壮絶人生と家族

人生の「地獄」を見たが、最後には家族が原動力となって踏みとどまることができた。アルイハ家族の存在が創作の「源動力」がなった。
そういう「二人」の人物の本の紹介が、新聞の広告欄に並んでいた。
一人は、テレビや雑誌で有名な青森のリンゴ農家の木村秋則氏による「奇跡のリンゴ」である。
妻が「農薬」に弱かったことをきっかけに、リンゴ無農薬栽培を始めるが、病気と虫で畑はボロボロになった。
無収穫、無収入、(無理解)の日々が続いて、死を覚悟した瞬間さえもあった。
しかし11年目にして、小さな果実をならせることようやく成功し、「絶対不可能」の常識を覆した。
木村氏がケシテ諦めなかったのは、傍らにいつも「家族」がいたからであったという。
もう一人は、NHKスペシャルや金スマで「大反響」を呼んだ佐村河内守(さむらごうちまもる)氏による「交響曲第一番」である。
佐村河内は、1963年「被爆2世」として広島に生まれた。
4歳の時から母親に厳格な英才教育を受け、小学校4年生でベートーヴェンのピアノソナタやバッハを弾きこなした。
10歳の時「もう教えることはない」と母親から告げられて、「作曲家」を志望して、これ以後は「独学」で勉強した。
中学生時代は「音楽の道」に邁進する一方で、学年の番長との喧嘩や他校への出張抗争を繰り返す「武闘派」でもあったという。
ここまでは、高校時代にボクサーでありながら、独学で「建築家」を志した安藤忠雄氏に少し似ている。
しかし、17歳の頃から、偏頭痛、弟の死、耳鳴り、全聾、抑うつ神経症などに襲われた。
高等学校卒業後に上京したが、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、肉体労働者として働きつつ、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを「独学」で学んでいった。
19歳の時には失職して家賃を払えなくなり、アパートを追い出されてホームレスとなり、半年間「路上生活」を送ったこともあった。
また、アマチュアのロック歌手としてバンド活動を行っていたが、聴覚異常を発症し、1989年、体調がすぐれバンドから脱退した。
道路の清掃などアルバイトで生計をたてながら、1999年、ゲームソフト「鬼武者」の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びた。
しかし、「鬼武者」のための音楽を作曲し始めた35歳の時、「聴覚」を失って全聾となった。
今は、光を浴びることで偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発されるため、自宅では「暗室」に籠り、外出時には光を避けるためツバの広い帽子とサングラスを着用することを余儀なくされている。
テレビで映し出された創作風景、特に床を這うよう部屋を移動されている姿は、文字どうり「地を這うような」「血を吐くような」創作活動にみえた。
そして、音の聞こえない世界で完成させた「交響曲一番HIROSHIMA」は、「奇跡のシンフォニー」とも呼ばれ、空前のヒットを記録した。
これをきっかけに、アメリカのTIME誌でも、佐村河内氏は「現代のベートーベン」と称賛された。
今は東北の震災をテーマに曲作りをしている。
佐村河内によれば、闘い抜くことができたのは、その「闇」があまりに暗すぎたからだという。
闇が深ければ深いほど、小さな「祈り」の灯火は強く輝き、佐村河内守に大きな「希望」を与えてくれたという。
ではその小さな「祈り」とは何だろう。
佐村河内は、「父と母が、そして歴史が聞いた"原爆の音”。それを私の血がいま、聞いているのかもしれません」と語っている。
やはり被爆した「両親」への「祈り」が根本にあるのではなかろうか。

以上「二人の本」の紹介が掲載された日(6月6日)の朝日新聞には、人々の「家族」への思いが詰まった記事が多かったように思う。
そいういう記事を無意識に探していたからかもしれないが、特に室井佑月さんによる「おやじの背中」が面白かった。
また「ひと」のコーナーで紹介された中村力丸氏の記事には「意表」をツカレた。
中村力丸さんは梓みち代が歌った大ヒット曲によって、生まれてスグニ「時の人」となった。
