角栄少年と資源外交

1973年の石油ショック以前より、田中角栄首相は日本の発展には「資源の確保」が不可欠で、石油とその後に来る原子力の時代に備え、早くも「ウラン資源」の入手に手を打つべく動き出していた。
その点、先憂に備え「今でしょ」と動きだしたのは、田中角栄の「決断と行動力」の看板に偽りがなかったことを物語っている。
こういう田中の「エネルギー・コンシャス」は、「ロード・コンシャス」と並んで、雪深い新潟から出てきたという生まれ育った「環境」と無縁ではないだろう。
そして石油ショックに見舞われるにオヨビ、田中首相が「資源確保」をコソ自らの「政治使命」とするに至ったというのは想像に難くない。
田中首相は在任中、戦時中によく使われた「石油の一滴は血の一滴」という言葉を頻発した。
しかしソコから展開した「資源外交」が田中首相の政治生命を短くしたのは、歴史の皮肉といえる。
石油危機に直面した田中首相が、各国首脳に「会談をしたい」呼びかけると各国が「反応」した。
実は、日本に「モナリザ」という世界の名画がやってきたのも、田中の「資源外交」と無縁ではない。
モスクワの空港では、コスイギン首相が出迎えし、シベリヤの開発を持ちかけ、フランスのメスメル首相とニジェールのウラン開発を話し合う。
西ドイツのブラント首相と会談し、石油危機にともなう途上国への配慮し、シベリヤ開発に誘い、英国ウィルソン首相には、政権が変わっても「北海油田開発」から外資を締め出さないでほしいと申し入れた。
カナダのトルドー首相とは、ウラン鉱の輸入を積極的に推し進めたいと語り合い、他にもオーストラリアやブラジルでのウラン「資源開発」を打診した。
ただし、こうした「資源外交」に対して唯一「冷淡」だったのがアメリカであった。
当時のフォード大統領、キッシンジャー国務長官で、1973年に行われたフォード・田中会談は予定時間の半分のわずか「1時間」で切り上げられた。
田中首相は米国の冷ヤヤカな態度に「圧力」を感じたが、そしてこのことが後の「ロッキード事件」の引きガネになろうとは想像サエもできなかったことだろう。
ところで、田中角栄は新潟の牛馬商の息子であり学歴といえば高等小学校卒である。
上京し夜間学校で建築を学び資格を取り、土木建築会社を設立して成功した。
その後政界に入り、史上最年少の若さで総理大臣になった。
東大卒だらけの大蔵省で、大蔵大臣になった時の田中氏の「挨拶」は次のとうりであった。
「私が、田中角栄がある。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私はシロウトだが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささかの仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、お互いよく知り合うことが大切だ。我はと思わんものは、誰でも遠慮なく大臣室に来てくれたまえ」。
田中氏は、高学歴の役人の「優秀性」も「限界」もよく知っていた。
役人「優秀性」というのは、明治の太政官布告以来積み重ねられ、項目別に整理されてきた情報、ノウハウの蓄積であり、役人の「限界」というのは、自分達の視線の高さでしかものを考えられないということである。
田中氏は早坂秘書に役人に「鳥瞰図」のような視点を提供するのだと常日頃語っていたという。
そして、それは役人の発想ではできない数々の「議員立法」に表れている。
一方で彼の「誤算」は、役人にはない「構想力」が、米国の「世界戦略」に逆らう結果になったということである。

少年の日に出会ったものが、人生をカタドルというのはよくあることだ。
そのコトを実証するかのように「田中角栄と利権」の原点は、「角栄少年と理研」との出遭いにあった。
田中角栄は「一人の少年」といってよい時期に、「理研」を介して石油ともウランともに「接点」をもっているのである。
田中は新潟から15歳で出てきて最初に向かったのが、理化学研究所の総帥の大河内正敏の邸宅である。
