戦時食・宇宙食

「食べ物のうらみは一生忘れない」という言葉があるが、「食べ物の恩」についてもイエルかもしれない。
戦後、日本の子供達がアメリカの兵士たちに好意をもったのは、彼らが配ったガムやチョコレートの味が忘れられぬほどにオイシカったからかもしれない。
もっともアメリカが送ったのは、日本人との戦闘に参加したことのない、つまり日本人にイカナル「敵意」も持たない若き米兵(GI)だった。
その中にはドナルド・キーン氏のように、「源氏物語」の日本に憧れを抱いてやってきた「情報将校」もいた。
キーン氏は最近、来日当時の「思い出」を次のように新聞に寄せている。
//日本人が愛する富士山を、私が初めて見たのは終戦直後の一九四五年十二月だった。横須賀から東京湾を横切り、木更津に向かう上陸用舟艇からだった。木更津で大型船に乗り換え、ホノルルに向かうことになっていた。
夜明け前で暗く寒い中、エンジン音が響く。私は旅立ちの感傷に浸っていた。すると舟尾の地平線に雪をかぶった富士山が突然、浮かび上がった。緩やかな稜線が朝日に照らされ桃色に輝く。まるで葛飾北斎の版画だ。光の加減で色が刻々と変わり、私は感動で目を潤ませていた。//
さて話を元に戻すと、米兵はなぜガムやらチョコレートを日本の子供達に配るホド持っていたのだろうか。
実は、アメリカは兵士に「軍用チョコレート」というものを配給していたのである。
このチョコレートは、1937年から「標準配給品」(レーション)の一つとなり、「野戦配給品」の一部となっていた。
そしてソノ主な目的は二つあった。
一つは士気高揚のためであり、もう一つはポケットサイズの「高エネルギー非常食」とすることであった。
そこで「軍用チョコレート」は通常、重量、サイズ、耐熱性の面から「軍仕様」の特別なロットで製造されたという。
こうして製造された「軍用チョコレート」の大部分は、米国チョコレートメーカー最大手の「ハーシー」が製造していた。
実は「ハーシー」は、1990年の湾岸戦争でも砂漠の盾作戦・砂漠の嵐作戦期間中、「新しい耐熱性チョコレート」を開発して、デザート・バー「Desert Bar=砂漠バー」と名づけた。
ハーシーの発表では、このチョコレートは摂氏60度以上の「高温」にも耐えるとしている。
そのキャッチコピー「お口で溶けて手で溶けない」は、軍用チョコレートに求められる「簡単に融けてしまわない」という条件を、キャンディ・ーコートという手法て解決したものであった。
キャンディー・コートとは、スペイン内戦で兵士たちの口を楽しませていた砂糖でコートされたチョコレートをヒントに生まれたものだというから、「戦時食」の歴史にはナカナカ奥深いものがある。

「食べ物」にマアツワル話は色々あるが、最も有名なものは、中国史に登場する「ちまき」ではなかろうか。
中国において、「ちまき」は水分を吸わせた「もち米」を直接葦の葉で包み、茹でる、モシクハ蒸す方法で加熱して作る方法が主流である。
米と一緒に、味付けした肉、塩漬け卵、棗(なつめ)、栗などの具や、小豆餡などを加えることが多い。
また、アワビやチャーシューを包んだものもある。
中国の伝説では、楚の愛国者だった政治家で詩人の屈原が、汨羅江(べきらこう)で入水自殺した後、民衆が「弔い」のため、また魚が屈原の「亡骸」を食らって傷つけないように魚に米の飯を食べさせるため、端午の節句の日(端午節)にササの葉で包んだ「米の飯」を川に投げ入れたのが「起源」とされる。
このため、日本でも中国などでも「端午の節句」に食べる習慣がる。
日本の「背くらべ」という歌には「ちまき食べ食べ兄さんが 測ってくれた背の丈」という歌詞がある。
日本人の家庭料理といえば「肉ジャガ」が定番だが、意外や東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューを「無理に」再現させようとして作らせた結果、生まれた料理だそうだ。
当時、「舞鶴鎮守府」の初代鎮守府長官に着任した東郷提督は、イギリス留学時代に食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に「ビーフシチューをつくれ」と命じたのであった。
しかしビーフシチュー等知らなかった料理長が、 デミグラスソースの代わりに「醤油と砂糖」を用いて悪戦苦闘の末に作りあげたのが、「肉ジャガ」だったのである。
以後肉ジャガは、洋食の代用食として効果的に牛肉を摂取させる事が出来る「画期的料理」として海軍で大いにモテハヤサレる事となった。
また、帝国海軍の食べ物と言えば「海軍カレー」が有名だが、こちらは「横須賀鎮守府」が採用したのがキッカケである。
日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用した。
海軍当局が1908年発行の「海軍割烹術参考書」に掲載して普及させ、海軍内の脚気の解消に成功した。
そして、の第一次世界大戦を通じ、海軍、陸軍ともに「海軍カレー」の「普及」にツトメたのである。
また、我が地元・福岡の食べ物「がめ煮」も戦時食として生まれた料理という説がある。
「がめ煮」は、とり肉や野菜などいろいろな材料を使うので、博多の方言で「よせ集める」という意味の「がめくりこむ」から名前がついたという説がひとつ。
もうひとつは、豊臣秀吉が朝鮮に出兵する時に博多に立ち寄り、「栄養補給」のためにスッポンをつかまえて野菜と煮たことから、スッポンの博多弁「がめ」からきたという説がある。
1500年代の後半、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたころは、筑前地方にスッポンがたくさんいて、スッポンとアリアワセの野菜で煮物をつくり「がめ煮」とか、「かめ煮」と呼んでいた。
昔、福岡県北部を「筑前(ちくぜん)の国」といっていたことから「筑前煮」とも呼ばれた。
「筑前煮」は、野菜と肉をいっしょに煮たものだが、ほかの煮物と違うのは、最初に油で炒めてから煮るという調理法である。
福岡の郷土料理であったが、オイシイので「全国的」に知られるようになった。
筑前では、お正月や結婚式などの「祝いの席」では欠かせない料理となっており、福岡の郷土料理として「農山漁村の郷土料理百選」に選ばれている。
ちなみに福岡県ではとり肉とゴボウの消費量が多いが、その理由は「がめ煮」をよく作るからだといわれている。
「がめ煮」に入っているレンコンやゴボウなど、カミごたえのある野菜を食べると、「かむ回数」が増え、早食いを防いだり、だ液がよく出て「消化」がよくなるという。
そうした効用のせいか、実際に陸上自衛隊の「戦闘糧食」として筑前煮が支給されるという。
ちなみに、福岡県久留米市では、2006年10月に策定した久留米市食料・農業・農村基本計画において、「がめ煮」を調理することのできる市民の割合を2014年度までに65%とする目標を立てている。

