無国籍化への道

環太平洋パートナーシップ(TPP)協定とは 太平洋を囲む多くの国々の間で結ばれている「ヒト、モノ、カネ」の流れをスムーズにするための「経済連携協定」の一つである。
TPP参加問題を、農業の破壊とか公的医療保険制度の崩壊などの次元で捉えたダケでは、充分ではなく本質的でもない。
TPP参加は、日本国の「無国籍化」へ道である。
日本は長くデフレにあり、急速に高齢化がすすんでいる。
そこで今、関税を取り払い、輸出を増やし、一方で人の移動を自由にして労働人口を増やすべきだと考える人も多い。
だがヤミクモにTPP参加国とのリンクを目指せば、その結果、日本という国の「独自性」は次第に失われていく。
何もしなくてもソレは失われているのに、TPP参加は、日本国の「無国籍化」への扉を開くことである。
TPP参加から予想される人の移動の中には、看護師・介護福祉士にとどまらず、医師、弁護士、公認会計士といった「職業専門家」も含まれる。
具体的には、ビザの審査のハードルを下げることで、イッソウの移動の自由度が高まる。
海外からのヒトの移動の自由度が高まるとドンナことが起きるか。
最近、「初の外国人芸者」として東京・浅草で活躍してきたオーストラリア出身の女性が、置き屋や料亭の加盟する東京浅草組合に独立の許可を求めたところ、拒否されていたというニュースがでていた。
女性は豪有力紙に「外国人であるという理由だけで認められなかった」と述べた。
新聞によると、そのオーストラリア女性は2007年に芸者デビューした「紗幸さん」で、置き屋の主人が 病気になり、営業を続けることが困難になったことなどを機に「独立」の許可を求めたが、認められなかっ たという。
同組合は、日本国籍を有するという条件が規約にあるが、「短期」の勉強をしたいということだったので芸者になることを「特別」に認めた。
ソモソモ独立なんて「想定」していなかったと答えたという。
紗幸さんは15歳で日本に来て、日本の高校、慶応大で学んだ後、博士号を取得したオックスフォード大で 専攻していた社会人類学のフィールドワークがキッカケで「芸者の世界」に入ったそうだ。
紗幸さんは、「白人が芸者になるのは大変なこと。懸命に努力しただけに、とてもつらい」と語った。
本人は芸者を続けることを希望しているが、同組合によると、今年2月に所属する置き屋を「除籍」された という。
これからは、白人、アラビアン、アフリカンの芸者さんが京都の祗園に増えたとしても、それを変だと思ってはいけない。
TPP参加は、日本国の独自性を当面の「景気」「成長」「配当」などの目当てのために、「本源的」なものを譲り渡すことになりかねない。
例えば、アイルランドはもともと貧しい農業国だった。1990年代に入ると、12、5%という低い法人税率を謳い文句に、医薬やIT企業を海外から誘致し、同時に金融業を基幹産業に育てた。
アイルランドは、もともと農業国家であった。昔からの農業や漁業を捨て去り、金融を中心とした経済運営に舵を切ったことで、一時的にせよ国民は繁栄を謳歌した。
ところが、2008年9月にリーマン・ショックの直撃を受けると、国内の不動産バブルが崩壊し地価が下落した。
その結果、銀行の財務内容が急激に悪化し、だが、それはリーマン・ショックとともに吹き飛んでしまった。
理由は、「無防備」に自国の経済を世界経済にリンクさせた「代償」である。
農業国という国のDNAに反して、「金融立国」を目指したことにソモソモノ無理があった。
無国籍化された日本で、天皇は一体何を「象徴」するのだろうか。
日本は稲が多く取れることから瑞穂の実る国ということで、「瑞穂国」とよばれてきた。
もっと正確には、「豊葦原千五百秋瑞穂国」(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)が日本国の 「美称」としても使われていた。
そして天皇は、今も「田植え」をされる。
といっても皇居内の苗代で種籾を手まきされ、皇居内の水田で稲を手植えになるのだが、 世界中の王室の 中で君主自らが「農作業」される国は日本だけといってよい。
「瑞穂国日本」は今や死語となっている。

「相撲界」の八百長問題や「柔道界」でおきたパワハラなどの不祥事ナドは、日本人の精神と深く結びついたスポーツが、外国人に「開かれた」ことによって起きたという側面を無視できないと思う。
かつて半分ロシア人の血をひく大鵬は日本的美質を体験し国民的ヒーローとして愛された。
そして、今日の白鵬のように大鵬に憧れ、強さだけではなく「日本的美質」を受け継いた横綱もいる。
それでは、かつての「朝青龍バッシング」は何だったのだろうか。
朝青龍本人はそれほどの意図はナカッタにせよ、日本の伝統と文化を体現する大相撲の様式をシバシ逸脱していた。
荒っぽく、敗者へのいたわりに欠け、土俵上でガッツポ-ズするし、稽古時には若い力士に荒手のワザで重症の怪我を負わせるなどをする。
皆でやる巡業も平気で休むし、あらゆる面で「日本的美質」から遠い存在であった。
