最強の二人

二人の男の深い~ぃ出会いについて思いをめぐらせた。
きっかけは、フランスで歴代二位の客の入りを記録したという昨年夏公開の「最強の二人」という映画だった。
この映画のように、「世界が違う」二人の男が深く結びつくというのは、滅多にあるもんじゃない。
しかしソレに近いケースが二つほど思い浮かんだ。
その一つは、財界人・渋沢秀雄と民俗学者・宮本常一の結びつきである。
宮本常一は1906年、山口県の周防大島の貧しい農家に生まれた。
苦学して天王寺師範の夜学を終了し小学校の教員になったのち、民俗学にメザメ教師のかたわら土地の古老などから「昔話」の蒐集を始めるようになる。
宮本は、柳田が主宰する雑誌で「昔話」の募集をしていることを知り、日頃書きためていたノ-ト2冊分を柳田に送ったところ、柳田はその原稿を高く評価し長文の手紙を書いている。
一方、渋沢敬三は財界の大立物・渋沢栄一の孫で、幼い頃から動物学者になりたかったものの、日本の経済界には優秀な人材が一人でも必要だと説得され学問の道を諦めている。
そして渋沢敬三は、東大卒業後に銀行員としてツトメ1944年に日銀総裁にまでなっている。
戦後、幣原内閣の大蔵大臣として預金封鎖、新円切り替え、財産税導入などの政策を打ち出し、日本経済の復興の足場を築いた。
しかしソノ反面で学問への情熱は冷めやらず、古くからある各地の玩具などを集めて自宅を開放して「アンチック・ミュ-ジアム」としていたのである。
それでは、宮本常一と渋沢秀雄双方にとっての「運命の扉」はどのように開かれたのだろうか。
渋沢と宮本の出会いは、1935年柳田の記念講習会に出席したおり、渋沢敬三が自宅に蒐集しているアンチック・ミュ-ジアムを仲間とともに見学したのがきっかけである。
そして宮本は、渋沢に郷里である瀬戸内海の漁村生活誌をまとめるように勧められ、1939年妻子を大阪に残して単身上京し、芝区三田にあった渋沢のアチック・ミュージアム(のちの日本常民文化研究所)に入り民俗調査を開始したのである。
渋沢は宮本に、自分の処に居ればいくらでも旅をしてイイからと勧められ、宮本は渋沢の家に起居るようになり、爾来宮本は渋沢の家族の一員となってしまった。
宮本は1961年に博士号を取得するまで渋沢の邸宅に居候し、渋沢をして「わが食客は日本一」とまで言わせしめている。
渋沢は、宮本常一という学問におけるイワバ「分身」を身近に置いたというわけである。
宮本常一は柳田国男の知遇を得て、渋沢に育てられたカンジだが、象牙の塔に籠もり文献相手の研究に従事した柳田国男と対照的に 離島や山間僻地を中心に日本列島を自分の足で広く歩きまわり漂泊民や被差別民を取材し研究した。
柳田国男のような解読可能な宮本民俗学は、「記録の文化」ではなく 宮本は語り継がれた解読不可能な「記憶の文化」(無字社会」を現地で見聞し調査した点がユニークであった。
民族学者として宮本常一の名を不朽なものとしたのが、「忘れられた日本人」(1960年)であり その中の一編「土佐源氏」が秀逸といわれている。
「土佐源氏」は 高知県と愛媛県の県境近くの山間の地、檮原の橋の下にむしろで小屋がけをして住んでいた老人(盲目の元博労)が1931年に宮本に語った人生の思い出、特に女性関係の思い出話即ち「女性遍歴」(いろざんげ)の話である。
「土佐源氏」という題名の「源氏」とは 土佐(高知県)に住み着いた平家ならぬ源氏の落人ではなく 多くの女性と関係を持った源氏物語の「光源氏」にちなんだものである。
この「光源氏」なる男性の話は次のようなものであった。
盲目になるまで博労(牛の売買の仲立ち)をしていた男は 若い頃から伊予(愛媛県)と土佐(高知県)を行き来し その途次で多くの女と遍歴を重ねた。
男は 昔を振り返って「わしはなァ 人をずいぶんだましたが 牛と女だけはだまさなかった。かもうた女を思い出すと どの女もみなやさしいええ女だった」と述懐する。
