木のある生活

最近、或る北欧家具のセンターを訪問した時、北欧の人々が日本人と同じように、木に対する「親和感」があるのを感じた。
単純で純粋なフォルムが尊ばれるところも、北欧と日本で共通した感覚がある。
北欧社会は、森林や湖などがもたらす自然資源により、独自の文化を築いてきた。
木の種類は、欧州赤松、白樺、樫などが多い。
北欧の人々にとって、今でも森と湖が生活を彩っている。 例えば、フィンランド人の生活にサウナは欠かせない。
ほとんどの家に木で作ったサウナがあり、サウナはフィンランド人にとって、「家族団欒」の場であり、リラックスして友と語らう「社交場」ともなる。
サウナの後に、森の湖に飛び込むのもさぞや爽快だろう。
フィンランド人も日本人もトモニ風呂好きである点では共通しているようだ。
映画「テルマエ・ロマエ」であったとうり、古代ローマ人も風呂好きだったようだが、大理石で創ったローマの大浴場では、日本人にはあんまり落ち着かないのではなかろうか。
日本人には、いかにも贅を尽くしたという派手なデザインよりも、どこかホッとさせてくれるデザインの方が合っている。
北欧特有の気候で木は固くシマリ、家具やサウナ製造にとって非常に適した環境となっている。
恵まれた北ヨーロッパの天然木の特性を利用して作られた北欧家具が存在する。
実は、北欧の家具は1950年代の頃からから日本人に好まれてきた。
厳しい自然の中で育まれた北欧家具の大切なコンセプトは、シンプルで機能的であることである。
北欧家具はそのシンプルなデザイン性が、日本の家やインテリアにもなじみやすく、買い足しても、他の家具とのコーディネートがしやすい。
このような背景からも、日本の生活空間と北欧家具の「相性がいい」ことは間違いない。
また最近では「癒し」ブームも手伝って、リビング等のインテリアやソファに北欧の家具が、日本の住環境の中にスガシク溶け込んでいる。
福岡県新宮町にあるスウェーデン家具センター「イケア」に行って、木の端切れで創った「動物雑貨」というものに日本人の感性と似かよったものを感じた。
それらの素朴な可愛らしさは、子供にも大人にも好まれていて、動物をかたどったキッチン雑貨も可愛い物が沢山あるのを知った。
また、この家具センターでは、ちょっとしたスウェーデン料理がレストランで楽しめる。
名物料理らしい肉団子やシュリンプ・サラダ、ミートソースのペンネやシナモンロールなどが棚においてあり、客はソレを皿に乗せてお会計をする。
特別ウマイとは思わなかったが、北欧文化の一端が味わえてよい体験ができた。

1950年代デンマークの一人の主婦がハジメ、スウェーデンからドイツから世界中に広まった「森のようちえん」が日本にも100あまり存在している。
森のようちえんの特徴は、園舎を持たず、毎日森の中で子どもを遊ばせる野外保育のスタイルである。
鳥取県智頭町で、森のようちえん「まるたんぼう」を始めた西村早栄子さんは東京出身だが、夫の仕事の都合で鳥取市に移住した。
そして、智頭町を訪れた際、山の中にある木造小学校に一目惚れし、この学校に子供を通わせたいと思い、智頭町に移り住んだ。
三人の子どもに恵まれた西村さんは、5年前、住民提案により地域課題に取り組む町独自の「智頭町百人委員会」に参加をし、町や県などから財政支援を得て、子育て世代の仲間と「まるたんぼう」を運営している。
雨や雪が降っても、散歩中心に森の中で一日を過ごす。