スペイン料理のパエリアは、もともとアラビア語のバーキヤ、つまり「残り物」が語源である。
この「パエリア」はスペインが、アラブの国であった時代の「名残り」である。
したがって「パエリア」料理が生まれる背景に、アラブ・イスラーム諸国の人々の「食文化」があったといえる。
さて、パエリアを生んだアラブ・イスラーム諸国の「食文化」とはどのようなものだろうか。
サウジアラビアでは、バブル経済華やかな1970年代から80年代にかけて、社会現象の変化が見られた。
当時の風潮として多くの人が結婚披露宴をホテルで催した。
その際食事が多量に余り、「無駄」に捨てられるケースが見られるようになった。
従来のやり方だと、来賓が食事を頂いた後は退席し、次に家族や子供達も参加し、残らずきれいにタイラゲた。
つまり主催者は、失礼のないように大量の料理を用意するが、ホテルではソウモいかない。
しかも、余った食事の「お下がり」の場がナイのである。
やがて、見栄を張り、「大盤振る舞い」をする行為に対し、誰もが自分達の行為は正しいのだろうかと「問い」始めたのである。
世の中には満足に食事を取れない人がいるのにとか、何と罰当たりな行為かとか、こんな事を続ければアッラーの罰を受けるのでは、とかいった問いかけであった。
アラブの人々は、地上に存在するもの総ては、人であり、動物であり、植物であり、鉱物であり、自然であっても、みんなアッラーからの「借りもの」だという意識があるので、モノを大切にする。
アッラーが人類を創り、「地上の代理人」として任命したのは人類が、幸せに暮らすためである。
だから総てのものは「大切に」使うようにと教えられ、それを守っているからである。
人類はアッラーの「贈り物」は大切につかわなければならない。
だから、無駄に食事を捨てたりする事は罰当たりだと思っている。
アラビア人は自然と共生し、「もったいない」という意識で物を大切にしてきた日本人と近い。
アラブも日本人も共に「清貧」を尊び、質実剛健な生き方を誇りとしている。
日本と共通する「清貧」や「質実」は、食べ物だけではなく着るものにも表れている。
イスラム教の経典コーランでは、「彼女らの飾りを目立たせてはならない」とあるが、どこを隠すかマデは特定されていない。
イスラム世界では一般的に、女性の髪と胸元を布で覆うことがイスラム女性の宗教的な義務と見なされていて、ブルカやヒジャーブなどのファッションが生まれた。
しかしこれは、イスラム教で夫は絶えず「ジハード」(聖戦)のために家を空けなければならなかったという現実と関係しているのかもしれない。
宗教の戒律ではないものの、日本でも似たようなことがあった。
日本は、日清戦争・日露戦争で「軍国主義社会」に突入するが、日本政府としては、戦争に勝つためには戦場にいる兵士の士気を高めて、全力で戦えるようにしなければならない。
前線で戦っている兵士は、いつも不安な状態にあるので、些細なことで気持ちが萎縮してはならない。
日本の戦時下、こういう事態を防ぐためにも、妻はどんな時にも「貞節を守るべき存在」であらねばならぬとして、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが「国策」として推進されたのだ。
そうして満州事変後に「銃後を守る」女性のファッションとして広まったのが、「割烹着」である。
「割烹着」はもともと料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
ユニフォームに指定された理由は、「きれいな着物姿は、夫以外に見せるものではない。女性が外で着飾るのはよくない」という理由だった。
というわけで、日本の「割烹着」は、イスラムのブルカやチャドルといった着物と意外な「共通点」があるのである。