そこには 頭ではなく身体の領域でしか語りえない生(性)の記憶が 何の猥雑さもなく驚くべき平易さと深さを持って語られており 「遍歴民」の実態を知ることのできる貴重な資料ともなって宮本作品の傑作とされているという。
またこういう「性の領域」にマデ踏み込んだのが、宮本と柳田との顕著な違いともいえる。
宮本常一は 亡くなる3年前の1978年に「進歩に対する迷信が 退歩しつつあるものをも進歩と誤解し 時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ 我々に課せられている最も重要な課題ではないかと思う」と書いている。
つまり宮本の旅の基本には、進歩とか発展とは何かを問い続けることにあった。
宮本常一は、日本の離島や山間僻地を訪ねて歩いた4000日の距離は16万キロ(地球を10周) 泊めてもらった民家は1000軒を越えるという。
ノンフィクション作家の佐野真一は宮本常一を「単なる民俗学者ではなく 徹底的に足を使って調べるというフィールドワーク手法を実践したすぐれたノンフィクションライターとしての先駆者だった」と評している。
宮本が民族研究にコレダケの精力を注げたのは、財界人である渋沢秀雄との出会いであり、家族を残して渋沢の「食客」として歩みを続けたことができたからである。
財界の頂点にあった渋沢は、貧困に生まれた宮本の「大恩人」であったことは間違いない。
しかし、二人の関係には少々腑に落ちない一面を感じないわけではない。
渋沢は宮本が学者になることを許さず、宮本が文学博士となって渋沢家の食客から自立するのは、渋沢の亡くなる2年前の1961年であった。
宮本は既に54歳になっていたのだが、渋沢は自分に「閉ざされた」道を歩む「もう一人の自分」を宮本に託したのかもしれない。
しかし、宮本には家族も子供も居た。
渋沢家の食客となり、旅に明け暮れた宮本の家族に対する思い、家族の宮本に対する思いいはどのようなものであったろうか。
この点について、アマリ読んだり聞いたりしたことはない。
渋沢秀雄は1963年、宮本常一は1981年に没している。

こんなに笑って感動して泣ける映画に出会えるなんて!人生はまだまだ楽しみに満ちている!、生きる活力が湧いてくる!というコメントが並んでいる。
昨年の夏に公開されたフランス映画「最強のふたり」という映画の評である。
「偽善の匂いも居心地の悪さもない、笑って泣ける痛快コメディ」という評もあった。
この映画は、全身麻痺となった富豪フィリップとスラム街出身で前科のある黒人青年ドリスという、おおよそ出会うはずのない「対照的」な二人が、強い絆で結ばれるという「実話」を元にした映画である。
黒人青年ドリスは、「不採用通知」欲しさにある富豪のヘルパーの面接にやってきた。
「生活保護手当」が不採用通知三つで出るからである。
ところが90人に近い応募者の面接のなかで、富豪フリップが選んだのはナントこのスラム出身の黒人青年ドリスだったのだ。
黒人青年ドリスの両親は離婚し、叔母から育てられる。
叔母は朝早くから遅くまでビル清掃の仕事で、一人で子供たちを養う。
スラムの集合住宅の中で乱暴者として生活をしてきた。
一方、富豪のフリップは首から下の身体は、神経麻痺、夜中に発作も起こる。
援助がなければ食事、入浴、排泄など、基本的な日常生活は不可能。
貧困家庭で育ったドリスが職業安定所で見つけた仕事は、この紳士の日常生活、身の回りの全世話役であった。
紳士を世話する女性秘書から「この仕事に1週間、我慢できる人はいない」と告げられる。
紳士は、応募者から彼を選んだが、親しい友人からは、ソンア素性のわからない、不良青年を雇うことは、やめたほうがいいとアドバイスされる。
富豪のフリップは、ソンナまわりの心配をよそにそんなドリスを採用し、ドリスは豪華な一人部屋をあてがわれ、「貧困生活」から別れる。
そして、あまりに対照的な生活環境で育った二人のちぐはぐなコンビ生活が始まる。
