歴史の娘

本稿を「歴史の娘」と題したのは、犬養道子の著書「或る歴史の娘」にちなんだ。
幼少時に、本人の与り知らぬ「事件」に巻き込まれたが故に、数奇な運命を辿らねばなかった女性をそう呼んでみた。
古い例をいえば、シーボルトと日本人女性との間に生まれた日本人初の産科医・楠本イネなどがそれにあたる。
父シーボルトは、日本の最高機密情報である地図を持ち出そうとしたため、国外追放となった(シーボルト事件)。
それゆえ、イネは幼少時に父と離別したがシーボルトの弟子に庇護され、差別に苦しみながらも医者をめざしたのである。
最近の話では、雑誌「文芸春秋」に「田中角栄の恋文」が掲載されて話題となった。
田中角栄と「越山会の女王」といわれた佐藤昭子との間に生まれた女性が、角栄が母親に宛てた手紙を「公開」したものであった。
評論家の立花隆氏によれば、それは「第一級」の現代史の資料なのだそうで、彼女もまた「歴史の娘」といえるかもしれない。
さて、冒頭に紹介した犬養道子女史は、5・15五事件より青年将校によって殺害された犬養毅首相の「孫娘」である。
彼女の母親は、その父殺害現場に居合わせている。
5・15事件が、犬養家一人一人のその後の人生に、長く尾をひくインパクトを与えたことはいうまでもない。
とくに母親は、唯一の現場目撃者でありながら、将校達にムザムザと夫を撃たせてしまったことを、終生苦悩してきたという。
彼女によれば、嵐はスサマジイ破壊力で襲って来たが、過ぎた後は不思議な静けさがやってきた。
或る意味、来るべきものが来てほっとしたという「安堵感」とも「解放感」ともつかぬ気持になったそうだ。
ところで、犬養道子女史が、自伝的小説「花々と星々と」の中でで、この5・15事件の「真相」はこれ以外にはないと断わったうえ、その「顛末」を紹介している。
//海軍と陸軍の青年将校ら五人が首相官邸に突入してきて夕食前の食堂に向かっていた祖父と母と弟(康彦氏:四歳)に廊下で遭遇し、やにわに一人が祖父に向かって引金をひいたが弾丸は出なかった。
「まあ、せくな」ゆっくりと、祖父は議会の野次を押える時と同じしぐさで手を振った。
「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い。」
そして、日本間に誘導して、床の間を背に中央の卓を前に座り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、 ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう。」
その時、前の五人よりはるかに殺気立った後続四人が走りこんできて「問答無用、撃て!」の大声。
次々と九つの銃声。そして走り去る。
母が日本間に駆け入ると、こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中で祖父は卓に両手を突っ張り、しゃんと座っていた。指は煙草を落していなかった。
母に続いて駆け入った”てる”のおろおろすがりつく手を払うと、「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある。」
午後6時40分に医師団の最初の発表があり、こめかみと顎から入った弾丸三発。
背にも四発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命は取りとめる」
父・健が大きく笑って言いに来た。
「お祖父ちゃん、冗談いってさ、いつもとおんなじだよ。
9つのうち3つしか当たらんようじゃ兵隊の訓練はダメだなんて言ってるよ」と。
しかし、結局、午後11時分に祖父の顔に白布がかけられた。//
この場面で、「健さん」とは犬養毅の長男で、犬養道子女史の父親にあたる人物。
アノ犬養健、後の法務大臣である。
犬養健法相といえば、「造船疑獄」の指揮権発動で佐藤栄作運輸大臣らの逮捕を免れさせて「政治生命」を失った人物である。
犬養健は、意外なことに学生時代は「白樺派」の小説家でもあった。
犬養道子女史が作家になったのも、その血筋ゆえかもしれない。
その意味でも犬養道子女史は、「歴史の娘」であったといえよう。
ところで、作家の石井桃子は犬養健と交流があり、犬養家に司書のようなカタチで出入りしていた。
そして5・15事件が起きた1933年に、石井女史は犬養家で運命的な「出会い」を体験している。
事件後に犬養家を訪問したところ、イギリスから帰国したばかりの犬養健の友人・西園寺公一が子供達(道子と康彦)へのプレゼントとして送った、”The House at Pooth Cornerr”という本が置いてあった。
子供達に「これを読んで」と言われて、翻訳しながら読み聞かせたが、石井女子自身がフイに不思議な世界に迷いこんでしまった。