1934年3月、「先生のお宅に行けば、書生にしてもらえる。上級の学校にも入れてくれる」と、役場の土木係の爺さんの言葉だけを頼りに邸宅を訪れたのであった。
しかし角栄少年は大邸宅に威圧されるし、お手伝いさんの「殿様は会いません」という言葉に大河内邸への住み込みを諦め、「仮宿」だったはずの井上工業という土建会社の小僧となった。
昼間は工事現場で働き、夜は神田中猿楽町の「中央工学校」の土木科に通う生活を始めた。
ところで「財団法人 理化学研究所」(理研)は、1917年、渋沢栄一ら財界人の後押しで創設された本邦初の「自然科学」の総合研究所である。
本郷と小石川にまたがる1万5千坪の敷地に「理研」の総本山が置かれた。
しかし戦争などによる資金難に直面し、設立間もなく長岡半太郎(土星型原子模型)がトップの「物理部」と、池田菊苗(「味の素」の発明者)率いる「化学部」が対立し、初代の研究所長が急逝し、二代目も健康上の理由で辞任し「存廃」の危機に直面した。
三代所長に選ばれたのが、造兵学者で東京帝大教授の大河内正敏だった。
42歳で所長となった大河内の実父は旧上総大多喜藩主で大河内は貴族議員で「殿様」といっていい存在であった。
大河内は、タテ割りを嫌い、「自由」を重んじて改革を断行した。
研究体制を、14人の主任研究員が平等に研究室を主宰し、テーマや予算、人事の裁量権を握る「主任研究員制度」に一新したのである。
物理の研究者が化学をやってもヨシ、化学者が物理を研究してもヨシと学問の垣根を取り払う。
女性の研究員が多いのも理研ならではのことだった。
また、所内のテニスコートからは間断なく打球音が聞こえてくる。
そんな風景が日常化した自由で平等な空間となっていた。
しかし理研は「財政難」は深刻だったので「基礎研究」と応用技術による「起業」を経営上の両輪とした。
理研を「食わせる」ために技術移転による「製品開発」にえエネルギー向けた。
商売をためらわなかったという点で、理研は「象牙の塔」には似つわしくない研究所だったとモいえる。
理研は、ビタミン剤や合成酒、アルマイト、陽画感光紙といった「ヒット製品」を次々と世に送り出し、傘下に「理研化学興業(株)」を中心とする事業体を抱え、53社、121工場を擁する一大コンツェルンへと成長していく。
そして、事業団の拠点は銀座の美松ビルに置かれた。
さて、角栄少年は、いかなるツテで所長の大河内宅を訪ねたのだろうか。
不況で東北や北信越の村々には、間引きや一家心中の悲哀が立ち込めていた。
しかし大河内の研究・開発がカナリの「新潟志向」であったことが幸いした。
田中が上京した頃、大河内の研究室はエンジンの性能を高めるピストンリングの工場を柏崎に建てたばかりだった。
柏崎周辺には広大な敷地が確保されており、食塩のニガリでマグネシウムをつくる開発や、ロータリーキルンによる銑鉱還元の研究、礬土頁岩からのアルミニウム製造が結実しつつあった。
要するに「資源の少ない」日本の弱点を補う研究開発である。
長く近代化の陰に押しやられてきた越後の人々にとって、柏崎の理研工場群は、希望の灯火でもあった。
柏崎は「理研通り」と呼ばれる道路まで通じ、、工員達が雪の日も工場に通へ「出稼ぎ」から解放されるアリガタサを実感していた。 所長の大河内は、足シゲク柏崎に通って、女子工員の栄養不足を知ると、ドイツ留学時代に味わったシチューを大釜で煮て自らふるまった。
そして勤勉でネバリ強く、義理堅い越後人を工場の幹部にトリタてた。
しかし、そこは「殿様」である。知人の子弟が上京したら書生にするという約束をしていたとしても、ソレをまともに受ける方がが無茶である。
角栄少年は大河内邸への住み込みは諦めたものの、理研の拠点である銀座の美松ビルを訪れた。そしてシバラク「理研」で試験管を洗うなどの「雑務」をしていたこともあったという。
そのとき、大河内から理研関係会社に「籍」おかなくともよいから、建設計画について勉強しなさいと声をかけられた。
田中は、最初に住み込んだ井上工業で建築業のイロハを覚えた。
