東京リベンジ

わが息子が大学生となって、東京・調布で暮らすことになった。
東京調布は、新宿京王線沿いの街である。
昭和の初期から撮影所や現像所を代表とする多くの映画関連企業が集まった。
日活撮影所、角川大映、 撮影所、石原プロモーション、高津装飾(小道具)があり、「東洋のハリウッド」とも呼ばれている。
「カツドウヤ市長」と呼ばれた本多嘉一郎氏の回想によれば、撮影所がこの地に作られた理由は「時代劇・現代劇どちらの撮影にもふさわしい自然環境やフィルムの現像に欠かせない良質な地下水があった」からだという。
「日本活動写真株式会社」はもともと向島にあって映画配給を行っていたが、関東大震災や戦争で被災し、移転地を探していた。
そして戦後は日活株式会社に社名変更して再開し、1954年3月に調布町下布田に東洋一を誇る「撮影所」を完成させた。
この撮影所を拠点にして、日活は石原裕次郎・小林旭・赤木圭一郎・和田浩治といったビッグ・スターを生んでいる。
そしてこの撮影所には、赤木圭一郎が、撮影の合間にゴーカートを運転していたという有名なエピソードが残っている。
調布は、スターにとっても「青春の街」だった。
当時の撮影所の周りは全くの田んぼで、調布・国領・布田の三つの駅から歩いてくる映画人が多かった。
しかし日活は、石原裕次郎を主役にした「狂った果実」で大当りし、ビッグ・スターが車で撮影所に乗り付けるうちに道がドンドン広がっていった。
ある日突然に、この田舎に「銀座」が出来た。
「銀座」といっても銀座のオープンセットだが、石原裕次郎と浅丘ルリ子共演の「銀座の恋の物語」が、このオープンセットで撮影されている。
さて、調布が「映画の町」であることと「文学者が多い」こととの間に、どれくらい「有意な」関係があるのかは知らないが、次のような作家が住んでいらっしゃる。
安部公房-若葉町/井上光晴-染地/井上荒野-染地 /江國滋-染地/ 江國香織-染地/ 大岡信-深大寺南町 /長部日出雄-下石原 /小橧山博-染地/ 今東光-飛田給 /高浜虚子-上布田 /三浦哲郎-染地 /武者小路実篤-若葉町 / 森敦-布田 /野田宇太郎-深大寺。
というわけで、調布はとても「文学の香り」のする街なのだ。
映画の方は、1953年にテレビ中継がスタートして、全盛期は過ぎ、往年の活況は失われた。
しかし今でも、市民による実行委員会が企画・運営している「調布映画祭」など映画に関連するイベントも数多く開催されている。
そして、大映撮影所の敷地内だった多摩川5丁目児童遊園の一画に立つ「映画俳優之碑」と「調布映画発祥の碑」が、ソノその記憶を留めている。

ところで息子が暮らす街を調布に決めたのは、父親たる自分である。
時々、時間が逆戻りするならば「東京で大学生活をヤリ直したい」と夢想していただけに、息子に「東京でリベンジしてもらおう」という気分になってきた。
リベンジといっても何も「浪速の仇を江戸で討て」というわけではなく、自分の「悔恨」を踏まえて息子には「シッカリ」した学生生活を送ってほしいということである。
この決定につき主に「妻サイド」から、古語で表現すると「あな、横暴かな!」という猛抗議があった。
しかし父親が東京までいってに決めてきたことなのだから、モハヤ後の祭りである。
最近息子のせいで、東京で暮らし始めた日々のことが、ツイ昨日のことのように蘇ってくる。
進学先の大学の「下宿斡旋情報」により、暗闇でコインを探すかのように選んだのが成増という街だった。
というわけで東武東上線の埼玉県との県境に近いコノ街で暮らすことになった。
しかし残りモノには福はなかった。
成増には失礼だが、文化の香りよりも、肥料の香りの印象が強い。
トタン屋根の工場や陽の当らぬ埃っぽいスーパー、崩れかけた映画館などが適当に建ち並んでいる感じの街である。