その時の気持ちは、温かいものをカキワケルような、または軟らかいトバリを押し開くような気持ちであったという。
そのうち、子供達の不満げな様子をよそに、石井女史の読み聞かせは自然と「黙読」になってしまった。
この場面を整理していうと、後に児童文学者になる石井桃子女史が、5・15事件で祖父・犬養毅を青年将校の凶行により失った孫達に、英語訳がでたばかりの「こぐまプーサン」を即興で訳して語り聞かせていたのである。
そしてこれが、石井桃子と「プーさん」との出会いの場面であった。
その時の出会いから7年後、石井さん訳した「プーさん」が岩波書店より出版され、多くの子供達の心を掴んでいった。
悲劇的な5・15事件の副産物が、「小熊のプーサン」とは意外である。

もう一人犬養女史に似た「歴史の娘」がいる。
2・26事件で父を失った渡辺和子で、父は陸軍「教育総監」の渡辺錠太郎である。
自宅を「皇道派」青年将校に突然に襲撃されて、43発の銃弾をあびて果てた様子をゴク真近で目撃している。
その時、渡辺女史は小学校3年生9歳であった。
激しい怒号でトラック1台に乗ってきて、三十数名の兵士達が門を乗り越えて入ってきた。
そして、玄関のガラス戸に銃弾が撃ち込まれ、居間に入ってきた兵士達に父親は銃撃された。
その時の父の脚は肉片が飛び散り、骨だけになっていたという。
この時、現場に居合わせた母と娘に与えた心の傷は、我々の想像をハルカに超えている。
渡辺女史は、18歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学から上智大学大学院を卒業した。
29歳でノートルダム修道女会に入会した後にアメリカへ留学、ボストン・カレッジ大学院で博士号を取得した。
その後、36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任している。
1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなどをした。
ところで、渡辺和子女史は、父親の死について一つの「疑念」を抱き続けてきた。
それは、当日の父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵たちの行動である。
渡辺宅を襲撃した兵士達は斎藤内大臣を殺害したあとなのに、なぜ電話が無かったのか。
お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は何もいわずソノママ二階に上がっていった。
しかし、一階で父と一緒に寝ていた渡辺女史のもとには何の連絡も入ってこなかったという。
渡辺女史によれば、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなどして逃げることも出来たはずである。
また襲撃が始まってても、憲兵は父親のいる居間に入ってこず、父は一人で応戦して死んだ。
命を落としたのも父一人だった。
しかし、憲兵は約1時間ものあいだ、身仕度をしていたというのだが、兵士が身仕度にそんなに時間をかけるのだったら、兵士が勤まるはずがない。
つまり、この二名の憲兵は、当日朝の電話で襲撃を予告され、かつ襲撃の妨害をしないよう言い含められた可能性が高いのだ。
陸軍内部には、統制派と皇道派の勢力争いがあり、憲兵隊にも「皇道派」の影響力が及んでいた可能性は充分あるのだ。
つまり渡辺錠太郎教育総監は、いわば「見殺し」にされたということである。

東京新宿は24時間眠らない街だが、新宿の繁華街のド真ん中に「新宿中村屋」がある。
この中村屋にインド独立の志士が匿われていたというのは知る人ぞ知るである。
そしてこの店の人気メニューの「カリー」には、格別の歴史が秘められている。
さて、この人物とは、ラス・ビハリ・ボース。
インド独立の志士として広く知られるチャンドラ・ボースとは別の、「もう一人のボース」のことである。
1910年代のインドを代表する過激な独立運動の指導者である。イギリス官憲に追われ、インドに滞まることに身の危険を感じ、武力革命のための武器と資金を調達すべく海外へと逃亡した。
「インド総督」を爆殺しようとした事件などの首謀者として英政府に追われる身となり、逃亡先として彼が目をつけたのが、国力を高めていた日本の地であった。
そして1915年に日本に亡命するためにやってきた。
日英同盟を楯に、イギリス政府は執拗にボースの身柄受け渡しを要求する。
日本政府はボースを国外退去させようとするが、世論は反発した。
そんな時、中村屋の女主人、相馬黒光(こっこう)も新聞でニュースを知って、「軟弱外交」と憤った一人だった。
自由で進歩的な考えを持ち、「新しい女」といわれた彼女を慕い、中村屋はいつも芸術家や文学者、役者たちでにぎわっていた。
