足跡のない墓標

最近テレビで、世界の片隅で活躍する日本人とか、ココにもいた日本人といった番組をよく見る。
世界の辺境で活躍する人々の生き様に感動を覚えるが、一方で異国の草莽に眠り、イマダ発見されぬ墓は数多くあるに違いない。
仮に外国の地で、草むらの中にポツネンと立つ墓に、日本人の名前が書いてあったら、いかなる感興が生じるだろうか。
まずは、なぜ日本人がコンナ土地で骨を埋めねばならなかったのか、墓の被葬者の歴史を知りたいと思う。
後の首相・蔵相である高橋是清は「自伝」で10歳代でアメリカに渡る時に、芸人の一座と船底近い船室を共にしゴロ寝してすごしたことを書いている。
意外にもこの頃、外国で成功しようと渡航した「旅芸人」が多かったようである。
そしてこの時、高橋は自らは知らされずに「奴隷契約」でアメリカで売られる身だったのである。
そのことに後で気がつき、あわてて日本に逃げ帰っている。
1898年、サンフランシスコ近郊・コルマ市でに東京生まれの仕立て屋の息子によって、人知れず立つ「三つの墓」が発見された。
1860年日米修好通商条約批准の為に、「咸臨丸」はアメリカのポーハタン号の随伴艦として品川を出港した。
これが日本船として最初の太平洋横断である。
「咸臨丸」の役割は「アメリカと対等の立場で交渉に臨むこと」であった。
アメリカ船と同様に、日本人も大洋を渡る能力と技術を持ち合わせていることを示し、条約の交渉が「不利」になってはナラナイと必死であった。
そうした緊張を強いられる厳しい航海で衰弱した水夫が、サンフランシスコ到着後まもなく病死した。
出航後に病死した水夫三人の墓はコルマ市の墓地に改葬されて、そこに彼らは安置された。
このように国家の所望を担った者であれば、ある程度はソノ足跡はたどれるものの、一体ドレダケの海外に渡った「旅芸人」の足跡をタドルことができるだろうか。
彼らの多くは「その日限り」の公演に明け暮れ、ほとんど「自分達の記録」を残していない。
というよりも、そうした自己表現を満足に出来る者サエ多くはいなかったであろう。
彼らが残した「生きた痕跡」は、草葉の陰に見過ごされそうな小さな墓でしかないのだ。
サンフランシスコに渡った福岡の川上音二郎一座は、例外的といってよい。
しかし彼らとて「売り上げ」を悪徳弁護士に持ち逃げされ、野垂れ死に寸前のところまでいき、実際に二人の団員がサンフランシスコの地で亡くなっている。
また困窮の末、川上音二郎の姪をアメリカ人家族に預けて帰国するが、この少女は成人して日本初のハリウッド男優・早川雪舟の夫人となる青木ツルである。
ところで1915年、アメリカ在住の日本語新聞の記者が、カリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルの草地に人知れず眠る「日本人少女」の墓を発見した。
記者はこの墓を調査するうちに日本で最初の移民団「若松コロニー」の存在と出会う。
イギリス人グラヴァーは、薩摩長州に武器を売り込んだ人物として有名だが、対する幕府側(東北諸藩)にも、武器を売り込んだジョン・ヘンリー・シュネルという人物がいた。
当時カリフォルニアは、金鉱発掘の好景気に沸いていた。
、 シュネルは、戊辰戦争で敗れた日本(幕府・東北諸藩)を見限り、新天地アメリカに日本人の村を建設して、一儲けしようとたくらんだ。
そしてカリフォルニアに渡り、茶の栽培と絹を生産して売れば成功間違いないと考えた。
そして、戊辰戦争の敗戦によって前途を失った今の福島県会津若松の武士とその家族たちを説得し、1869年にたくさんの茶の実と蚕を携えて船に乗ったのである。
しかし、この渡航は新政府の全く知らぬことであり、そのことが入植した日本人の存在を「埋もれさせる」結果となった。
旧会津藩のサムライとその家族たちは勤勉に働き、茶の木は立派に育っていた。
シュネルは1870年のカリフォルニア州フェアにこれらの物産を出展する計画を練っていたと伝えられている。
そして約1年間と少しダケ、このコロニーは確かに存続したのだが、何らかの原因で崩れ去った。
日照り、資金不足、あるいは病の流行によるのかしれない。
1871年4月、経営に行き詰まったシュネルは日本で「金策」をして戻って来ると言い残してこの地を去ったものの、二度と戻ってくることはなかった。
あとに残ったのは、言葉もわからず生きる糧もなく、途方にくれる外はない入植者達であった。
さてアメリカの邦人記者の・竹田雪城は、この地の墓に眠る少女「おけい」を調べ、彼女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。
その白人家庭の子孫が「おけい」のことを覚えており、それによって土に埋もれていた「若松コロニー」の存在が明らかになったのである。
おけいは、シュネル家の子守として彼らについて渡米したらしい。
コロニーの経営失敗後には、その白人家庭に引き取られ使用人として働いた。
しかし1年足らずで体調を崩し、この地亡くなっている。
