戦後食糧「秘話」

最近のニュースで火山噴火を想定した「国の対策」と、国連連食糧農業機関(FAO)が発表した「調査報告書」が相次いで発表された。
連夜のニュースでの発表は偶然だったが、日本の食糧問題(飢饉)は、歴史上頻発した「火山の大噴火」と関係していたことを思い起こさせた。
例えば、日本の歴史上で最悪の飢饉は、浅間山の大噴火による「天明飢饉」であった。
煤煙が空をおおうと同時に天候不順が原因で不作となり、東北を中心に10万人もの死者がでたという。
このたびのFAOの「報告書」の内容で驚かされたのは、森林資源の有用性が説かれ、その中で「昆虫の食用」についてもふれ、良質なタンパク質が含まれており、今も世界中で1900種以上が消費されているということだった。
最も多いのは甲虫(31%)で、以下、芋虫(18%)、ハチ類(14%)、バッタ類(13%)と続く。
その多くはタンパク質だけでなく、脂肪分やカルシウム、鉄分、鉛分も豊富で、たとえばバッタの鉄分含有量は牛の1.2~3倍以上になるという。
実は日本でも、昔からイナゴや蜂の子(スズメバチの幼虫)を食する地域があり、貴重な「タンパク源」として知られている。
都内でもメニューに並べている店があり、最近テレビで、サソリや芋虫、アリなどが提供されている江東区の店が紹介されていた。
FAOは、ケシテ人々が昆虫を食べるべきだといっているワケではなく、栄養価が高く、飼育も容易な昆虫は、たとえば家畜の飼料などに積極的に活用すべきといっている。
しかしもし日本で食糧危機が直面したら、昆虫食は「虫唾が走る」などといって避けてばかりではイケナイのかもしれない。
ところで終戦直後、多くの日本人は心底腹が減っていた。
「生めよ増えよ」で外国に出生した兵士達が帰国して「食糧難」の時代であった。
餓死者が1000万人でるといわれたほど食糧事情が悪く、庶民は闇米によってどうにか露命を繋ぐことができた。
「天皇はたらふく食っているぞ」のプラカードで不敬罪にとわれた人もあったし、「闇米」を食べることを拒否して餓死した裁判官もいた。
水上勉の「飢餓海峡」という小説は、そうした時代背景をもとに起こった或る殺人事件を描いたものであった。

終戦直後に、連合軍の中で日本に食糧を援助物資として提供したのはアメリカであるが、アメリカほど「直接的」ではないものの、オランダも日本の「食糧支援」に大きく関与してきたといってよい。
戦後、日本はオランダと「友好関係」を結び、それがオランダ王室と日本皇室の交流にも表れている。
両家の関わりは、雅子妃の父・小和田恆氏が長くハーグの国際司法裁判所に勤め、オランダ王室との交流があったということが直接の原因であろう。
日蘭関係は、江戸の鎖国時代でもオランダと「長崎出島」を窓口とした交流があったという長い歴史もあったということからも「特別」な関係といっていい。
外務省(日本)も「日蘭関係」については友好・良好なものであることを公式に認めており、「400年に及ぶ歴史的伝統的友好関係を維持し両国の皇室・王室関係は極めて親密である」とまとめている。
しかし、両国の関係にヒビがいったのは第二次世界大戦であった。
実は、第二次大戦でオランダが宣戦布告したのは日本のみで、オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府が「追認」したものとされる。
この1941年12月8日の宣戦布告によって、日本とオランダは戦争状態に入った。
1942年1月、日本軍は石油資源の獲得を主な目的として蘭印作戦と呼ばれるオランダ領東インド(蘭印/現在のインドネシア)進攻作戦を決行し、同年3月10日には蘭印連合軍の本拠ジャワ島に至ってこれを全面降伏させ、ホボ全域を制圧した。
「大東亜政略指導大綱」で、オランダ領東インドは領有する方針が決定されていたため、「三地域」に分けて日本軍による軍政が施かれた。
それに対抗して、オランダはオランダは日本の中国侵攻に対しては「ABCD包囲網」の一角「D/Dutch」を形成している。