人々は、ここの集まりを「中村屋サロン」と呼んでいた。
日本にいた中国の革命家・孫文や右翼の大物達がとりもって、相馬黒光は約4カ月間、中村屋の裏庭にあったアトリエにボースを匿うことになる。
「中村屋のカリー」はこのとき、命がけでボースを守った相馬家にボースによって伝えられたものである。
ボースは中村屋を出たあとも逃亡を続けた。
イギリスの官憲や探偵の手からボースを守れる人はいないかと、支援者たちが白羽の矢を立てたのが、黒光の長女・俊子だった。
英語を話せるし、それまでボースとの連絡係を務めていた。
ところがボースと俊子は心引かれ合うところがあり、1918年、周囲の祝福を受けることもなく密かに結婚した。
32歳のインド人男性と20歳の女性との国際結婚である。
しかし、夫は多額の懸賞金をかけられた「お尋ね者」で、隠れ家を転々とする新婚生活を余儀なくされた。
やがて追っ手の追求も手薄とナリ、ボースは日本に帰化する。
心労を重ねた俊子の体は、しだいに病に蝕まれていく。
家を建て、1男1女に恵まれ、つかの間の幸せを味わが、俊子は肺を患い1925年に26歳の若さでこの世を去った。
相馬俊子もまた、「歴史の娘」である。
昭和のはじめ、新宿は急速に「盛り場」へと変容し、デパートや映画館はにぎわいをみせていた。
人の往来も増え、本格インドカリーを出したいと提案したのは、俊子を病で失ったボースだった。
明治時代にカレーは英国流のもが伝わっていたが、日本風にアレンジされていた。
一方、ボースは「純インド式」にこだわった。
「カリー」という発音も、本場インドを意識したものだった。
日本人にとっては、「カリー」の味は衝撃的であった。
「恋と革命の味」として一躍評判にになり、中村屋のカリーを食べるのは文化人や学生の「ステータス」とまでいわれた。
ところで、日本人の多くのは、中村屋のボースとチャンドラ・ボースとを混同している。
チャンドラ・ボーズの影に「中村屋のボーズ」は隠れたカタチとなっているが、「中村屋のボース」が病に倒れ、ドイツから呼び寄せ運動の指揮を委ねたのがチャンドラ・ボースなのである。
先駆者である中村屋のボースの功績の方が、ある意味では大きいのである。
やがて第1次大戦が終わり、ボースは検束の危険から解放された。以後インド独立への活動に、身を挺する。極東の地から、インド独立の世論を盛り上げ、西欧の支配下からアジアを奪還するため、広く言論の網を張る人物となる。
しかしやがてボースは、日本軍部が米英と対立を深め、太平洋戦争でついにインド独立という夢がかなう時が来たと考えた。
1930年代後半以降のボースは、「インド独立」の実現をするために、日本による「アジア解放」戦争を推し進めるための言説を繰り返した。
当初、日本の帝国主義的動きをある程度追認するのだが、ボースは中国に対する日本の姿勢を厳しく批判するようになっていく。
1937年になって日中戦争が始まると、インド独立とイギリス憎しの思いが強まって、日本を支持する立場に回る。
1942年、マレー半島で結成されたインド国民軍の代表になるためにバンコクへ赴く。
ところがボースは日本本国とインド側の双方の板挟みになり、日本の傀儡扱いされて信望をなくす。
後をドイツからUボートとイタリアの潜水艦を乗り継いできたチャンドラ・ボースに「インド独立」の夢を託して東京に戻るが、過労のために病で寝つくようになる。
つまり、ラス・ビハリ・ボースは当初「国民軍」を率いていたのが、日本の傀儡とみられることで「求心力」を失い、もう一人のチャンドラ・ボースに、その後を譲ったというのが史実である。
1944年に後を託したチャンドラ・ボース率いるインド国民軍と日本軍は「共同」してインドに突入するが、その「インパール作戦」は大敗に終わってしまう。
1945年1月、ラス・ビハリ・ボースは結核のため、熱望していた「インド独立」を見ることなく、その生涯を終えた。
祖国インドのの土を二度と踏むことなく、日本に骨をうずめた。
その2年後にはインドが悲願の独立を果たされることになる。
ところでボースと俊子の間に一男一女が生まれていた。
長男は沖縄で戦死し、長女は母親が亡くなった時に2歳だった。
まだ幼く、父の口から母の思い出話を聞くことはなかったという。
ところで、政治学者の中島岳志氏は、大仏次郎賞を受賞する「中村屋のボース」という本を書いた。
その本を執筆する契機となったのが、ボースと俊子との間に生まれたもう一人の「歴史の娘」樋口哲子さんとの出会いであったという。
樋口哲子女子の回顧録「父ボース」は、中島氏が樋口女史をインタビューした内容を元に書かれたものである。
樋口女史によると、父ボースが口癖のように語っていた言葉がある、~「平凡に暮らせ」。
確かに「歴史の娘」にとって一番の願いは、「平凡に暮らすこと」にちがいない。