魂が恵まれるごとく

「愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている」。
これは新約聖書(ヨハネ第三の手紙1章)の言葉である。
ヨハネはここで、信者が「魂が恵まれる」ことが土台にあって「すべてのこと」すなわち健康においても経済においても恵まれることは「神の意志」にカナっていることを表明している。
さらに聖書は「事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4章)といっている。
願い事のタグイを「御利益的」と蔑む人もいるが、人が祈りと願いとをささげることは、むしろ「神」が求めていることである。
実際人は、「願いごと」がカナウ体験があって「信仰」を深まっていくのであり、神の御手が動かない「応えのない」信仰は、どんな立派な「教理」があろうと、不毛という他はない。
では「魂が恵まれる」とはどういうことか。
単に「心が恵まれる」というのは、友人と語らったり、趣味を同じくする仲間とハイキングをしたりする世の楽しみから得られる「心弾む」体験からくるものである。
一方、「魂が恵まれる」とは、特段の理由もなく沸々と湧き起おこってくる「霊の喜び」といったらよいだろうか。
西行法師の「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙あふれる」という心境に近いものがある。
崇高なもの、気高いものに包まれているということに対する感動は、「魂が恵まれている」ことの証である。
ところで誰しも、歳をとるにつれて「心で楽しむ」体験は次第に制限されてくる。
旅行にも行けなくなるし、友人との交流は減り、趣味もそれほどあるわけではない。
年金だって減らされるし、加えて晩年に健康までも損なわれたら「心」までも蝕まれてしまいそうだ。
だが、歳をとって一番「惨めな」ことは、金がないことでも、友人がないことでもなく、魂が恵まれていないことではなかろうか、と思う。
反対に「魂の恵み」サエあれば大丈夫ということがいえる。
それゆえ古代イスラエルの王・ソロモンは、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、”わたしにはなんの楽しみもない”というように ならない前に」(伝道の書12章)と警告している。
老年に至って、現役の時輝かしい業績を残した人であっても、「自分の人生は何もなかった、徒労にすぎなかった」という気分に沈んでいく人は案外と多いものだということに気づかされる。
さて、上記の「伝道の書」の言葉は、栄耀栄華を極めた古代イスラエル王国の王ソロモン王であるが、そのソロモンでさえも「すべては空(くう)の空(くう)」「日の下に新しいものはない」という言葉を何度も繰り返している。
//伝道者は言う、 空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、 その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。 しかし地は永遠に変らない。
・・<中略>・・日の下には新しいものはない。
「見よ、これは新しいものだ」と 言われるものがあるか、 それはわれわれの前にあった世々に、 すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、 また、きたるべき後の者のことも、 後に起る者はこれを覚えることがない。//
たとえ「過去の業績」がイカに素晴らしくとも、イヤその輝かしさゆえに、今がカエッテ「惨め」ということはよくあることである。
チェーホフの「たいくつな話」は、そんな老年の心境を見事に語っている。
//死の予感や不眠症は「私」を苦しめる。しかし格闘すべき困難が病苦や死だけなら、「私」はこれまでの幸運な人生に感謝し、満足して死に向かう覚悟を持てただろう。
死を目前にして、「私」は家族が突然他人のごとく不可解な存在になってしまったと感じる。「私」が無名だったころ溌剌として愛らしかった妻は、「私」の得た「名士」の肩書に圧倒され、いつの間にか世間体と家計のことばかり気に病むような人間になった。
「名士」としての体面をとり繕った暮らしは家計を圧迫し、一家は始終借金に悩まされた。
元気で学問に取り組んでいるうちは、そんな心配事もさほど「私」を苦しめなかった。
しかし死を目前にした今、かつて愛した妻が自分にとってこれほど遠い存在になってしまったことを、「私」はしみじみ不思議に感じる。//
人間にとって大切なことは「今の状態」であり、過去の業績の「記憶」にスガッテ生きるのは、ナントモ寂しいかぎりである。
社会的に高い地位にあった人が老人ホームにはいると扱いに困るという話を聞く。
人は「老いた者」をそんなふうにしか見なくなるのである。
と考えると少々の心の楽しみがあったとしても、老年に至って人間がウツになるという方がむしろ自然であり、ソコカラどうにか救ってくれるのが「ぼける」ということかもしれない。
「ぼける」という言葉は人間の尊厳を損なう言葉のように思えるので、「ボヤケル」といおう。
人間が「ボヤケル」ということはことは、はかなき人生にとってはムシロ必要なことかもしれない。
人間の「究極」とは、死に対して「希望」がもてるかということになる。
そしてパウロは「死に向かう」人間にも「大いなる希望」があることを教えている。
無残に「破れていく」老いに対して、パウロは次のように語っている。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(第二コリント4:16)と語っている。
さらに、「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」と語っている。
またパウロは、この世にの苦しみやツマヅキやがあったとしても、「後に栄光」に比べたら大したことではないといっている。
そのようにいえるパウロは、この世を凌駕するほどに魂が恵まれていたといえるだろう。