連合軍日本の占領から、1951年(昭和26年)9月、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が締結され、翌年4月に発効した。
しかし、西側諸国との講和条約に際して、日本が最も「腐心した」のはオランダへの対応であった。
オランダは日本によってジャワ・スマトラを占領され、戦後はジャワ・スマトラがそのままオランダから独立するなど、日本に対する国民感情は悪く、講和条約にも最後まで難しい「注文」をつけていた。
アメリカの国務長官らが何度か説得を試みても頑として受け付けなかったところ、ある日、賠償の代わりに「技術援助」(したがって相応の技術料の支払い)に応じるなら、講和会議に参加する旨の感触が得られたとの報告が当時の吉田茂首相に伝えられた。
吉田首相は、建設大臣を呼んで「技術援助」を受けるプロジェクトを考えるように指示したが、なかなか妙案がでなかった
何か探せという指示は大臣から次官、局長、部長,課長と伝わってとうとう係長・係員クラスにまで降りてきた。
この時、戦後の焼け跡で「都市区画整理事業」を担当していた係長(後の国土事務次官)が「農林省の八郎潟干拓はどうか」と進言したのである。
1952年、農林省は食糧の自給率を上げるため、食糧増産「5カ年計画」を策定していた。
その計画では「干拓事業」が重要項目であったものの、日本各地で行われていた干拓事業は規模が非常に小さく、技術不足と予算不足により工事が「遅滞」していたのである。
特に難しかったのは、軟らかい地盤上に堤防を築くことであり、当時の吉田茂首相は「干拓事業」に強い意欲をもっていたのだが、この問題の打開策が未解決のままだった。
そして係長が、当時ワンマンとして有名だった吉田総理の大磯の自宅へ単独で出かけて「進言」したところ、総理はたいそう御満悦で、当時の貴重品だったスコッチウイスキーをプレゼントしたというエピソードが残っている。
「干拓技術先進国」オランダに対して、当時の食糧増産への期待を寄せられながら、様々な難問を抱えた秋田県の八郎潟干拓の技術支援要請は、これ以上のマッチした技術援助は見つからなかったといってよい。
1953年8月、政府は農林省の担当者をオランダに派遣した。
交渉の結果、オランダとの間で、デルフト工科大学のヤンセン教授とアシスタント1人を日本に派遣することに合意した。
翌年4月、ヤンセン教授とフォルカー技師が来日し、秋田を訪れた。
一行は「八郎潟」を視察した上で、地形や気象、様々な干拓計画など、膨大な資料を調査研究し、同年7月に「日本の干拓に関する所見」通称「ヤンセンレポート」を日本政府に提出した。
ヤンセン教授の計画は、日本人の干拓計画を改善したものであり、戦後の「八郎潟干拓事業」の原型がココに初めて示され、「埋めよ増えよ」と食糧増産にハズミがついたのである。

終戦直後の食糧増産に「八郎潟干拓」は、大きな自然破壊もあったかもしれないが、やむにヤマレヌ切迫した状況があった。
従って、同じく「食糧増産」を名目として始まった今日の長崎県「諫早湾干拓」の迷走とは、区別すべきであろう。
まずは今日、環境への理解や知識が深まる中での「干潟の価値」についての「無知」モシクハ「無視」は犯罪行為に近いのではないか、と思う。
「干潟」というのは、干潮時に海から顔を出す、遠浅の泥っ原なのだが、「干潟」の存在の重要さが世間では知られていないようだ。
遠浅で、水温も比較的高く、例えば貝類や微生物といった、水質浄化に大きな役割を果たす生物が住みやすい環境である。
つまり「海の肺」といわれるくらいに、水質浄化作用がある。
東京湾で、なんでまだ魚が捕れるのかというと、やはり干潟の果たす役割が大きい。
東京湾のように汚染が進んでいると思われる海でも魚がとれるのは、船橋市付近に広がる「三番瀬」と呼ばれる広大な「干潟」がその役割を果たしているからである。
そして干潟が、ヤハリ「生物の宝庫」であることは言うにまたない。
一般に、水域と陸域の境には生物が多いと言われるが、干潟ホドこの条件にぴったり当てはまるものはない。
遠浅で水温も比較的高いため、微生物、それを餌にする貝類や魚類、そしてまたそれを餌にする野鳥達がたくさん集まり、生息している。
