数字の政治力

4月24に全国の小学6年生と中学3年生を対象全国一斉学力テストが行われた。
全国一斉は、2007年に66億円にのぼる税金を使って、2百万人以上にテストを受けさせて以来である。
「ゆとり教育」による学力低下を心配する声に押されて始まった「全国学力テスト」であり、学力の変化を正確に知ることは、「教育政策上」も大変重要なことだと思う。
ソノ点「理科」が加わったことは大きな意味があると思う。
しかし安部首相のいうよに、学力の客観的な把握ダケならば、イクツカの学校を抽出してサンプリングすれば、予算も少なく学力の「真の価」に一定の「信頼度」幅で近似できることは統計学の教えることである。
「全国一斉テスト」は、毎年やるのだとしたら、ベネフィットに対してそれだけのコストをかける意味があるのだろうか。
むしろ学校間競争をイタズラに刺激したり、将来の「バウチャー制」への「お膳立て」かと思ったりする。
「学校バウチャー制」は、学校の学力に応じて教育予算を配分することで、サッチャー首相が導入したものである。
そして「全国一斉テスト」から得られる「データ」は、当初の意図とは異なる「学校序列化」などといった望ましくない方向に向かう可能性もある。
つまり、数字は一人歩きする面がある一方で、賢く使えば大きな「政治力」を発揮することも確かである。
歴史上、「賢く」数字を使って「お上」を動かしたり、逆に「お上」が数字を巧みに使って国民を動かしたりする場面を紹介したい。

ナイチンゲールは英国上流家庭の娘として生まれ、親たちも上流社会での彼女の幸せを夢見ていた。
当時、良家の子女が職業婦人になるには多くの困難があった。
それでも、「神の声」を聞いたというナイチンゲールは「看護婦」になる決意をした。
1854年ロンドンタイムスの特派員が、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが悲惨な状況であることを伝えられた。
事態を重くみたシドニー・ハーバード戦時大臣はナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。
ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固めシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて病院のあるスクタリに向かった。
彼女がはじめたのは、部署の管轄にもなっていない便所掃除であった。
そして、兵舎病院での死者の大多数が傷ではなく、病院内の不衛生や感染症によるものと「推測」した。
また官僚的な「縦割り行政」の弊害から必要な物資が供給されていなかいことを指摘し、病院内の様々な「政治的」闘争にサラサレながらも「自分の見解」を提起した。
その「自分の見解」の根拠として、客観的な数字をアゲタことである。
戦争に従軍した兵士の死因を集計した結果、戦闘で追った傷自体で亡くなった兵士よりも、負傷後にナンラかの菌に感染したせいで死亡する兵士の方が圧倒的に多いことを明らかにしたことだろう。
彼女はこのデータをもとに「戦争で兵士ひいては国民の命を失いたくなければ、清潔な病院を戦場に用意しろ」と軍のお偉方や政治家に迫ったのである。
そして彼女は「ランプを持った天使」の名声を得たのだが、戦争終結後ナイチンゲールは自身がトマドウほど「国民的英雄」として祭り上げられていることを知った。
彼女はこのことを快くは思わず、「スミス」という偽名を使用して人知れず帰国したほどである。
その時37歳、彼女はその後虚脱状態に陥り10年もの間病床で生活をしている。
まるで何かの罪の意識にサイナマレているように。

日本人にとって、二宮金次郎は背に薪、手には書物の銅像のイメージと結びついている。
しかしそのイメージとは少し違う、巧みな「数字」の使い手であったことはアマリしられていない。
二宮尊徳は「報徳仕法」という言葉と結びつけて知られた人物である。
仕法は大雑把にいうと「プロジェクト」で、仕法の実体は、一時期ハヤッタ「仕分」と重なる。
二宮金次郎の説く「仕法」が幕末にあって、どうして力を持ちえたのだろうか。
「報徳仕法」にシバシバ登場する言葉が「分度」である。
「分度」とは、天から与えられた能力を知りソレに応じた生活の限度を定めるという意味であり、分度を知ることとは、己の生活内容の自覚的な「仕分」から始まる。
江戸時代末期多くの農村が疲弊し荒廃していた。
飢饉が続いたということもあるが、働いても年貢で搾りとられるばかで、明日も見出せない人々は飲酒や賭博にあけくれていた。
