本源の地

企業の歴史を見ると、任天堂ならば花札、ワコールなら足袋、ブリジストンなら長靴からスタートしている。
ソウいった技術的な「前史」があって、今日の技術へと変遷していることなど興味がアルが、創業者の「精神」を形成した「創業前史」というものがあることに思い至った。
つまり「創業地」は必ずしもそのルーツとはいえず、「創業前史の地」の方がハルカに重要だと思えるケースがアルということである。
こういう土地のことを「本源の地」とよぼう。
例えば、お中元やお歳暮で有名な「新宿中村屋」は東京の本郷が創業の地で、新宿に移転した。
創業者 相馬夫妻の「己の生業を通じて文化・国家社会に貢献したい」という気持ちが反映したのか、中村屋には明治の末から大正にかけて、美術、演劇、文学、その他広い分野にわたる「多彩な顔ぶれ」が集まるようにった。
この中村屋を舞台に創業者とこれらの人々の間に繰り広げられた交遊の世界は、いつしか「中村屋サロン」とよばれるようになる。
そして相馬夫妻は、集まってきた「ロシア人亡命者」や「インド独立運動の志士」に至るまで多大な理解と惜しみない支援を送り続けた。
そして、この「中村屋サロン」の充実を見る時、そのルーツを辿ると東京・本郷でも新宿といった「創業の地」以前、店の主人・相馬愛三の生誕地「長野県安曇野」にいきつく。
この中村屋サロンには、萩原守衛など多くの芸術家が集まるのだが、彼らの多くは相馬愛蔵の生きた長野県安曇野の出身であった。
従って新宿中村屋の人々の「精神形成」の中で大きな意味を持つのが「安曇野」における交友がソノママ「移転した」といえる。
ちょうどコノ中村屋の「安曇野」にアタルような「本源の地」、ツマリ創業者の精神史に影響を与えた土地における葛藤や交友につき、「劇団若草」「慶応義塾」「同志社」について紹介したい。

金子みすゞの生涯は、「事実は小説より奇なり」をジでいくような生涯であった。
現在、東京西荻にあり数多くの名子役を生むことになる劇団「若草」は、みすゞの実の弟・正祐が創立したが、それは 「数奇な運命」で結ばれたこの「姉弟の育ち」をヌキでは語れないように思える。
金子みすゞは1903年、「カマボコ」で有名な山口県大津郡仙崎村に生まれた。
兄弟には兄・堅助、弟・正祐がいた。
父・庄之助は、母の妹つまりみすゞの叔母フジの嫁ぎ先である「上山文英堂」書店の清国営口支店の支店長として清国に渡ったが、その翌年に何者かによって殺されてしまう。
遺族となった金子一家は、「上山文英堂」のバックアップで、仙崎で「金子文英堂書店」を始めた。
ちょうどその頃、子に恵まれなかった上山松蔵とフジ夫妻の元へ、弟・正祐が養子としてもらわれることになった。
当時、一歳の正祐にはそのことは知らされず、上山家の長男として育てられることになる。
1918みすゞの叔母にあたるフジが亡くなり、翌年みすゞの母・ミチが、亡くなった妹の夫である上山松蔵と「再婚」することになった。
そしてみすゞと正祐の「実の姉弟」は、再び共に生活をつづけるのだが、正祐には依然として「養子」という事実は知らされてはいなかった。
みすゞは尋常小学校時代から成績優秀で、やがて「童謡」に目覚め、高等女学校を卒業してからは下関に移った「上山文英堂」書店の手伝いをしながら、雑誌に「詩の投稿」を始めた。
一方、みすゞの実の弟である正祐は「作曲」を覚えるようになり、みすゞの詩に曲をつけたりするようになっていく。
そしてみすゞは、1923年頃からペンネーム「金子みすゞ」で童謡を書き始めるようになり、雑誌「童話」で西條八十に認められたりして、若き詩人の間でも注目を集めるようになる。
