ルデラルに生き抜く

「大きな相手とは小ささで勝負する/チャンスをとらえてスピードで勝負する/ 多様なタネでチャンスを広げる/小さな成功を繰り返す/自ら変化しても目的は失わない/ 踏まれても立ち上がらない/見えないところで力を蓄えて骨太になる/」などなど。
以上は「雑草」が生き残る戦略なのだそうだ。
これをネットで見ていた時、ちょうどサッカーの長友佑都選手のことがテレビで流れていた。
イタリア1部リーグ(セリエA)で活躍する長友佑都(25)の新著「心は、強くなる」の刊行に際して、母親が都内で行われたインタビューで息子・長友の近況を語っている。
長友は「世界最高のサイドバックになる」という目標を掲げ、イタリアでシノギを削ってきた。
、 しかし、一昨年のクリスマス休暇中に息子が漏らしたのは、それまであまり聞いた事のない「弱音」だった。
最近テレビで、長友自身がその頃のプレッシャーについて語ったところでは、インテルでは「1つのプレーが成功すれば英雄だけれど、失敗すれば犯罪者になる」のだそうだ。
長友は母子家庭育3兄弟で育ったったが、中学時代に荒れてた時期があるという。
母親はゲームセンターに入り浸った長友に、毎日お弁当を届けて、本人が「このままではダメ」と気付くのを待った。
今回もあれこれと口には出さず、長友が自分でハードルを乗り越えるのを待つ他はないと、「そのうち突破口が見つかるよ」とだけ言ったという。
まるで長友の前に立ちハダカッテ「永遠のプレッシャー」のなか、プレーの前に「最低最悪の自分を考える」ようにしたといっている。
それがプレーの「安定」に繋がっり試合で好結果が出たことが一条の「突破口」になったという。
長友が心を強くするのは、「脚光を浴びる自分」ではなく、むしろ「最低最悪まで落ちる自分」をイメージすることだという。
長友は、もともと大学までサホド注目を浴びる選手ではなかっただけに、脚光をあびる自分ではなく、イツモ自分の「原点」に立ち返ろうとしているのかもしれない。
長友のそんな生き方こそ地面近くではびこる「雑草」を思い浮かた。
長友のプレー自体、低い位置から相手に絡み付いていく。
しかし、「雑草のようにたくましく」という言葉があるが、雑草は本当に強い植物なのか。
植物学の世界では、雑草は強い植物だとは考えられておらず、「弱い植物」とされているのである。
しかし、それにしても雑草はいたるところにハビコッテいる。
しかし「植物学的」観察では、雑草は歯をくいしばって頑張っているわけでもなければ、涙をこらえながらジット耐え忍んでいるわけでもないというが明らかになっている。
雑草は知恵と工夫で環境に適応し、むしろ逆境を巧みに利用していることさえ多い。
ところで、雑草のことを「ルデ」というが、「ルデラル」とは「雑草のように」ということである。
そして「ルデラルな生き方」とは、雑草の智恵と工夫を取り入れて生きようということである。
ルデラルというのは、「荒れ地を生き延びる智恵」といいかえてもよい。
今年正月の日本経済新聞の調査で「座右の銘」にしたい言葉NO1となったのは、元サッカー西ドイツ代表フランツ・ベッケンバウアーの言葉であった。
「強いものが勝つのではない。勝った者が強いのだ。」

最近「雑草」の雰囲気を漂わせている人がしばしばテレビに登場する。
芥川賞作家で「友達も一人もいない」と豪語する西村賢太氏である。
西村氏は東京都出身で43歳で、生活は寝る、喰うが基本で、4時間ぐらいは原稿に向かい、時々は「悪所」にもいく。
現在では珍しい「破滅型」私小説の書き手だが、「万に一つも受賞の可能性はない」と思っていた芥川賞を三度目の候補で受けた。
受賞作の「苦役列車」は、自らの経験をベースにした作品で、中学卒業後に家を出て、日雇い仕事で生計を立てる19歳の主人公の日常を描いた。
友人も恋人もいない主人公は、単調な労働の日々の中で同世代の専門学校生と知り合う。
しかし、彼に恋人がいることへの嫉妬や学歴コンプレックスから、自虐的で暴力的な言動を繰り返す。