子供がそのままデカくなったようなドリスは常識や偏見に縛られず、「障害者を障害者とも思わぬ」言動でフィリップを容赦なくオチョクル。
ドリスはこれまでの世話人と全く異なり、全身麻痺となっていたフィリップに対して同情も遠慮もしなければ容赦もない。
体を洗うにも、まるで「洗車」でもしているかのような洗いカタをする始末。
熱湯を紳士の素足に溢し、無反応・無表情の紳士に驚きカツ面白がって、再び熱湯をかける。
青年の紳士への態度は、しだいに信頼関係を深め、二人は全く異なる過去を語っていく。
ある日、ドリスがフィリップに「どうして自分を採用したか」について問うた時に、二人の心に「絆」のようなものが生まれていく。
フィリップは90人の応募者の中でドリスだけが自分を「病人」として見ていなかったからだという。
結局、腫れ物に触れるような接し方をされる屈辱より、同情のかけらも見せないドリスの言動がフィリップにはヨホドありがたかったのだろう。
またドリスはフィリップに、友達が一人もいない自分が初めて友達を持つことができたと語る。
「最強のふたり」は、(卑屈になっていたかもしれない)二人が信頼し、対等な関係を築くプロセスがとても痛快に描かれている。
この映画の素晴らしいのは、社会的立場も音楽の趣味も正反対なふたりでありつつ、互いを面白がる掛け合いがひたすら面白く、痛快である点である。
そしてふたりが世界を広げ、共鳴を深めていくプロセスに、笑顔のまま涙が滲んでくる。
実はドリスのモデルになった実在のヘルパーは黒人ではなく、アルジェリア移民なのだそうだ。
紳士は、不可能だと諦めていた散歩、高級車でのドライブ旅行など世界旅行を青年と共にするようになる。
映画でフィリップが妻と離婚して別の女性に格調高い文章を書くときに冷やかすシーンがあるが、モデルとなった「実在の」富豪の話は違っている。
実際は、妻も重い病気にかかりベット生活を強いられていたが、そんな時にハングライダーの事故で体が動かなくなってしまった。
そのため、妻の前に自分の姿を見せることを恐れていたが、実際のアルジェリア移民の青年は妻の病院に無理やり富豪を連れて行く。
そして妻は夫と会うことができたことを喜び、青年に好きな女性が出来たらこの「役」から降ろしてやるように夫と密かな約束をしたのである。
富豪と青年は時々保養地に出かけるのだが、なぜか同じホテルばかり予約する青年を不思議に思っていたら、その青年がホテルのフロント係りの女性を好きになったことを知る。
そして富豪は青年との別れの時が来たことを悟り、富豪は妻との約束どおり青年をこの「役」から自由にするのである。
その後、青年はこの女性と結婚することになるのだが、青年は今でも富豪の家を訪れ、心温まる交流は今も続いているという。

映画「イルポステリーノ」は、第二次大戦直後の南イタリアの港町ナポリの沖合いの小さな島カプリを舞台とした「実話」を元にした映画である。
実在した詩人パブロ・ネルーダに材を取ったA・スカルメタの原作を基に、イタリアの喜劇俳優が病に蝕まれた体で撮影に臨み、映画化にこぎつけた執念の作品となった。
1950年代のナポリの沖合いに浮かぶ小さな島、そこへチリからイタリアに亡命してきた詩人パブロ・ネルーダが滞在する事になった。
パブロ・ネルーダは南米チリを代表する20世紀最大の詩人である。チリ大学在学中に「二十の愛の詩と一つの絶望の歌」を出版し、中南米の有望な詩人として認められた。
そのナポリ沖合いの小島に一人鬱々と暮らす漁師の青年がいた。
青年マリオは漁師の父親とふたりで暮らしているが、海が嫌いなマリオには仕事がなかった。
パブロネーダには世界中から手紙が届けられ、マリオはこの詩人に手紙を届けるダケのために、郵便局の「臨時配達人」となる。
丘の上の別荘に毎日郵便を届けるうちにネルーダとマリオとの間には年の差を越えた友情が芽生えた。
ネルーダは美しい砂浜で自作の詩をマリオに語って聞かせ、詩の「隠喩」について語り、マリオは次第に詩に興味を覚えるようになった。