ちょとしたトラブルが原因で井上工業も辞めるが、以後専門誌の記者、貿易商の下働きなどの仕事を転々とし、中央工学校には通い続け「一級建築士」の資格をとった。
また、18歳で中央工学校を卒業すると、建築事務所に出入りしていた中西という設計士と親しくなった。田中は、中西が警視庁建築課の技師に採用されたのを見届けると、19歳にして神田錦町に「共栄建築事務所」の看板を掲げた。
警視庁建築課は、一般建築から工場の設置まで「許認可権」を一手に握っていた。
田中はこうした独特の「嗅覚」で、人々と人脈を築いていった。
そして、田中角栄の「転機」は、駒込の個人建築事務所に通うようになって訪れた。
その建築事務所は、全国に工場を建設していた「理化学興業」の下請けだったのだ。
田中は、ヨホド理研と縁があるとみえる。
大河内の住み込みを諦めて2年半、「偶然」にも大河内所長の理研との繋がりができた。
大河内は、田中の頭の回転の速さと行動力を見込んだ。
田中は、理研から「水槽鉄塔」の設計を皮切りにガーネット工場、那須のアルミ工場、ロータリーキルンの設計を請け負い、さらには大河内の特命で群馬県沼田のコランダム工場の買収も手がけている。
そして1936年、田中は理研工場の移転工事を請け負い、1600万円の現金をカバンに詰めて朝鮮に渡った。
現在の貨幣価値で70億円弱で、戦況悪化により工事は中断したものの、田中は残金をカバンに詰めて帰国した。
その金は「金権政治」といわれる田中の「原資」となったのである。

田中角栄の首相在任は1972年7月から1974年12月まで、わずか2年半の在任期間だったが、田中は「原子力政策」の基礎をつくったといっても過言ではない。
そして、この点においても田中の若き日の「理研」との接点を見逃せない。
日本は戦前から理化学研究所の仁科研究室で、サイクロトロンをつくって「核融合」を研究していたが、敗戦後進駐軍にサイクロトロンを東京湾に投棄させられ、一旦日本の原子力研究には幕が引かれた。
アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」政策を受け、日本では読売グループの総帥・正力松太郎がこれを推進し、メリカから軽水炉原子炉技術を買うことになった。
福島型原発のBWR(沸騰水型)や、関西電力などのPWR(加圧水型)はいずれもアメリカの技術で開発された軽水炉である。
そして理研は戦後の原子力の「基礎研究」においても先をいっていた。
物理学の仁科(芳雄)研究室には、のちにノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹も朝永振一郎もこの研究室に身を置いている。
ところで、世界の石油市場はメジャー・オイルの寡占状態であった。
産油国の原油売り渡し価格はメジャーの言い値で決められ、ガソリンや潤滑油などの石油製品は、メジャーオイルからの輸入に頼っていた。
そこで自由に自分たちの石油を使いたい、そのために何とか「自前」の製油所を持ちたいというのが、産油国の長年の夢であった。
1973年10月に第4次中東戦争が勃発した。
アラブ諸国が「親イスラエル国」つまり親アメリカ国には石油を「売らない」という政策に転じたことから、第1次オイルショックが起きたのである。
日本は「親イスラエル」と見なされないために、アメリカの「圧力」にもかかわらずアラブ諸国に必死でアプローチした。
三木武夫特使をサウジアラビアに派遣し、日本をアラブの友好国として認め、原油を供給してほしいというのが目的ですある。
また日本アラビア石油は、インドネシア石油の新しい輸入ルートをつくった最初の「日の丸油田」が、カフジ油田を開発し、北海油田開発にも参加した。
しかし製油所建設には、技術は勿論建設に必要な外貨が必要である。
必要な外貨手当ては欧米からの借款に依存せざるを得ず、欧米は、借款の見返りに色々難しい「条件」をつけてくる。
欧米のシステムに組み込まれることなく、経済発展をとげる方法は、日本の技術と資金でプロジェクトを実現することであった。
