暁の男たち

1975年制作「暁(あかつき)の七人」というアメリカ映画があった。
イギリス軍が、ナチスドイツのチェコ占領により、イギリスに亡命したチェコの若者7名を「特訓」して、占領軍総督の暗殺を企てた「実話」に基づく物語である。
TVで、アウンサン・スーチー来日の映像を見た時、この映画「暁の七人」を思い浮かべた。
日本軍が、イギリスからのビルマ(現ミャンマー)独立をめざす、ビルマの若者30人を猛特訓した出来事を思い出したからである。
彼らは「ビルマの独立」という国家のアカツキに居合わせた若者達でもあった。
この若者達は、「ビルマ独立」という熱いキズナで結ばれていたが、アウンサン将軍と、その娘スーチー女史が後に戦うことになる「軍事政権」の首領ネ・ウィンがいたのは、運命のイタズラともいえる。
ビルマは、115年の長きにわたりイギリスの植民地であり、1942年にようやくイギリスから「独立」を果たす。
それは、太平洋戦争開戦とともに破竹の勢いで進軍する日本軍が、イギリス軍を駆逐し、首都ラングーンを陥落した時である。
当時、アジアの国々には有力な指導者もおらず、武器もなく欧米の列強支配に甘んじる他はなかった。
そこでビルマの若者達は、日露戦争における日本の勝利に「曙光」を見出そうとしていたのである。
鈴木敬司大佐を長とする南機関は、背後で「ビルマ独立」に燃えるアウンサン将軍ら30人の志士を「極秘裏」に訓練していた。
鈴木敬司は偽名を「南益世」を名乗ったことから「南機関」とよばれた。
海南島の訓練は厳しいもので、志士のひとりは「ビルマがもし海南島から陸続きだったら、どんなに困難が待ち受けていようと逃げ帰った」というほどだった。
訓練の厳しさだけでなく、習慣の違いもあった。
ビルマでは親でも子供を殴らないため、日本式の体罰(ビンタなど)にはビルマ人にとってショックであった。
しかし、独立のためと不満をエネルギーに変えていった。
ただし、イギリス人はビルマ人とドンナに親しくなっても一緒に食事したりはしない。
しかし日本兵と一緒に食事し、一緒に寝転がって喋るなどやっているうち、日本人とビルマ人との間に「信頼関係」が芽生え増していった。
ところが、日本と英米との開戦(太平洋戦争勃発)によって「事態」は急変した。
「南機関」は、或る「国家的使命」を帯びていた。
日本と中国と戦争した際に、アメリカやイギリスが中国・蒋介石政権へビルマの港から輸送する物資のルートを「遮断」する必要があった。
これがいわゆる「援蒋ルート」で、それを遮断スルために、ビルマに「親日政権」をつくる使命である。
イギリスの物資援助を受けて中国は日本と戦ったが、ビルマはイギリスに支配されていたがゆえに、イギリスは日本とビルマの「共通の敵」であった。
南機関を率いた鈴木敬司大佐は、イギリスによる独立運動の弾圧の中、クーリーに変装してアモイに逃れたアウンサンらを脱出させ、故郷・浜松で匿まって絆を深め、ビルマの独立を支援することを約束した。
そして南機関は、ビルマの建壮な若者30人を選んでビルマと気候のよく似た中国・海南島で「地獄の猛特訓」を施し、「ビルマ軍政」の基盤を作ったのである。
一方で日本関与の影を消すために、中国製の小銃を手渡したりしている。
前述のとうり、この日本軍(南機関)が育てた「30人の若者」の中には、スーチー女史の父・アウンサンや、その娘スーチーが将来戦う軍政独裁政権を率いたビルマ首相ネ・ウインもいたのである。
しかし、南機関の歴史を語ることは、ビルマが「親日」から「反日」さらに「抗日」へと変遷する過程を語ることでもある。
それは、真珠湾攻撃つまり太平洋戦争勃発により、情勢が大きく変わったことによる。
つまり戦争のため、アジアに「大東亜共栄圏」という実質日本による「アジア植民地化」の流れが生じたからである。
そして1942年3月9日アウンサンらが日本人を含むビルマ国防軍をひきいてラングーンを解放したものの、今度は日本軍がイギリスに代わって「軍政」を敷いた。
