スリルな接点

世の出来事は、人間の関係が生み出すものである。
人間の関係は、思想的立場や目の前の利害以外にも様々なカラミがあり、それが事態の意外な展開をうむこともある。
「対立」してそうな人物が、表には出ないインフォーマルな「接点」があったりしで、結構仲良しだったりスル。
福岡県立糸島高等学校の校長室には、学校の校訓を示す額縁入りの「自主積極」の揮毫が掲げてあるのだが、この文字を書いたのは戦後初の文部大臣・森戸辰男である。
ではなぜ森戸氏の「揮毫」が福岡西部の糸島高校にあるのかというと、学校の新聞を調べてわかった。
当時、広島大学学長であった森戸氏 が、広島大学(高等師範学校)の卒業生である糸島高校の瓜生校長に送られたという記事を見つけた。
それまでといえばソレマデの話だが、森戸氏はタダそれでけの思いで、糸島高校の校訓を書いた「揮毫」を教え子(?)である新任校長に送られたのだろうか。
森戸氏にとって「糸島」の地とはもっと深い「思い」を込めた場所ではなかったか。
1930年代終わり頃、糸島高等女学校(糸島高校への統合前)に無政府主義者・大杉榮と伊藤野枝夫妻との間に生まれた遺児達(エマとルイズ)が通っていた。
ところで、森戸辰男は戦後、戦後初の文部大臣に就任し、その後広島大学学長として、また大原社問題研究所所長として、教育問題・労働問題・産業問題など「生存権」に関わる多くの提言をしてきた人物である。
森戸辰男は戦後初の文部大臣だから保守的な人物かと思われがちだが、戦前は「森戸事件」という「筆禍事件」を起こした経歴をもっている。
戦前の森戸の思想は、ドイツ歴史学派のクロポトキンの研究にもとづいて、資本主義的矛盾を是正せんとする社会改良主義的な「政策」を志向するものであった。
ある学術雑誌の創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を寄稿したところ、同論文が社会主義より危険な「無政府主義」を鼓吹するものとして批判され、東京大学を休職処分となっている。
この問題は、新聞等により流布したため非常に大きな反響を生み、本は発禁処分となり、森戸と発行責任者の大内兵衛は朝憲紊乱罪で起訴された。
結局、森戸は裁判で禁固三カ月の判決をうけ、巣鴨監獄に入り東京大学を去ったのである。
それが1920年のことで、世に言う「森戸事件」である。さらにその3年後、「甘粕事件」がおきる。
1923年、無政府主義者・大杉栄と夫人の野枝、そしてたまたま遊びにきていた甥の三人は、関東大震災のドサクサの中、憲兵隊により殺害された。
この事件はその時の憲兵隊隊長の甘粕正彦の名前からとって「甘粕事件」という。
この事件は無政府主義者クロポトキンの「紹介者」を槍玉にあげた「森戸事件」のアオリという側面もあるのだろう。
そして大杉夫妻の死により、4人の幼子、魔子・エマ・ルイズ・ネストルが残された。
そのうちルイズとエマとが福岡市の西部今宿の伊藤野枝の実家で祖父母に育てられたのである。
そしてルイズとエマは今宿から4キロほど西にある現在の糸島高等学校(当時は女学校)に通ったのである。 彼女達の両親が関東大震災のドサクサで殺害されたのも、大杉らが森戸辰男が戦前に翻訳し紹介したクロポトキンの思想に強く影響され「無政府主義」を鼓吹したからである。
こうして虐殺された大杉夫妻の子供達が通っていた高校の校長室に、森戸辰男の「揮毫」が飾られているとなると、「何か」特別なものを感じてしまったのである。
このことは戦後広島大学学長となった森戸氏が、広島高等師範学校卒業の糸島高校校長にこの「揮毫」を送ったダケのことだが、かつて大正期の世情をにぎわせた甘粕事件で糸島郡の今宿村に葬られた大杉栄やその妻・伊藤野枝のこと、そして糸島高校で学んだ夫妻の「遺児達」のことが、キット心の中を駆け巡ったと思うのである。
そこで気になり始めたのが、森戸辰男と大杉栄に直接の「面識」はなかったか、ということである。
森戸と大杉に「無政府主義」という「共通項」があったにせよ、学究の世界に生きる森戸と野に生きる大杉とは、あまりにも世界が隔たっており面識はないと思うのが自然かもしれない。
ところで大杉栄は軍人の家系に生まれた。東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科に入学、幸徳秋水らが「非戦論」を喧伝するために興した新聞社「平民社」に出入りするようになる。
卒業後は社会主義運動の闘士として大会を開き演説を行い、そのたびに警官と衝突しては逮捕され、23歳のときには収監、服役する(赤旗事件)。
