背振山夢想

1936年11月19日の夕方頃の佐賀県の背振の山麓でのこと。
この日は朝から山全体がすっぽりと雲に覆われて、シトシトと冷たい雨の降り続く、暗く寒々しい空模様であった。
爆音がすぐ頭の上を通り過ぎ、フイに音が途絶えたかと思った瞬間に、山頂の方から木々をナギ倒すような激しい音が響いた。
背振の山あいに住む住民は、「飛行機墜落」の急報を受けた。
村の消防組は、早速総動員で蓑笠をつけ、村の婦人会も炊き出しで加わり、飛行機が落ちたとみられる山頂付近をめざして進んで行った。
そして真っ赤な色をした飛行機を発見した。
無残に翼は折れ、機体はツブレ急斜面の樹木の中に突っこんでいた。
村人達は、ツブレかけた「操縦席」の中で青い目の外国人が、血マミレになり唸っているのを発見した。
その男は、フランスの飛行家アンドレ・ジャピーであった。
背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この山頂から見ると、福岡市の全景が開け、博多湾に浮かぶ玄界島・能古島・志賀島等の島々が霞んで見える。
古い歴史をいうと、背振山麓には霊仙寺があり、「日本茶栽培発祥の地」の石碑が立つ。
日本に禅宗を伝えた栄西は、宋からの帰国時に持ち帰った茶の苗を植え、博多の聖福寺にも茶の苗を移植したのである。
しかし、こんな山間に外国からの「珍客」が訪れようとは、予想だにしないことであっただろう。
ともあれ背振の村人達は、見知らぬ外国人の命を救うべく総動員で動きまわった。
この時、村人の誰かの脳裏に5年前の出来事が頭をヨギッタかもしれない。
1931年8月26日、単独大西洋無着陸横断で「世界的英雄」となったリンドバーグが妻とともに、日本の霞ヶ浦に飛来した。
リンドバーグ夫妻は日本各地を周り、博多湾の名島にも着水してサッソウと舞い降りて、やはり福岡市民の「大歓迎」を受けたことがあった。
その記憶も褪せぬコノ時、今度はフランスの飛行機野郎・ジャピーが日本に来ようとしていたのである。
もちろん、そんなことを知る日本人は数少なかったし、まして背振の村人が知るハズもない。
また、リンドバーク夫妻のような晴れがましい「着水」というわけにもいかなかった。
しかし、フランスの人々からすればシャピーの命運は、固唾を呑んで見守るほどの大いなる関心事であったのだ。
というのもジャピーは、これまでにも数々の冒険飛行に成功している「空の英雄」でもあった。
またジャピーの一族はフランスきっての大実業家であり、フランス航空界の大スポンサーであり、有名な速度競技「ドゥーチェ・ド・ラ・ムールト杯」の創設者でもあったからである。
そんなジャピーが今回挑んだのは、この年フランス航空省が発表した「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、30万フランの賞金を与える」という主旨の「懸賞飛行」であった。
当時の30万フランとは、現在の金額にすると約1億~2億円にも相当する金額である。
当時ハノイのあったベトナムは、「仏領インドシナ」と呼ばれるフランスの植民地であった。
ハノイ経由の懸賞旅行とは名目で、その実際の目的は、フランス航空省によるアジア極東地域への「定期航空路開拓」ということであった。
つまり、ジャピーの飛行はアル意味で「国家的使命」を担ってのことだったのである。
また、ジャピーが乗った飛行機は、奇しくも「星の王子さま」の作者としても有名なサン・テグジュペリが愛用していたことも知られる全木製の名機「シムーン」であった。
ちなみに「シムーン」とは北アフリカ地域に吹く強い熱風を意味している。
ジャピーは、現地時間の11月15日にパリのル・ブールジェ空港を出発し、ダマスカス-カラチ-アラハバッド-ハノイを経由して香港に着いた。
これはパリ-香港間を約55時間半で飛ぶという「驚異的な記録」であったという。
しかし、東シナ海が悪天候となって香港で足止めとなり、香港以後の飛行は「記録」とは縁遠いものであった。
そしてシャビーは19日の朝6時25分の「再出発」したが、この時はまだ天候が十分に回復しておらず、「無謀」ともいえるものだった。
それまでが「順調」すぎて、気持ちが少々ハヤッていたのかも知れない。
ジャピーが長崎県の野母崎上空まで来た時に、燃料が足らないことが判明し、福岡の雁ノ巣飛行場に不時着することにした。
しかし濃霧の為に迂回をすることにして、しばらくすると突然眼の前に山の形が浮かび、木製の軽い機体は、山オロシの下降気流にタタキ落されたのである。
しかしジャピーが咄嗟に機首を持ち上げたため、機体は山の斜面に沿って落ち、深い樹木がクッションとなって、何とか一命をとりトメルことができたのである。