この時の日本軍政下の日本軍人の「横柄さ」は、仏教徒の多いビルマ人の心証を相当悪くした。
アウン・サンにとって南機関は「恩人」であったが、1941年2月南機関を直属とした日本・軍部の横暴を見せられるにオヨビ、「親日」から「反日」へと変わっていく。
ただし、「大東亜共栄権」が喧伝される以前に、日本の財界にはアジア人同士の「純粋な共感」に基づくアジア独立を支援する空気があった。
日本には、日本軍上層部とは違い、「アジア人のアジア」という「大義」以外何の野心も栄達心もない「義侠の人々」が多くいたのも忘れてはならない。
戦前、ビルマとビジネスで関わりが深かった人々の中に岡田幸三郎という人物がいる。
俳優の岡田英次は幸三郎の甥にあたり、岡田氏の娘が作家・遠藤周作の妻・順子である。
その関係で、遠藤順子女史は「ビルマ独立に命をかけた男たち」(2003年)という本を書いている。
岡田氏は慶応卒業後に台東拓殖会社に就職し台湾に赴任し、製糖工業の実態調査のためにジャワ・インド・ビルマなどに出張を繰り返すうち、欧米の植民地支配から脱出しようとするアジア民衆の動きに「共感」をもつようになった。
岡田氏は、南機関の人々を社員として自由に行動できる「便宜」をハカリ、資金援助をした。
しかし日本軍によるビルマ軍政により、鈴木大佐や岡田氏とアウンサンとの友情もいたく傷つけられていった。
アウンサンは、当初日本軍と協力してイギリスと戦おうとしたが、イギリスに代わってってビルマを植民地化しようとした日本軍に対して、兵を翻して日本軍と戦うことになる。
「北伐」を命じられラングーンを出発したアウンサンら9千人あまりの兵士は、北方50マイルのペグーで、「敵は本能寺」とばかりに反転する。
日本軍により軍事訓練をうけて育てられたアウンサン将軍率いる「ビルマ国防軍」は、夜間突然にソノ日本軍に対して銃口をむけたのである。
1945年日本が敗戦し、アウンサンらは1947年にイギリスから最終的に独立を勝ち取るが、あと5日後に「新憲法発布」の時、建国の英雄アウンサンは「政敵」によって暗殺されてしまう。
この時アウンサンは32歳で、娘のスーチーはわずか2歳であった。

日本とミャンマー(ビルマ)は、「戦場にかける橋」「ビルマの竪琴」などの戦争映画の舞台としてよく知られている。
スーチー女史は父親のアウンサン将軍の日本での行跡を辿るために京都大学で学んだこともある。
そのとき「ビルマの竪琴」をみたそうだが、個人的には土佐藩によって「30年近く」も軟禁された野中兼山の娘「苑という女」(市川昆監督/1975年)を見たら、深い共感をもって見ることができたに違いないと推測する。
ところで、独立後のビルマを率いたのは、ネ・ウィンである。
ネ・ウインは「30人の志士」として日本軍による軍事訓練を受けた。
そのとき名乗った日本名は「高杉晋」であった。
アウン・サンの下でビルマ国軍の幹部となり、「アウンサン」の下でビルマ国軍の幹部となり、「アウンサンは建国の父だが、自分は健軍の父だ」が口癖だった。
26年間にわたる独裁政治の後、民主化運動が盛り上がった1988年に表向きすべての公職を退いたが、その後も軍事政権への影響力を持ち続けた。
ネ・ウインはクーデターで権力を握ると、ビルマ社会主義計画党を結成し、その議長に就任した。
ネウインは、マルクス・レーニン主義を掲げることなく、「国民はすべて平等であるべき」という素朴な社会主義思想をもっていた。
ただそれまでのビルマ経済が、インド人や中国人に実権をにぎられていたため、彼らを追放してビルマ人だけで経済運営をしようとした。
その結果、ネウィンはビルマを「鎖国」に追い込んだ。
外国企業がビルマに進出できなかっただけではなく、外国人はたとえ観光目的であっても、入国が困難となった。
ビルマの一般国民が海外に出ることも出来なくなった。
