二大政党事情

2009年に日本で「二大政党」のカタチができたが、政権を担った民主党がすっかり信任を失って、自民党が政権復帰することになった。
そして民主党がダウンスケールして「小党乱立」の状態となり、今「日本維新の会」あたりを中心に自民党と「対抗」できる政党ヅクリへの模索が始まっている。
民主党はダメだったけれど、自民党が長く政権に居座り続けるのもヨクナイということで、「二大政党」路線マデは捨てられないという認識がある。
一方、アメリカの大統領選挙は史上最低といわれる「中傷合戦」が起きたという。
アメリカ社会で何らかの変質が起きているようだが、今や「国家の分裂」というようなことが言われているそうだ。
「中傷合戦」ならば日本の衆院選の前も似た状況にあり、もしそれが「国家の亀裂」の兆候なら、対岸の火事とはいっておれない。
そこで、果たして「二大政党制」というものが、ウマク機能するものなのか気になった。
さて、日本の歴史に「二極分裂」の伝統はアマリなかったように思う。
思いつくところでは、源平合戦、南北朝の戦い、徳川方と豊臣方、幕府対新政府という「分裂」はあったにはあったが、戦いはソレホド長くは続かなかった。
本質的に日本人の智恵は、「対立軸」を不鮮明にしたり、「仲介者」をつくたり、「第三極」をツクって「二極対立」を緩和するようなところにある。
そこに、「天皇制」が果たした役割も大きかったのだと思う。
欧米では、百年戦争、三十年戦争などアタリマエで宗教戦争や市民革命で多くの犠牲と市民の血が流された歴史があるため、一滴の血も流さず「平和裡」に政権交代を実現しよう仕掛けが考案されたのだと思う。
それが「二大政党制」というものだったにちがいない。
「二大政党制」は日本の歴史に根ざしたものではないので、日本でアメリカやイギリスのように、「同じ」政党の名前を名乗りつつ「政権交代」を長く繰り返すというのはシックリとは考えにくい。
なぜかといえば、ある時期の政党が国民の信任を失えば欧米ならば「責任の所在」を明確にし、失敗から学び「党を変革する」ということをする。
日本の場合、ある政党が国民の信任を失ったら「上層部」を変え「名前を替え」たりして一から出直す。
政党にかぎらす組織に何らかの不祥事が起きたら、責任問題を明確にするよりも、とにかく上層をいれかえ人心を一新し「新組織」として出直すという感じである。
古代において天皇が変るたびに、人の入れ替えるのみならず都(皇居)が転々とするのも、スタートから出直しという意味がある。
これは、対立や怨念をキヨメある種の「ケガレ」を取り除くということではなかろうか。
ところで「二大政党制」の発祥は、イギリスにおけるトーリー党とホイッグ党である。
プロテスタントである国教会を正統とするイングランドにおいて、カトリックの王を認めるかどうかという点で、それに賛成するか反対かどうかで対立が生じた。
そして「トーリー」とは「アイルランドの無法者」、「ホイッグ」とは「スコットランドの謀反人」を意味するという。
それぞれ「保守党」「自由党」の前身だが、互いにノノシリ合いをするなかで飛び出した言葉が、いつの間にか名称として定着してしまった。
それにしても「無法者」と「謀反人」という相手に対する「悪口」が二大政党の名というのも、なんかユーモアがあって面白い。
両者の対立をさらに溯れば、いわゆるピューリタン革命時の「国王派」の流れがトーリー党で、「議会派」の流れがホイッグ党だという。
イギリスでは20世紀になってからも「保守党/自由党」から「保守党/労働党」へと組み合わせは変化し、ニ代政党制は続いていった。
かつてイギリスが「イギリス病」という病にかかり停滞していた時に、サッチャー首相は国の進むべき「方向性」を示し、リーダーとはこういうものかと示しえた感があった。
第二次大戦後イギリスははほぼ一貫して左よりの政策を取ってきた。