少女の墓には日本語で「おけいの墓」と書かれ、英語で「1871年没、19歳、日本人の少女」と書かれていた。
さてその後の「若松コロニー」の人々の行方は杳として知れない。
外国の地には、誰も立ち寄ることのない、すなわち「足跡のない墓標」はマダマダあるに違いない。

2001年9月11日、二機の旅客機が世界貿易センタ-に突入、ビルはその数分後完全に瓦解し、6000名近くの人々の命が奪われた。
実は世界貿易センタービルの設計者は、ミノル・ヤマサキという日系移民であった。
ミノル・ヤマサキは1912年12月1日、富山県出身の日本人移民の子としてシアトルに生まれた。
母方のおじが建築家であった影響で建築を志した。
家が貧しかったのでサケの缶詰工場で働きながら、学費を稼ぎ苦学して建築学を学んだ。
その後、一流設計事務所に務めながら修業を積み次第に頭角をあらわしていった。
29歳で結婚した。その2日後に真珠湾攻撃があり太平洋戦争が勃発する。
戦前からその能力を認められていたヤマサキ、日系人への迫害が激しかった太平洋戦争中も、収容所に強制収容されることなく、いくつかの建築事務所を渡り歩いた。
終戦の年1945年には所員600人を擁する大手設計事務所事務所のチーフデザイナーに迎えられている。
その後4度にわたってアメリカ建築家協会の一等栄誉賞(ファースト・ホーナー・アワード)を受賞するなど日系人の一流建築家としてニューヨークに、当時世界最高の高さを誇るビル(世界貿易センタービル)を設計する栄誉を手にした。
その後もトップクラスの一流建築家として活躍し、数多くの作品を残したヤマサキは、1986年2月7日、73歳で亡くなっている。
日本では都ホテル東京にヤマサキのデザインの一端を見ることが出来る。
ヤマサキは間違いなく成功者であり日系移民の「勝ち組」だったが、ナゼカ彼の作品は世界貿易センタ-ビルのみならず「不幸な経過」をたどっている。
プルーイット・アイゴー団地は住民に愛されず、犯罪の温床地となり、1972年にダイナマイトで解体されている。
このミノル・ヤマサキの経歴と対照的なのがイサム・ノグチである。
ノグチは1904年11月17日は、アメリカ合衆国ロサンゼルスで日本人の詩人である野口米次郎とアメリカの女流作家との間に生まれた。
1906年家族とともに日本へ移住し、2歳から13歳までを東京で暮らした。
日本での小学校時代、工作が得意だったが、友達と馴染めず転校を繰り返していた。
そして学校には行かず、茅ヶ崎の木工細工の職人の元で修行をしていた時期もあったという。
アメリカに戻り、大学はコロンビア大学医学部に入学したものの、19歳の時から彫刻に目覚め在学中にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校で彫刻を学んだ。
1927年から奨学金でパリに留学し、2年間、ロダンの弟子である彫刻家に師事し、1928年にニューヨークで最初の個展を開いた。
1941年、第二次世界大戦勃発に伴い、自ら志願して強制収容所に拘留された。
彼は後に芸術家仲間らの嘆願書により釈放され、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。
「ノグチ・テーブル」をデザイン・製作するなどインテリアデザインの作品に手を染め、そのニ年後には「岐阜ちょうちん」をモチーフにした「あかり」シリーズのデザインを開始した。
ヤマサキは日米戦争勃発の際、日系人収容所に入ることなくアメリカで活躍し続け一流建築事務所を渡り歩いたのに対し、ノグチは自ら日系人収容所にはいることを選んだ。
ノグチの場合、収容所においてアメリカ人とのハーフということで、アメリカのスパイとの噂がたち日本人から冷遇され、自ら出所を希望すると、日本人とのハーフという理由で出所はカナワなかった。
ノグチは、彼とおなじように二つの国つまり日本と中国との間で魂を引き裂かれた山口淑子(李香蘭)と結婚していた時期がある。
イサム・ノグチのモニュメントが1952年には広島平和記念公園の慰霊碑として選ばれたが、原爆を落としたアメリカ人であるとの理由で却下された。
しかし彼のデザインの一部は、ノグチの起用を強く推した丹下健三によって設計された「原爆慰霊碑」の中に色濃く生かされている。
ただ平和公園の東西両端に位置する平和大橋・東平和大橋のデザインはノグチの手になるものである。

最近の尖閣列島問題、PM2.5問題など、日中間の問題が大きくなているが、中国はどうあっても「謝らない国」という印象を強く持った。
中国の辞書に「謝罪」という言葉はナイのかと思ったが、中国は日本の戦時中の行為について繰り返し「謝罪」を求めてきた国なのだ。
仮に日本政府が過去の戦時行為を「謝罪」をしたとしても、相手がそれを受け入れる気がある場合に「意味」があるのであって、その気持ちがなければそれは不毛である。
最近、新聞で中国は「日本が謝らない」という物語を必要としていると書いあった。
