地図なき人生

昨年、今世紀最高の歌姫ともいわれるホイットニー・ヒューストンがなくなった。
ミュージシャンの家系に生まれ才能にも恵まれ、ルックスも申し分のないホイットニーの孤独死にいたる過程は、「今世紀最大の転落劇」とまで言われている。
個人的にホイットニーの歌声を聞いて最初にシビレタのは、アルバム「そよ風の贈り物」の中の「グレイテスト・ラヴ・オヴ・オール」という曲だった。
その歌詞を(一部略して)紹介すると、以下のトウリである。
♪誰もがヒーローを探してる 尊敬する人が必要。
私には見つけられなかった。 私の心を満たしてくれる人を。
寂しくひとりぼっちだった。
そして私は学んだ。私自身が頼りだと。
ずっと前に心に決めた。誰の後ろも歩かないと。
失敗しても 成功しても 私は私を信じて生きていく。
たとえ何を失ったとしても 私から尊厳を奪うことはできない。
あなた自身を愛することを覚えたらいい。
それこそもっとも大きな愛。
ずっと夢見ていた特別な場所。
そこであなたが孤立してしまったとしても、
そのときこそ愛の力を知ることができるだろう。♪
今から振り返れば、この歌詞がナントモ痛ましく響いてくる。
世界の誰しもが憧れるグラミー賞を6回もとりながら、ホイットニーは一体どんな「罠」にはまってしまったのだろうか 。
新年早々に唐突なことが思い浮かんだ。
ヨーロッパ中世の騎士物語「アーサー王物語」の中に、ある邪悪な騎士の城にアーサー王が迷い込んだ物語があった。
その城にはいるやアーサー王はマルデ魔法にかかったかのように英気を失い、簡単に捕らえられてしまう。
城の主は、今から出す「問い」に期限までに答えないと、アーサー王の領土をすべて奪い取ってしまうという。
そしてその問いとは、「すべての女性が欲しがるものは何か」というものであった。
アーサー王はその問いを発しつつ旅を続ける。しかし、ある者は「美貌」別のものは「健康」といい、なかなかスベテの女性が欲するモノという答えがわからない。
そしてアーサー王は解答期限の最終日になった時、森の中でとてつもなく醜い老婆に出会う。
老婆はアーサー王にソノ答えをえるかわりに、自分と結婚してくれる若い騎士を差し出せという。
切羽詰った王は老婆の結婚相手を見つけることを約束して、「答え」を教えてもらう。
そしてソノ老婆が王に語った答、ツマリすべての女性が欲していることとは「自らの意志をもつこと」ということであった。
アーサー王は、邪悪な騎士の城にその答をもって帰ると、ビンゴ~だったらしくて、ついに邪悪な騎士の城から解放される。
しかし、アーサー王は気が晴れない。
王が老婆に約束した「結婚相手」について思い悩んでいると、一人の奇特な騎士が老婆のところに赴くという。
しかし若い騎士は、老婆のアマリの醜さに、ついに背中を向けてしまう。
しかしフト振り返ると、ソノ老婆は魔法から解きハナタレタかのように、若くて美しい女性に変貌していたのでる。
しかし、老婆が若く輝くのは一日の半分だけであり、老婆は騎士に自分が若く輝くのは昼か夜かどちらか「選べ」という。
騎士は夜に美しくあって欲しいと言うが、老婆は昼美しいことを欲する。
そこで色々面白い議論があって、若い騎士が老婆に勝手にしろというと、老婆はこれで「若い騎士と結婚すること」「自分の意志で決める」ことという二つの条件が満たされたといって完全に若く美しい女性に変貌する。
老婆はドウヤラ魔法にかけられて、「二つ」の条件が、呪縛から解放される条件であったらしいのだ。
アーサー王と同じく老婆(実は邪悪な騎士の妹)もまた、呪縛に捕らえられていたのだ。
そして最後に若い騎士が、お前のしたいようにしろといったとき、老婆は自分の意志をもつことができ、すべての呪縛から解放された美しい乙女となって、騎士の目の前に現われるのである。
ホイットニーは、「ボディーガード」という映画で人気の絶頂に昇った頃から、反対に落ち目となったミュージシャンである夫のDVとドラッグで「自らの意志」を失っていったようだ。
つまり、家庭がマルデ「邪悪な騎士の城」となり、娘までもがドラッグに手をソメテしまう。
テレビで見たところでは、夫が壁に無数の「目」を書いてホイットニーを心理的に縛っていたのはショッキングであった。
最近みた映画「ブラック・スワン」で心の平衡を失っていく主人公を思い出させる。

ホイットニーとは対照的に、邪悪な騎士の城から「抜け出した」ごとくに自由で美しく生きる道を掴んだ女性たちもいる。
昨年末に、壮絶な人生を送った(進行中)二人の女性のことを二晩連続してみて、頭の片隅から消えない。
一人はアメリカ女子サッカー界で、「美しすぎる」とまで言われているゴールキーパーのホープ・ソロ選手である。
ソロは、横領罪で州立ワラワラ刑務所に収監されていた父親を母親が訪問した時に出来た子供だった。
その父親こそがソロのコーチ第一号であった。
5~6歳の時に、ホープの両親が離婚し母親が家計を支えたが、アル中気味で家計はとても苦しかった。
サッカーのリトルリーグに所属するが、その移動などはチームメイトの親が助けてくれた。