確かに福祉は進み、有名なベバリッジ報告がなされ、「ゆりかごから墓場まで」が合言葉となり、英国も福祉国家の仲間入りをしようとしていた。
しかし労働組合が異常なまでに強くなり、企業の国営化が進み、国民はますます働かなくなっていた。
国民はこのままではイギリスはマスマス世界から取り残されるという意識をもった。
そんな時に、サッチャーが登場した。
サッチャー就任当初、何たって貧乏人から巻き上げて金持ちを優遇しようするのか反発を食らった。
その反発に答えるならば耳に聞こえが好いから国民からは支持されるだろうが、サッチャーはたとえ国民の猛反発を喰らっても英国再生のためにはコレしかないという「信念」のもとに政治を行った。
国民の多くが反対しても国民のためになることをという道を貫いた彼女に、意外な「順風」が吹いた。
それが1982年のフォークランド紛争で、17世紀エリザベス女王がスペインとの戦争で兵士達を鼓舞したように、サッチャーもこれに対して断固とした態度を表明した。
それが国民からの絶大な支持を受け、彼女の地盤は磐石となり、英国経済の「再生」に成功したのである。
さて、アメリカの政党は1860年代の南北戦争直前に民主党と共和党のニ代政党が成立して以来、1世紀半もの間、両党による2大政党制が続いている。
今アメリカの民主党の支持者たちは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系で「多様性」がめにつく。
一方、共和党大会の代議員層は、日本の農協の全国大会みたいで、白人男性が圧倒的で黒人の数は極端に少なく、アジア系もヒスパニック系も探すのに苦労する。
こうして見ると、古きアメリカを代表する中西部では共和党が強く、西海岸や東海岸など移民が多い州では民主党が強い。
しかし、米国の南北戦争の際に南部側で奴隷制を支持していたのが実は「民主党」であり、一方北部側で奴隷解放を唱えていたのが「共和党」である。
「奴隷解放宣言」を行ったA・リンカーンは共和党の最初の大統領であることはよく知られている。
ところが面白いのは、南北戦争で敗北した民主党はその勢力挽回のために、新しい移民をターゲットにして「労働者や貧困の党」をアピールし移民船の到着する港で「党員勧誘」を行ったのである。
つまり、元々は奴隷制度支持の民主党は奴隷解放後は一転して「黒人優遇政策」を唱え出し、企業の入社や大学の入学などにおいて試験の成績に関係なく一定割合の黒人をパスさせる法律を作ったりしている。
「アメリカ民主党は弱者の味方」というイメージは歴史でみるかぎりソレホド正しくはないのである。
ところで、アメリカで第三党が生まれない理由は、選挙制度が完全な小選挙区制であることや、選挙を運営する州の選挙管理委員会が実質的には共和党と民主党の代表者で運営されるなど、第3党には極めて不利な環境があることが大きな理由である。
アメリカの政党は議会投票での「党議拘束」や「党員資格」などがなく、極めて開放的で柔軟にできているために、造反議員が出るたびに処分や離党などの問題が起きない。
議会ではバラバラに投票し党綱領もないとしたら、議員は何のために政党に所属しているのかといえば、「大きな政府」(民主党)と「小さな政府」(共和党)という「基本理念」では一致しているからだという。
民主党は、「連邦政府は強力な権限を持って福祉政策などを展開すべき」として、共和党は「政府の権限は縮小して、自由市場や個人の自由を重視すべき」という枠組みである。
その辺の「基本理念」で一致していることが、民主党、共和党議員の団結を生み出しているのだそうだ。

戦前、日本にも「二大政党制」という時代があった。
それはソレ以前の藩閥主導の時代と、ソレ以後の軍の台頭時代に挟まれた10年程度の短い間のことではあった。
平成の「二大政党制」は、部分的には政治とカネの問題の解消の一手として構想されたものであったが、この時代の二大政党時代は、カネに塗れていた。