すべての企業を「国有化」し、インド人や中国人を追い出した後、企業経営を任せられたのは、ビルマ国軍の「軍人」たちであった。
上官の命令どうりに動く軍隊と違って、軍人の企業経営は思うようにも進まない。
まして、消費者のことを考えた生産など望むべくもない。
ネ・ウィン政権は、外国企業が国内で活動することを嫌ったため、国内の企業経営が不振に陥ると、それは即ビルマ経済全体の落ち込みを意味した。
生産の低下に伴なって輸出が減り、外貨が獲得できなくなると、輸入も減らしてしまった。
人々の中から、次のようなジョークも生まれた。
「ネ・ウインは本当は凄い反共主義者なんだぜ。だから、社会主義がどんなに醜いか、世界中によくわからせるためにビルマ式社会主義をやっているんだよ」と。
2002年3月、ネウィンの娘婿と孫の計4人が、クーデターを計画していたとして逮捕されるなど、晩年には影響力を失い、2002年12月5日、91歳で亡くなっている。

かつてビルマは、一旦は社会主義をかかげたものの失敗し、民衆の不満や怒りが鬱積している中、1988年に学生の抗議デモが爆発した。
イギリスで平凡な主婦として暮らしていたスーチーは、43歳の時たまたま母の看病で帰国していた。
ところが、スーチーが帰国していることを知った民衆により、「反政府運動」のリーダーに担ぎ出される。
オックスフォードを出た才媛とはいえ、政治の実際からいうと完全な素人である。
しかし、その彼女がたちまちカリスマ性を発揮し、圧倒的な人気を博し、「ビルマ民主化」運動のシンボルになっていく。
しかしこれに脅威を感じた時の軍事政権からウトマレ「自宅軟禁」に処されてしまう。
電話線を切られ、家の周囲は装甲車で固められた。
また、湖から監視艇が浮かんで常に目を光らせていた。
スーチー女史は、インド外交大使となった母に連れられインドで過ごした。
1964年、19歳でオックスフォード大学に入学をし、1985年10月から86年6月まで、日本に滞在し父・アウンサンの行跡を調べている。
その間、父親を知っている人々つまり「南機関」の関係者等ににインタビューして、子供達は日本の小学校に通た。
京都大学客員研究員として在籍したが、その大半が「父の面影」を求めての日本滞在であった。
スーチー女史40歳までは政治の世界とは無縁の主婦にすぎなかったが、「父親の七光り」ではスマナイ、スーチー女史特有の「オーラ」に人々が引き寄せられた感じもある。
イギリスで知り合った日本人女性は、スーチー女史について、きらきらしていて妖精のようだった。
若かりし日のオードリーヘップバーンのようだったと語っている。
ところでスーチー女史は、1972年26歳の時結婚している。
相手はオックスフォード大学で知り合ったヒマラヤ文化の研究家であるイギリス人のマイケル・アリス氏である。
スーチーの夫のマイケル・アリスは、1999年にイギリスで病死している。
1992年にマイケルがミャンマーを訪問して以来、二人は会えないでいた。
次第に病気が重くなったマイケルは、亡くなる前に一度妻に会いたいとミャンマー入国を申請するが、政府はコレを認めなかった。
一方スーチーは、病気の夫の見舞いにミャンマーを離れると、二度と帰国ができなくなる恐れがあると考え、見舞いに行くことを諦めた。
そして二人は二度と会うことはなかった。
妻が軟禁されたときに、まだ12歳と16歳だった二人人の息子をひとりで育てたアリス氏を不憫に想い、なぜ帰れないのかという気持ちを抱いた人も多くいた。
しかし、スーチー女史は「家族愛」よりもっと大きな愛を心に宿していたハズで、夫の子供たちもソレを誇りに思ったはずである。
ビルマではスーチー女史ばかりではなく、二千人から三千人の政治犯は獄中にあり、獄中で亡くなった者も多い。
スーチー軟禁のママむかえた1990年の総選挙で、彼女のNLD(国民民主連盟)は80%の票で圧勝した。
それににもかかわらず軍政府は「政権移譲」を拒んだ状態が長く続いた。