一方正祐は1925年「徴兵検査」の通知があり、その時に正祐は自分が「養子」であることを知るが、実の両親のことを養父に聞くことはせず、みすゞを「実の姉」とも知らず親しく付き合い続けた。
1926年、正祐の養父・松蔵は、正祐とみすゞの関係を心配して、「上山文英堂」の番頭だった宮本という男とみすゞを結婚させることにした。
しかし、宮本の悪い噂を聞いていた正祐はみすゞに結婚を思いトドマルように説得した。
しかし、正祐を「実の弟」と知るみすゞは、今まで世話になった叔父・松蔵の提案に逆らうこともできず、宮本と結婚することになる。
同年11月に長女を授かるが、宮本の女性問題が叔父・松蔵の逆鱗にふれ、店から追い出された。
そして新しい仕事を始めたが、ついには悪い病気を持ち帰り、みすゞも淋病を移されてしまう。
また宮本は、みすゞが投稿した詩が世間に認められるのが気に食わず、詩作や投稿仲間との手紙を「禁じる」ようになる。
しかし相変わらず、宮本の放蕩ぶりはオサマらず、金にも困り住居を転々とするようになる。
そして1930年、ついにみすゞは長女を連れて宮本との別居にふみきる。
宮本はみすゞと、要求すればいつでも娘を引き渡すという条件で「離婚:に応じた。
しかし、再三にわたって宮本から娘の「引渡し要求」があったが、みすゞは断固としてコレに応じることはなかった。
宮本もあきらめず、娘を連れに行くと通告してきたが、みすゞはその前日に長女を母に預けて、ひとり写真館に向かった。
そしてソノ日の夜、娘ふさえが母の寝床で眠るのを見届け、自分の寝室で、遺書と写真の預け証を枕元に置き、薬を飲んで自ら命を絶った。
金子みすゞにしてみれば、娘を渡すくらいなら死んだ方がマシという思いだったのだろう。
その「死の抗議」は、周囲を動かし、娘は結局祖母・ミチの手で育てられることになる。
そして、金子みすゞの「童謡」に曲をつけた「実の弟」上山正弘によって1949年「劇団若草」が結成される。
劇団若草は数多くの「名子役」を輩出したばかりではなく、彼らの多くが名俳優・名女優として育っていった。
「劇団若草」は、金子みすゞの命を賭けた「長女への思い」と、創立者・上山正弘の「金子みすゞ」という姉への強い思いなくして、長く続けることはなかったように思える。
そういう意味で、山口県仙崎こそは「劇団若草」の原動力であり、「本源の地」といえまいか。

「慶応義塾創設」において、大分県中津の儒学者「白石照山」の影響を見過ごすことはできない。
白石照山は中津藩の下士・久保田武右衛門の長男で、藩校・進脩館にて野本白巌に漢学を学び、24歳で藩の督学となった才人である。
その年の1838年には江戸に上り、亀井昭陽、古賀侗庵に師事し、「昌平黌」に6ヶ年学んだ。
6年間もの間在籍した昌平黌での成績は抜群に優秀で、幕府の「詩文係」を務めた。
そして白石がもっとも影響を与えたのが福沢諭吉であり、二人の関係は晩年まで続いている。
中津奥平藩の下級武士だった福沢諭吉は後年福翁自伝に「門閥は家の仇でござる」と書いている。
身分制度が厳しく本人の実力が評価されない当時の藩政に不満を持っていた。
福沢は14才のころから白石照山の私塾「晩香堂」に学び、初めて学問の手ほどきを受け、十九才の時に長崎に出て蘭学を修め、その後大坂の適塾に入った。
その当時、諭吉が師事していた白石照山は、身分が「下級藩士」であるが故に大手門の「門番」にすぎなかった。
福沢ら若手藩士の「照山先生を藩校の学者に登用してほしい」という意見は聞き入れられず、1854年白石はカエッテ中津から追放されるハメになる。
しかし一度は中津藩を追われた白石だが、「旧知」であった月桂寺の住職をたよって、近隣の豊後国臼杵藩で「儒者」として厚遇される。
