気持が問題

マラソンや競輪で風除けの為に、トップの後ろ側にくっついていく選手がいる。
後続の方が先をいく方が効率よく走れるという判断だろう。
試行錯誤で多大なコストを払うより、成功例をフォローしながら走って、最後にトップに躍り出るというのが効率よく目標を達せられるからだろ。
しかし、ソノ分「失敗」から学ぶ広がりに欠ける面があるのではなかろうか。
日本人は、売り込みにおいても「実践例」がなければ積極的に、その技術を「売り込もう」としない傾向があるようだ。
例えば、ハード面で最先端を行きながら、なかなか広がらない介護用ロボットなどは、その「売り込み」にイマイチ消極的である面があるからではなかろうか。
技術的イノベーションに社会的イノベーションがついていっていないという側面もあるのだろう。
その点で、3年前に成功した「はやぶさ」は、珍しくも世界に先駆けた日本の挑戦だった。
何しろ、この広い宇宙のなかで芥子粒ほどの小惑星イトカワから物質を集めて、「地球創生」または「宇宙創生」の秘密をさぐろうというのだ。
仮に、地球外物質を採取できたとしても、地球に戻ってこれるかは、「発射台から地球の裏側のブラジルのサンパウロのてんとう虫に当てる」ぐらいの難しさなのだそうだ。
ところで、この「はやぶさ」の成功をより感動的にしたことは、幾度か「ダメか」という窮地においこまれつつも、「復元」したからである。
それは「はやぶさ」というロケットのことではなく、この開発に関わった人々の気持ちのことでモある。
特に、「はやぶさ」からの電波が数ヵ月も届かずに、その行方は「絶望視」されたこともあった。
約30名ほどからなるスタッフは、「はやぶさ」から電波が届く限りにおいて、そのデータを解析したり、修正したりして、日々充実した仕事にあふれていた。
しかし、電波が届かなくなった途端に、何もすることもなくなった。
せいぜい、管制室にブラリとやってきて話をする程度だった。
そんな時、「はやぶさ」プロジェクトのリーダーである川口淳一郎氏の役割は、皆の気持ちを「繋ぐ」ということだった。
川口氏はメンバーが立寄ったときに、管制室に熱いお茶が置くとか、ゴミをチャント捨てておくことを通じて、このプロジェクトが依然「死んでいない」というメッセージを送ったという。
さらに川口氏は、「はやぶさ」からのデータが途絶したあとでもスタッフに、「もしもこういう場合にはどうする?」という形の宿題を出し続けたという。
それは宿題の内容も、スタッフの「気持ち」を繋ぐコトが主な目的であったという。
その為にはプロジェクトが「アクティブである」というメッセージを出し続けたといってよい。
しかし、川口氏が「繋ぎ」とめるべきもっと重大なものがあった。
それは、国の「予算」である。
データ途絶により、文科省のなかでも「予算打ち切り」の話がもちあがっていた。
川口氏は次年度の予算を確保するために、つまりプロジェクトの「継続」をはかるために、「通信が復活する」可能性をバックアップ用のバッテリーの「残存量」などからはじき出した。
それを客観的に提出して、ドウニカ国の予算を確保することができた。
スペースシャトル・チャレンジャーでの爆発事故の際、低温でおきる装置の不具合が「予測」されたが、そのリスクが客観的な数値として提出されていなかった為に、そのリスクが「過小評価」されたのだという。
川口氏の場合は、残った成功の「可能性」を導き出したために、「プロジェクト」は生き残ったということである。
そしてある日突然に、「通信」が復元したのである。
実は、小惑星イトカワの表面はとてもゴツゴツしていて、探査機が着地できる状況ではなかった。
そこで、担当外のスタッフのアイデアで、シャトルから弾丸をはなち、そこからマキ上がる物質を採取するという方法がとられた。
そして「弾丸」が発射されたという「信号」が地球におくられてきたのだ。
管制室にたまた残って仕事をしていた「はやぶさ」スタッフは、この「信号」にワキにワイタのである。
早速、「世界初の快挙」のニュースは、世界にも伝えられた。
ところがわずかその1週間後に、プログラムミスがみつかり、「弾丸が発せられていなかった」可能性があること が判明した。
川口氏自身が「知らないほうがよかった」ともらした情報である。
内部で隠しておけば当面は隠せるものであった。
一時は、口もキケナイほど消沈していた川口氏だが、その事実をあえて世界に公表した。
逆にこの「不都合な真実」の公表がプロジェクトの「信用性」を高める結果となった。
ところが、ソレカラ数か月後に、突然「はやぶさ」の電波が管制室の画面に確認されたという。
そして、イトカワの物資を採取した「はやぶさ」は見事にオーストラリアに着地することに成功したのである。
誰も口に出しはしなかったものの、正直「アキラメ」た者が多かった。
しかし真実を隠蔽せず、少しの可能性にも賭けスタッフの気持ちを繋いだ点が、成功に繋がった。