この大杉と親交を結んできたのが小説家の有島武郎で、映画「華の乱」には、黒マントの大杉が有島の邸宅を頻繁に出入りしていたシ-ンが描かれている。
1920年代、大杉は有島武郎から旅費を借金し、海外の社会主義者やアナキストの会合に参加したりしている。
厳重な監視をかいくぐり渡仏しパリ郊外のサン・ドニの労働会館で行われた集会で演説を行い、逮捕されて強制送還されてもいる。
その帰国した2カ月後の関東大震災のドサクサの中、大杉はパートナーの伊藤野枝、甥の橘宗一と共に憲兵によって連れ去られ虐殺されたのである。
実は有島武郎は森戸辰男とも親交があったことがわかった。渡米よりの帰国後に社会主義に傾倒していた有島武郎は、森戸事件のあと「森戸慰労」の手紙を送ったことにより、森戸との交友が始まったのだ。
とすると、「有島を介して」森戸と大杉が「面識」があったのではないかと推測できる。
その辺を調べてみると、その「確証」に近い事実があった。
中華革命を支援していた宮崎滔天を頼って日本で亡命生活を送っていた黄興が死去し、滔天の息子である宮崎龍介がその旧宅(東京府北豊島郡高田村)の管理を父の代理で引き受けることとなった。
龍介は黄興旧宅を(東大)新人会の合宿所として提供し、黄興旧宅には顧問の吉野作造のみならず、賀川豊彦・大杉栄・森戸辰男ら多くの知識人が出入りしていたというのである。
この事実からすれば、大杉栄と森戸辰男は出版物を通じての「知人」だけではなく、直接の面識があったというのが自然である。
というよりも「親交」があったといった方がよいのかもしれない。
以上は個人的な推測に過ぎないので、インターネットで広島大学の大学院に森戸辰男の研究者がおられることを知り、メールで尋ねることにした。
「突然のメール大変失礼します。私は福岡県の県立高校の社会科の教員をしているものですが、先生が森戸辰男について研究しておられることをインターネットで知りました。以前勤務したことのある福岡県立糸島高校に森戸辰男の揮毫があるのを見たのをきっかけに、森戸氏が大杉栄あるいは糸島高校の卒業生であるその娘達と直接の面識があるのではないのかと気になりはじめたのですが、この点についてお教えいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。」
それに対して、次のような返事を頂いた。
「広島大学文書館のK(イニシャルに変更)です。確かに、森戸と大杉栄は、直接、面識があります。森戸は、大杉の行動力を高く評価していたようです。具体的に以下の資料があります。
広島大学文書館所蔵森戸辰男関係文書/件名:近況報告/発信者:森戸辰男/形態:はがき1枚、黒ペン書/」。
この史料をもって、後の文部大臣・森戸辰男とアナーキスト・大杉榮が、葉書で「近況報告」を出すほどに親密であったということを確認することができ、ひいては森戸辰男が当時の糸島高校校長へ送った「揮毫」への思いも格別であったと想像できる。

人と人との接点にサプライズを見出そうとするとき、日本を離れた外国は格好の舞台となる。
外国の地で出会うということは、それぞれが思想や立場を超えて人間的な触れ合い可能だからである。
アメリカのフイラデルフィアにおける陸奥宗光と馬場辰猪との交流や、フランスのパリにおける西園寺公望と中江兆民との交流は、日本の国内にとどまるカギリは「交流」どころか「接点」サエとり結ぶことができなかったにちがいない。
つまり以上の二組は明治政府要人と土佐民権派の論客の組あわせであり、国内では対立する(もしくは対決することになる)立場の二人が、異国の自由な空気の中で羽を伸ばすかのような交流を温めているということである。
外国で出会った上記二組の四人の接点がスリリングなのでココに紹介したい。
前者の陸奥と馬場の場合、民権運動からの「転向者」陸奥と民権運動からの「亡命者」馬場との間には複雑な感情の絡みがあったのかもしれない。
仮にそうであっても互いに労をネギライ故郷の話しなどで意外に盛り上がたのではないだろうかと推測する。
陸奥宗光と西園寺公望は、政府転覆に関わった陸奥とその赦免に関わった西園寺がヨ-ロッパで交流を深めているのである。
陸奥宗光の自伝は「蹇々録」(けんけんろく)という。「蹇々」とはヨロメキながら歩いた記録、とでも訳したらいいのか奇妙な題名である。
陸奥宗光については1894年不平等条約改正にツクシた人というぐらいにしか認識がないのであったが、この「蹇々録」のタイトルの奇妙さに惹かれて少々調べてみると興味深いことが色々とわかってきた。
明治維新における戊辰戦争で、幕府側について新政府軍として戦い敗れた後に許されて明治政府の役人として働くというのはありうることである。
