失敗の本質

先日「通信販売大手」のアマゾンが、売り上げで楽天を上回ったというニュースを聞いた。
アマゾンと楽天の両社の競争は、異なるビジネス・モデルの競争、つまりビジネスの「仕組み」と「仕組み」が激突している為、興味深いものがある。
アマゾンは基本的には「直販」で自ら商品を売って利益をあげるが、楽天はネット上の「楽天市場」に出店してもらいソノ商店群からイワバ「テナント料」をとって利益をあげている。
今後、在庫倉庫を点在させ「効率」を追求して進化するアマゾンが支持されるのか、ネット空間に店舗が集まり個性が賑わう「楽天経済圏」が共感を呼ぶのか、そのビジネス・モデルの競争に注目したい。
ところでビジネスモデルとは、「儲かる仕組み」のことだが、こういう言葉がつくられたのも、インターネットやコンピュータによって商品販売やサービスポイントなどの多様な組み合わせによる「儲かる仕組み」が可能になったからであろう。
最近では、「クラウド」登場により、一段とビジネス・モデルは広がりを見せている。
近年、軍事においてもインターネットやコンピュータを駆使した戦いの様子を目の当たりにするようになったが、「儲かる仕組み」と同様に「勝つ仕組み」も、様々な広がりを見せているのではなかろうか。
元来、軍事とビジネスとは様々な「類似点」がある。
元日本陸軍参謀・瀬島隆三氏がシベリアから帰国後、大阪の繊維問屋・伊藤忠の越後正一社長からスカウトされた時、商売の経験がナイからと断ると、越後社長から「戦争」とビジネスは似たようなものだと説得されて会社に入り、最終的には副社長から会長まで昇りつめている。
その間、「航空機商戦」で丸紅の伊藤宏氏や日商岩井の海部八郎氏と競い、伊藤忠を日本有数の商社にしたことはよく知られた話である。
瀬島氏の関わった「商戦」で見るとおり、軍事における「戦略/戦術」「情報」「陣形」「兵站」「後方支援」といった言葉は、ビジネスの熾烈な競争とアナロジカルな側面が多い。
反対に、このアナロジーを「敗北」という負の側面に当てはめて見ることも可能である。
長年日本を牽引してきたソニーやパナソニックをはじめとする製造業の混迷、国際競争の中で次々と日本企業が敗れていくのはモノツクリの能力の衰退に原因があるのではなく、それを生かすベク存在するはずの日本軍的「組織」のアリ様に問題があるのではないのかといわれている。
また、震災や原発事故への国の不十分な対応、リスク管理、情報の隠蔽などは、太平洋戦争における「日本軍の敗北」のプロセスを想起させられるものが多い。
そこで、日本人の「特有の」失敗を追及したロングセラーの古典「失敗の本質」が再び脚光を浴びているというわけである。
戦局の前半で快進撃を続けた日本軍は、数々の作戦の失敗から学ぶことなく、雪崩を打って敗戦へと向かうが、その裏では、組織が陥りやすい「意思決定」の矛盾や、大本営と現地とのコミュニケーション不全といった問題が起きていた。
そして、日本軍と現代日本に潜む共通の構造「失敗の本質」は大東亜戦争において、米軍より物量や技術面で劣っていたのではなく、 日本という組織が持つ構造的・精神的な特性こそが最大の「敗因」であることを明らかにした。
そうした日本的な組織の特性は、戦後の日本組織一般にも無批判に継承され、今日の日本企業の凋落と衰退を生み出す大きな要因となっているのではないか、という問題意識が浮上しているのである。

ナポレオンの戦史には、「勝つ仕組み」とその「綻び」のプロセスが鮮明に表れれているように思う。
ナポレオンのフランス軍がどうして強かったのかについて、ナポレオンの「戦術」の巧さを挙げねばならない。
、 しかしそれ以前に、フランス軍の兵士一人一人の士気がトテモ高かった。ツマリ兵士たちが「戦う自覚」を持っていたことをあげねばならない。
ソレハ「革命の成果」という守るベキモノがあったからである。