電力会社の原子力発電所の動作不備に対する「隠蔽」や「報告の遅れ」が報道されている。
「はやぶさ」スタッフのような潔さが、結局信頼や成功に繋がるということを知ルベシである。

気持ちひとつで「仕事の転機」を迎える人はいる。
その代表例として、岐阜県出身の一の車掌さんを思い起こす。
当時はワンマンバスではなく、車掌が同乗していた。
その人がバスの車掌になったのは、昇進が早いからという理由だったらしいが、周りの同僚にオマエはイイ男だから「俳優」になってみないかといわれた。
ついノッカッて、整形手術までして映画会社を受けてみたが、受けた全ての映画会社を落ちてしまう。
恥ずかしいやら憎らしいやらで、車掌の仕事にも「喜び」も見出せず、身が入らなくなった。
ところが或る時、ダム建設で川底に沈む村で、たまたま桜の移植を記録する写真撮影を頼まれた。
そして、移植に成功した桜に涙を流す人々の姿を目撃して、自分の乗車するバス道りを「さくら道」にしようと思いはじめた。
休日に、給料をハタイテ桜の木を植え始めた。
家族にしてみればサホド「有難い」話とはいえまい。それだけにコレヲ「美談」とよぶには、少々抵抗を感じるところである。
金沢と名古屋を結ぶ156号線の長距離バスに、桜の木を植え続けた車掌・佐藤良二氏のことである。
佐藤氏の生涯は、「さくら道」(風媒社)という本にもなり、篠田一郎・田中好子出演で「さくら」として映画化された。
現在の国道156号線沿い御母衣(みぼろ)湖畔に移植された巨大な桜の老木があった。
ダムの底に村が沈んで、バラバラになっていた村人たちが桜の木の下に集まり「再会」を喜びあった。
そして一人の老婆が、「移植しても枯れる」と言われていた荘川桜が見事な花を咲かせるようになったことに、感極まって泣いていたのだった。
桜の花にこれほど人の心を動かす力があることを目撃した佐藤氏は、「太平洋と日本海を桜でつなごう」と思い立った。
そして名古屋と金沢を結ぶバス路線伝いを中心に、12年間で2000本の桜を植え続けた。
1977年に47歳で病の為に亡くなっている。
「さくら道」を読んで最も印象的なことは、佐藤氏が絶え間なく桜の木を植え続けたことではなく、ソノことによって起きた佐藤氏の「気落ちの変化」なのだ。
俳優の試験を落ちて車掌の仕事を続けている時の気持ちを、佐藤氏は次のように語っている。
「こんなめめしい職業がその頃はいやでいやでしかたなかった。乗り込んだ老婆が、発車でよろめいて私にすがりつこうとすると、私ははらのけたいほど気持ち悪く、いやな気がした。10円切符を買う人のに千円札を出す人には、誰かに借りて出せといった。10円玉があっても1円玉ばかりを寄せ集めて出す人などは、ビンタをはってやりたいほどだった。バスがゆれていようが、網棚から物が落ちようが、車内の老人にも私はいっさいしゃべりたくなく、ただただ美人はいないか、自分のネクタイが歪んでいないか、だけを気にしていた。」
ところが、桜を植えることは、車掌としての仕事に「ハリ」と「喜び」を与えていった。
何しろソノ「さくら道」をバスが走るからである。
そして次のような心境に変化していく。
「こんなに世の中が楽しくていいだろうか。花のつぼみもふくらみだした。東西南北どちらに行っても、最近は面白い。あんまり楽しいので不気味だ。オレは車掌で死ぬ男。日本一の車掌になってやろう。」
「俺のシャツはだぶだぶだ。このシャツの中から、まだ一着はつくれそうだ。みんなのように、りんりん、つんつんしていない。車掌とは人間が和んでゆく温かいこまかな感情を客にむかって思いださせてくれる人でなくてはならぬ。」
車掌としての佐藤氏は以前とは別人のように客に接するようになり、みんなに愛される「名物車掌」となっていく。
そうして、「バスの雰囲気は車掌できまる」ナンテことまで言ってのけるようになる。
顔をつくり、顔を飾ることで「スター路線」を目指した佐藤氏が、桜でバス路線を飾ることに気落ちを変えることで起きた「心の奇跡」といっていい。

映画「おくりびと」のモデルとなった青木新門氏のエピソードには、「気持ちが問題」ということを強く感じさせる。
昭和のある時期まで、今と違ってホトンドの老人はが「自宅死亡」だった。
自宅で亡くなった方、長く患った方の今まで着ていた着物を脱いで綺麗に拭いて、そして白衣や経帷子をお着せして手を組んで数珠を持たせ、お棺の中に入れるという湯灌・納棺の作業は、北陸では百パーセント「親族」でやっていた。
人間が死ぬと、皮袋に水を入れたようなものである。横にしたり動かすと耳とか鼻とか口とか下の穴から何でも出てくる。
今は9割が病院死亡だから、看護師さんが綺麗に清拭して耳とか鼻とか口の奥へ綿を詰めるセットがある。
そういう処置をして綺麗になった状態で、おまけにドライアイスがあり下が凍って何も出てこないようになっている。