作品には閉塞感と滑稽味が同居している。
西村氏は「ふだん誰とも話さないし、友達も一人もいない」から交友で時間を使うことはない。
ただし、オカネがたまったら「悪所」で遊ぶくらいという。
西村氏が小学校でHHK「課外授業ようこそ先輩」に出演をした時、小学生に「ダメな自分を書く」というテーマを与えた。
小学生達も戸惑いつつ、無駄遣いがどうしてもやめられない自分、ギクシャクした友だち関係の悩みを綴った子などがいた。
西村氏は「欠点や失敗をさらけ出すことで、むしろ生きやすくなることもある」と小学生に語った。
地を這うように生きた方が、地面にタタキつけられることもない。
西村氏は23歳のとき、大正時代の無名の作家、藤沢清造の作品に出合い、私淑した。
「僕よりダメな人がいて、それで救われた」と、破滅的な生を描く私小説にこだわり続けてきた。
暴行で留置場に入れられた29歳のとき、貧しさの中で凍死した清造を思い出した。
「自分よりダメなやつがいるんだなという気持ちになってもらえれば書いたかいがある。それで僕も辛うじて社会にいれる資格が首の皮一枚、細い線でつながっているのかなと思う」
その日暮らしの日雇いの若者のヒガミやイヤラシサを読んで結構面白いのは、主人公の「心の動き」を的確に表現している点にあるように思う。
そして何よりもこの小説にアル種の「普遍性」を与えているのは、主人公の感情や行動に、人間なら誰しもが持ついやらしさや意地悪さが表わされているからである。
人間は、たまたま置かれた境遇が異なっているだけで、本質的にサホドかわるものではない。
とはいえ西村氏は、父親が犯罪歴があって母子家庭となり、学校にも通えなくなったという「特殊」な過去を持っている。
人からアレコレ言われるまえに、すべてマイナス面は自分から先に吐いちゃえということかも。
そういう潔さが、全体として力強く爽快さえあるのでユーモアやペーソスを感じさせるのかもしれない。
自分の僻みやねたみを正面から見つめてきたので、華やかな生活のなかでは モノが書けなくなる。
受賞後「印税」が今の十倍となり、西村氏を取り巻く環境は大きく変わったが、西村氏がスゴイのはあくまでも「現状維持」で、引越しする気もなければ、大きな家に住む気もないという。
西村氏にとって、そういう「必要性」は何一つないのだそうだ。
そうえいば、最近ヒットして紅白にも出場したゴールデンボンバーも、エア・ギターで実は演奏なんてできやしない。
自ら「女々しくて 女々しくて」と自らダメさを言い放っているとこが斬新であり、そこが意外な共感を呼んだポイントなのだろう。
西村氏とゴールデンボンバーのメンバーの共通点は、無理して己を飾らないと言う「ルデラル」なイキカタであり、そうありたいと思いつつもソウなれない人々の心の機微を突っついたのかもしれない。

何かをやろうとしたり、作ろうとしたりして、「もっといいものを作ろう」「まだまだ、人前にだせるものじゃない」 いろいろ考えて、いつまでたってもできないことがある。
完全主義に対して「不完全主義」があってもいい。
雑草は、トニカク形になって、「不安定」な環境に生き残っている。
ところで、植物の生き方に「CSR」という考え方がある。
Cは、Competitiveから競争につよい「競合型」、SがStress tolerantからストレスにつよい「ストレス耐性型」、RはRuderalから環境の変化につよい「攪乱耐性型」という。
水がなく乾燥した砂漠の条件は植物には過酷なものだが、サボテンなどがストレス耐性型の典型である。
生きていくのが精いっぱいで、とても競争している場合ではないともいえる。
激しい競争に身を置くか、過酷な環境に身を置くかは、動物の世界でもあることがわかる。
例えば、皇帝ペンギンは、天敵のいないツマリ競合しない南極の過酷な環境を選んで生き延びている。
さて、競争型(C型)でもなく、ストレス耐性型(S型)でもない、「R型」とこそが雑草の生き方である。