イツカハこの垢抜けぬ街から引越しをと思いながら、そのフンギリもつかず、ずるずると4年間を過ごしてしまった。
この街の出身である古舘伊知朗にせよ、石橋貴明にせよ、この街についてオクビにも出さない。
ちなみに、シンガー・ソングライターの尾崎豊は、成増の隣町の赤塚という「眠たげ」な町の出身である。
ところが最近、成増が気に入っているという「奇特」な人を見つけた。作家の町田康氏である。
町田氏が成増を気に入ったのは、街がなんのコンセプトもなく、成り行きで出来あがってしまったヨウナ感じがイイのだという。
確かに「なります」という街の名前からしても、そんな雰囲気が漂っている。
成増は都心から遠くて不便であったが、大学院に進学するや、成増への「反動」から新宿区と文京区の境目のあたりの関口という街で暮らした。
都心で便利で閑静をネラッタが、そこが良かったカというとそうともいえない。
この街でハジメテ空気がマズイという体験をした。
高速道路が近く、朝窓をあけると「空気」が異常に重苦しい。成増の空気はトテモ美味しかったことに気がついた。
また水害という都市災害にも見舞われた。
短時間の集中豪雨で神田川がアフレ出し、水没した一階の避難民を二階の我が部屋に泊めて、四人で「体操ずわり」をしてサム~イ夜を過ごしたこともあった。
このような我が「痛恨」をフマエて、息子は少しでも良い環境で学生生活を送ってもらいたいという気持ちで、調布に決めた。
調布は、「時代劇・現代劇どちらの撮影にもふさわしい自然環境やフィルムの現像に欠かせない良質な地下水があった」という映画界のお墨付がある。
自然環境がよく、多摩川の土手はじめ運動が出来そうな空間が多い。
そしてアル程度都会で調布市民センターなど文化拠点もあり、賃貸料や物価がリーゾナブルである。
4年も住めば退屈するかもしれないが、この街はこれからカナリ進化しそうである。
今のところ、街中に退廃的な部分が見当たらないのもイイ。
息子は運動能力は高いとはいえないが、何より「スポーツ観戦」好きである。
大相撲から、フィイギュア・スケートまで、サッカーの試合なら、深夜でも起きて見入っている。
調布には、東京ベルディの本拠地である「味の素スタジアム」があるし、少し足を伸ばせば読売ランドに隣接した巨人軍の二軍練習場もある。
松任谷由実の「中央フリーウエイ」に登場する東京競馬場がある。
ギャンブルは別として競馬場の草のニオイのする雰囲気はとても心地好く、見ためメもなかなか壮観である。

調布は、東京外大、電気通信大学、桐朋学園大学、白百合女子大学などがある文京地域でもあり、さらにはアメリカン・スクールがある。
アメリカン・スクールは海外生活を送った経験のある多くの芸能人(ジュデイオング・南沙織など)が卒業生である。
作家の小島信夫が終戦まもなく、調布に移転する前の学校の様子を、小説「アメリカン・スクール」で描いている。
小島信雄はイツモ「窪んだ鏡」で世の中を見ているようで、ソノ「屈折感」が作品の魅力となっている。
戦争が終わった途端に、アメリカ文化へと「滑稽」とも思えるくらいに迎合するの日本人達がいた。
アメリカン・スクール見学団を構成する英語教師たちは、様々な思いで集合時刻をむかえていた。
見学者の中には、英語どころか日本語さえ発しないと決意している者がいる伊佐という男がいる。
劣等感をもちつつも、自分と国のプライドを賭けた伊佐の精一杯のノーは、小さい子どもでもするような幼稚なノーではある。
伊佐は授業の始まりに、思い切ってグッド・モーニング、エブリボディと生徒に向って言ったことがある。
血がのぼって谷底へ転がり落ちて行くような気がした。
英語教師になって「英語」を話すことを拒否する「裏側」に一体何があるのだろう。
少なくとも、これは単なる、単に英語の技量の問題ではない。
自分より優越する文化に取り込まれてしまうことへの本能的な怯えか。