ある日カフェで働く美しい娘ベアトリーチェに心を奪われたマリオは、ネルーダに彼女に贈る詩を書いてくれるように頼み、ネルーダが妻のマチルダに贈った詩を捧げた。
従来、物事を直接的に語ることしかしなかった朴訥な青年は、詩人からメタファー(隠喩)で語ることを教わる。
ところで、ネルーダの詩をネットで探すと次のような詩が掲載されていた。
//ぼくは君を女王様と呼ぶことにした。君より背の高い女性はいるかもしれない、君より清らかな女性はいるかもしれない、君より美しい女性はいるかもしれない、でも君は女王様なんだ。君が通りを歩くとき誰も君に気がつかない、君のガラスの冠に気がつかない、 赤と金の絨毯の上を君が歩いてもその絨毯に誰も気がつかない、その存在しない絨毯に君が姿を表わすと私の体の中のすべての河が騒ぎだし、空には鐘が鳴り響き、世界は賛美歌に満ちる ぼくと君だけ、いとしい人よ、ぼくと君だけがそれを聞く。//
この詩人を師匠としたマリオは思いを寄せる島一番の美少女に、「君のほほ笑みは蝶のように広がる」といった表現で手紙を書くようになり、少女の心を射止めることになる。
しかし国外追法令が解かれたネルーダ夫妻はチリに帰国してしまう。
しかしこの物語は、詩人が帰国以降の展開こそが重要で、「言葉の力」に目覚めた人間が、それによって事態の「焦点」を明確にしてソコに関心を集め、人々を動かしていく。
異邦の詩人との触れ合いによって、自分の故郷をもう一度見つめ直す主人公の姿があった。
詩人はこの島を去ることになるが、「メタファーの霊感」に目覚めた青年は、島の自然の美しさを表現するにとどまらず、「政治的」にも開眼していく。
マリオは、チリの炭鉱夫たちのネルーダの誕生日祝いのテープを聴き、「共産主義」にも目覚めていった。
またマリオはネルーダの詩の創作のために、様々な「音」を集めていく。
ところで漁師の倅マリオの青年が住む島には水道もなく、水道をひくという選挙公約も、いつも反故にされてきた。
こうした島の人々の不満や苦しみを青年は、詩人が教えたメタファーをもって世に訴えていく。
そして、島を代表してイタリアの共産党の大会に参加し、自ら作った詩で放置された「島の窮状」を訴えるのである。
詩人ネルーダは、共産主義が広まる中でイタリアでも熱狂的に歓迎されていた。
ネルーダは1927年外交官となり、34年赴任したスペインの内戦では「人民戦線」を支援した。
「わが心のスペイン」出版し、45年上院議員に選出され、共産党に入党する。
1948年独裁色を強める大統領を非難し、地下に潜伏し、アメリカ大陸の文化、地理、歴史、世界の階級闘争を包含する一大叙事詩「おおいなる歌」を執筆した。
70年世界初の民主革命政権の樹立に尽力、同政権下のフランス大使として赴任する。
71年ノーベル文学賞受賞し、73年9月クーデター勃発し、まもなく癌により死去している。
この映画では、友を、恋人を、故郷を愛する事の素晴らしさが映像の中で静かに語られている。
映画に描かれた世界的詩人パブロ・ネルーダと小島の漁師マリオを「最強の二人」としようと思ったが、この映画にはもう一組「最強の二人」が隠れていた。
この映画は1993年3月に撮影をスタートしているが、この映画の主役となったイタリア人喜劇俳優トロイージはその時心臓の病におかされていた。
しかし映画製作を優先し手術を延期し、治療を続けながら撮影を続けた。
トロイージの体は日増しに弱っていったが、ネルーダ役であるイタリアの名優フィリップ・ノワレの励ましを受けつつ、撮影は続けられ、6月3日にはすべてを撮り終えた。
そして撮影終了後ワズカ12時間後、トロイージは41歳の若さで世を去った。
この映画を演じた二人、イタリアの名優フィリップ・ノワレと喜劇俳優マッシモ・トロイージという「最強の二人」によって、「イル・ポステリーノ」はアカデミー賞5部門にノミネートされたのである。
この映画が「黄金の魂をもつ作品」と評される所以である。