かつて父親が率いた軍がスーチー女史と対立しているのは皮肉な図ではある。
2009年5月、スーチー女史は、ミャンマー軍政により無断で自宅にアメリカ人接触したと「国家防御法違反」の罪で起訴され、その判決の行方が懸念されていた。
8月11日、3年の懲役が1年6か月の自宅軟禁に「減刑」され、周囲も含めひとまずは胸をナデおろした。
この時の自宅軟禁の言い渡しは3度目となる。
1991年ノーベル平和賞受賞時にも、スーチー女史の「自宅軟禁」は解かれることはなく、彼女に代わって当時18歳の長男と14歳の次男が授賞式に出席している。

東南アジアの国々は、山岳や河川によって国ごとに孤立していた。
この地域の戦後史は、ベトナム戦争はじめ混乱の中にあったが、中国の「市場経済化」、ベトナムの「ドイモイ政策」とともに、最近ミャンマーのヤンゴンで開かれたIT技術オタクの懇親会「バーキャンプ」がが、この地域に「風穴」を空けた感がある。
「バーキャンプ」とは、今から7年前シリコンヴァレーで始められて以来、最大の規模で、ミャンマーの主要都市ヤンゴンで行われた。
今年2月11日に、5000人以上の開発者とブロガーが、世界で最も「技術に飢え」た場所の一つであるヤンゴンに集ったのだ。
フェイスブックで呼びかけた最初の集会は2010年1月のことであった。
当時、ミャンマーは軍事政権による独裁が続き、東南アジアで「最も閉ざされた国家」として、欧米各国から批判を浴びている最中だった。
民主化運動の象徴、アウンサンスーチーの自宅軟禁が解かれ、民主化への動きが目に見えるようになったのは集会から10カ月近くたってのことだった。
「国をひらく兆し」ともいえる集会は、どうやって開かれたのか。
キッカケをつくった一人は、エミリー・ジャコビという人物である。
ニューヨークを拠点に、ソーシャルメディアを活用して世界各地の民主化運動を支援するNPO「デジタルデモクラシー」の代表である。
東南アジアでバーキャンプがない国がミャンマーであった。
ジャコブはたまたま立ち寄ったタイ・バンコクで、旧知の友人にバーキャンプに興味をもつ人がいたら教えてくれ、いつでも応援すると語った。
そしてミャンマーで、ジャコビの話に二つの団体が興味を示した。
ひとつは、言論の自由を訴えてきたミャンマー・ブロガー協会。もうひとつがネット技術者の育成を受け持つミャンマーコンピューター専門家協会。
この専門家協会が「政府」に打診したところ、ナント「許可」を得ることができたのだ。
資源はないわけではなく、かつては豊な国であったミャンマーは、国連で「最貧国」と位置づけられていた。
ミャンマーの背に腹変えられぬ事情があったのだろう。
インターネットが自由に使えなければ、コンピューター産業の発展はない。
その立場は国外の企業誘致を進めたい政府も同じであった。
会場も、IT拠点地区として開発中のミャンマーICTパークで開かれることになった。
集会の二日間、政府は初めて、国外のインターネットを遮断する「壁」をとりはらった。
最初のバーキャンプ集会から3年、「ミャンマーの民主化」は一歩ずつ進み、最近のミャンマー政府は、変化への寛容さによって世界を驚かせ続けている。
2012年1月には、政治犯ら約650人が恩赦で「釈放」された。
8月には約50年続いたメディアへの「事前検閲」が廃止となり、コノ20年余りにわたって国外から軍事政権を批判してきた「亡命メディア」がヤンゴンに取材拠点をかまえた。
2013年4月には、民間メディア二社に対し「新聞発」行の許可が出る予定だそうだ。
2012年2月に開かれたバーキャンプの集会では、アウンサン・スーチーが開会式の壇上にたち、「知識や情報をみんなで共有するバーキャンプの精神が、これからの国づくりに欠かせない」と挨拶した。
こうしたミャンマーの変貌とトモニ、スーチー女史の胸に「暁の男たち」のことが去来したのかもしれない。
それがこのたびの日本訪問ではなかったのではなかろうか。