フランス革命によって、封建制度がなくなったフランスでは、ジャコバン派の政策などによって亡命貴族の領地が政府に没収され、多くの農民たちがこれを手に入れた。
フランスが、包囲網である「対仏大同盟」に負けるということは、フランスに王政が復活し「亡命貴族」たちが戻ってきて、セッカク手に入れた土地が取りあげられるということである。
革命によって手に入れた土地と自由を失いたくないというモチベーションが、兵士の強さの原因だったといえる。
ナポレオンは服属した地域に、人民主権、自由、平等といったフランス革命の理念を広げていく。つまり「革命の輸出」を行ったのである。
そこでナポレオンは、外国に進撃する際にフランス軍を「解放軍」と位置づけた。
ナポレオンは、進撃先の国の封建制度を潰して、例えばイタリアの民衆にフランスと同じような「自由」「平等」をあたえてやろうと言う。
イタリアも含めてソレ以外の地域では、封建制度が続いていて、平民階級つまり農民や市民は、貴族・領主によって政治的にも経済的にも抑圧されている。
さらにそのバックにはオーストリア軍がひかえているため、自分たちの力だけではトテモ革命をおこすことは不可能に近い。
そこにナポレオン軍がやってきて、オーストリア軍と戦ってフランス軍が占領した地域の「封建制」をなくしてくれるというのだから、イタリアの民衆はフランス軍を歓迎した。
遠征地の住民の「協力」があるので、兵士や馬の食糧も、簡単に現地で調達できる。
物資を現地調達できるから、部隊の荷物は、オーストリア軍に比べて軽装ですむ。
荷物が軽いということは移動速度が速く、ナポレオン軍はオーストリア軍の予想を超えたスピードで部隊を集結させて打撃をあたえることが出来たのである。
一方、フランス以外の兵士は大して戦う意欲のない金で雇われた「傭兵」であったりした。
プロイセンのように、農民が無理矢理兵隊にされていたりで、戦争の意義を理解して自分の意志で戦っているわけではない。
そして、ヴァルミーの戦いでは、フランス義勇軍の雄叫びを聞いただけで、プロイセン軍は恐れをなして退却している。
しかし1806年ナポレオンはプロイセンに勝利し、首都ベルリンに入城して「大陸封鎖令」を出す。
この「大陸封鎖令」を境にして、ナポレオンの「勝つ仕組み」が綻びを見せ始める。
「大陸封鎖令」とは、ナポレオンの支配下および同盟関係の諸国に対してイギリスとの貿易を禁止する法律である。
軍事的にイギリスを征服するのをあきらめたナポレオンは、ヨーロッパ大陸との貿易からイギリスを「閉め出す」ことで、経済的にイギリスを追いつめようとしたのである。
ヨーロッパ諸国は、一番産業の発展しているイギリスに、原材料や食糧を輸出して経済が成り立っていた。
ソノかわりにフランスと取り引きしようというナポレオンの意図が見えてくるヤ、ナポレオンの大陸支配が個人的栄光とフランス産業の利益のためだということがハッキリてくる。
はじめは封建制度を打ち倒すフランス軍を歓迎していた諸国民も、ナポレオンの支配に抵抗をはじめる。
ナポレオンが自由・平等という考えを広めた結果、皮肉なことに各国で「民族意識」が高まってくるのである。
最初にフランスの支配に抵抗をはじめたのはナポレオンの兄が国王になっていたスペインである。
反乱をおこしたのはスペイン軍ではなく、一般の市民たちが「抵抗闘争」をはじめた。
正規軍と決戦をすればフランス軍は無敵だが、スペイン人ゲリラはどこにいるか分からない。
ゲリラとそうでない市民との区別もつかない。
ゲリラがフランス軍の隙をついて襲ってくると、フランス軍は報復のために、怪しいと思った人々をドンドン処刑していった。
こうなると、フランス軍は革命軍でも何でもなくタダの「侵略軍」であり、反抗はますますエスカレートして、結局スペインの反乱を最後まで鎮圧することができなかったのである。
そして1812年、ナポレオンは大陸封鎖令を無視するロシアに、反対をオシきって戦争をしかける。