そこで藩校「学古館」の学頭として登用され、1862年には臼杵藩を辞して豊前四日市郷校の教授となる。
1869年には中津藩から「上士」として迎えられ藩校「進脩館」の教授に復帰した。
しかし1871年に藩校の廃止により、私塾「晩香堂」を再開し、1883年に69歳で病没している。
ところで、福沢諭吉は兄の死後、1856年蘭学を大坂の緒方洪庵の適々斎塾(適塾)に学びたかったが、中津には長崎遊学の借財もあり、大阪への路銀も必要であった。
そこで諭吉は父の蔵書126冊を携え、旧師白石照山の「口添え」で臼杵藩に15両の大金で買い上げてもらっている。
その後、福沢は洪庵の適塾で塾頭を務めた後、1858年中津藩の招きで江戸に出て、築地鉄砲洲の奥平中屋敷に蘭学塾を開くが、これが「慶応義塾」の起源である。
白石照山と福沢諭吉との交流は晩年まで続き、上記の如く福沢の適々斎塾(適塾)への遊学を「金銭面」で支援した他、福沢の「思想形成」の特徴、朱子学・水戸学から「一定の距離」を置いて「国家独立の思想」を志向したことに大きな影響を与えている。
また白石の門人には福澤諭吉の外に、朝吹英二(三井工業部専務理事)、荘田平五郎(東京海上火災会長)、増田宋太郎(自由民権運動家)等がおり、いずれも「初期の慶應義塾」の中核を担う人物達であった。
こうした経緯から、慶応義塾の「本源の地」を、大分県中津としてもよさそうだ。

外国の大学は、ハーバード大学はじめ「神学校」からスタートした大学が多い。
しかし「神学校」といっても学問全般を学ぶのだが、日本の大学の「神学部出身」となれば、大概は教会の牧師や伝道師、キリスト教関係の教職につく人がほとんどである。
しかし中には、「神学部出身」でありながら、それとはカケ離れた分野で活躍する人々もいる。
ちなみに2000年代初期「時の人」であったホリエモンこと堀江貴文は神学部出身ではないが、東京大学文学部「宗教学科」中退である。
ところでNHK大河ドラマ「八重の桜」で八重の夫・新島襄が創立したのが同志社大学だが、キリスト教プロテスタント精神を基に「同志社英学校」として創立された。
現在の同志社大学の神学部は必ずしも牧師養成ではなく、キリスト教神学のみならず、ユダヤ教、イスラーム関連科目が設置されている。
卒業後の進路は他学部と変わらず一般企業への就職が多いのが特徴的である。
さて同志社大学「神学部出身」といえば、フォークソング歌手の岡林信康、国際紛争が起きるとよくテレビに出演される軍事評論家の小川和久氏、そして鈴木宗男と「偽計業務妨害容疑」に問われた外務省出身の佐藤優氏などがいる。
小川和久氏は「通信制」で高校を卒業して自衛隊に入るが、依願退職した後に西洋思想の基盤であるキリスト教を学ぶために同志社神学部への進学を望んだ。
しかし、クリスチャンでなかったために受験資格がなく「万人に門戸を開くキリスト教の教えは嘘なのか」 と同学部事務長宅にゲタ履きで談判に行き、同志社大学神学部で最初の「非クリスチャン学生第一号」となったという。
しかし小川氏はその後「授業料滞納」で除籍され、その後地方新聞や週刊現代記者などを経て「軍事アナリスト」として独立した。
ちなみに小川氏は熊本県八代市出身だが、熊本にやってきたキリスト教の宣教師ジョーンズ氏の影響を受けた「熊本バンド」の若者達が、同志社大学神学部「第一期生」を占めたのは、単なる「偶然」である。
さて、同志社に「神学部」が設置されたのは、熊本の地と深い関係があり、ソレは以下のような事情に基づくものであった。
明治時代の初期、熊本県には熊本洋学校という英学校があった。
当初は男子校であったが、女性も入学が出来るようになり、当時では珍しい「男女共学」となっていた。
