潔すぎる女性達

アンジェリーナ・ジョリーの乳がんの危険がある乳房切除のニュースを聞いて、由紀さおりの話を思い浮かべた。
由紀さおりは37才の時、子宮筋腫を患っている。
長く悩み、子宮全摘出手術の決断は4年後の41才の時だった。
その間、子宮内膜症も併発している。
「ホルモン治療」という選択もあったが、それもしないままに、由紀は子宮全摘手術を「選ん」だ。
ホルモン治療をすると声が低くなるからで、自分の声を愛してくれる人々のためにも、「声が変わる」危険性のある治療はできなかったのだという。
しかし、「危険性」だけで、それだけの選択ができるだろうか。
アンジェリーナといい由紀といいい、使命に対して「イサギよすぎる女性」なのかもしれない。
由紀の場合、人生のモットも辛いことに対する「答え」が、ソノ約20年後の2009年に待っていた。
2009年、オレゴン州ポートランドの中古レコード店で、由紀さおりの歌声は「再発見」され、世界的にヒットするのである。
由紀さおりは、「歌うべく」導かれた「ディーヴァ」(=歌姫)のようである。
ところで、アメリカを代表する女性歌手の一人クリスティーナ・アギレラは、数年前に「バーレスク」という映画の主役を演じたことがあった。
その彼女がモシ映画にでるとするならば、「17歳のカルテ」でアンジェリーナ・ジョリーが演じたような仕事がしたいと語った。
実は、クリスティ-ナ・アギレラは幼い時からDVなどの「トラウマ」を抱いていた。
そういう「トラウマ」こそが、あの若さで成熟した「歌唱」を生んだのかもしれない。
ところで映画「17歳のカルテ」では原作者が「境界性人格障害」で精神科入院歴のあり、精神病棟を患者の視点で赤裸々に描いたものであった。
監督が「原作」に惚れ込んで映画化権を買い取り、制作総指揮を買って出て制作されたものだそうだ。
しばしばジャック・ニコルソンの「カッコーの巣の上で」と比較されるらしいが、「17歳のカルテ」の方は、ノンフィクションである。
ある日突然、自殺未遂を起こして精神病院に収容されたスザンナは、その環境に馴染めなかった。
自分に「人格障害」という自覚が無かったからだ。
一方、病棟のボス的存在であるリサ(アンジェリーナ・ジョリー)の、精神病患者である事を「誇る」かのような態度に魅かれ、そのうち精神病院コソが自分の「居場所」と感じるようになっていく。
しかしある出来事をきっかけにスザンナはリサの行動に疑問を持つようになり、それからリサに疎んじられ、他の患者は全員リサに同調して孤立していく。
スザンナは、「精神病院」でも居場所を失って行くのである。
しかしスザンナは、リサとグルになった患者と「全面対決」をするに至ったことを通じて、強気な行動に出られた「自分」を発見し、ようやく「社会復帰」を目指さそうと思い始め、退院していくというストーリーである。
ところがこの映画に出演したアンジエリーナ・ジョリー自身が、そういう活動を促す「心理的な背景」をもった人であることは、あまり知られていない。
したがって、アギレラの歌唱力とアンジェリーナの演技力は一脈通じ合う部分があるのではなかろうか。
世界NO1の女優として輝く女優となった感のあるアンジェリーナ・ジョリーであるが、父親はジョン・ボイトである。
映画「真夜中のカウボーイ」では、ダスティン・ホフマン演じる「ねずみ」と共に、ニューヨークの片隅でドン底の生活を送る田舎出の若者の「役柄」を演じていたのが懐かしい。
したがってアンジェリーナは、ハリウッド俳優の家に生まれたというということから、サゾヤ恵まれた環境で育ったのかと思っていたら、実際は全く違っていた。
彼女の女優スタートは、両親の離婚後11歳の頃にロサンゼルスに戻るとアクターズ・スタジオで演技を学び舞台に立つようになってからである。
その後ビバリーヒルズにある高等学校の演劇クラスに進学するも、病弱な母の収入は決して多いとは言えず、アンジェリーナも度々「古着」を着用するほどだったたため、裕福な家庭が多いビバリーヒルズにおいて、徐々に孤立していったという。
さらに、アンジェリーナが極端に痩せていたことや、サングラス、歯列矯正の器具などを着用していたことが他の生徒からのイジメを受ける結果となった。
さらにモデルとしての活動が不成功に終わったことで、ジョリーの自尊心もズタズタとなり、「自傷行為」を繰り返した。
自傷行為の時ダケが生きているという実感が沸き、「開放感」に満たされ癒しを感じたという。
そしてアンジェリーナは14歳で「演劇クラス」を離れ、激しい自己嫌悪からか将来の希望を「葬儀の現場監督」とし、実際に彼女は葬儀会社へアルバイトとして遺体の「死化粧」を施す担当をするなどした。
つまり、アンジェリーナ・ジョリーは「おくりびと」として、「死」というものに身近に接していたのである。
