「二世」と徒手空拳

最近「二世」といえば、時期的に「二世議員」を思い浮かべるが、「二世芸能人」もメダツ。
またソノ「中間的」存在にダイゴとか小泉孝太郎がいる。
竹下登は国会で自ら「われ万死に値す」と証言して周囲を驚かせた首相だけに、ソノ孫ダイゴという不思議な芸能人の存在に、それ以上の「驚き」を感じる。ウイッシュ。
ダイゴの父親・内藤武宣は毎日新聞記者で、元竹下登首相の「番記者」だった。
そのうち竹下の「秘書」にスカウトされた。というわけで、田中角栄と早坂茂三(毎日記者)の関係と同じである。
内藤武宣は、竹下宅に出入りするうち、竹下の次女に「一目ぼれ」して猛アタック。そして結婚し、二男一女をサズカリ、次男がダイゴである。
ダイゴの姉は、影木栄貴で、「一定の層」には熱烈な支持者がいる「少女漫画家」である。
この姉によれば、厳格な父親であったが子供たちにはヤリタイことを「やらせる主義」であり、年を取るにつれマルクなっていったそうだ。
また、ダイゴの本名の「大湖」という名前は「大きい湖の様に広い心を持った人間になれ」という意味で名付けられた。
ダイゴの座右の銘は「我が道を行く」で、幼い頃ヨク祖父(内藤の父)に聞かされていたという。
ダイゴは温厚な性格でアクマデ平和主義者。姉と兄の「肉食獣的」熾烈なケンカを側でナガメながら、争いには首を突っ込まない「習性」を身につけたという。
ところでダイゴの父・内藤武宣は福岡県立修猷館高等学校から早稲田大学教育学部に入学し、空手部に在籍した。
ソノ父は建設会社社長であり福岡県PTA連連合会会長も務めた内藤用一郎で、中学修猷館在学中の1920年には、第一回全国中等学校柔道大会に修猷館柔道部の「大将」として出場し「全国優勝」を成し遂げている。
その子内藤武宣、つまりダイゴの父親は、早稲田卒業後、毎日新聞に入り、政治部記者となった。
1972年7月に毎日新聞社を退社し、同年12月の衆議院議員総選挙で「福岡1区」から立候補をするモ「落選」している。
チナミニ同年・同選挙区で「初当選」したのが山崎拓である。
その後、内藤は竹下の「私設秘書」となり、1985年に竹下が創政会を結成した際に機関紙「創政」の編集長を18年間務めている。
ところで「高級官僚」の子供といえば、「嵐」の桜井翔がいる。
ニュースの司会者をツトメルくらいだから、個人的には将来・政治家への「転身」もアリとみている。(俳優として生きるには演技も下手だし、ウイッシュ)。
父親の桜井俊氏は前橋高校から東大法学部に進み、1977年に旧郵政省に入省したキャリア官僚である。
“ミスター総務省”と呼ばれるほどの実力派で、「次官候補」の一人でもある。
13歳の櫻井が両親に内緒で勝手に「履歴書」を書いてジャニーズ事務所に送った。
合格したものの、父親の反応は予想以上に厳しいものだった。
翔は、父に芸能活動を反対され続け苦悩していたという。
ナニシロ 芸能界とは無縁の厳格な家庭で、有名私立の幼稚舎から通わせた父親の描く息子の「将来像」とはカケ離れたものだったからだ。
1999年に嵐のメンバーとしてCDデビューを果たし、人気者になっても父親は嵐のコンサートに一度も足を運んではくれなかった。
さらに厳格な祖父母の家に行くと“いつ辞めるんだ”とばかり聞かれた。
22、3の頃、リビングで父親とたまたま二人で居た時き、「ソロコンサートやるから来てくれない?」と初めて聞いた。
すると「じゃあ行ってみるか」という返事が返って、ナントナク自分を「認め」てくれたと感じた。
結局10年モ経って「和解」した父親は、コンサートにも「頻繁」に足を運んでクレルようになったという。
父親の気持ちの中に、桜井翔が慶大を卒業したことで、「一安心」ということだったのだろう。

小泉孝太郎は今、宮部みゆきの「名もなき毒」に主役として出演している。
小泉は最近、歌舞伎俳優・市川海老蔵との「対談」の中で、「二世」として知られたことに対する「悩み」を語っている。
対談は、カタや歌舞伎俳優・市川團十郎を父に持ち、カタや小泉純一郎元総理を父親にもつユエに、「名家」に生まれたが故の苦悩や偉大な父への特別な「思い」がある。
孝太郎と海老蔵の二人が初めて出会ったのは、父・純一郎氏が総理大臣を務めていた頃のことである。
小泉家が当時暮らしていた総理公邸での食事会だった。
滅多に入れない場所に招待され感激した海老蔵は、総理大臣のベッドにダイブし、さらに、総理からネクタイにサインまで書いてもらったという。
小泉家といえば代々大物政治家を輩出した家柄だが、孝太郎は、幼い頃から「なぜ、この家に生まれてきたのか、政治家なんてとてもできない」と思い悩んだ。