それでは「魂が恵まれる」というのは、どのようにして可能なのであろうか。
イエスはサマリアに行く途中にあるスカルという町の井戸で一人の女性と出会う。
そしてその女性に対して「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章)と語っている。
この「内なる泉」というのが魂が恵まれる源泉だが、「約束の聖霊」のことをさしている。
//わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊(みたま)である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰ってくる。(ヨハネ14章)//
聖書には、「絶えず祈れ」(Ⅰテサロニケ5章)とあるが、「祈り」は霊的な呼吸であるということである。
この世であってどんなに立派な人間であろうと「祈らなければ」霊的な死をまねくということである。
人は、この「祈り」によって神に守られ様々な「災い」から免れうるのであって、道徳や倫理とは関係のないところである。

旧約聖書の「詩篇」には人生のすべての局面に向かう人間の祈りや叫びがある。
唐突だが経済の景気循環には「好況→後退→不況→回復」あるように、人生の4つの局面でのダビデやソロモンの祈りが書いてある。
その例を150篇の中から4篇セレクトしてみたが、あらためて気づかされることは、神の「存在自体」を疑うことはないという点で一点の曇りもないということである。
その意味では詩篇は圧倒的な「信仰の書」といえる。
<好況~詩篇23篇>主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、 わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。 わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
<後退~13篇>主よ、いつまでなのですか。 とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。 いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に 悲しみをいだかなければならないのですか。
いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。 わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、 わたしの目を明らかにしてください。
さもないと、わたしは死の眠りに陥り、 わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、 わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。
<不況~詩篇38篇> 主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、 激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。
あなたの矢がわたしに突き刺さり、 あなたの手がわたしの上にくだりました。
あなたの怒りによって、 わたしの肉には全きところなく、 わたしの罪によって、 わたしの骨には健やかなところはありません。
わたしの不義はわたしの頭を越え、 重荷のように重くて負うことができません。
わたしの愚かによって、 わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、 ひねもす悲しんで歩くのです。
わたしの腰はことごとく焼け、 わたしの肉には全きところがありません。
わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、 わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、 わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。
わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、 わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
わが友、わがともがらは わたしの災を見て離れて立ち、 わが親族もまた遠く離れて立っています。
わたしのいのちを求める者はわなを設け、 わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、 ひねもす欺くことをはかるのです。
しかしわたしは耳しいのように聞かず、 おしのように口を開きません。
まことに、わたしは聞かない人のごとく、 議論を口にしない人のようです。
しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。
わが神、主よ、 あなたこそわたしに答えられるのです。
わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、 わたしにむかって高ぶる彼らに わたしのことによって喜ぶことを ゆるさないでください」と。
<回復~詩篇30篇>主よ、わたしはあなたをあがめます。 あなたはわたしを引きあげ、 敵がわたしの事によって喜ぶのを、 ゆるされなかったからです。
わが神、主よ、 わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、 あなたはわたしをいやしてくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、 墓に下る者のうちから、 わたしを生き返らせてくださいました。
主の聖徒よ、主をほめうたい、 その聖なるみ名に感謝せよ。
その怒りはただつかのまで、 その恵みはいのちのかぎり長いからである。
夜はよもすがら泣きかなしんでも、 朝と共に喜びが来る。//

この詩篇が示すように人には様々な「局面」があり、よいと思える状態もいつまでも続くわけではない。
子供の進学から結婚・就職、親の病気、子供の登校拒否からヒキコモリ、失業倒産など限りなく悩みの「種」はある。
日本人は、何かどうしても必要とすること、こうあって欲しいことを神仏に願う。
そういう「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という気持ちで賽銭箱に小銭を入れるくらいのことは誰でもしていることであるが、そういう単なる「願かけ」ではなく、聖書はもっと明確に神に「受け入れられる」信仰について語っている。
//空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。(マタイ6章)//
この最後にあるように「ああ信仰が薄い者たちよ」といわれても、果たしてこんな信仰がもてるのかと、ズット思ってきたのだが、実際に神から「養われて生きている」としか説明の出来ないような信仰者がイルことを知っている。
そういう「実例」を見ると、やはり聖書の言葉は単なるレトリックではないことを思い知らされる。
さてイエスの周りには、日常的な悩みや苦しみをもった人々が集まり、具体的に「何をして欲しいか」と聞いた上でイエスは「汝の信仰のようになれ」と、その願いをうけいれ、願いをカナエタのである。
ところで「信仰とは何か」について聖書は次のように語っている。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに称賛された」
この言葉がある「ヘブル人への手紙紙11章」は、いわば「信仰者列伝」と言ってよい箇所であるが、それは「アブラハムの信仰」に代表されるものである。
「アブラハムの信仰」については「ローマ人への手紙」4章に次のように書いてある。
//このようなわけで、すべては信仰によるのである。
それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。
アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。
彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。
そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
だから、彼は義と認められたのである。
しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。//