例えば幕臣・榎本武揚などは、北海道に独立王国まで作ろうとして敗れたが、明治政府の外務卿として樺太千島交換条約の交渉などにアタッテいる。
紀州出身の陸奥宗光は明治政府の役人として元老院の議官として働きながらも、西郷隆盛の西南戦争の際には、土佐立志社と呼応して「内通」して政府転覆をはかり逮捕・投獄されているトンデモナイ人なのである。
さらに5年間服役した山形監獄が火事にあい死亡説までが流れている。
この人物が、再び明治政府に拾われ外交担当として「不平等条約改正」にあたったなどという「転向」ブリに驚かざるを得ないのである。
若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とブツかることなくスリ抜けるという特技があったらしいだが、この特技をもって「蹇々録」の名前が生まれたのかと勘ぐってしまう。
1883年、陸奥は特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めによりてヨーロッパに留学する。
帰国後、外務省に出仕し駐米公使となり山縣有朋内閣の下で農商務大臣、伊藤博文内閣に迎えられ外務大臣になっている。
1894年イギリスとの間に日英通商航海条約を締結し幕末以来の不平等条約である「治外法権の撤廃」に成功している。
ところで陸奥が政府転覆をはかろうとして内通をはかったのが土佐立志社であるが、土佐出身の民権派・馬場辰猪は1870年7月から1874年12月までイギリスに留学しているために立志社創立には参加していない。
しかしかつて英学を学んだ福沢諭吉の下で交詢社の結成と運営にたずさわり、そのため土佐民権派との交流も深かった。
馬場は自由党員そしてその機関紙「自由新聞」社員となったが、1882年に政府より金がでた板垣退助の洋行に反対して板垣と大激論をし自由党を離党し、その後1885年大阪事件の関係で爆発物取締罰則違反の容疑で逮捕され約6ヶ月入獄した。
これは結局無罪となるものの、この時結核にかかっている。
その後、1886年に病身の身を抱えアワタダしくアメリカに渡っている。
この時、板垣外遊などによる自由民権に対する失望もあったであろうし、言論の自由を海外の地に求めるという気持ちも働いたと思われる。
馬場がアメリカでいかなる生活をしたかが面白い。
サンフランシスコに到着するや持参した甲冑や刀剣を身に着けて、「日本古代の武器」についての講演を行ったのである。
何か川上音二郎一座を思わせるが、馬場はまずは日本への関心を引き起こし、自由民権運動を宣伝しアメリカの世論を味方につけようとしたのである。
当初の講演会は惨憺たるものではあったが、東部に移りボストン・フラデルフィア・ニュ-ヨ-クなどでの講演会には次第に多くの聴衆を集めることができるようになったというのだから、ショウマンシップにも優れた才能があったにちがいない。
1888年、駐米公使としてアメリカにいた陸奥と馬場がフラデルフイア近郊の避暑先アトランテック・シティーで出会っている。
たまたまその地を通過した馬場の方から陸奥へ処へ来訪したのである。
一方は自由民権からの「転向者」として、他方は自由民権のいわば「亡命者」として出会ったのである。
しかし滞米中終始貧苦の中にあった馬場は、まもなく投獄期間にわずらった結核が悪化し、古物商を呼び死後の後始末の費用にあてるようにたのんでいる。
そして1888年、フラデルィアで39歳で亡くなっている。
もう一組は、西園寺公望と中江兆民の交流である。
土佐出身の中江兆民は岩倉遣外使節団の一員としてフランスにわたっている。<>br中江は後に民権派の論客として主として文筆をもって藩閥政府を攻撃することになる。
中江兆民はパリで五摂家筆頭の西園寺公望と出会い交流を温めている。
二人は意気投合しモンマルトルの居酒屋で飲みかし、西園寺は民衆のために戦ったフランスの自由主義貴族ミラボーのようになると意気込んでいたという。
そして西園寺は日本に帰国後、東洋自由新聞を発行し中江兆民を主筆に迎えている。
西園寺と中江の異色コンビの新聞はよく売れたのだが、天皇の側近であるべき公卿の有力者が天皇の批判をするとは何事かという意見が強くなり、政府もついに新聞の廃刊を勧告するにいたったのである。
西園寺は頑なに廃刊を拒否したがついには宮内省にまで呼び出され社長を退かざるをえなかったのである。これが西園寺の限界であった。
西園寺公望は前述の陸奥宗光の赦免問題にも関わっており、その後西園寺がオーストリア公使の頃、陸奥も外交官としてヨ-ロッパにおり意気投合する仲にまでなっている。