遠征中に、シアトルの公園で足を引きずる父親と偶然に再会し、父の家についていくとそこは森の中のテントでしかなかった。
つまり父親はホームレスになっていたのである。
その後、ホープが大学に進学すると父親はすべて娘の試合を見に行くようになり、彼女はは路上に住むお父さんのために食べ物を運んだりしたという。
ホームレス生活を共にしながら夢を追いかけていましたが、食べる事もままならぬ状態が続いた。
その後、父親はもベルビューで起きた殺人事件で父親が逮捕されるが、後にアリバイが成立し誤認逮捕であることが判明している。
2007年、父親は、娘に電話で元気な様子を伝えたが、ソノ数時間後に心臓発作で死亡している。
父親の遺品を整理する中で、ホープが出場した記事をすべてファイルし、最後のページは2007年マモナク初出場することになっていたワールドカップが空ファイルのまま用意されていたという。
社会的にはどうあれ、ホープの現在あることに父親は欠かすことができない存在であったという。
娘は父親について「一人の生活を楽しみ、決して他人を裁かず、純真な心の人だった」とも語っている。
しかしそのワールドカップでは準決勝ブラジル戦でホープはベンチに座らされた。
かつてブラジル戦で実績があったベテランのキーパーを使ったのだ。
しかし、4-0で負けるという結果となり、その選手起用についてソロは監督批判したため、以後しばらく「代表離脱」となった。
仲間からもまったく口を聞いてもらえない状態が続いた。
その後、しばらくして代表に戻るのの満足のいかないプレーが続いた。
しかし北京オリンピック直前に、かつて批判して「代表離脱」の原因となったベテランキーパーから、「あなたはずっと悪くなかった」という「許し」の言葉をもらい、フッきれたという。
北京オリンピックでは、アテネオリンピックに続いて二大会連続の金メダルに貢献した。
2011年ワールドカップ・ドイツ大会で決勝で日本に敗れた後、ホープは「試合後宮間選手は喜びをあらわにしなかった。なぜなら、私たちが負けてどれほど傷ついたか分かっていたから。その出来事は本当に日本が尊敬すべき国だということを表している」と語っている。
そしてこの大会でホープは、最優秀ゴールキーパーに贈られる「ゴールデングローブ賞」と、MVP投票第三位に贈られる「ブロンズシュー賞」をダブル受賞している。

最近、バラエティ番組に出演が多いリリコ(LiLiCo)は、「王様のブランチ」という番組で映画コメンテーターとして人気が出た。
その明るさから長いホームレス時代があったということは、なかなか想像できない。
リリコは、スウェーデン人と日本人母親との間に生まれたハーフなのだという。
リリコの経歴から、逆に日本からドイツに留学し芽が出ず、父親の国籍があったスウェーデンで苦しい「難民」生活をしたフジコ・ヘミングを思い起こした。
中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時に左耳の聴力も失ってしまい、フジコは演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。
失意の中、フジコはストックホルムに移住する。
耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。
フジ子の場合は、海外でピアニストとしての評価を得ることなく、h母親の死を機会にスウェーデンから日本に帰国した、
母校の東京芸大で小さなコンサートを開くことがあったが、NHKの特集番組で紹介されたのがブレイクのきっかけとなった。
それまでのフジコは「この地球上に私の居場所はどこにもない。天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたという。
「居場所がない」という点では、スウェーデンにいた幼少の頃のリリコと共通であった。
では、スウェーデン生まれでスウェーデンで生活をしていたリリコがなぜ母の母国の日本にやってきたのか。
そしてなぜホームレス生活をすることになったのか。
リリコはホームレス生活を送ったといっても、公園で寝泊まりしていたわけではなく、マネージャーの車で寝泊まりしながら、公園の水道で体や頭を洗っていたという生活であった。
リリコの場合、幼少より母親との確執があった。
母親はリリコに母親とはよぶな名前でヨベといいい、お母さんというとソッポをむかれた。
そして、母親の数々の暴言に深く傷ついていた。
また学校では(ノルマン人は本当に大きいので)小さくて最前列、そしてアジア系であったためにイジメられたという。
弟は重度の喘息とアレルギーを持っていて医者によれば3歳まで生きられないかもといわれた。
そんな息子を見て父親は「俺の子じゃない」と言い残して家を出て行った。
その後、母親は機械の設計士として生計を立てたが、母親は心を病んでいた。
結局リリコが弟の面倒を見ることになったが、そんあリリコに母親は「アンタなんて生んだ覚えない」と言い放った。
ところでリリコの両親の出会いはといえば、バックパッカーだったリリコの母がヨーロッパ旅行していた時にスウェーデン人の父から声をかけられたのがきっかけで交際し結婚に至った。