精神的な荒廃も目に余るものがあり、外国船の出現など対外的な「危機」もセマル一方で、幕府や藩も改革の成果がみられず「閉塞感」がアフレていた。
二宮は実践・現場のなかから知恵をシボリだした行動の人であり、二宮が最も嫌っていたのが学者と坊主であった。
二宮は180センチもある大男で杖で土を検分し、家を穴からのぞいてその生活をまで戒める二宮に対して、その厳しさを煙たがり反発する人も多くいた。
そんな折、二宮は突如姿を消し機をみて成田山新勝寺にこもり断食をしているという噂を流して、少しずつ村民の心を掴んでいく「心理作戦」さえ行ったのである。
二宮はけして支配階級に対してアカラさまに「反抗」したわけではないが、仕法の実施にあたって支配者側に厳しい「分度」を求めている。
支配階級の念頭にあるのは、領民からどれだけ「搾り取られるか」とうことである。
その中に、生産意欲を向上させる方策は、ほとんどとられていなかった。
困ったら困ったで借金を重ねて自らの消費生活を切り詰めようとはしない。
いかに頑張っても税金(年貢)をとられてヤケになっている農民の心の内側を変えることは荒地を耕すよりも困難だったにちがいない。
彼が考えだした「貧困脱出法」とは、金を借りて困っている百姓達に低利で金を貸すのだが、その「貸し方」はフルッテした。
選挙みたいに誰が一番困っていて、シカモ真面目に働いているかを投票させ金を貸す。
ここに農民が頑張るインセンティブが起きる。
この「選挙」で票をいれた人はイワバ「保証人」として、本人から取られナイ場合はその「保証人」からとるという判を押させる。
この時、無利息で貸すので二宮の方では金が無くなる可能性もある。
そのために「元恕金」といって3回月賦で貸すと、貧困で苦しんでいた人々がオカゲで助かりましたと4回分も返すことなどもあって資金はなくならなかったのだ。
結局は、相当「高い利息」を払っているのだが、強制されたわけでもなく、いままで高利貸しから苦しめられた分、解放された気持ちからそれも感謝の思いでそれを支払ったという。
二宮はその「元恕金」を資金にまわして回転させていく。
また二宮は、本来農地ではないところに種をまいて或る種「避税」のようなこともしている。
子供のころから、自分達の畑や田んぼに植えると税金をとられるのに、川のそばの荒地ならば、税金をとられないことを知っていた。
幕末、小田原藩ばかりではなく、全国で日本の近未来を思わせる事態が進行しつつあった。
小田原藩家老の負債整理に力を発揮した二宮金次郎に注目し彼の力を借りて関東一円の農村復興にあたろうとして、栃木県の小田原藩支領・桜町領の再興に手腕を発揮したのである。
以後、彼は二宮金次郎から二宮尊徳となった。
幕府や藩の命令(依頼)に対して、尊徳の受け方が面白い。
「数字」を根拠に出来ること出来ないことをはっきりと仕分ける。
そして藩主が自ら「一汁一菜」を守らないらば、あるいは年貢の「ある水準」までの減免を認めないならば農村復興にあたることは出来ないと、客観的な「数字」をハジキ出していることである。
そして実際に藩主より、「年貢減免」を勝ち取る。
ではこの当時の農民が「一揆」をしたところで、年貢半減を勝ち取ることができたであろうか。
二宮の残した書類はすべてが国会図書館に保存されておりその数は一万卷にもおよぶ。
そのほとんどが、多くの数字と計算が記されていることも注目に価する。
つまり、現状が将来何をもたらすかを明らかにし、具体的な数字でいま現状で出来うることを明確にし、それが達成できた暁に見える「ビジョン」を提示したということだろう。
ところで、個人的な感想だが、かつてJ・F・ケネディが尊敬する人物は誰ですかと聞かれた時、幕末の藩政改革を行った「上杉鷹山」の名前をあげた。
ケネデイはどうして「上杉鷹山」の名前を知っていたのか不思議だが、一つの推測は内村鑑三の書いた「代表的日本人」が英訳され、その中に「上杉鷹山」が紹介されていた。
実はこの「代表的日本人」には、二宮金次郎も紹介されている。
つまり「報徳仕法」は英訳されて世界で知られていたのである。
ところで2006年にノーベル平和賞をとったインドのグラミン銀行が、貧困者を救う「ソーシアル・ビジネス」を提唱したのだが、そのアイデアの中に「報徳仕法」と非常に似かよったものを見出すのだが。

経済学の分野で「フィップス曲線」という失業とインフレ率のトレード・オフの関係(背反関係)を示したグラフがある。
「ケインジアン対マネタリスト」論争盛んなりし1980年代に、最も頻繁に論文に引用されたグラフではなかろうか。