土俵上の立ち居振る舞いの中に、馴染んできた大相撲の姿とは「異なる」要素を見つけると、そのたびに不快な感じを抱く。
「朝青龍問題」が際立ったのは、大相撲という日本文化を体現する「国技の世界」であったからである。
かつての外人力士・高見山や小錦は強かったが、コロッっと転げる脆さが同居してカワイかった。
しかし、朝青龍は動きが機敏で身体能力が高くソノ強さが日本人の気にいらないところだった。
「シャルウイダンス」という映画を作った周防監督は、それ以前に「シコふんじゃった」という秀作を世に送り出している。
この映画の中で外国人が相撲部に入部し、相撲というスポーツに対する「違和感」を率直に語っている。
「なぜ尻を見せて戦わなければならないか」などの素朴かつ根源的な問いが語られていた。
朝青龍の中にも、ナゼそうしなければならないのかという疑問は、いくつもあったことだろう。
ただ朝青龍は、相撲を通じて日本文化の真髄を理解しようとは努力する気がなかった。
あくまでも、モンゴル人としてのアイデンティティの方を大切にした。
TPP参加ということは、カタチを変えた大小の「朝青龍問題」と戦わねばならないということだ。
「隣人」ではなく「他者」と出会ってこそ「国際化」である。
ひょっとしたら寿司にドレッシングをかけて食べる外国人もいるかもしれないし、天丼にケチャップかける外国人もいるかもしれいない。
コーラを飲みながら刺身を食べる外国人だっているに違いないし、オデンをナイフとフォ-クで切り刻んで食べる外国人だって出現するに違いないのだ。
つまり日本文化の「変容」を余儀なくされるのだが、一面不快を感じつつも反面それが面白くもある。
若い世代は、それを柔軟に受け入れられるかもしれない。
例えば、カリフォルニアで生まれたアボガドのお寿司なんてものも最初は「奇妙」だったが、日本文化に新しいヴァリエーションが付け加わったと思えばよい。
「隣人」とのおつき合いは安心で落ち着けるのだが、高齢化を迎える日本人が、インド人の介護士やフランス人の看護士のサービスを受けることもありうる。
初期の不快体験は、「国際化」の正常なプロセスだと思わねばならない。
ところで、ここ30年ほどで日本で外国を体験できるテーマパークのようなものが次々とつくられていった。
外国を真似たテーマパークやストリートは、その中で売られている商品も食事も「擬似外国」であり、いかにも雰囲気は「外国らしく」作られているが、やはり「外国」とは違うものである。
そこでいえることは、日本人の感性を不愉快にするものはあらかじめ排除された「擬似外国」なのだ。
つまり日本人どうしツマリ隣人同志で「外国する」というだけのことなのだ。
実際に、旅行者ヨーロッパやアメリカのレストランで食事をしておいしくなかったと語り、日本のフランス料理が一番おいしいというのも、様々な「違和感」が取り除かれているからである。
今まで日本では長く「国際化」とはいいながら、案外と注意深く「真正の外国」と出会うことを避けてきたともいえる。
真の他者と出会う体験の少なさこそが、今日の「海外志向」の若者の減少という結果をもたらした。
加えて、隣人同士の世界では「公共」の意識が育っていないということもある。

それぞれの国家にはその国家のDNAがある。
そのDNAに「外国」のブラッドが入ることに一定のウェルカムはあるが、度を過ぎると拒絶するというのが、どの国でも一定した反応なのである。
外国企業、外国人に「市場」を制覇されたりスポーツなどで「頂点」に立ち続けるというのは一種の「侵略行為」と看做されることかもしれない。
グーグルが中国インターネット市場を一気に制覇しようとすると、中国ではグーグルに対してマッタをかけたのも、その一例であろう。
「朝青龍問題」は、朝青龍が相撲の世界における「日本的美質」を踏みニジッタということだけではない。
日本人の「不快感」の極みにあることは、朝青龍がモンゴル人でありながら日本の国技の頂点にアリ、日本人の「誇り」を傷つけたという面が強い。
この点を思う時に、アメリカのバッシングをうけてきた「TOYOTA」のことを思い浮かべる。
アメリカでソノ問題がが最もよく表れたのが、「TOYOTA問題」なのだと思う。
だから「朝青龍問題」と「TOYOTA問題」は、「国民」の誇りを傷つけたという意味で似かよっている。
自動車の開発は、そのプロセスにおいて、国民のナショナリティと文化的オリジナリティを背負って開発されたものなのだ。
つまり製品とは「国籍」を背負っているということだ。
その一番の典型はキャデラックで、あのバカでかい自動車は富と成功のシンボルであり、アメリカンドリームの象徴でもあったものだ。
非効率を承知で「手作り」にこだわるイギリスのロールス・ロイスもフォルクスワーゲンのカブトムシの形をした車も、「開発国」それぞれのナショナリティをを象徴している。
国民の夢とか愛情が「製品」の中に結晶されているということでもできる。
ヤヤ違った文脈においてだが、「日の丸半導体」という言葉もあるくらいだ。
自動車は、いわばアメリカの「国技」だったのである。