また、常に黒の衣装を身に纏い髪を紫に染めたりして、「異様」としかいいようもない生活を送るが、母が住む家から僅か数ブロックだけ離れたガレージの上にあるアパートメントを借り、再び演劇を学んでナントカ高等学校を卒業したという。
こうみるとアンジェリーナ・ジョリーの出演作「17歳のカルテ」も、役柄と人生とが随分重なっている。
それが重なるからこそ「役柄」を引き受けたのであろうし、人にはできない「自分の舞台」を創りだすことができたのだと思う。
ところでアンジェリーナは、「祖国を追われた人々の窮状を知ってもらいたい」として、これまでにアフガニスタンやパキスタン、スーダンなど20か国以上を訪問していいる。
そしてアンジェリーナは、約十数年前に国連難民高等弁務官事務所の「親善大使」に任命された。
アンジェリーナ・ジョリー親善大使は同事務局のグテーレス高等弁務官とラペンドゥーサ島で合流する前に、北アフリカからの船が辿り着くもう一つの場所マルタ島を訪れ、リビアを始めソマリア、エチオピアや西サハラの暴動から逃れてきた多くの人たちがいる「収容施設」を訪問した。
そして「特に子どもたちの支援」に関して、どのような形でこの状況をより人道的に改善できるかにつき、今後も政府との話し合いにもっと時間を費やしていくと語っっている。
また、こうした子供達の「里親」となって女優業を行っている。
「潔すぎる女性」といえば、レディー・ガガもそれにあたるかもしれない。
レディー・ガガは1986年3月ニューヨークで生まれた。
中流階級の家庭でありながらも、両親は教育に熱心だった。そのため、物心ついた頃から音楽に関心を持ち、毎日2時間はピアノを弾く「英才教育」を受けて育てられた。
そして、4歳になる頃には、楽譜なしでピアノが弾けるようになり、13歳にして始めて「オリジナル曲」を作曲するまでになった。
そして14歳で、セレブが通うことで知られるニューヨークのカトリック系の名門校に入学した。
しかし、中流階級の家庭に生まれたガガは、生粋のセレブっ子達からイジメに遭うこともシバシバで、この頃からエキセントリックな性格が顔を出し、周囲から「浮いた存在」になっていたという。
それでも、人一倍勉強をしていたガガは、17歳で全米屈指の音楽大学に「飛び級」で入学した。
しかしガがは、既成の音楽を習うより自分で「新たな音楽」を創造したいと考え、ナント1年で大学を「自主退学」してしまった。
そして、「音楽の道」で生きることを決め、大学退学と同時に親元から「独立」することにした。
ガガは親の援助も受けず生計を立てるために「就職活動」を開始したが、彼女が最初に就いた職業というのは、なんと「 ストリッパー」であった。
ガガはショーの中で自分が作曲した曲を流し、ダンスの腕をヒタスラ磨いた。
そんなある日のこと、遇然ガガのショーを見て声をかけてきた一人の音楽プロデューサーがいた。
まもなく2人は恋人同士になるが、この「出会い」コソが、華々しいガガ伝説の「幕開け」となったのである。

さて、アンジェリーナ・ジョリーやレディ・ガガとは、違う方向での「潔さ」ではあるが、日本のイサギヨスギル女性はといえば、トリアエズ三人が頭に浮かんだ。
1683年3月29日、江戸・鈴ヶ森刑場にて「お七」という女性が火あぶりの刑に処せられた。
江戸の駒込の八百屋の娘お七は、天和の大火(1682年12月の)で焼け出され、一家で菩提寺の円乗寺へ避難したが、そこでイケメンの小姓と出会う。
その小姓の指に刺さった棘を抜いてやったのが縁になり、相思相愛の仲になってゆく。
翌年正月新しい自宅にお七一家は戻るが、お七はその小姓のことが忘れられずに悶々とし、火事になればまた会えると思い込み、自宅に放火をする。
ただし、火をつけたものの怖くなり、自ら火の見櫓に登って半鐘を叩きその結果、実害のないボヤで消し止められた。
しかし、お七の生まれる10年前には明暦の大火(振袖火事)がおきたため、放火は「大罪」であった。
しかし、お七は「放火の罪」で捕らえられ、取り調べの奉行がその若さを憐れんで、年少者は罪一等を減じるという気持ちで、お七に「その方は十五であろう」と何度も念をおすが、よほどのオバカか正直者か、お七は「十六」と正直に答えるばかりで、ついには鈴が森の刑場で火あぶりの刑にされた。
この物語をモトニして、つくられたのが坂本冬実の「夜桜お七」(1994年)という曲である。
過激な短歌で知られる作詞家の林あまりさんは、人生をつき歩む夜桜お七のちょっとしたツマヅキを「赤い鼻緒がぷつりと切れた」と表現した。
男は去り、友も去る。「究極の孤独」にあっても、「さくら さくら さくら」と潔く散ろう、という一人の女性の姿を描いたのだという。
「恋する男のためではなく、自分の行く道を自己の意志で歩もうとする現代女性の姿をお七に仮託した」といっている。