1876年、熊本県にある熊本洋学校で「或る事件」が起きた。
それは京都の薩摩藩邸跡に同志社の新校舎が完成する少し前のことである。
熊本洋学校の教師L.L.ジェーンズは宣教師ではなかったが、自宅で希望者に聖書を教えていたところ、熊本洋学校の生徒35名(海老名弾正・金森通倫・徳富蘇峰・横井時雄・浮田和民など)がキリスト教を信仰するようになり、洗礼を受けた。
そして1876年1月30日、教師L.L.ジェーンズに感化された熊本洋学校の生徒35名が、熊本県郊外の花岡山で、誓約書「奉教趣意書」に署名をして、キリスト教結社を組織したのである。
このとき、花岡山で誓約書「奉教趣意書」に署名した生徒35人は、後に「熊本バンド」と呼ばれるようになる。
当時はキリスト教が受け入れられない時代であったために、「花岡山事件」が大問題となり、熊本洋学校は保守派から批判を受けることになる。
その結果、教師ジェーンズは解雇となり、熊本洋学校も「閉鎖」に追い込まれた。
彼らは「村八部」となり、家族からも迫害を受ける生徒もいたという。
このため、京都に同志社英学校が開校する事を知った教師ジェーンズは、手紙で「新島襄」に生徒の引き受けを依頼した。
新島襄は教師ジェーンズの依頼を引き受け、同志社英学校に「神学課」(バイブル・クラス)を新設して、熊本洋学校の生徒を受け入れた。
行き場を失った熊本洋学校の生徒20数名が京都へ移住し、同志社英学校へ入学したのは、薩摩藩邸跡に新校舎が完成した直後のことだった。
同志社英学校の新校舎が完成したものの、生徒不足で行き先が不安だったが、熊本洋学校から「熊本バント」が転校してきたことにより、学校が賑やかになったのである。
また、L.L.ジェーンズは陸軍出身で規律を重んじる教育方針だったが、新島襄は自由を重んじる教育方針だった。
フタツは相反する教育方針だったため、熊本バンドのメンバーは必ずしも同志社の校風が合わなかった。
また、教師L.L.ジェーンズから英語で高度な教育を受けていた熊本バンドにとっては、同志社英学校の教育内容には不満があったようだ。
このころ、熊本洋学校を解雇された教師L.L.ジェーンズは、大阪にある大阪洋学校で教師をしていた。
そこで、熊本バンドのメンバーはL.L.ジェーンズに相談した。
すると、そして、L.L.ジェーンズは熊本バンドに「生徒には意見を言う権利がある。まずは校長の新島襄に改革案を提示しなさい」と諭した。
このため、熊本バンドは同志社英学校へ戻って、校長の新島襄に「改革案」を提示した。
すると、新島襄は熊本バンドの提案を絶賛して採用した。
学生の意見など聞き入れられないと思っていた熊本バンドは、新島襄の度量の大きさに感服し、同志社英学校に残ることになった。
一方、新島襄は熊本バンドのためにL.L.ジェーンズを同志社英学校の教師として迎え入れようとしたのだが、L.L.ジェーンズは正式な「宣教師」ではなかったため、他の宣教師教師の反対にあい断念した経緯がある。
というわけで、熊本バンドが生まれた熊本こそ、同志社大学「本源の地」とはいえないだろうか。
以上まとめて、「劇団若草」の山口県仙崎、「慶応義塾」の大分県中津、「同志社」の熊本市花岡山は、それぞれの「本源の地」といえそうだが、イズレモ我が居住県の福岡の「隣県」の土地である。
さて我が福岡がその「精神史」を築いたという意味での「本源の地」というのはアマリ思い浮かばない。
しかし、福岡から出て全国的に知られる数々のミュージック・バンドやシンガーソングライターの存在は後を絶たず、博多山笠やどんたくなどで育った「祭り好き」精神が「本源に」あって、しっかりと息づいているのではなかろうか。