ルデラルな攪乱耐性型の生き方は、ナズナ、ホトケノザ、スベリヒユなどの雑草でみられる。
Ruderalの「攪乱耐性型」の植物は、まさに、小さくてもトニカク形になって生きている植物である。
ここでいう「攪乱」とは、山火事、台風、河川の氾濫など、植物群落が発展していくのを妨げる働きをいう。
人間でいえば、地震や洪水などの災害を「攪乱」といっていい。
成長がわるく元気がない雑草も、小さな花を咲かせているのを見つけられる。
雑草は、時間をかけて大輪のきれいな花を咲かせるよりは、小さくても早く花を咲かせることを選ぶ。
「撹乱」が起こる場所では、樹木のような大きく成長する植物が生き残っていくのは難しい。
たとえば、畑地では、人が耕運機で土を掘り返したり、雑草が取り除かれたりする「攪乱」がおきる。
樹木は、ほかの植物より、高いところで光を浴びるために、幹が伸びるのにエネルギーを使っている。
しかし、耕運機で土を耕す「攪乱」がおきれば、樹木の芽が取り除かれてしまい、子孫も残せず、今まで使ったエネルギーが無駄になってしまい、「子孫」を残すことはできない。
土を耕す「撹乱」がおきる畑は、「撹乱」の影響を除けば、光も水も土もある恵まれた環境である。
畑地雑草は、土が耕される「撹乱」が終った後、光があたるようになると、スバヤク芽を出す。
「撹乱」後に早く芽を出して、一番に光を受けられるようになる。
すばやく芽を出して、大きくなったとしても、次の「撹乱」がおこってしまえば、畑地雑草は子孫を残すことなく、取り除かれてしまう。
そこで、畑地雑草は、早く種子の形をつくって「撹乱」を「種子」の形で乗り切りる。
そのため、畑地雑草は、小さな目立たない花を咲かせ、できたところからドンドン「種」をつくっていく。
曲がった木は使えないというが、曲がった木だから誰にも刈られずに生き残るということもある。
このように攪乱耐性型の雑草は、早く芽を出し、早く「種」という形をつくって、「攪乱」を乗り切っている。
環境の変化が大きいところでは、大きな大輪の花を咲かせようとじっくり取り組んでも途中で「想定外」のことが起これば、努力が台無しになってしまう。
不安定な環境では、雑草にみならって小さくても着実に形にしていくことが力を発揮する。
人間世界だってそうだ。
組織内の派閥の抗争で反対党が実権を握ると、相手の党のトップが粛清をうけるが、もともと「目だたない存在」ならば多少冷や飯をくっても、生き延びることはできる。
つまり、ルデラルとは撹乱が大きい荒地を生きる植物の智恵なのである。
地方財政赤字の折、ネットオークション財政黒字を生み出そうとしている市長が佐賀県武雄市長の樋渡氏である。
樋渡氏がテレビでこれから重要なことと語った「修正力」という言葉に、荒地を生きる「ルデラルな生き方」と通じるものを感じた。
武雄市長の樋渡氏は、市の図書館の運営にTUTAYA方式を導入して話題となっている。
とにかくイイと思ったことは立ち上げ、批判にさらされ議会で言葉に窮しつつも、少しずつイイものにしようという生き方である。
失敗や減点を恐れる中央官僚とは正反対だが、樋渡氏自身も東大出のキャリア官僚(総務庁長官官房総務課/沖縄開発庁振興局調整係長)だった人である。
2003年に大阪府高槻市に市長公室長として出向したのが1つの転機となった。
武雄市長は、「放置自転車」の回収と廃棄に相当額の費用をかける市の行政に対して、放置自転車をネットオークションにかけてはどうかと提言したという。
しかし、ソンナコト前例がないと総務省上層部にハナから相手にしてもらえなかった。
では法律上何か問題があるかと聞くと、中央の官僚は何も答えられなかったという。
2005年 総務省を退職し、 合併後初の武雄市長選挙に立候補し当選する。
その当時、全国最年少市長で、2008年にはフジテレビ「佐賀のがばいばあちゃん」のロケを誘致などしている。
2011年インターネット上に通販サイトF&B良品を開設しフェイスブック市長ともよばれている。