現代の兵士などが戦場で携行する食料品は特に「戦場携行食」や「レーション」などと言い、独特のものがある。
この問題に際して、「軍隊は胃袋で動く」と言葉を残し、早くから軍隊における食糧の供給問題に目を付けていたナポレオン・ボナパルトは、フランス人兵士向けの「携帯食料」としてアイデアを募った。
これに応募したニコラ・アペールの案が採用されたモノが「缶詰」の始まりである。
「缶詰の原理」となるアペールのアイデアは、調理した食品を「ビン」に詰めて温め、空気を追い出しコルク栓をする事で保存する方法であった。
この「保存方法」の発明に対し、ナポレオンは1万2千フランの賞金を贈っている。
しかし「ガラス瓶」では割れ易く輸送面でも難があった。
そこで1810年には当時フランスと戦争状態にあったイギリスでピーター・デュランドが現在の缶詰の原型となる「金属製密閉容器」に食料を封入する方法を考案した。
ちなみに「缶切り」が出来たのは缶詰よりも後で、戦場では「銃剣」によって開封が行われていた。
しかし、どうしても食べた後の「空き缶」が発見されやすい。
また、メニューが単調で食事に飽き士気の低下にもつながるとして、容器やメニューの「改良」が続けられた。
そして1858年、アメリカ合衆国のエズラ・J・ワーナーにより、缶詰に突き立て、引き廻し開ける「缶切り」が発明された。
また、1869年にナポレオン3世が、軍用と民生用のためにバターの安価な代用品を募集したところ、フランス人のイポリット・メージュ=ムーリエが牛脂に牛乳などを加え硬化したものを考案した。
これは、「オレオマーガリン」 という名前がつけられ、後に省略して「マーガリン」と呼ばれるようになった。
日本では、戦国時代の武士たちは、「握り飯」を作って竹の皮などに包んで懐に入れて携行した。
また肩に斜めにかける小袋を用いて携行することも行われた。
「忍びの者」は、噛めないくらいに「硬い煎餅」のようなものを作っておいて、それを懐に入れて携行し、たとえば樹木の上に隠れて敵をヒソカに監視する時など、長時間手足を全く動かすわけにはいかない。
そこでソレを口にふくんでおいて、「かまずに」長時間かけてユックリ溶かすようにして栄養補給を行ったという。
ちなみに、会津戦争では白虎隊の少年たちが出陣するにあたって、彼らの母親たちは少年達がどうか生きノビルようにとの想いを込めて「携行食」を用意し彼らに持たせたという。
年若い少年たちは、前線へとアマリに急いだので、速く走るために「身軽」になりたいと考え、途中で携行食を置いていってしまった。
前線の戦闘で体力を使い、やがて夜を迎えることになった彼らは、食べるものが無く、天候も悪く寒い中こごえて、スッカリ「消耗」してしまった。
こうした情況も「白虎隊の悲劇」の背景の一つといえる。
さて、「保存食」といえば、戦時食ばかりでなく「宇宙食」もある。
ちなみに「宇宙食」はインターネット通販で、300円台から600円台で販売されており、次のようなものがあった。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)が音頭をとって、宇宙の魚缶(鰯のトマト煮/秋刀魚の蒲焼き/鯖の味噌煮) などが 日本人宇宙飛行士の宇宙での長期滞在に向けて開発されている。
スペースカレー(ビーフ)は、JAXAとハウス食品とで共同開発された商品である。
さらにハウス食品は、国際宇宙ステーションで供給する宇宙食の候補「宇宙日本食」として認定されているレトルト・ビーフカレーの「販売」を始めた。
無重力状態や宇宙放射線の影響など、地上とは異なる環境での生活をサポートするため、通常のレトルトカレーに比べてウコンやカルシウムを多く含み、スパイシーで味が濃い。
商品名は「SPACE CURRY」で、JAXAが宇宙日本食として認定した同社のレトルトカレーと同じ製法・配合で製造したという。
ちなみに価格は525円となっている。
また「スペース羊羹(栗)」は、山崎製パンの羊羹がアルミ包材に入っており、JAXAにより日本「宇宙食」として認証された。

最後に、トミーリー・ジョーズ氏にナラってひとこと~。
「この惑星の住人は、戦時食を平時でも食べたがる。宇宙食を地球上でも食べたがる。
好奇心旺盛な人々だ。」