中途半端な言語で、イッパシの外国人みたいな気になって話すことに対する「羞恥心」か。
それでも、アメリカン・スクールの生徒たちが話す英語が、小川のセセラギのように清く美しく響いてくる。
そんなに美しく響く言語をどうして恐れる必要があろう。
もっと根源的に「自分が自分でなくなる」「違う人間になる」ことへの戸惑いか恐怖か。
伊佐と対照的に、米軍とのあらゆる交渉に興味をもち、「出世の野心」をもつ山田という男が登場する。
、 山田は、迷うことなく通訳からあらゆる米軍との交渉まで興味を持ち、チャンスをつかんでアメリカ留学したいものと願っていた。
彼にとって、このアメリカン・スクールの見学も、自分の英語力を誇示するチャンスなのだ。
山田には、伊佐のいう「畏怖」を理解することはできない。
伊佐と山田の中間に位置するようなミチ子という唯一の女性がいる。
この女性は「切り替え」の器用さがある。
英語は堪能でアメリカンスクール内では運動靴をハイヒールに履き替える。
表面ではソンナ器用さで英語教師をコナスが、心底はアメリカ精神に馴染んでいるわけでもない。
しかし「アメリカン・スクール」の状況は、今と時代背景が違うということも合わせて見る必要がある。
なにしろ英語は、アマリにも明白な「支配者」(占領者)の言語であったのだから。

調布には、飛行場が存在する。
首都防衛のために、1939年に建設されたが、戦争末期にはB29による爆撃を迎え撃つために大奮闘したこともある。
調布飛行場といえば私が大学に入ってまもなく、「児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件」がおきた。
この事件は、1976年3月23日に児玉誉士夫の私邸に小型航空機で突っ込んだテロ事件である。
大物右翼のフィクサーと呼ばれていた児玉(当時65歳)はアメリカ合衆国の航空機メーカーのロッキードの秘密代理人として暗躍しており、全日本空輸にロッキードの旅客機を購入させるために政治工作した。
つまり所謂ロッキード事件の首謀者の一人であった。
突入したのは東京都の調布飛行場を離陸したニ機の内の一機機で、直前まで機長とカメラマンら三人が搭乗したセスナ機と編隊飛行をしており、新宿上空で写真撮影を行っていた。
その撮影を終えた帰途に一機が離反して児玉邸に突入したものであった。
この機体の残骸から操縦士の「前野霜一郎」の芸名で出演していた俳優の前野光保(当時29歳)の遺体が発見された。
彼は児玉に敵対する左翼思想の持ち主ではなく、むしろ右翼の運動家であった。
児玉に心酔しており、また、三島由紀夫にも心酔していたが、そうした中、ロッキード事件に絡んで起訴された児玉に対し、前野は「利権屋」と断じ、「天誅を下すべき」だとの思いから特攻に及んだものであった。
ところで調布飛行場のアスファルトの下には、「新撰組」の近藤勇の自宅跡地がある。
近藤は、武蔵国多摩郡上石原村に生まれで、天然理心流剣術道場・試衛館に入門し、近藤家の養子となり近藤勇を名乗った。
後に「新選組」局長として池田屋事件など主に京都で勇名を馳せ、戊辰戦争のあと江戸に戻った。
その後、鎮撫隊を再編し甲府へ出陣したが、新政府軍に敗れて敗走し、最後は板橋刑場で斬首されている。

調布駅北口を降りて一分で「天神通り」商店街南側入り口の街灯に腰掛けた「鬼太郎」が見下ろしている。
  また、すぐ左側の眼の高さに「目玉おやじ」を手に乗せた「鬼太郎」があり、ここで記念写真を撮る人が多い。
調布市は、「ゲゲゲの鬼太郎」を書いた漫画家の水木しげる氏の居住地なのだ。
そして水木氏は、「この通り」を今でも散歩しているという。
しかし、コノ町が「ゲゲゲの町」として有名になったのは、NHKのドラマ「ゲゲゲの女房」が放映されてからのことである。
このドラマの主題歌「ありがとう」を「いきものがかり」が歌い大ヒットした。