ところがある日、父から「政治以外のヤリタイことを見つけなさい」と言われ、急に「視界」が広がった気分になったという。
その結果、政治の方では、弟の進次郎氏が「後継者」となって、充分に「存在感」を示している。
ただ孝太郎は、親の名前で芸能界で活躍しても、自分にソコマデの実力が伴なっておらず、行き詰まった思いがあったという。
一方、海老蔵は生まれた時から将来は決まっていた。
3歳の頃、近所の公園で父と遊んでいる時に「歌舞伎役者になるのか?」と聞かれ、「なります」と即答した。
しかし、幼少期から続く厳しい稽古と家柄・伝統の重責に耐え切れず、「反発」した時期もあったという。
そして、初めて勧進帳の「弁慶」を演じるプレッシャーで、舞台初日の前日に「家出」という行動にでたことがあった。
家出と言っても何日もイナクなったわけではなく、連絡のないまま帰りがカナリ遅い「家出のフリ」だったらしい。
それでも父団十郎は、「このまま帰ってこなかったら自分が代役として弁慶を演って、息子には役者を辞めるように言おう」と決意していたらしい。
親の七光りと言われる「二世」達も、逃れられない「重圧」と戦わねばならない悩みがあるのだ。

最近、古本屋で手に取った俳優・唐沢寿明の自伝「ふたり」は、1996年に発売され「ミリオンセラー」となり、発売当時カナリ話題の本であったらしい。
ブックカバーには、高等学校「現代社会」のサブテキストとして使われたと書いてあり、実際に読んでみるとナカナカ読み応えのある「青春記」であった。
唐沢寿明はトレンディ俳優として知られ、個人的にはどんなイイトコの「お坊ちゃまか」と予想していたが、その予想は全くハズレであった。
普通、有名になると下積み時代を「封印」したがるモノだが、唐沢氏の場合は生い立ちから下積みマデ「赤裸々」に語っていて、ファンからすればカナリ「衝撃的」であったであろう。
つまり、あの「爽やか好青年キャラ」はあくまでもツクラレタものだった。
芸能人へのアコガレは、「ブルースリー」の映画を見たことだったという。
ブルースリーの強さだけに魅かれたわけではなく、倒れる相手の哀しさや悔しさを本人以上に感じているような、「寂しげ」な表情が焼きついて離れなかったという。
ブルースリーの「寂しげ」な表情が唐沢氏と重なるのは、唐沢氏の青春が「徒手空拳」で戦い、何とか生きツナイできた「孤独」と通じ合うからだろうか。
今年はちょうどブルースリー死後40周年になる。
ブルースリー出演の映画第一作は運転手兼ガードマン役として出演したアメリカ映画「グリーン・ホーネット」である。
「徒手空拳」でアメリカにやってきたブルース・リーがこの映画で見せたホンノ数分間の「拳」の輝きが、ブルースリーを後に大スターに押し上げることになる。
ところで唐沢氏の青春自伝「ふたり」は次の文章で始まる。
//ずっとずっとひとりだった。学校から抜け出し、家や養成所から追い出された。食べるためにもぐりこんだバイト先にもなじまなかった。自分達で作った劇団も消滅した。居場所がなかった。それでもひとつだけわかっていたことがあったことがあった。役者になりたかった。//
そして、この本の各章のタイトルが、唐沢氏が歩んだ「青春」をソノママ語っている。
その「前半期」だけを紹介すると次のとうりである。
○高校をやめたとき身震いするほど嬉しかった。
○あんたが出て行きなさい、おふくろの言葉がしんじられなかった。
○新宿が一番好きな街だった。カッコよく踊ることだけを考えていた。
○アクション・クラブを首になる またはじきだされてしまった。
○ドサ回り、劇団結成、売る込み できることは何でもやった。
○天に昇ったと思ったら、また突き落とされる。相手にされないレコード会社まわりが始まった。
○1年でやめるショーパブ勤め 月36万円は多すぎる。
○「食費を出してくれないかな」彼女の言葉が別れの原因となった。
○「オーデションに受かったとぞ」哀しい決別の果て。
○ポロシャツ着た日 さわやかな笑顔の練習をしてみた。
唐沢氏がとてもスッキリしたという東京都立蔵前工業高等学校「中退」については、学業の成績不振というワケではなく、「俳優になりたかった」ことが大きいと語っている。
家庭では横暴で身勝手な父親と母親の夫婦喧嘩が絶えず、ある日唐沢は夫婦喧嘩に割ってはいり、母親の味方をした。
「おふくろが出て行くことはない。親父を追い出せばいいんだ。」と言い、父親を脅すつもりでモルタルの壁を叩き崩すと、「お前が言えた義理か」と言いながら父親が家を出て行った。
これで家は「安泰」だと思ったら、母が一言「あんたが出て行きなさいよ」といわれて愕然とした。
唐沢は家出を決意し新宿行きの電車の中で泣いた。
学校をやめたのは、高校2年の2月で、両親には「勘当」された。