樋渡氏のユニークさは、地方公共団体(市)を地域最大の「事業体」ととらえている点である。
テレビで見た、樋渡氏の言葉の中に「ルデラル」を感じたのは、「一から議論を積み上げても何もはじまらない」とうのがあった。
「いいと思ったことは、とりあえず実行してみて批判があれば修正すればよい」という。
大事なことは「修正力」であるが、その意味で「批判」が重要である。
そして誹謗や中傷でさえ大切だという。
なぜなら、誹謗や中傷に「耐えうる」ものでなければ、本当のものといえないという。
実際に、樋渡氏のTUTAYAと組んだ図書館は、ポイント制でものを購入できるが、そのポイントに関連する情報が私的に利用されるのではないかという市議会の批判があった。
そこで、ソノ情報を「ポイント管理会社」に送らないという形で「修正」している。

博物学者の荒俣宏氏が朝日新聞の「仕事力」に書いてあった内容もルデラルな生き方をしめしているように思った。
つまり、「多様なタネでチャンスを広げる」という戦略だ。
例えば営業職の人が、担当する得意先の人と趣味が同じだと分かった時には、おそらく急接近する。
マンガ「釣りバカ日誌」の主人公ハマちゃんが、趣味の釣りで自社の社長から地方の初対面の人まで人間関係を濃密にしていくエピソードは、決してオトギ話ではなく誰にでも起こり得る。
とはいっても、相手に合わせた趣味を始めよなどと、小手先のマニュアルを言っているのではなく、一つの仕事に就いたからといって、好きなことを「封印」しなくてもいいということなのだ。
その大好きなことを本業と並行して追い求めていって欲しい。
なぜならそれが、「異なった状況」で知恵になることがあるからである。
つまり、将棋の強い人間が「人事戦略」に長けていたりするのは、偶然ではない。
狭い趣味の領域に閉じこもっているなら、「オタク」と呼ばれるだけかもしれないが、自分の周りには外に開かれた「複数の窓」があると思い描けばよい。
自分の「趣味のフィルター」を通していくと、それは誰もが持っている一般情報ではなく、あるキーワードによって貫かれた「強力なオンライン」になるということである。
それが、他の人に聞いても出てこない「分野」を切り開いていく。
だいたい、どんな組織でも皆が皆「忠君」であるはずもなく、朝はキチンと出勤してくるけれど、空き時間を見つけては将棋をさしているとか、昆虫好きで昆虫採集の日程優先で残業が頼めないとか、仕事よりもマズは組合活動だとかという人がいてフツーなのだ。
そういう人は中央には置かれず窓側に置かれていても、とりあえず「戦力」にならずともマア置いておこうぐらいの人々もいて、「柔軟」で長続きする組織が生まれる。
「グローバル社会」だというから英語を学ぼうとか、不景気だから「手堅い資格」を取ろうとかという考え方も、一つの方向性かもしれない。
しかし、周りから何と言われようと、自分の好きな無駄なことに労力と時間を使うことこそ、種をカクサンさせて生きる「ルデラル」な生き方である。
なぜなら、世間が考える仕事の常識とは異なる「無駄」にこそ、ポテンシャル、潜在価値が眠っているからである。
これからの多様な時代は、最大公約数的な価値観では均質過ぎて、日本の「仕事力」が育たないとうことである。
人間にはお金がなくても投資に回せる「時間」という資源がある。
削っている「無駄」には、実は「伸びしろ」というか自分の新しい道を拓く可能性があるということだ。
ひょっとしたら、雑草がジャマで嫌われるのは、人間が育てようと思っている作物よりもウマク環境に適応してよく育ってしまうからかもしれない。
しかし今、予測できない変化、経験したことのない変化が目の前で次々に起こり、せっかく築き上げたものが一瞬にして崩れ去る時代でもある。
ルデラルはすべてが失われた不毛の大地に最初に芽を出す植物である。彼らは時に「パイオニア」と呼ばれる。
ルデラルにとっては、変化と逆境こそが、新しいものを生み出す確かな鼓動である。