ロシア軍は60万ものナポレオン軍に圧倒され退却するが、その際に畑などを焼き払っていく。
侵略軍だと見られているから、ロシア農民はかつてのイタリア民衆のようにフランス軍に好意的ではなく、ナポレオン軍は食糧を現地調達できない。
フランス軍の兵力は戦闘らしい戦闘もないのに、飢えと疲労と逃亡で減少していった。
ナポレオンは一応モスクワを制圧したものの、逃げ去ったロシア皇帝との外交交渉が全く進展しないまま1ヶ月がすぎ、モスクワに予想よりも早く初雪が降ったのである。
初夏に遠征を開始したフランス軍は、冬の装備を持っていなかったため、フランス軍はもと来た道を引き返す他はなかった。
しかし、フランス軍が退却を開始すると、どこかに隠れていたロシア軍があらわれて追撃を開始した。
そしてフランス軍は完全に規律を喪失するしたまま退却し、出兵時の兵士の数はワズカ数万に激減していたのである。
ナポレオンのフランス軍は過去の「勝つ仕組み」に頼って、獲物を深追いして後戻りが出来なくなり、大損害をこうむったということである。

ロングセラー「失敗の本質」は、日本軍の1939年ノモンハン事件からミッドウェー海戦らを経て沖縄戦にいたるまでの6つの「軍事作戦」における失敗を検証して「失敗の本質」を追求したものであった。
インターネットどころかジェット機もない時代を舞台にした検証である。
しかし、ITの発達による現代戦は「勝つ仕組み」を大幅に変えた。そこでアメリカ軍の「戦い」から、今日の日本も教訓を汲み取ることができる。
我々にとってアメリカの「勝つ仕組み」として鮮烈に記憶に残るのが、1991年の湾岸戦争である。
アメリカ軍は、1980年代後半からIT化による大変革をしてきており、各部隊・装置・兵器・衛星などからリアルタイムで情報を収集し、それを迅速に分析・処理して、きわめて効果的効率的に敵をタタクためのシステムを完成させて臨んだ戦いだった。
アメリカ軍(多国籍軍)のGPSと無線カメラを搭載したミサイルが、精密に誘導されて目標を爆撃した。
現場の戦闘部隊も、「全情報」を握る司令部からの指令に従って進んでいけば楽に戦闘ができた。
最新鋭の「暗視装置」を持つ多国籍軍にとってみれば、砂漠の闇夜は味方でスラあった。
1ヵ月間の徹底した空爆のあと開始された地上戦「砂漠の剣」作戦はワズカ100時間で決着し、戦争というもののイメージを根底から覆させられた。
イラク軍の死者2~3万人に対し、多国籍軍のそれは500人弱という圧倒的な勝利であった。
これで、死者を出さずに「勝つ仕組み」が完成したのかと「錯覚」したくらいだった。
しかしこの「大成功」がアメリカ軍を「大失敗」へと導いていった。
ラムズフェルド国務長官は、「湾岸戦争」の勝利を元に情報システムを中核とした空爆・無人兵器・特殊部隊中心の機動戦を基本とした新しい「理想の組織」をつくった。
イラク戦争では「情報戦」で圧倒しイラク軍を分断・駆逐し、正規軍同士の戦闘に勝利した。
多国籍軍側の死者は170人ほどで、湾岸戦争に引き続く「圧勝」といってよかった。
しかしそれは、フセイン政権を倒すまでの「勝つ仕組み」でしかなかったのだ。
それ以降の「占領統治期間」の8年半での死者はアメリカ軍を中心とした多国籍軍5000人で、民間契約要員1000人にのぼった。
それまでの戦い方が「嘘」のように効を奏しないということは明白だった。
アメリカ軍の「失敗の本質」は、高度にIT化されているとはいえ、あらゆる情報の統合・分析と意思決定の時間が数分は必要なので、司令部からの指示が出る頃には、敵も味方も動いてしまい、味方と合流できなかったり、敵軍を見つけられなかったりした。
また市街戦では、遮蔽物や紛らわしいものダラケで敵の装甲車すらうまくは識別しきれなかったのである。
しかも、テロ組織が仕掛けた自爆テロや即製爆弾に対して、無人偵察機も軍事衛星も、無意味であったという。