作詞家の永六輔氏とコンビで数々の名曲を生んだ中村八大の中村八大さんの息子である。
つまり、「こんにちは赤ちゃん」の「赤ちゃん」とは「事実上」中村力丸さんである。
中村氏が生まれた日の夜の生放送番組「夢であいましょう」で、黒柳徹子さんが中村家に子供が誕生したことを紹介した。
これが父・中村八大の「こんにちは赤ちゃん」作曲のキッカケとなったそうだ。
中村氏は大学を卒業後、音楽出版社に勤務し、1992年に他界した父の跡を継いで事務所の社長に就き、「父の背中」を追った。
作品の管理しながら、スタジオに残ったテープをデジタル化したりしたという。
「音楽にすべてを捧げた父の生涯を初めて実感し、創作の喜びと苦悩の一端にふれることができた」という。
現在、東京の世田谷文学館で開かれている「上を向いて歩こう展」に、作曲した中村八大の楽譜やメモ、写真などを提供した。
「世界70カ国以上の人々の愛されてきたこの曲の意義を世に問いたい」と語っている。
ところで、中村八大氏の家にも、当時の多くの日本人のように「戦争の影」がつきまとっていた。
中村八大は、中国大陸で出生後、1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、そこで旧制中学校時代を過ごした。
旧制中学明善(現・福岡県立明善高等学校)から、早稲田大学高等学院に進学し、早稲田大学を卒業した。
学生時代からジャズ風音楽のピアニストとして鳴らした。
幼き日の「引き揚げ」体験が、中村氏の胸に深く刻印されずにはおかなかったに違いない。
そのことは、後述する作詞家のなかにし礼氏と「共通」するところである。
また中村八大氏が、自分の子供を「創作の原点」としたのに対し、なかにし氏が己の兄を「創作の原動力」としたという点で、「家族の力」が大きかったことも似かよっている。
「兄さん、頼むから死んでくれ」、そんなタイトルでドラマ「兄弟」は始まった。
1989年7月15日、作詞家のなかにし礼氏は、兄の死によって兄との修羅のごとき「確執」を終えた。
なかにし氏と十四歳年上の兄との関係は、「兄弟」というタイトルでテレビドラマ化され、なかにし礼役を豊川悦司、兄役をビートたけしが演じた。
なかにし氏の「幼き日」の満州からの引き揚げを描いたドラマ「赤い月」とともに、氏の転変きわまりない半生を描いている。
なかにし礼の父親は一代で造り酒屋を築き成功し、子供たちは満州で 豪勢な暮らしをしていた。
14も年の離れた兄は戦争で特攻隊に所属したが生き残り、日本に引き揚げていた家族の元へ戻ってきた。
なかにし氏が小さい時に覚えた「兄の存在」はケンカが強く、アコーデオンを華麗に弾きこなし、オシャレで頼りになる存在だった。
兄は、父の死後一家の「大黒柱」として祖母、母、姉から「頼り」にされた。
しかし、戦争から帰った兄は、「彼は昔の彼ならず」をジで行くとんでもない「モンスター」ぶりを発揮する。
大金を投資しては失敗し、借金を抱えた一家はモロトモ、貧乏のどん底へと沈んでいった。
父を亡くして日本に帰還し、なかにし氏の家族はしばらく小樽で暮らした。
兄は生活の為に「一発」あてようと提案し、家族で鰊漁をした体験が、なかにし氏の代表曲「石狩挽歌」の背景になっている。
鰊漁には運よく成功したものの嵐の中での輸送に失敗し、その利益は文字通り「水の泡」と化した。
「石狩挽歌」に怨念のようなものがコモッテいるのは、そういう「苦い体験」があってのことである。
なかにし氏は立教大学でフランス語を学んで、アルバイト先の喫茶店でボーイとして働いていた時にシャンソンの訳詞をしたのが「作詞家人生」のキッカケとなった。
なかにし氏の訳詞は「好評」をえて、 美輪明宏、戸川昌子などが歌っていた日本初のシャンソン喫茶の銀巴里などの有名店から依頼がきて、芸能界にもその名が知られるようになったという。
なかにし氏に日本の歌謡曲の「作詞」を勧めたのが石原裕次郎だった。
そういえば石原慎太郎・裕次郎「兄弟」も小樽で育っている。
なかにし氏は作詞家としての成功により、一気に金に困らない生活に変わるが、歌謡曲の詞を書く事に反対だった妻と離婚した。
その後再婚するが、半身不随になった母の面倒を見てた兄夫婦と一緒に住むが、兄がお金を勝手に使い出すようになる。
一方で、なかにし氏は作詞した曲のうち3曲がレコード大賞受賞曲となる「売れっ子」作詞家となっていく。