1905年の三国干渉の折には陸奥は外相で、この出来事で衰弱した西園寺の臨時代行として外交を担当するという「めぐり合わせ」でもあった。
西園寺公望は長州の陸軍軍閥・桂太郎と交互に総理となり桂園時代を築く。その過程で社会主義政党を認めるなどリベラルな側面もみせてはいる。
「東洋のルソー」中江兆民は、西園寺が伊藤博文の知遇を得て立憲政友会の旗揚げに一役かっていた頃の1901年に55歳で亡くなっている。
中江の死により、西園寺公望と中江兆民との言論による「対決」は避けられたことになる。
後々「最後の元老」とも呼ばれるに至る西園寺にとって、中江兆民とパリで遊び呑み明かした時代は、いかなる感慨をもって胸にしまわれていたのだろうか。

繋がらない点が結びつく時、事件の全貌が明かされるというのは推理小説の常道である。
しかし、逆に繋がるはずの接点が見当たらないという形で問題を喚起されることもあり得る。
北原白秋と竹久夢二には驚くほど共通項がある。竹久は1884年に岡山で生まれ、北原は翌年福岡県柳川に生まれている。
ともに造り酒屋に生まれ、家出して上京し早稲田に学び、ともに中退している。
また恋愛体験においても北原は姦通罪により告訴され未決監に拘置された体験があり、竹久は刃物を突きつけられるシリアスな体験をしている。
北原の実家は1901年の大火によって酒倉が全焼し破産し、竹久の廻船問屋も破産という点でも共通している。
そして何よりも二人は大正ロマンを飾るトップランナーであったのだ。
「竹久夢二」研究家の安達敏昭氏は、畑こそ異なるが芸術的な感性がきわめて似通った二人には、互いの感性を磨き高めあう共通の場があってもよさそうなのに、二人の「接点」が全く見られないということに疑問をもったという。
実はこの疑問点につき、安達氏ご本人から柳川で聞くことができた。
ある雑誌の対談で竹久は、好きな詩は何かと聞かれ、北原白秋と答えているのである。
安達氏は、「芸術上の兄弟」にも思える二人は当然に会うのが自然なのではないかと思ったのだ。
竹久自らも「詩人になりたかった」といい、北原はある意味憧れの存在で、竹久の作品は絵で描いた詩であったともいえるのである。
また竹久が異国の文化に興味をもち九州旅行を敢行したのも、北原白秋が長崎を訪れキリスト教文化にふれ、自らの処女詩集を「邪宗門」となずけたのも、互いに通じ合うものを持っていそうに思える。
二人にはそれほどに共通点があるのだが、どこまでも交わらない平行線なのだ。
二人が交わらない理由は「避けあわなければならない事情」がソコにあったのではないかという推測さえなりたつ。
そして前記の安達氏は、竹久夢二の九州行きを調査するうちにアット驚く新聞記事に出会う。
大正8年8月19日付けの「東京日々新聞」に「竹久夢二等、訴えられる北原白秋等より」の見出しで、「作詞家北原白秋と作曲家中山晋平らが、画家竹久夢二と岸他丑を著作権侵害で訴えた」という記事を見つけたのである。
竹久の元妻たまきの兄・岸他丑が絵葉書店を営んでおり、絵葉書を作成した際にソノ中に北原が作詞、中山が作曲したものを無断で採録印刷し発表したというのである。
北原はそれが「著作権侵害」にあたるとして竹久らを提訴したのであった。
両者に接点はあったのだ。あんまりよろしくない「接点」が。
結局、竹久夢二と北原白秋の個人的接点がナイのは、その周辺にカンバシクナイ「接点」があったからなのだ。
安達氏は、そこに二つの点が交わらない事情を見出す一方で、この問題をめぐり二人の仲をトリモチ和解させた野口雨情という「第三の男」の存在も知ることになった。
竹久は実家の廻船問屋が破産した後、神戸での1年に充たない中学生活を送り、北九州の枝光へと移り八幡製鉄所の下働きをした経験がある。
その後上京し住まいを転々としながら次第に絵描きとしての名を上げていったのである。
北九州市枝光の竹久がかつて住んでいたあたりには、竹久夢二を記念する石碑がたっている。
竹久は、上京し早稲田実業で学ぶが、生活のため画を提供した絵葉書店が彼の人生を大きく左右した。
そこでは最初の妻・たまきと出会っているからだ。
実は、夢二式美人画の原点は色白、オメメぱっちりの「たまき」であった。
竹久は、「平民新聞」挿絵画家から出発し、油絵を志した。美人画絵葉書が売れて大正ロマンを代表する芸術家となっている。
ちなみに、両者の間をとりもった野口雨情の歌碑が二日市温泉にあり、筑後柳川に生まれた北原白秋、北九州枝光に転居した竹久夢二、筑紫二日市を旅した野口雨情というように、三人三様に福岡の地に足跡を残している。