それゆえ干潟は、渡り鳥にとっても中継地としての役割が非常大きい。
長崎県・諫早湾はここだけで国内の全干潟面積の6%を占めるくらいに広い。
この地を訪れると、見渡す限り泥・泥・泥というアリサマで、とにかく広い。
また、諫早湾は、このムツゴロウの国内最大の生息地でもあり、タイラギも有名である。
さて、干拓を行うにあたり、海水をせき止める堰きとめるダムを閉門するとコレにより海水の流入が止まり、干潟は乾燥し始めている。
これにより、すべての生物が「死滅する」と言われ、この「閉門」は別名「ギロチン」とも呼ばれている。
「諫早湾干拓事業」は、簡単に言えば干潟を干拓して、農地を広げると言うものだが、この計画は40年ほども前の高度経済成長期に計画されたのである。
事業主体は、農林水産省と、地元の自治体である長崎県と諫早市である。
そのころは、国を挙げての「食糧の増産」が盛んだった。
当初の計画では、現在の計画面積の約3倍であったという。
建設費が、当初の計画より2倍にフクレ、今後さらに膨らむとの推測があり、税金は垂れ流し状態となっている。
しかし「農地の拡大」という事業目的が、「減反」を推進してきた国が一体ナゼと思わざるをえない。
これから人口はさらに減っていくというのにである。
サスガに役所もこれだけでは建設の理由不十分と思ったらしく、「防災」という目的も新たに付け加えた。
しかし、防災は本来農林省の役割からはなれたもので、充分に「愚かしい」と考えられる政策でも、日本の役所というものは、一度決めてしまったものは止められないものらしい。
同じ霞ヶ関にある総務庁からは、干拓後水田としては利用しないようにという勧告までなされているのだから、「諫早湾開拓」をどのように解釈したらいいのだろう。
ツマルところ、短期的なソレモ一部の業者の利益のために、数百・数千年の歴史の産物が姿を消そうとしているということである。

戦後の食糧問題で、日本人にとって思い入れ深い「牛乳」も、オランダ人との関わりによって生まれたものである。
九州の門司港は、地理的に中国大陸に近いことから国際貿易港として発展してきた。
日清戦争から「前進基地」としての役割を果たし、多くの将兵や弾薬、食料、「軍馬」などを数多く運んできた。門司港のすぐ近くには「馬の水飲場」の遺跡が残っている。
また、この門司港対岸の下関の彦島に牛馬の牧場があり、そこに「検疫所」がもうけられていた。
この牧場をもうけたのは、日本の牛乳屋では先駆的な「和田牛乳」である。
そして、この和田牛乳と和田一族には、日本の近代史と共に歩いた「家族史」があり、一人の「女優誕生」もその小史の一コマとして存在している。
和田牛乳は、徳川慶喜に仕えた幕臣であった和田半次郎よって創業されたもので、いわゆる「士族授産」の一環として誕生したものであった。
当時、50歳を過ぎていた和田半次郎がたまたま住んだ所に、オランダ人に乳牛を学び日本で始めて「牛乳製造販売」を行っていた前田留吉という男に出会い、その感化を受けた。
さらに半次郎は西洋医学者で初代「陸軍軍医総監」の松本良順らによる「牛乳が健康に良い」という奨励がなされており、「牛乳の需要」が伸びると見込み乳牛業をはじめた。
ちなみにこの松本良順が、日本で最初の「海水浴場」を大磯につくった人物である。
この大磯は、吉田茂首相の自宅があった場所としても有名である。
和田家は日本における牛乳業の「草分的存在」で日本で最初の「低温殺菌牛乳」をつくった一族として知られている。
秋葉原駅近くの旧二長町に牛乳本店とミルクプラントをもうけ、後に北千住などに牧場をもっていた。
二代目和田該輔(かねすけ)の長男の輔(たすく)が後を継ぐべく期待されたのだが、あまりの風来坊気質でとうてい乳牛業にはむかず、輔の弟である重夫が和田牛乳・三代目となっている。
この重夫が日本初の「低温殺菌牛乳」を生んだのである。
ところで、東京神楽坂に「和可菜」という料亭がある。
和可菜は、いわゆる「カン詰用」の料亭でここで多くの小説やシナリオが書かれた。