原油売却代金を製油所の建設資金に当てる構想であった。
そしてこれが、産油国のオイルを消費国日本がメジャーを介さず直接購入する、DD取引の最初のケースとなった。
また田中首相の時代に、フランスと「濃縮ウラン」の委託加工を決定する。
しかし日本がフランスに「濃縮ウラン」の委託加工を依存することは、米国の「核支配」をくつがえすフランスの原子力政策を一段と推進することになる。
sらには、米国の「核燃料」独占供給体制の一角が崩れることを意味する。
田中首相と当時のポンピドー大統領はパリで会談し、ポンピドー大統領は「モナリザ」の日本貸出を申し出、田中首相を喜ばせたという。
米国やロスチャイルド、ロックフェラーなどの国際財閥が日本を抑えつけようとしたにもかかわらず、日本は田中角栄の強いリーダーシップで前述のような「資源外交」を展開した。
れが、世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とオイル・メジャーの逆鱗に触れたということである。
1973年、ロッキード事件がおきる。
航空機購入をめぐりロッキード社から日本政府高官に多額の賄賂が渡ったという事件である。
そして、この事件の発端は日本側の捜査ではなくアメリカ側にあった。
つまり、日本政府にとって、フッテわいたような事件なのである。
そして、この事件の特徴は検察当局からすれば大変ヤリヤスかった事件だったということである。
普通、大物政治家に絡む事件では政府より横槍が入るものであるが、ソレサエなく予算もフンダンに与えてくれ、色々と「便宜」をハカッテくれたのである。
最高裁もアメリカ側の調書の「証拠能力」を法的に認め、コーチャンやクラッターなど「贈賄」側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという「超法規的措置」までしてくれて、検察の動きを助けたのだという。
時の総理大臣が反田中派の三木武夫であったということもあるが、国会内部では「三木おろし」の動きが強まっていったにもかかわらず、最高裁もアメリカ側の調書の証拠能力を法的に認め、コーチャンやクラッターなど「贈賄」側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという「超法規的措置」までしてくれて、検察の動きを助けたのだという。
ロッキード事件がアメリカ側の「謀略」とまでいえるかは分からないが、少なくとも田中角栄は或る時点でアメリカ側から「見捨てられた」と言えるのではなかろうか。
そして、それが「国策」を帯びた捜査となって表れたのである。
1974年10月号の文藝春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究」が田中金脈問題を告発し、1974年12月に内閣総辞職に追い込まれた。
とはいっても田中角栄もサルモノで、依然として最大派閥の率いる領袖として、無為無策であったわけではない。
以後、田中氏は政界から追放されるどころか自らの派閥の勢力を増して、「闇将軍」として君臨し続けた。
すなわちその後田中角栄は政界のキングメーカーとして隠然たる影響力を持ち続ける。
検察に怨念を抱いた田中氏は、次々と自分の息がカカッタ代議士を法務大臣にして法務省を支配し、検察を「封じ込め」ようとした。
しかし1983年田中氏の第一審での実刑判決がデテからは「反転」した。
つまり刑事被告人が「親分」だと自派から首相が出せないと「田中離れ」が起き、竹下登氏らの「創政会」結成に繋がっていくのである。
首相在任中から高血圧に悩まされており、次第に政治力は衰え、1993年12月に75歳で死去する。
ロッキード事件の収賄罪は結局最高裁まで争ったが、「被告人死亡」のため棄却された。
ところで多くの日本人にとって、田中角栄を憎めずナゼカ「懐かしく」思えるのは、雪国から出てきた「少年像」が、多かれ少なかれパーソナルな「記憶」と結びついているからではなかろうか。