また、アメリカ軍らが空爆と地上部隊で押し切ろうとしても、反乱勢力が武器を捨てて市民に紛れ込んでしまえば、市民もそれをアメリカ軍にワザワザ突き出そうとはしなかった。
そんなことをすれば、自分があとで殺されてしまうからである。
現場からのネガティブな情報も、異なった意見も、すべて抹殺された。ソレは、日本軍の「失敗の本質」と似通っていたといえる。
つまり「理想の組織」と銘打った仲良しグループで遂行された作戦が、結局占領軍を確実に破滅にまで追い詰めていったのである。
しかし、アメリカは破滅「一歩手前」で踏みトドマッタ。
厳格な指揮命令系統の下にありながら、「現場指揮官」たちが独自の戦略を生み出し、試行錯誤して「成功例」をつくり上げていったからである。
アメリカ軍の勝利は、テロリストたちの殲滅によってではなく、テロリストによる報復から自分たちを守ってくれると住民たちが「確信」した段階から、訪れたという。
そうした現地指揮官の一人マクマスター大佐は、市内に29ヵ所の小さな前哨基地を設けた。
反乱勢力はこれを嫌い、猛烈な攻撃を繰り返し、マクマスター大佐の部隊は多くの犠牲者を出した。
しかし小さな前哨基地を守り抜き、まるで日本の交番のように日々のパトロールを欠かさなかった。
数ヵ月後、事態は劇的に改善した。しだいに住民の協力者が増え、穏健派は武器を置き、過激派は逃げるか住民によって引き渡さた。
住民は女性や子どもまで使ってテロを繰り返す過激派を匿いたいわけではなく、報復が怖かっただけである。
モウ1人の現場指揮官であるペトレイアス大将自身も、従前の厳格な指揮命令系統をカイクグッテ「変革」を断行していった。
彼の率いる航空師団は2003年、イラク北部最大の都市モスルに駐留しその治安維持に成功していた。
しかしそれは上官の命令を無視し、法の隙を突き本国当局の反対を押し切った「独自施策」を連発してのことであった。
その結果ペトレイアスは「左遷」されたが、左遷先となった戦場から1万キロはなれた駐屯地での訓練・教育の担当をし、彼はここで新しい組織による「ボトムアップでの変革」を目指した。
試行錯誤の果ての現場の成功例から練り上げられたマニュアルは、インターネットを通じて流され現場の兵士や指揮官から歓迎され、ダウンロード数は最初の2ヵ月だけで200万回を超えたという。
ペトレイアス大将がイラク駐留米軍司令官となって6ヵ月後、イラク民間人死者数およびアメリカ軍死者数は「劇的」に減少していった。
ペトレイアス大将がつくり上げた改訂版の「対反乱作戦マニュアル」では、対ゲリラ戦の核心はゲリラの殺害ではなく「民心の掌握」であるとしている。
ゲリラと民衆の「分断」こそが勝利への道であり、それが「交番システム」といった軍事面だけでなく、生活向上のための資金提供やインフラの整備といった「多様な手段」を必要とするしている。
そして、その根幹は「イラク人への敬意」であると結んでいる。
こうした現場指揮官の変革によって、イラクの民心は翻り自律的な治安維持への道を歩み始めたのである。
失敗のキワメテ普遍的本質は、「儲ける仕組み」せよ「勝つ仕組み」にせよ、それが永続的に通用すると思い込むことではなかろうか。
成功し続ける、つまり変らないためには変り続けなければならない、ということである。
ペトレイアスの「対反乱作戦マニュアル」の改訂では、まずチームとして異分子たちを集めた。
マクマスター大佐始め軍内部の「異分子」たちはもちろん、アメリカ軍への過激な批判で知られるイギリス人将校、CIA職員、ジャーナリスト、さらには人権擁護活動家まで、みずからを批判する人々を求めた。
そしてそのマニュアルを、「勝手に」インターネット経由で軍内外に広めていったのである。
実は、アメリカ軍を現場から変革した二人マクマスター大佐とペトレイアス大将二人とも、「歴史学の博士号」をもつ軍人であったことは、示唆に富んでいる。
察するに、二人の英才は「ナポレオンの戦い」からも沢山の教訓を得たにちがいない。