しかし当時まだドライアイスも普及していなかった。
亡くなった人の扱いがヒドイ家で青木氏が「そういうことなさらずに、こういう風にされたらどうですか」と言うと、酔っぱらいが「そんなに詳しいならお前も手伝え」と言われて手伝わされた。
手伝っているうちに誰も居なくなってダァ~と汗をかきながら何とか仕事をしたことがあった。
そうしたらソレを見ていた親族の一人が会社に来て「ご遺体を納棺してくださる人がおられるか」と聞いてきたため、社長から「そこまでやってくれたのか」とエラク褒められて金一封を貰ったこともあった。
そのうち青木氏は他の仕事を全部外され「納棺専従社員」ということになってしまった。
しかしソノ噂は親族に広まっり、こんな狭い所でそんなことやられたら、親族は街も歩けやしないという言い方をされた。
当時の青木氏は、中退、失恋、倒産とヤルことナスこと全部挫折している状態だった。
その結果、青木氏の言葉によると納棺夫にまで「身を落として」しまったのである。
恨みガマシクなって、人の意見を素直に聞けなくなっていた。
百枚ほどヤリトルしていた年賀状もホトンドこなくなっていた。
ショックだったけれども仕事ダケはどんどん増えていき、赤ん坊に飲ますお金がないという「ドライミルク問題」はスッカリ解消していた。
そんなある晩、妻の布団に近づこうとした時「汚らわしい」という言葉を浴びた。
妻も青木氏の仕事の中身を噂で知るようになっていたのである。
妻には、子供がお父さんの職業は何かと聞かれたら困るので、子供が学校に行くまでには辞めてくれと言われた。
それもそうだと思い、作家になる意欲もなくなり、葬儀社を辞めようと思いっていたころ、思わぬ出来事が起こった。
青木氏がアル仕事でアル家の玄関の前まできて、ハットしたことがあった。
そこは東京から富山に戻って最初に付き合っていた「恋人の家」であったのである。
父がうるさいからといって午後十時には、恋人をこの家まで度々送ってきたこともある。
父に会ってくれと何回か誘われたが、結局会うことなく終わってしまった。
ソノ人の父親は中堅どころの会社の社長で、青木氏はコンプレックスでとても会いに行けなかったのである。
彼女は横浜に嫁いだと風のウワサに聞いていた。
青木氏は、その家に意を決して入っていった。
本人が見当たらなかったのでホットして湯灌をはじめた。
もう相当の数をこなし、誰が見てもプロと思うほど手際よくなっていたが、汗だけは変らず、死体に向かって作業をはじめると同時に出てくる。
青木氏が、額の汗が落ちそうになったので、袖で額を拭こうとした時、いつの間にか横に座って額を拭いてくれる「女性」がいた。
澄んだ大きな目一杯に涙を溜めた「カツテの恋人」がソコにいたのである。
作業が終わるまで横に座って、青木氏の顔の汗を拭いていたという。
退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。
その後ろに立ったままの彼女の目が何かいっぱいに語りかけているように思えてならなかった。
青木氏は、彼女のその驚きや涙の奥に「何か」があったのを察した。
しかしそれは、軽蔑や哀れみや同情など微塵もなく、青木氏の「全存在」をアリノママ受け入れられたように思える「何か」であった。
彼女は障子の陰とか、襖の陰から覗くことで済ますことも出来たカモしれないのに、青木氏の横に座って父親の額をなでたり頬をナデたりしながら、時々青木氏の顔を見て汗を拭いてくれたのである。
その目は涙目だったが、青木氏がやっていることも含めて「丸ごと」認めてくれているような感じを受けた。
その時、青木氏はこの仕事をコノママ続けていけそうな気がしたという。
会社のすぐそばに「医療機器店」があったが、青木氏は期するところがあり、医者が着る「白い服」を一式買いこんだ。
他にも往診用の鞄まで買って持ち歩き、納棺の時に「白い服」に着替えた。
どうせやるなら、服装も大事だ、礼儀礼節も大事だ、言葉使いも大事だということでキチッとやるようになったのである。
青木氏はソレマデは黒い服を着て、黒いネクタイをして、ホコリまみれの服を着てイヤイヤやっていた。
あるところへ行ったら、90歳くらいのおばあちゃんが這って近づいてきて「先生様、私が死んだら、来てもらえんかね」と「生前予約」をもらった。
そのうち会社にも、万一のことがあったら、あの「白い服を着た人」に来てもらうにはどうしたらいいかと問いあわせが来るようになった。
イヤイヤ仕事をやっていた頃は、仕事が終わったら「イツまで居るのか、早く帰れ」みたいな扱いだったのが、それをキチッとしてやるだけで「先生様」になるのである。
ところで青木氏の心を変えた「恋人との再会」のエピソードに、韓国出身の歌手BOAの曲「気持ちはつたわる」の中の少々キザな文句を思い出した。
「99粒こぼれた涙、最後の一粒で開くdoor がある」って。