ジャピーは、背振の人々に発見され、翌日には福岡の九州大学病院に収容された。
傷が癒え、別府の温泉で体力を回復したジャピーは、日本に深い感謝の思いを残しつつ、31日には神戸から船でフランス帰国の途についたのである。
脊振山にあるジャピー機の墜落現場には、現在「ジャピー遭難」の記念碑が建っている。
また、佐賀県神埼市脊振町広滝バス停そばにある「脊振ふれあい館」の歴史資料室では、ジャピーの飛行機の機体の一部が展示されている。
ここから吉野ヶ里遺跡まで、車で10分ほどで着く距離である。

今から80年前に、「背振」の名は、空の英雄ジャピーの遭難の出来事とトモニ世界に知られることになった。
そして今、この「背振」の名が世界に知られるもうひとつの「可能性」が浮上してきている。
「ジャピー遭難碑」から遠くない場所が、世界の物理学者達が熱い視線を注ぐ国際的な巨大プロジェクトの「候補地」となっているからだ。
この巨大プロジェクトとは、「国際リニアコライダー」(ILC)計画のことである。
ILCは全長31km~50kmの地下トンネル内の「直線加速器」で、電子と陽電子をほぼ「光速度」まで加速して衝突させる巨大な「実験研究施設」である。
この世界的な実験研究施設の建設「候補地」として、日本国内では福岡・佐賀両県にまたがる脊振山地が、東北の北上山地とともに挙がっている。
また国外でも4カ所の候補地が挙がっているが、何しろ日本は「素粒子」の分野では多くのノーベル賞学者を輩出している故に、アカデミックな観点から見て国際的に有利な立場にあるともいえよう。
今のところ、スイスとフランス国境にある「欧州合同原子核研究機関」(CERN)の大型加速器が、現在世界最大・最高性能を誇っている。
2008年9月から、円周27kmの円形地下トンネルで「大型ハドロン加速器(LHC)」を稼動させて、「物質の謎」ないしは「宇宙誕生の秘密」に迫ろうとしている。
CERNは、ダン・ブラウン著の大ヒット作「ダヴィンチ・コード」に続いて映画化された「天使と悪魔」の舞台として知られた。
しかし、CERNの名を世界に知らしめたのは、一昨年の「ビッグス粒子」発見のニュースであった。
「ヒッグス粒子」はこれまで、理論上の存在であったが、「ヒッグス粒子が存在する確からしさは98、9%だ」と発表したのである。
そして、理論上の存在だったヒッグス粒子を「つかまえられそうだ」という大ニュースも伝わった。
原子や電子に質量がないのになぜ物質に重さがあるのか、このヒッグス粒子こそがエネルギーに「重さ(質量)」を持たせる「立役者」としてみなされているのである。
ところで、「欧州合同原子核研究機関」(CERN)の加速器での実験では「陽子同士」の衝突実験であるのに対して、「国際リニアコライダー」は「電子と陽電子」のふたつを30キロメートル離れた筒の端と端から猛烈な勢いで加速させて中央でブツケル。
すると、「宇宙の始まり」の状態である「ビッグバン(大爆発)」が起きた直後、つまり「1兆分の1秒後」に存在していたハズの「素粒子」が発生するのだという。
この瞬間の素粒子の「性質」を調べることができれば、物質同士でドンナ反応が起こったのか。
宇宙が始まった「瞬間」に何が起こったのかを解明することが出来るのだという。
現在、CERN(セルン)にある施設は原子核を構成する陽子と陽子を光速でぶつける実験だが、この方法だと「不純物」が多いので、ヒッグス粒子が不純物に隠れてしまい、つかまえるのが難しい。
しかし国際リニアコライダーは、ヨリ不純物が少ない環境で、宇宙が誕生した直後の状態を「再現」できると期待されている。
そもそも、何で電子と陽電子ばブツケたら、宇宙の始まりになるか」と疑問に思われるかもしれない。
宇宙が誕生した直後(1兆分の1秒後)、宇宙空間には数100GeV(ギガエレクトロンボルト)のエネルギーが満ちていたと言われている。
電子と陽電子を光の速度まで加速してぶつけると、これに近いエネルギーを発生させることができるからだそうだ。
ヒッグス粒子を一度つかまえて性質を調べれば、科学の常識が大きく塗り替わるかもしれないとも言われている。
たとえば、科学で「真空状態」といえば、「何もない状態」を表す。
ところが、ヒッグス粒子をツカマエて調べてみたら、「真空状態」の中にも何か「潜んでいる」のかもしれない。
もし、真空状態の中にもヒッグス粒子があったら、何もない状態なんてないということになる。
とにもかくにも、「科学の常識」に変更が迫られることは間違いない。
国際リニアコライダーの事業計画では、各国がお金を出し合って世界に1カ所つくるというものである。
8000億円という事業費は、佐賀の玄海原子力発電所1~4号機すべての建設費用にホボそれに匹敵するビッグ・プロジェクトであるという。