つまり、そのようなプロパガンダが、まとまりにくい国の緩衝材または接着剤となっているのだ。
ところで、プロパガンダは情報規制や遮断がある場合にノミ可能かと思ったが、今インターネットやツイッターで、情報源が多様で自由であるはずなのに、「プロパガンダ」は相変わらず猛威をフルッテいる。
つまりプロパガンダというものは、人間の心の奥のツボにはまったならば、特別な情報規制をしなくても、根深く、そして強く拡散していくものではなかろうか。
例えば戦時中の満州移民のように、「五族共和」「王道楽土」の美しいプロパガンダに導かれて故郷を捨てて満州に渡った者いる。
しかし現実の満州はそういうものではなく、終戦時には多くの「中国残留孤児」の悲劇を生むことになった。
外国の地で流されたプロパガンダに、切り裂かれた人々も数多くいる。
多くの人々は、遠い異国の地で起きた悲しい出来事を忘れようとして、積極的にソレ語ることはしない。
その結果、多くの悲劇が完全に埋もれてしまい、ソレが日本に伝わることもない。
太平洋戦争がはじまった1941年12月7日は、アメリカに住む日系人にとって「運命の日」となった。
この日の未明、日本軍は、ハワイの真珠湾に配備されていたアメリカ軍の艦艇、航空機に対して奇襲を加え、数時間にわたって爆撃を行なった。
攻撃の翌日には、日系一世の預金が凍結され、日系商店の中には閉鎖を命じられるものが続出した。
ハワイの日本人の逮捕抑留は、真珠湾攻撃の当日のうちに開始され、FBIは8日の夕方までに潜在的に危険とみなされた日本人345人の身柄が拘束された。
当局はその後も引き続き社会的・宗教的・知的レベルの日系一世を中心とする日系人144人を逮捕し、そのうち3分の2を強制収容した。
また、12月30日には、禁制品捜査のための適性外国人家宅捜査令状を出すことが認められ、昼夜を問わず数千の日系家庭への家宅捜査が始められた。
家宅捜査を警戒し、アメリカに対する忠誠心を疑われることを恐れた日系人の家族は、それまで部屋に飾っていた天皇の写真を隠したり、神社の祠を地下に埋めたり、また日本語の本や日記、日本にいる親戚の写真、アルバム、日本刀といった日本に関する品物を処分した。
日系人襲撃におびえ、敵国人として扱われることを恐れる人々は、他人の巻き添えになることも恐れ、抑留された身内や親族、友人に対しても、背をムケ冷たく突き放すことも少なくなかった。
太平洋戦争開戦で大半の日系人がアメリカに対する「忠誠」を明らかにしたが、実際には一世や帰米二世の中には「親日的」姿勢を表すものも少なからずいた。
皇軍や日本民族の優越性を最後まで信じて、日本軍優勢の噂も跡をたたず、終戦後になっても日本の敗戦を信じない者もいた。
そして日本人移民達の中に分裂を生み、長く癒しがたい傷を残したのである。
ハワイの日系人が、こうした傷の深さを語ることはホトンドない。
しかし、ブラジル移民を描いた最近の映画「汚れた心」で、その傷の深さをある程度推測することができた。
1945年8月15日、太陽が沈み、地球の裏側でもう一つの戦争が始まった。
第二次世界大戦後のブラジル、そこに住む日系移民の大半は、日本が戦争に勝ったと信じ切っていた。
当時のブラジルと日本は国交が断たれており、移民たちが日本に関する正確な情報を入手することは極めて困難だったのだ。
そのさなか日系人コミュニティの精神的リーダーである元日本帝国陸軍の大佐ワタナベは、「大和魂」の名のもとに「裏切りもの」の粛清に乗り出す。
ワタナベの一派が標的にしたのは、日本が降伏したという事実を受け入れた同胞たち。
ワタナベによって刺客に仕立てられた写真館の店主タカハシ(伊原剛志)は、血生臭い抗争の中で心身共に傷つき、妻ミユキ(常盤貴子)との愛さえも引き裂かれていく。
あらゆる情報が「プロパガンダ」めいたデマではないかという疑心暗鬼が広まる。
そのサナカ、日本の戦争勝利を断固として唱え続ける「勝ち組」の勢力は、それを信じようとしなかった「負け組」の人々を「汚れた心」を持つ国賊と断罪し、ブラジル各地の日系人社会で襲撃事件を引き起こしていく。
疑心暗鬼がもたらす、抑圧、不寛容、差別といった問題は、1970年代におきた「連合赤軍事件」を思わせる凄惨さである。
現地の人々は知っているのだが、そのことを胸に秘めたママ、誰も語ろうとはしない。
「勝ち組」「負け組み」の戦いで、3万人が逮捕され、381人が有罪となり、10年後恩赦で全員が釈放となった。
日本人が負けたと信じることを「汚れた心」とよぶのは奇妙だが、日本人には「清き明るき」大和魂というのがあって、それを対比した言葉のようである。
映画「汚れた心」は、ごく平凡な男タカハシと妻ミユキがたどる痛切な運命を軸に、戦後70年近くの時を経てブラジル日系移民社会の「暗部」をアブリ出した。
ブラジルの地にも数多くの「足跡のない墓標」があるのだ。
いつか「ここにもあった日本人の墓」というテレビ番組をプロデュースして欲しい。