ところで、この「八百屋お七」の物語は、恋のための一途な行動に走ったために、わずか十六歳の少女でありながら火あぶりという極刑に処せられたことから江戸庶民の同情をかい、井原西鶴の「好色五人女」や浄瑠璃「八百屋お七」・歌舞伎「お七歌祭文」などで広く知られるようになった。
また、お七一家の菩提寺・円乗寺の本堂前に「俗名八百屋お七 妙栄禅定尼 天和三癸亥年三月二十九日」と刻まれた丸い小さな墓があり、今でも訪れる人は絶えないそうだ。

大正天皇の生母は柳原伯爵家出身であり、大正天皇の姪にあたるのが柳原白蓮である。
精神的に薄弱な公家との結婚にやぶれ、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻となった。
そして白蓮は福岡で文学サークルをつくり「筑紫の女王」とよばれていた。
伊藤伝右衛門が白蓮のために建てた豪邸が「銅御殿」(あかがねごてん)であるが、個人的には銅御殿は飯塚あたりにあるとばかり思い込んでいたが、よく調べると銅御殿は、福岡市の繁華街天神のど真中にモあることを知り、柳原白蓮の福岡での活動を知りたいと思うようになった。
今日の西鉄の「天神」バス停のすぐそばの新生銀行(旧長銀ビル)あたりが銅御殿があったところで、1927年に火災にあい短時間に全焼した。
柳原白蓮は、自ら書いた戯曲の上演で知りあった東大新人会の宮崎龍介と恋におち、伊藤伝右衛門の家をでる。
宮崎龍介の父親が宮崎滔天で、アジアの革命家と連合しようとして孫文の中国革命運動を援助した人物である。
恋愛において自分の意志を貫いた「新しい女性」柳原白蓮は、イプセンの小説「人形の家」の主人公からとって「和製ノラ」などと呼ばれていた。
しかしまだ「姦通罪」もあった世相の中、白蓮の行為に対する「世の糾弾」は激しかったようである。
  白蓮の兄にあたる柳原義光は、白蓮のスキャンダルで貴族院議員を辞職し白蓮を勘当するが、去られた側の伊藤伝右衛門はついに白蓮を「姦通罪」で訴えることはなかった。
 晴れて宮崎龍介の妻となった白蓮ではあるが、病床にあることが多かった龍介を自らの文筆で支えて面倒を見た。
しかし銅御殿の金屏風の陰で泣いた日々よりは幸福であったと回顧している。
また学徒出陣した龍介との子・香織が戦死し、白蓮は悲しみのあまり1年で髪の毛が真っ白になったといわれている。
しかし、このことを機に戦後は平和運動に参加し「悲母の会」を結成しその後世界連邦婦人部の中心となり活躍した。
東京・西部池袋線の旧上屋敷駅近くに白蓮と龍介が1923年から1967年まで暮らした家が残っている。
晩年の5年間、白蓮は緑内障で両眼を失明していたようだ。
宮崎龍介は白蓮の死の4年後、1971年に亡くなっている。
柳原白蓮の生涯を見る時、もうひとり一人の女性を思い起こす。
恋人とともに雪中ソリでソ連国境を越えた岡田嘉子である。
岡田嘉子が恋におちた杉本良吉は「伯爵家」の出身の演出家で、すでに配偶者がいた。
岡田嘉子は自由のない日本での女優生活にヘキエキし新天地を求める一方、杉本は日本共産党員で、徴兵を逃れるためとソビエトの演出家の下で勉強するという目的があった。
1938年、二人でソ連国境の警備隊への慰問を装い樺太に向かい、そこから雪中ソリで国境を超えたのである。
その後ソ連で拷問による取調べをうけた杉本はスパイ容疑をかけられ「銃殺」となり、嘉子は強制収容所に送られた。
この時、岡田嘉子には杉本が病死と伝えられていた。
嘉子は10年ほどの強制収容所での生活の後釈放され、翻訳、アナウンサーなどの仕事などをして演劇大学で学んだ。
1972年、70歳になった嘉子は再び日本の土を踏んだ。
日本でしばらく女優としての活躍をした後、1986年再びペレストロイカ最中のモスクワに戻った。
1992年2月10日岡田嘉子は89歳の生涯を閉じる。
遺体はモスクワのドンスコイ葬儀場で火葬され、その遺骨は日本に埋葬された。
柳原白蓮と岡田嘉子には恋愛による出奔という点以外にも様々な共通点があるように思える。
いずれも恋愛当事者の一方の相手が伯爵家であり家の束縛からの自由を求めていた点、当事者の一方が革命を志し、他方は戯曲や演劇などといった芸術を志していた点である。
岡田嘉子は大正デモクラシー下の演劇人として活躍し倉田百三作の「出家とその弟子」に出演し女優としてその名を知らしめた。
実は柳原白蓮も倉田百三と交流があった。倉田百三が九大の耳鼻科・久保教授の治療をうけるために福岡の金龍寺に寄寓した際に、久保教授の文学サークルを通じて交流があったのである。
福岡の金龍寺(早良区今川橋)には「倉田百三寄寓碑」が立っている。
現在、天神界隈に大正期の建造物というものを見ることはできないが、かつて銅御殿があったオフィスビルの狭間の隘路を通る時、柳原白蓮がすゥ~と横切った残像を見る思いがする。