たが、その収入を「父代わり」であるべき兄が湯水のように使ってしまい、兄のせいで借金が山になって行く生活になっていた。
働いても働いても、結局は兄の「借金返済」に充てられたのだった。
また、なかにし氏には兄を受取人として「生命保険」がカケられていた。
それを知った時にはサスガに「悪寒」が走ったという。
兄を憎むが、兄嫁が献身的に母を介護してくれてることもあり 兄を「切り離す」ことも出来ない。
兄は 多額の投資に失敗し、弟の稼いだ「印税」を横領し銀座で遊びまわる。
兄は「なかにし礼名義」で会社を作っては倒産させる。
弟一家は借家住いに追い込まれ、債権者に金を返しに回ることになる。
また生命保険までかけられ、いつか殺されるかと思うほど追い詰められる事態に陥る。
戦争で「特攻隊」に所属した兄は、イツデモ命を投げ出す覚悟をして送った日々の経験をコトあるごとに話した。
「地獄を見なきゃな、いい詞は書けない」とも語った。
しかしなかにし氏は、兄の死後にその多くが「つくり話」であることを兄の戦友から聞いている。
それでも、兄の戦友から戦争現場の辛い現実を聞かされ、「虚勢」を張らなければ生きていけなかった 「生き残り」たちの悲しみを知った。
死んでまでも「夢がぼやける」と眼鏡をかけてる兄の死に顔を見た時、あれだけ兄に苦しめられ、憎んでいた「弟」の目から涙がアフレ出す。
兄の死後、弟なかにし氏が心の中で「叫んだ言葉」は、「兄さん色々とありがとう。兄さんをやってくれてありがとう 親代わりになってくれてありがとう たくさん苛めてくれてありがとう そして死んでくれて本当にありがとう」だった。
なかにし氏は著書「兄弟」の中で、戦争から帰還した「兄の変貌」その横暴さとか無謀さ、破滅ぶりは昭和という時代の「鬼っ子」であり、昭和という時代の「象徴」だったと書いている。
そういう意味で、なかにし氏にとって、兄の死は「昭和の終焉」を意味するものだった。
そして兄はなかにし氏の影、というよりもなかにし氏の方コソが「兄の影」だったかもしれないという意味のことを書いている。
なぜなら「兄の存在」こそが創作の原動力であったからだ。
兄にヨッテ弟は書かされたのだ。
実際に、兄という「骨肉の呪縛」から解き放たれた時、なかにし氏は、歌謡曲の作詞の意欲が急速に衰えたという。

1977年新聞にのっていた作家・水上勉とご長男・窪島誠一郎の再会のことが強く印象に残っている。
実の父子でありながら生き別れ35年ぶりに劇的な再会を果たした「奇縁の父子」であった。
作家水上勉は福井県の大工の家に生まれ5人兄弟の次男として育ち、9歳の時京都の禅宗に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔した。
その後一時連れ戻されるが再び禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書いた。
経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的には恵まれないことが多かった。
1941年に水上氏は同棲していた女性との間に長男が生れるが、この頃結核にかかり血を吐きながらも酒ばかり飲み自身の生活さえ維持するのがヤットであった。
アパ-トの隣人が水上氏に同情し、また結核が子供に感染することを心配し、一時長男を預かり「養子先」を探したのであった。
この時、水上勉氏には養子先を知らされていなかった。
その後、明大前付近は1945年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものと思われていた。
しかし長男は、そのとき養父母と石巻市に疎開しており、無事に空襲を逃れていた。
戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開する。
しかし窪島氏は、自分が親と似ていないことや血液型などにより養父母が実の親ではないと確信する。
そのころ、養父母は、生活は苦しく生きるのに必死で息子の心の変化を知る余裕もないほどであったという。
窪島氏は高校をでると、深夜喫茶のボーイ、ホテル従纂員、店員、珠算学校の手伝いなどをしながら、家計を助けるとともに金を貯めた。