佐賀県と福岡市の境にある背振山麓は、活断層や人工振動が無い、固い安定岩盤の50kmにわたり確保可能、アクセスや輸送で便利などの立地条件面で優位性がある。
また、このような世界最先端の加速器であるILCの開発・実用化に向けて、様々な「最先端技術」が求められる。
また、これらの高度な技術開発の成果はITやバイオテクノロジー、ナノテクロノロジー、医療、環境などの幅広い先端技術分野への応用も考えられる。
この「プロジェクト」には海外の多くの研究者が関わり、大型加速器ILCの設置が実現されれば、数千人の研究者が居住する国際的な「学術都市」が誕生するのである。
このILC自体の建設のためダケに総事業費800億円・工期は10年カカルといわれ、ILCが地域にもたらす経済効果ははかりしれない。
この大型加速器の建設候補地として優位性をもつ九州・背振山地をもつ福岡・佐賀両県は、ILC誘致の実現に向けて大学の教授や専門家などを中心とした研究会を設置して「次世代」加速器を主なテーマとした基礎科学を勉強・研究しつつ、誘致に向けた調査・研究を続けている。

「ビッグバン」は、聖書冒頭の「光あれ」という言葉に通じるものがある。
旧約聖書は、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は”光あれ”と言われた。すると光があった」で始まる。
「生態系の謎」とか「生命の神秘」ということはシバシバ聞くが、「物質が存在する」ことの不思議はホトンド意識したことはなかった。
物質に質量があることは当たり前だが、「質量がどのようにして生じ、存在しているか」ということは未だ解明されていなかったのである。
ニュートンの「万有引力の法則」の発見で、人類は物質に「重さ」があることがわかった。
しかし物質の最小の単位である質量をもたない電子やクオーク等の素粒子が、何故質量を持つのかについての説明がついていなかったのだ。
これを宇宙誕生にマデ遡ると、「質量のナキ」光の粒子からドノヨウニして「質量のある」物質が誕生したのかという問題に突き当たる。
そのことを明らかにするために、イギリスのエディンバラ大学のピーター・ヒッグス名誉教授が、1964年に存在を提唱したのが「ヒッグス」粒子で、半世紀近く探索が続いていた。
発見されればノーベル物理学賞は確実とみられていたが、2012年7月4日、ツイニ欧州合同原子核研究所(CERN)が「ヒッグス粒子みられる新粒子を発見した」と発表したのである。
こんなスゴイことをやってのけたCERNであるが、実はホームページ言語である「HTML」を開発した機関でもある。
さて体重計に乗ると「ため息が出るような~」と歌いたくなるように、ナゼ質量が存在するようになったか、つまりナゼ「重さ」が生じたのかというこを簡単に「要約」すると以下のようになる。
ビッグバンで宇宙が誕生した瞬間には、全ての素粒子に重さの元となる「質量」はナカッタ。
それは、ヒッグス粒子と他の素粒子の間で「くっつく性質」と「離れる性質」が釣り合っていたからである。
ところが宇宙が急速に冷えだすと、ヒッグス粒子が、ヤタラ近くの素粒子にクッツキたがる性質を帯びるようになり、他の素粒子にマトワリつくこととなった。
誕生直後の高温の宇宙では、全ての素粒子が光の速さで運動していたにもかかわらず、ヒッグス粒子にマトワリつかれた素粒子は、スッカリ動きが鈍くなってしまった。
この動きニクサが「質量」と呼ばれることになったのだという。

海外では、アメリカのシカゴ、スイスのジュネーヴ、ロシアなどが「国際リニアコライダー」の候補地となっている。
今年1月、海外から3人の研究者が脊振山の地質調査にやってきた。
研究者は、それぞれ米カリフォルニア工科大、スタンフォード大、英オックスフォード大の物理学の教授である。
全長30キロメートルにもなる巨大な研究施設「国際リニアコライダー」を脊振山に設置できるかという調査のためである。
湯川秀樹以来6人のノーベル賞受賞者を輩出した素粒子研究への強い「自負」を抱く日本の物理学界は、熱心にILC誘致を行っている。
そして、海外との誘致競争に勝てるように後押ししてほしいと政府への働きかけを強めている。
しかし、2020年のオリンピックの東京誘致への動きと比べてみると、「国際リニアコライダー」誘致の認知度は、今ひとつ欠けている。
「世論喚起」が必要と思う一方で、精度と安定性を要する高度な実験施設の設置は、「世論」ドウノコウノで決めるべきことではないのかもしれない。
自宅の窓から眺めると、背振山のおぼろげな山稜が見える。
時折その夜景を眺めながら、背振の山裾野に広がる「国際学術都市」の眩い光を夢想する。