決まったプログラムはなく、自分たちで遊びを発見していく。
水の中に落ちても大人は助けてくれず、自分ではい上がるしかない。
週1回は、子どもたちだけで昼食を作り、おぼつかない手で包丁を使って野菜を刻み、熱いみそ汁を掬っている。
火も自分たちでおこし、一般的な親の口癖である「危ない」「汚い」「だめ」「早く」は禁句である。
文明の機器に頼り過ぎると、危険に対しても察知する能力を人は失われていく。
そのうち、子どもたちには変化が現れる。
顔つきや体つきが変わり、病気にかかりにくくなり、手先が器用になり、とっさに体がヨク動くようになり、半年で標高1000メートルの登山ができるようになる。
親たちが驚くほど、心の面では、我慢強くなり、自分で考えて行動でき、他者への信頼や仲間への思いやりが生まれる。
豊かなイマジネーションで遊び、「素の個性」が表れ出でて輝き出すのだという。

最近、日本で役人の「居酒屋タクシー」利用問題が持ち上がった。
個人的にはあまりピンとこなかったが、「居酒屋タクシー」批判に応えた、次の外務官僚の言葉をネットで見つけ、つい紹介したくなった。
//私は外務省(大使館関係)勤務職員ですが、毎週、3回~4回帰宅にタクシーを利用します(1回/1万8千円~2万円)。
タクシーは、馴染みの運転手に決めていますが、その理由は雨の日・年末年始・お盆など、どんなに混雑していても電話1本で役所の玄関先まで来てくれます。
またソノ都度、道順を指示しなくてもよく、乗車後は毎回ユックリ居眠りして帰宅できる。
時々「いつも利用してくれるから」と言って缶ビールとつまみをサービスしてくれますので、ありがたく頂いています。 支払いは”公用チケット"で、私が金額を正確に記載して渡します。
逆に私の方から運転手さんに「頂き物の映画チケット」などをプレゼントすることもあります。
義理、人情、持ちつ持たれつの相互扶助精神~これらは日本の貴重な伝統・文化であり、私達が後生に伝えるべき義務、 ヤマト民族の美学でさえあります。
これのどこが悪いのですか?
言うまでもなく我が国は法治国家です。一体、このことが、何という法律に触れる(構成要件)のですか? どんな罰則規定があるというのですか?
単なる羨望や嫉妬で公務員批判をするのは、ひがみ根性というもので醜く下劣で、私から見れば「哀れで滑稽」ですらあります。
私は、これからもずーっと居酒屋タクシーを利用し続けますし同僚や後輩にも正々堂々と利用するよう積極的に推奨し、 胸を張ってこのやり方を職場全体に広めていくつもりです。
最後に、誤解を招かぬよう利用状況を説明しておきます。
第一に、サービスを受けるのは、缶ビールとつまみだけで、 現金や金券などは一切受け取らない。
第二に、この運転手に対して私から業務上の便宜を図ることはしない 便宜を図ろうにも図りようがないですが(笑)ね。//
確かに、この外務官僚、何一つ法に触れることもしてないし、義理人情に堅い「大和心」をもった方だと察しまする。
また、終電がなくなるまで仕事に精励しておられるのかのと、その使命感のツヨサにも感心する。
また、タクシー代1回二万円を何とも思わぬくらいの実(ジツ)ある仕事しておられるのでしょう。
この外務官僚が教えてくれた運転手と官僚との「義理人情」の世界に、ツイ阿久悠作詞の男女の機微を描いたデュエット・ソングの名曲「居酒屋」を思い出し、「替え歌」にしたくなりました。

♪♪(運転手)もしもきらいでなかったら、何か一杯いかかです?