日本は製品のオリジナルな「開発者」ではなく、むしろ製品の「商品化」において優れた能力を発揮してきた。
つまりTOYOTA車は初期のアメリカ車ほどの「国籍」を背負ったものではない。
日本製品はあくまでも機能と性能とコスト安、そして「相手国」の生活習慣への細かい配慮で世界を席捲したのである。
それは己のオリジナリティーの発露よりも相手のニーズを優先したものである。
日本がアメリカに輸出する車は左ハンドルなのに、逆にアメリカから日本に輸出される車は日本に合わせて右ハンドルとはなっていない。
家電製品についてふれると、炊飯器を作るに際しても、少し焦げ目が出来るのが好きな国民に対して輸出するものや、ややオカユ状が好きな国民向けなどにを区別したりもする。
日本企業は、徹底的な相手国の嗜好や傾向を調査して、製品を「微調整」しながら輸出して成功してきたのだ。
だから、日本車は、日本のアイデンティーを体現した車というのよりは、「無国籍車」という方が適切なのである。
多くの日本の製品は、あくまでも相手国の事情に合わせて作られるので、日本人はその製品開発に関しては「無国籍」を選択したといってよい。
そして、そうした日本でつくられた「無国籍車」が、GMやロ-ルスロイスやフォルクスワ-ゲンのオリジナリティを市場で打破したということは、それは相手国のナショナリティやオリジナリティを傷つけたということに他ならない。
ところで、「柔道」の開発者は日本人である。それは、日本人のメンタリティと深く結びついた「柔らの道」だったのである。
その柔道が無国籍化されて「JYUDO」となった時に、勝ってアタリマエと思われがちな日本人が苦戦を強いられているのも、日本車という「無国籍車」がアメリカ市場を席捲したのと似通ったものを感じる。
「JYUDO」は、日本のお家芸ではないのに、金メダルを求められる。
柔道女子のコーチによるパワハラ問題が話題になっているが、その背景には日本的精神から断ち切られた、ツマリ無国籍化された「JYUDO」への対応への焦りが原因ではなかろうか。

最近の製品につけられた「メイド イン ○○」という言葉が実質的な意味を持たなくなってきているということである。
パソコンの部品は世界各地で作られ、組み立てられる。
これも「無国籍化」のアラワレなのだろう。
世界全体でデフレが進行すると、製品開発も「コスト・コンシャス」に流れる。
つまり削れるものはすべて削ろうとなると、国の文化や伝統を体現する製品が作られにくくなっている。
生産された製品は、地球規模で品質やデザインといった製品価値で決まり、付き合いや商慣行で取引が進む時代ではなくなってきた。
「良いものが安く」という市場本来の法則が、地球規模で認知され、世界市場のルールとして動き出したのである。
そして、かつての多国籍企業は、実態からすると「無国籍企業」と呼ぶ方が似合ってきているのではなかろうか。
世界中に広がる「サプライチェーン」の存在が、そのことをよく表している。
ファースト・フードの流行は、ネーションを超えた世界的な力、強力な資本力の現れである。
マクドナルドのハンバーガーはアメリカから始まったアメリカナイゼーションの代表のようにいわれる。
ハンバーガーのアメリカナイゼーションは、資本が商業の形態をとりながら文化の様式を携えて世界を均質化した。
強力な資本力をもって、企業が世界中でハンバーガーを販売し、それを消費者が購入するという商業の形態で、世界中が同じ施設で同じ味で統一されることによって、食文化が均質化する。
しかし誰もがモハヤ、アメリカの食べ物を食べているという意識はもたなくなっている。
そこにはアメリカナイゼーションと言うほどの「アメリカ」の実体がともなってはいない。
120円程度のハンバーグを食べる特、むしろアル種の「無国籍」な食べ物を食べているような気がする。
この「無国籍さ」ゆえにどの国民にも受け入れられ、世界的に広がりを得たのではなかろうか。
「国際化とは何か」~究極的に、国の壁が完全に取り払われ「人の移動」が完全に自由化することである。
TPP参加は、世界でアラユル壁をなくすグローバリゼーションに今一歩ギアを踏みこむことになる。
デフレや超高齢化社会に生き抜くために、日本が「無国籍化」するのも一つの「選択肢」ではある。
個人的には、そうしたフッラット化した世界の一員になることが、国を豊かにする道だとは思えない。
日本には残しておかねばならぬものがたくさんあるからだ。
浮世絵から多くを吸収したヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、日本人について次のように評している。
//彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。
ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。
日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ。//