「ゲゲの鬼太郎」物語の根底に流れるテーマは、自然との共生である。
それで「いきものがかり」(生き物係)が主題歌を作ることになったというのは、ウガチすぎか。
水木氏は、小学校の時から2時間目ぐらいに登校するというマイペースぶりだったという。
軍隊にはいってからも、そのマイペース振りは変らず、その大胆な態度から風呂で将校と間違われて古年兵に背中を流してもらったこともある。
軍内での鉄拳で「ビンタの王様」というあだ名サエついていた。
自ら配置転換を申し出たところ「北がいいか、南がいいか」と尋ねられ、国内配置の事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた。
軍から南方のラバウル行きが決定したと告げられて、さすがの水木氏も南方戦線の惨状は知っており、すっかりショゲてしまったという。
ラバウルに着いた時、上陸出来た気の緩みで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らったという。
水木氏の妖怪も自然も、自らの南太平洋の島々を彷徨った戦場体験が大きい。
つまり、水木作品に出てくる妖怪は、この島々の「象形」が生かされており、人や妖怪だけでなく、動物や木々の草花たち地球に存在するすべての生物との共存が表現されている。
水木氏の「南方行き」がなかったならば、「ゲゲゲの鬼太郎」は誕生しなかったかもしれない。
水木しげる氏の夫人・武良布枝さんが、水木氏との「半生」をふりかえりながら綴った本に「ゲゲゲの女房-人生は終わりよければ、すべてよし!」がある。
この本を原案としたNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が2010年3月から放送された。
市内の深大寺など市内でのロケも数回に及んだ。
番組の各回最後には、市民から集めた調布の風景の写真が放映されている。
このことが、「ゲゲゲ」で調布の「町おこし」に繋がっている。
水木氏は、調布に住み始めたころ、近くを散歩するのが楽しみで、新撰組の近藤勇の生誕の地やお墓などとも遭遇した。
そこで 「劇画近藤勇-星をつかみそこねる男」で、ソノ生涯を描いている。
このような功績で、水木氏は「調布市名誉市民」となっておられる。

人間の成長は本人の努力次第なので、親はセイゼイ環境を準備してあげられるくらいである。
しかし自分の経験をいえば、違う街に住むだけでも、「人間の幅」は結構広がる。
東京ナラ歩くだけでも勉強になる。
まずは「日本の心臓部」たる皇居や、霞ヶ関の官庁街や、丸の内のオフィス街をユックリ歩いてみたらいい。
スポーツの全国大会も大学の公開講座も劇場もたくさんある。
東京最後の1年間を高円寺で暮らした頃、杉並図書館に何度か通った。
実はこの図書館がある処は、日本の原水爆禁止運動の「発祥の地」なのであるが、当時は全く知らなかった。
1954年に太平洋上で被爆した第五福竜丸に汚染された魚に不安を抱いた主婦達が、この図書館の場所にあった杉並公民館に集まって勉強会を開いたのが、「原水爆禁止運動」に繋がっていった。
あれから30年以上がたって、その「記念碑」があると知って見に行くと、かつて通った図書館の真ん前に建つこの「石碑」の存在にドウシテ気がつかなかったのだろう。
高円寺に住んでいた時に古本屋に通ったが、古本屋の奥には後の直木賞作家の出久根達郎氏が座っていたハズだし、この古本屋すぐ近くの高円寺北口商店街の乾物屋には、同じく直木賞作家のねじめ正一氏が立っていたハズだ。
気がつかず、見過ごしてきたことはアマリにも多い。
東京で暮らせば、郷里では体験できない「想定外」の出来事やナカナカお目にかかれないタイプの人間にも出会うことだろう。
傷つくかもしれないし、敗れるかもしれない。
しかし、ちゃんとブツかって「東京リベンジ」を果たしてくれ。