(官僚)そうか、アサヒのドラフト、遠慮しないでいただくよ。
(運転手)役得きくほど野暮じゃない まして儲け話など~~。
(官僚)そうさ、たまたまタクシーで、後ろに座っただけだもん。
(官僚)外へ出たなら 雨だろう さっき 小雨がパラついた。
(運転手)いいです、やむむまで此処にいて~~。
(官僚)一人グイグイのんでるよ。
(運転手)それじゃ朝までやるつもり? 悪いお客と知り合った~。
(官僚)別に気にすることはない あんた、さっさとツマミくれ。
(運転手/官僚)絵もない 花もない 歌もない 飾る言葉も~ 洒落もない、 そんな居酒屋タクシーで~~♪♪

スウェーデンと日本との大きな違いは、「政府の信頼度」なのだが、その信頼度の根拠としては、北欧社会一般に見られる政府や行政の「透明性の高さ」ということがいえる。
スウェーデンでは、議員に対して交通費、通信費、交際費などなど「丸投げ」というようなカネの使わせ方をサセテいない。
国会議員が使った「タクシーの領収書」一枚でもすべてがファイルにしてあり、それを国民はいつでも「閲覧」できるようになっている。
居酒屋タクシーもなければ、身内が議員パスで都合よく旅行したりできない「透明感」があるのだ。
政治家が一般人と「違う行動」をすれば、それだけ次期選挙での当選可能性は低くナルと思ってよい。
国会議員の給与は900万円で、日本の議員の2分の1である。運転手ツキ公用車はなく、秘書などスタッフも少ない。
一流ホテルのような議員宿舎なんかなく、国会の中に簡易な議員宿舎がある。
320人の議員のうちの半分ぐらいは、そこで寝泊りできるそうだ。
ところで、ここ10年ほど日本では「小さな政府」が志向されてきた。公共部門が大きくなると効率性に欠けるという前提があるからである。
しかし、「大きな政府」は社会的効率が悪いというのは、スウェ-デンではあてはまらないカモしれない。
国際競争力でスウェーデンは日本を上回っているし、一人あたりの国民所得はスエーデンが7位で日本19位を上回っているし、生活満足度は9位で、日本21位をうわまわっている。
一般に「大きな政府」をつくり、法人税を高くすると企業が外国に逃げるとか、所得税が高いと優秀な人材がいなくなるなどのマイナス効果もある。
ところが、現代のように「高付加価値産業」が主流となると、たとえ税金が高くても、「高い教育」を受けた人間がたくさんいるとか、犯罪の少ない安全な場所に、企業は拠点を築こうとする。
その点で、低賃金・低コストを求めて工場を移転させる最近のグローバル化とは「違う流れ」が起きているといえる。
となると「高い教育」こそは人々をひきつけるものであり、スウェーデンのような税金が高い国でも、ボルボという自動車会社やエリクソンやノキアなどの「高付加価値」メーカーが存立している所以である。
スウェーデンには、例えば良質な鉄鋼石があるし、森林資源もある。
しかし、長期的に頼みとなる資源は人間であるという意識が強く、スウェーデンは、労働、社会保障、教育を礎石とする福祉国家建設に着手した。
「人間の能力」と「人々の繋がり」が社会的インフラになっていくので、教育コソは最重要な「経済政策」でもある。
福祉・医療・教育にしっかりとセ-フティネットがはられ「安心」が提供される。
ソレは失敗をおそれずチャレンジできる環境ともなっている。
例えば、失業者に単に失業給付金をマルマル与えるのではなく、働きうる能力を育てるサービス(リカレント教育など)を提供すれば、仕事の範囲を広げられるし、働くことに新しい喜びを発見できる可能性もある。
スウェ-デン社会では、社会福祉の充実が新たな雇用を生むという形でプログラムされている。
また、スウェーデン社会の大きな特徴は、「女性の労働力」に期待する度合いが高い。
裏を返せば、女性にも税金を払ってもらわなければならないということでもある。
したがって女性が働くことへのハンディを徹底して取り除いている。
両親あわせて最長16ヶ月の育児休暇が認められ、13ヶ月は賃金の8割支払われる。
また、病休で休んでも給料の80%の手当てで支払われる。
550日までは75%の手当てが支払われるから、大病を患ってもそう大きな負担とはならない。
そうした財源は、基本的には企業が負担する。
エリクソン社では、社員に支払う給与の33%を社会保障税として支払っているのである。
スウェーデンは、皆で高い税金を払って「安心」を買っている社会といえる。
安心は公共財によって提供されるものが多く、個人消費よりも「共同消費」の方が効率がよい。
