゃく打法」とよばれたし、途中入団の外国人選手ブライアントだってエディ・マーフィに似ていた。
しかし一丸となってヒタムキに戦うこのチームは、今に至るまで人々に勇気と感動を与え続けずにはおかない。
勝ってアタリマエのチームが何で「ドリームチーム」と呼べるか。
そういう意味で1979年/80年の「近鉄バッファローズ」、2002年/03年の「オークランドアスレチクス」 のようなチームをこそ「ドリーム・チーム」と呼ぶのが正しい。