大正の末期から昭和の初期にかけて、立憲政友会と立憲民政党(前身は憲政会)から交互に首相が選ばれた。
この時期に首相になった浜口雄幸や犬養毅といった政治家や、政友会と民政党の政策的志向の違いは、中国などへの「対外政策」や「財政政策」において、両党には明確な違いがあり、その点では「立派な」二大政党制であったといえる。
しかしながら1920年後半より、政友会と三井、民政党と三菱の結びつきが強まり、日本の近代政治は「金権政治」ソノモノであったといって過言ではなかった。
1925年に普通選挙が実現したものの、選挙戦における買収戦はスサマジク、様々な汚職事件が国民の前にさらされる結果となった。
そのいくつかあげると、満鉄疑獄、アヘン密売、東京ガス事件、松島遊郭事件、機密費事件、金塊事件、東京板舟、京成乗り入れ事件、勲章疑獄、鉄道疑獄、朝鮮疑獄事件などなどである。
特に1929年の田中義一政友会内閣は、政権のスタートから凄まじい選挙買収で始まり、「疑惑のデパート」内閣の様相を呈し、国民をアキレかえらせ、張作霖事件では天皇をだましソコネ失脚している。
国民が比較的清いと思いがちな軍人や文部官僚までが汚職まみれであった。
シーメンス事件などの軍人の汚職と、私鉄買収にかかわる汚職、そして教科書にまつわる文部官僚の汚職である。
教科書会社が、地方の教科書採択委員諸公を東京の一流料亭に招待したり、どこかの県知事が教科書会社より収賄賄したり、頻発する文部省の視学官のユスリは、とても「修身」をリードすべき文部官僚のあるまじ行為といわざるをえないものだった。
この頃、国民のあきれ嫌気とともに「厭政感」ただよう雰囲気があったようだ。
そして昭和の「二大政党時代」は、ソノママ一気に軍人に道をゆずり「軍国主義」の時代に転がりゆくのだった。
そして日本が太平洋戦争の敗戦から復興し、1955年体制の下で自民党の長期政権が続いた時代には、自民党以外の政党に投票する人はほぼ政権をとる見込みのない政党に投票することになる。
そして自民党に投票するのは、長年築いた既得権益の擁護者として自民党に投票しているにすぎない。
そういう意味で、「保守/革新」という明確な対立の構図があったにもかかわらず、選挙というものがナンカ「死んでる」感じがした。
その点、国民全体が「政権をとる可能性のある政党のいずれか」に選挙(=選択する)というのは、国民にようやく政治のハンドルを握ることが許された感があった。
何しろ55年体制の下で、国民は「選挙権」という車をもらっても、ハンドルを切るこはなく、せいぜいアクセルかブレーキを踏むぐらいのことしかできなかったのだ。
その間、政権を奪われる危険性が少ない与党は基本的には「役人まかせ」だったといえる。
2009年日本で民主党への政権交代での期待の一つは「政治主導」つまり「国民不在」の政治からの決別だった。
もちろん二大政党制では、政権の選択肢が少なすぎるという意見もあるにはある。
しかし、ちょとした意見の不一致で簡単に政権が崩壊してしまう状況に陥る小党乱立は、政治の不安定化が政策の一貫性を失わせ、それが経済の停滞をまねき、結果的に国民を不幸に陥れるということが起きうる。
当たり前だが、政権は日替に定食を選ぶような安易なものでなく、一つの政権が一定期間一貫した政策をとれることを前提としてはじめて価値をもつ。
野党に下って新たな政権党を批判することによって、学習することができる。
長期単独政権に付随した様々な問題を一部解消できたことは確かである。
今日の二大政党の構想の出所は、どの辺にあったのかというと、1990年代前半政界全体を巻き込んだリクルート事件で、「金がかからぬ選挙」への「政治改革」に端を発している。
従来の中選挙区つまり同じ選挙区で同政党の候補者が争うなど政策基調の政治からすれば、無駄なことをヤメ「小選挙区」にもっていく。
小選挙区では、小政党はマッタク勝つ見込みはないので、必然的に「大政党」に編入されていく。