NHK大河ドラマや山田洋次・浅間義隆の共同執筆による「男はつらいよ」シリーズ35作から最終作は実はここで書かれている。
この料亭のかつてのオーナーは、和田つま、つまり「木暮実千代」として知られた女優である。
とはいっても、実質的な経営は、つまの妹である人物が行っていた。
木暮は当時、出演していた映画「源氏物語」から「若菜」という名が思い浮かんだらしく、和田の「和」をいれて「和可菜」としたという。
木暮は、和田牛乳の「三代目」と期待された和田輔(たすく)の子供で、四人姉妹の三女として生まれた。
親の期待を裏切り、「三代目」に成り損ねた輔ではあったが、中国や朝鮮から運ばれてきた牛馬を検疫するために下関の彦島に牧場をつくったのだ。
そして、これが「下関彦島検疫所」となり、戦時下にあって和田家が「官」と繋がることにより、その牧場も「政治的」な関わりをもつことになったのである。
つまりここでは、動物と政治が「軍国主義」の台頭という形で結びついていたのであり、そこに「下関彦島検疫所」が存在したのである。
そのため和田輔の娘・木暮実千代は「下関生まれ」で山口の梅光学院を卒業した。
東京にでて明治大学を受験しとようと願書を出しにいったところ、締め切りを過ぎていたことが判明した。
その為に、帰り道に日大芸術学部に願書を出したところ、合格してしまった。
木暮にもどこか、父親の風来坊気質と似通ったものがあるのかもしれない。
そして日大芸術学部の学生時代に、その「美貌」が目にとまり松竹にスカウトされ女優の道を志すことになったのである。
木暮の同期の学生には三木のり平や女優・栗原小巻の父・栗原一登などがいた。
木暮は、女優として成功し、後にイトコで20歳も年上の気鋭のジャーナリスト和田日出吉と結婚する。
和田日出吉は、新聞記者として牧場視察のためウイスコンシン州などを回ったが、結局は「牧場経営」には全く関心を示すことはなかった。
ただし新聞記者としては一流で、当時の政財界を揺るがした「帝人事件」を題材にした小説「人絹」を書き、一躍「時の人」となっている。
ただ木暮美千代という女優が必ずしも「和田牛乳」の広告塔になれなかったのは、絶えず病との闘いであったこともあったのかもしれない。
しかし、「和田牛乳」も戦争という事態にアラガウことは出来ずに、ついには「明治乳業」に合併されている。
ところで近年、牛乳などの「乳製品」は西洋人の腸には分解する能力が十分備わっているが、日本人の腸にはそれが備わっておらず、牛乳は必ずしも健康にイイとはいいきれないという研究結果が出された。
そこで、戦後日本の「学校給食」のことに思いが至った。
上述のごとく、日本は遅滞した農業生産を回復させようと「食糧増産計画」実現の為に開墾や干拓を通じて一生懸命にやってきた。
ところがGHQから「思わぬ提案」がなされた。
これからは食糧増産よりもアメリカの「余剰産物」を買いなさい、売った分のお金はそっくり返してあげるから、それで「軍備」を整えなさいというものであった。
日本政府にとってそれはけして悪い話ではなく、ムシロ「歓迎」すべき話であった。
しかし、この美味しい話にもヤハリ「裏」があった。
日本政府はこの提案(相互安全保障法=MSA協定)をそっくり受けいれ、農作物購入の返還金で自前の防衛力を整備し、1954年7月に陸・海・空の三軍による「自衛隊」が発足した。
見過ごされがちだが、同年「学校給食法」が制定され、「パン食」を導入し、アメリカの小麦や粉ミルクを消費するようになった。
我々の世代が、鼻をつまんで一気飲みした「脱脂粉乳」や、皮が嫌いで中身だけクリヌイて食べたコッペパンなど「学校給食の思い出」は、実は米軍の「占領政策の転換」と結びついていたのである。
つまるところ、「MSA協定」をもって日本は食糧と軍備の悩みから解放されたといってもいい。
もともと占領政策で「日本の無力化」を狙ってきたアメリカが、一転して1950年以降日本に「再軍備」をススメたのだ。
それと並行して、アメリカの「余剰食糧」を買ってもらうために、「学校給食」を通じて日本人がアメリカ人ナミになるまで、「胃腸の再編」までも狙ったのではあるまいか。