しかし喧嘩が絶えなかったという。
そんなリリコは家庭にも学校にも自分の居場所がないと思ったが、母親の実家から時折送られていくるアイドル雑誌に夢中になった。
いつしか日本で歌手タレントになりたいという夢を持つようになった。
そしてついににこの夢の実現のために、高校をやめて日本へ旅立つことを決意した。
母親は娘がどうせすぐに戻ってくるに決まっていると タカをくくっていたようだ。
18歳で来日したリリコは、祖母が住んでいた東京都葛飾区に住むことになった。
来日当初は日本語がほとんどしゃべれなかったが、お昼の「笑っていいとも」を見て日本語もメキメキ上達していった。
日本に着いた日にラーメン屋の出前の入れ物のフタがギロチンにみえて衝撃だったそうだ。
そして、リリコは近所の弁当工場で働きだした。
日本語が喋れなくても仕事が出来るということで始めたけれど、高野豆腐をスポンジと思って床に落ちたものをソノママ器に入れたりしたのだという。
アルバイトをしながらオーディションに応募して、ついに合格の通知を手にしたリリコは近くの音楽の先生のもとで歌のレッソンに励んだ。
この先生に紹介されたのが、浜松の芸能事務所でここのマネージャーとある意味「運命的」出会いをする。
そして、ビヤガーデンのステージで歌うようになるが、リリコにとってそんなステージに登ることでも夢のゆうな喜びだった。
ところがある日、突然にこの事務所を追い出されることになる。
マネージャーによれば、、寝泊りしていた芸能事務所の部屋のカギが替えられしまったとか、外国人がウロウロしているといううわさが立ったりしていると説明した。
しかし、TV番組「金スマ」にこの当時の女社長が出演され、自分は鍵は取り替えた覚えはないと証言した。
つまりマネージャーがリリコの部屋のカギをすりかえたのではなかという「陰謀」説が明らかになったが、よく解釈すればリリコの才能に賭けたマネージャーが東京に連れて行って早く売りに出したかったのだろうと推測される。
そして、マネージャとリリコともう一人の歌手と3人で独立して東京のマンションに事務所をつくった。
そしてリリコの「売り込み」が成功して、NHKの歌番組にも出演することができ、バラ色の未来が開けているかに思えた。
しかし、ウマクしゃべれないリリコにその後の出演依頼はなく、もうひとり歌手が金を持ち出して逃亡して事務所は差し押さえにあっていまい、ついにリリコとマネージャーは住む家を失ってしまう。
その後、21歳から26歳までの5年間、マネージャーと車で寝泊りしてホームレス生活を続けることになったのである。
その間、テレビ番組のエンドロールを見ながら、番組のプロデユーサーに電話をかけまくったが、リリコをタレントとして使うものはなかった。
公園で頭を洗ったり、時には洗車場のシャワーで体も服も丸ごと洗ったという。
ホームレス5年間やってきて引き受けたのがVシネマ「82分署」への出演であった。
生きるためには「裸になる」というところまできていたのだ。
さらに、中川翔子の母親の経営するショーパブなど水商売で生活をつないだが、目指していた夢とカケ離れた生活の中で、マネージャーとの気持ちも隙間が生じてしまい、別々の道を生きる事になった。
そうした生活の中で、店にやってきた常連客から思わぬ仕事がはいった。
英語ができるというのでコマーシャルの声を出すというものだった。
個人的にも聞きおぼえがある「トヨタ・ネッツ・プレゼンツ」というCMナレーションである。
その後、「王様のブランチ」という番組の映画コメンテーターに抜擢された。
リリコの語り口はストレートで嘘っぽさがないのが受けた。そしてこの番組の女性スタッフに好かれたという。
リリコがバラェティ番組に出演するようになった頃、スウェーデンの母親が来日し、リリコとディナーに行ったことがあった。
その時帰り際に、母親から「誰だか知らないけど付き合ってくれてありがとう」と握手された。
それはマルデ勘当宣言であるかのような素っ気無い態度だったという。
リリコは「9つ離れた弟が病気だったため、家族が変化していったのは子ども心にも感じました。でも、口には出さなかった。誰も傷つけたくなかったから」と振り返っている。
医者から3歳までしか生きられないといわれたコノ弟は、現在6ヶ国語を話し経営学博士となり、スウェーデンの大学教授をしているという。
母親は娘に一言も母親らしい言葉をかけなかったが、父親によればスウェーデンでは日本からの観光客に声をかけたり、娘が日本で活躍している事を自慢げに語る様子もあったのだという。
リリコはいまだにソノ母親の気持ちはよくわからないのだという。
母親には自殺願望があったようだが、スウェーデンの病院で感染症で亡くなっている。
ところでリリコの浜松時代に、健康ランドで歌っていた時代もあったようで、このTV番組では20年ぶりに「川の流れのように」をその思い出の場所で披露した。
♪地図さえない それもまた人生♪。
温泉センターの舞台は、グラミー賞のステージとはカケ離れているけれど、「グレイテスト・ラヴ・オヴ・オール」の歌詞はむしろリリコさんに似合うように思えました。