1980年、東映アクションクラブ(当時最年少16歳で四期生)となり俳優として活動を始めた。
その後「芸能人二世」で人に知られた役者希望の者も居る中で、頭角を表すのがイカに厳しいことか、骨身に沁みる。
唐沢氏は、スタートから圧倒的優位に立つイワユル「芸能人二世」との競争でシバシバ振り落とされる。
また愛情をもって支えてくれた女性との別れなど、コノ世界の「居続ける」ことだけでも相手を巻き込み、振り回してしまうナドという「煩悶」もある。
デビュー当初は「仮面ライダーシリーズ」「スーパー戦隊シリーズ」などの特撮番組に脇役やスーツアクターとして出演していた。
その他に、スタントや声の吹き替え、死体役、エキストラと「顔の出ない」役バカリで役者人生を終るのか、という不安と焦燥に苛まれる毎日だった。
どこにもいる数多くの「俳優志願」の一人で、取り立てて「目立つ」ほどの個性もナイ。
映画「メイン・テーマ」の主役オーデションでは、どんな奴が受かったんだと、唐沢氏が東映本社前でひたすら待ったこともあった。
その人物とは面接で「サラリーマンになりたい」と言っていた野村宏伸という男だった。
唐沢氏が当時、ヒリヒリ焼けつくような思いで見つめた野村氏もまた、その後の役者人生では、唐沢氏の知らない苦労があったのである。
緒形拳の息子・緒方直人とオーデションで、競ったこともある。
その後、ホリプロ(主にレコード会社回り)、三生社(社長は俳優橋爪功の元妻)を経て、浅野ゆう子に声をかけられて現所属事務所である「研音」に所属する。
ところが唐沢自身がダサいと思った「路線変更」で運命が開いていく。
プロデューサーのアドバイスでチノ・パンツとポロシャツという出で立ちに「路線変更」したところ、直後のオーディションで見事1位合格した。
以後ドンドン仕事が入るようになった。
実は「爽やかな路線」を進言したのは、浅野ゆう子だったという。
つまり唐沢の役者人生は、唐沢がソモソモ持ち合わせていないものによって「輝き」はじめる。
ポロシャツにVネックにチノパン、そして苦労知らずの「鷹揚さ」、実際にはナイハズのものが、唐沢氏を「俳優」の世界に導いた。
1992年の人気ドラマ「愛という名のもとに」で演じたエリート好青年の役で一気にブレイクし、雑誌の特集などで「爽やか」「好青年」という代名詞が付いて紹介された。
女性ファッション誌の人気ランキングにランクインするなど90年代は当時の「人気若手俳優」の一人といった存在だった。
近年では、ドラマ「白い巨頭」や「不毛地帯」で、単なる「爽やかキャラ」を超える「演技派」の一人に列せられてもおかしくはない活躍をみせている。
ところで青春自伝「ふたり」という本のタイトルは、唐沢氏と「もうひとり」の女性の存在を予想させる。
山口智子さんと結婚直後に出版された本ということで、販売戦略的に「ふたり」というタイトルがついたようだ。
1988年放送のNHK連続テレビ小説「純ちゃんの応援歌」の共演が「ふたり」の交際のきっかけである。
この作品がデビュー作で初主演の山口は、「下積み」経験の長い唐沢に「女優としてやっていく自信がない」などと撮影の合間にたびたび悩みを打ち明けていたという。
週6日の大阪での撮影中、二人はホテルの内線電話でよく話をするようになり、撮影終盤のクリスマスに山口からプレゼントを贈られたことなどを「ふたり」に書いている。
唐沢氏は「トイ・ストーリーシリーズ」の第1作から主人公ウッディ役として出演し、これが「声優」デビュー作となった。
ウッディの顔立ちは一切唐沢をイメージして造られたものではないが、ファンからは「非常に似ている」と言われているという。
2003年のドラマ「白い巨塔」主演の際、唐沢と原作者の山崎豊子の初顔合わせとなった食事の席で原作者の作家山崎豊子に「財前役をやるなんていい度胸してるわね。あなた大丈夫?」と言われた。
当初山崎は、役のイメージに合わないという理由で唐沢が財前役を演じることに「難色」を示していたが、食事が進むにつれよくシャベル性格の唐沢に対し「面白い男だね」と気に入り、唐沢の起用に納得したという。
「白い巨頭」を見た山崎は「あなたが財前で良かった。素晴らしかった。感動しました」と唐沢を高く評価した。
後に、同じく山崎豊子原作の「不毛地帯」をドラマ化したいとプロデューサーが山崎に話を持っていた時、山崎は「唐沢くんでよろしくね」と発言しており、実際に5年後にドラマ化され唐沢氏は「壹岐正」を演じた。
「親の七光り」で最初から名前が先行した分「重圧」との戦いだし、一方徒手空拳でコノ世界で「名が知れる」ノモ並大抵のことではない。
また脇役で「光彩」を放った人が、「主役」で輝くとも限らないし。ウイッシュ。