だからといって少数の声も無視するわけにはいかず、「比例代表制」を併用していこうという流れであったと思う。
コノ頃、財界が自民党へ抱いたの危機感を背景に、政権交代が可能な「もうひとつ」の保守政党をつくる二大政党構想」の構想の主として小沢一郎氏がいた。
こうして日本は「二大政党」時代を迎えることになったが、これはかつてのように単に「批判勢力」として野党が存在するのではなく、現実に「政権担当能力」を持つもう一つの党としての(野党)が存在するようになった。
その結果、政策論争が大きな意義を持つようになり「マニュフェスト」政治が始まった。
それまで、日本では議会民主政治の前提・基本を意図的に機能させないという状況が長い間あって、あたかもソレが政治文化となっていた感があった。
検察や警察の「国策捜査」であり、政官財の利権を死守しようとする族議員とその背後の官僚であり、権力に身と心を売っているマスメディアの存在があった。
「政権交代」により、業界と政治との積年の癒着構造にも「破断」を生じさせ、政治の「自浄能力の増進」にも繋がるという期待も生まれた。
ところで「自民党/民主党」二大政党実現で、ひとつ評価したいのが「情報の開示」という点である。
政権交代の最大の効果は、こういった内外の政治行財政にわたる情報が開示されることである。
これが議会民主政治、国民による国民のための政治の基本である。
民主党への政権交代で、「情報公開」が進んだものがある。
印象的だったのは、テレビドラマのモデルともなった「沖縄密約問題」である。
菅厚生大臣当時の「薬害エイズ問題」の追求もあった。
原発問題にせよ、様々な批判があっても、事故後のヤリトリなど「検証」が進んでいるのも、自民党単独政権の時代に果たしてコレダケ進みえたか疑問である。
また将来「政権交替」がなされるのではという思いがあれば、情報の秘匿はあまり意味をなさず、情報公開がすすむという面もあるからである。

ところで、オバマ対ロムニーのアメリカ大統領戦は史上最低の「中傷合戦」とよばれており、それはアメリカという国に埋めがたい「亀裂」が入りかけているといわれている。
そして「決められない」政治というの何もは日本政治の「代名詞」とは限らず、実はアメリカもそういう傾向があるらしい。
つまり「民主党/共和党」という二大政党に「歩み寄る余地」が少なくなっているということである。
アメリカの最近の大衆運動をみても、ティー・パーティという「極端に小さな政府」を求める運動から、逆に「ウォール街を占拠せよ」といった「反経済格差運動」が起きたりしていて、その「振幅」の大きさが「亀裂の深さ」を物語っているのかもしれない。
要するにアメリカは、これかどういう国になるべきかということについて「合意形成」ができずに、政治が「止まっている」という感じなのだ。
今までのアメリカでは、共和党・民主党の「穏健派」が結集して大事な法案を通していくという構図があったが、ここ数年共和党の中の「穏健派」がことごとく消えて、共和党が「保守化」の度合いを深めており、「合意形成」ができるような地盤が失われているという。
そのために極度に「法案の通る」率が低いという状況になっているのだそうだ。
各国政府はスデニ財政難にあり、グローバル社会の進展による「格差」の拡大が、世界各地に歩み寄る余地のないほどの「亀裂」を生んでいるように思える。
中国でも都市部と農村部の格差の広がりが大きくなって、「毛沢東時代の復活」をサエ訴える人々の輪が広がっている。
今から30年前、サンフランシスコのとあるレストランで、二人の男女が喧嘩かと思えるほどの政治的(?)激論を交わした後、別れギワにウレシそうにハグする場面が個人的に忘れられない。
日本にはない「ダイアローグの文化」を見た感じがした。
しかし、今はこうした懐の深いアメリカの姿は一つずつ消えつつあるのではなかろうか。