つまり国に財布を預けたほうが低いコストで高いサ-ビスがえられるというわけである。
そのせいか、スウェーデンと日本には際立った特徴があらわれる。
日本は世界でダントツに貯蓄をする国で、スウェーデンはダントツ「貯蓄をしない国」である。
逆にいえばスウェ-デンは将来の不安に備えて貯金する必要がない社会だともいえる。
スウェーデンの「雇用大臣」によると、国の政治責任は「全ての人が「働いて」いなければならない」ということである。
裏をかえせば全ての人が税金を払ってもらわなければならないということでもある。
旧約聖書には、荒野で放浪するイスラエルを養った「マナ」という不思議な食べ物の話が登場する(出エジプト16章)。
イスラエルの民は、日々ふってくるマナで荒野の生活をしていくわけだが、逆にいえばマナは日々に消費されてなくなってしまうという食べ物である。
誰だって明日マナは降ってくるのか死ぬほど不安になる。もし明日以降マナが途絶えれば死ぬしかない。
不安になった者達が明日の為にマナを貯めようとしたところ、翌日フタをあけたらすべて腐ってしまっていたという。
つまり日々に「明日のマナ」を信じて生きて行く他はなくなったのである。
イスラエルの場合は、神への信仰を鍛えるためソウしたが、もしも何も貯める必要もなく不慮の出来事が起きても「明日のマナ」を信じられる社会ということがいえる。
「スウェ-デン型」社会とは、共生の思想・女性が仕事ができる環境、福祉が雇用に結びつくプログラム、それらを裏打ちする政府の「透明性」である。
日本では女性の職場進出にともない保育所にはいれない「待機児童」の問題が大問題となているが、スウェーデンでは、社会にある様々なバリアを取り除いて自律を保障し、一方で人々に「安心」を与える共生がうまくカミ合っている。
何があっても、何らかの形で助けてくれるという、安心がある。
つまり「共生の思想」が行き渡っているのである。
そういう意識の為に全国に雇用が広くいきわたり、森と湖のスウェーデンには「限界集落」というものがないそうだ。
スウェーデンでは、少なくとも「高福祉」がかつての「イギリス病」のように働かずに食って暮らそうとはナラナイ高質の「共生」意識が育っているようである。

北欧で「共生の思想」がここまで育った背景に、森の生活や木々に対する意識と深い関係があるように思える。
最近、テレビで「樹木葬」というのがハヤッテいると聞いた。森があって、若い木々の根の先にパイプをいれてそこに「遺骨」を入れるという方式である。
頑丈な墓石に名前を刻むのではなく、自分の命の「残滓」が木々の命となって生き延びるという感覚が残る。
そして木が育っていくことが、亡くなった人がソノ命をドコカで保っているようで、人の心に「安らぎ」を与えるものである。
また見ず知らずの人であっても、同じ木の下に眠ってしまえば、何人かが「一つの木」を育てることになる。
木を基に据えた「共同墓地方式」というのも悪くない。自分の命が木というカタチを通じて、イロンナものと 繋がってると感覚をも抱かせる。
「樹木葬の発祥」についてはよくわからないが、スウェーデンでは遺体を凍結乾燥させて粉砕、肥料にして大地に還そうという究極の「エコ葬儀」が始まっている。
結局「エコな生き方」とは、本来エコロジーに適うということだから、単に環境に優しいというダケではなく、様々な命と「繋がって」生きるということならば、この「樹木葬」は、本来の意味でエコロジカルな「埋葬法」ではなかろうか。
作家の大江健三郎は四国の山林に育ったが、森の斜面に住んでいたせいか、木の根元が家の上にあった。
祖母から人間にはそれぞれ「自分の木」があってその木の根元から魂が発して宿り、死んだらその木の根元に魂が環るという話を聞いて育った。
そしてその木々は、魂がまた別の肉体に「新しい人」になっていく。
そして、自分達の生活がマルデその木の根っこから「命」をウケながら生きているように思えたという。
この風景は、作家的イマジネーションの源泉であったにちがいなく、大江氏は木を「メタファー」として多 くの作品を書いている。
日本人は自然にインスピレーションを得た工芸品が多い。特に日本人は一切クギを使用することなく、木々を接合して木工品作りをするワザがある。
それは、木という「素材」に対する特別な感性があるからだろう。
以前、こういう日本人の感性を「木のみ木のまま文化」と表現したことがある。
木ノミを使って、木という素材をそのママ生かす文化という意味である。
木々が失われていく、または木々から離れていくことは、日本社会にとって想像以上に大きな意味をもっているのではなかろうか。