結婚後、それをもとに喫茶店や小劇場(キド・アイラック館)・居酒屋を開いて成功し、大小5軒の店を構える少壮実業家となる。
さらに銀座に好きな絵を集めて画廊を開いた。
自伝によると「高校時代から口八丁手八丁の男だった。深夜酒場のマスターは天職だったかもしれない。あれほど好きだった文学にはすぐに見切りをつけた」と書いている。
終戦後間もない頃、窪島氏の父親である水上勉は本が売れず妻の稼ぎに頼っていたが、妻は子供を置いて勤め先のダンスホールで知り合った男性と駆け落ちしてしまう。
1946年ごろ作家の宇野浩二を知り文学の師と仰ぐようになり、1947年に刊行された「フライパンの歌」が一躍ベストセラーとなるが、その後しばらくは生活に追われまた体調も思わしくなく文学活動からは遠ざかった。
しかし1959年「霧と影」で執筆を再開し、1961年「雁の寺」で直木賞を受賞し、「飢餓海峡」「越前竹人形」、「五番町夕霧楼」、などの小説を相次いで発表し華々しい作家生活が始まったのである。
一方息子の窪島氏は生活の安定とともに本格的に「実の両親」を捜し始める。
そして養父母である窪島夫婦が戦前、世田谷の明大前でクツ修理屋をやり二階を下宿にしていたこと、そこに山下義正という学生がいて1943年秋、孤児をもらったといって二歳の赤ちやんを子供を欲しがっていた窪島夫妻のところに連れてきたことを知った。
さらにかつて山下義正が住むアパ-トの隣の部屋にいて子供を預けた人物が、当時すでに流行作家としての名が知られていた水上勉氏であることをツキ止めるのである。
窪島氏は父が作家の水上勉氏であることを知った時のコトについて次のように語っている。
「それは天地が裂け、雷鳴が轟き、驚天動地でしたよ。人前ではかっこつけていましたが出会ったときには涙がでました」。
水上勉氏は、2004年9月8日肺炎の為、長野県東御市で亡くなる。享年85歳であった。
窪島氏はその後、画家で自らも出征経験がありまた美術学校の仲間を戦争で失った画家野見山暁治氏とともに日本各地の戦没画学生のご遺族のもとを探し訪ね「遺作」を蒐め、1997年5月に「無言館」を開館した。
自身が館長を務める長野県上田市の無言館には、志半ばで戦場に散った画学生たちの残した絵画や作品、イーゼルなどの愛用品を収蔵、展示している。
水上・窪島父子の「奇縁」とは、窪島氏の嫁が水上氏の代表作・北海道積丹半島出身の女性であったことなど色々あるが、何よりも息子・窪島誠一郎氏が水上作品の「愛読者」でもあったということであろう。
つまり本当の父親の名を知ったとき窪島氏の本棚には多くの水上作品が並んでいたのである。

さて、前述の室井佑月さんが語る「家族の姿」はとても面白いが、先日掲載された「親父の背中」のコーナーでは「オヤジ」に焦点を合わせている。
ところで室井さんはレースクイーンや銀座のクラブホステスなどの経歴を経て、1997年の「読者小説」で入選し、作家デビューをした。
かつて夫が作家の高橋源一郎氏である。
室井さんの父は製薬会社の営業マンだったが、酒、マージャン、浮気なんでもする人であった。
室井さんは、父はまったく尊敬していないが、楽しいひとだったから、スキだったという。
家には週に一度ぐらい帰らず、一人じゃ帰りづらくて、小学校まで室井氏を迎えに来たという。
父は「浮気相手が店を出す」といえば援助をする人で、母親は内の方がよっぽど貧乏だといかっていたけれでも、それでも母は父が好きだったようだという。
父と遊びに行くと財布を確認しあって、最後の千円を使い切るまで飲んでしまうというのは、室井さんも「父親ゆずり」の面が強いと語っている。
室井さんが息子の運動会に父親をつれていくと、すぐ小遣いをわたすので「やめて」というと、カワリに純金のプレートを渡し、「女と別れるときにあげなさい」というような人だった。
父親と一緒に暮らすのはコリゴリだけれど、時々会うぐらいは楽しいらしい。
しかし息子の近くに引っ越すのだけはやめて欲しいらしい。
やはり父親がそばにいると、息子がロクな人間にならないかと心配になるのだそうだ。
個人的には、室井さんの「親父の背中」の視線がとてもイイと思った。
家族はドウあろうと、それがどんなヒドイ親父(兄弟)だろうと、自分の「影」だし、自分を背負った「背中」であることには変わりはない。
そんな気持ちが滲んでいたからだ。