この「フィリップス曲線」を世に示したウィリアム・フィリップスは、「インフレ率をあげれば失業率が下がる、インフレ率を下げれば失業率が上がると」いう「トレード・オフ」の関係をイギリス経済の歴史から調べ上げ、プロットしていった。
ところでフィリップスは、「インディー・ジョーンズ」バリの冒険的な経歴をもっている。
ニュージーランドの酪農家の息子で、オーストラリアで仕事をするために、学校を卒業する前にニュージーランドを離れ、ワニのハンターや映画館のマネージャーなど、様々な仕事をしていた。
戦争中にフィリップスは中国にいたが、日本が中国に侵攻してきた時、シベリア横断鉄道でロシアを横切り、イギリスへ着くとそこで「電気工学」を学んだ。
フィリップスは英国空軍に入隊し、シンガポールへ配属されシンガポールが日本軍によって陥落した時に、彼はジャワ島へむかった。
その途中で日本軍に捕らえられ、インドネシアの収容所で3年半あまり捕虜として抑留された。
この間、彼は他の捕虜から中国語を学び、秘密ラジオを修理・小型化したり、またお茶の「秘密湯沸し器」を作り、収容所の照明装置に吊るしたりし。
戦後、彼はロンドンへ移り、「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」で当初社会学を学ぶが、ケインズ理論に興味を覚えて「経済学」に転向した。
そして、フィリップスが学生だった頃に、イギリス経済の動きをモデル化するために、水力を用いたアナログコンピュータを開発した。
これは「貨幣的国民所得自動計算機」(Monetary National Income Automatic Computer)省略して「MONIAC」と呼ばれたが、それはタンクとパイプを通る水の流れで正確に経済を巡る貨幣の流れをモデル化したものだった。
税率や利子率といった経済変数の捕らえ難い相互作用をモデル化する「MONIAC」は、当時の経済学徒に概ね好意的に受け入れられた。
波乱の人生こそが生んだ「MONIAC」であったといえる。
経済学よりも、「MONIAC」づくりに没入した感のあるフィリプス氏だが、「フィリップス曲線」は、その「視点の良さ」で多くの論文に引用されたばかりではなく、今日の数値誘導型の「金融緩和政策」への「タタキ台」を提供することになろうとは。
マネタリストの泰斗・フリードマンがこのフィリップス曲線が、「期待物価上昇率」によってシフトすること示し、政府がどのような金融政策をとろうと、人々その結果を「正しく」期待すれば失業率を下げることはできないと「ケインズ理論」を批判したからである。
フリードマンは、フィリップス曲線を使って長期的には失業率は構造的要因によってきまる「自然失業率」以下にはナラナイということを示したのである。
それは、経済学理論に「明示的」に「期待○○率」が取り入れた先蹤であったと同時に、それではいっそマネー供給を「Kパーセント成長」で行くとすれば安定的であるという、それまでにない「政策的提言」を生むことになったのである。
フリードマン教授の「Kパーセント」ルールの政策含意は、クルーグマン教授によって修正応用され、今日の日本銀行の「2017年までに物価上昇2パーセント」実現という「数値誘導型」の政策に繋がったのである。
この政策は、本当に物価上昇が実現するかよりも、とにかく「2パーセント期待」をもって人々が「今でしょ」と行動することが、「デフレ脱出」には肝要なことを示している。
さて今日の「日銀の金融緩和政策」に対する批判や疑念は、1960年代初頭、日本経済が高度成長に入る段階の池田勇人首相の「所得倍増計画」を思い起こさせる。
「10年で皆さんの月給を2倍にする」と具体的な数字をうちだした。
そしてイツモ「私は嘘は申しません」と付け加えたのだが、「10年で給料2倍」の言葉は、野党の社会党やエコノミストから、様々な批判を浴びた。
政府が過剰に財政投融資をすれば、財源が不足し経済バランスが崩れ、さらには資材や原料、技術革新のための機械類の輸入によって国際収支の破局を招く。
また大企業のみが恩恵に浴し、中小などの下請けは、大企業の犠牲になって、ますます二重構造が進み「賃金格差」が広がるなどの批判が持ち上がっていた。
しかし日本は、アメリカにとっての「極東の工場」として東南アジアの市場を確保し、さらにアメリカ産業の「下請的」役割を果たしつつ地力をつけていった。
政府は「輸入割当制」など数々の保護政策を打ち出した。
電力・鉄鋼などの基幹産業を保護し、加速度償却など税制面での「企業優遇政策」を行った。
その一方、国内購買力の向上も、日本経済の発展の大きな要因となった。
1955年から総評は「春闘」を運動方針の機軸としたのもこの頃である。
「春闘」とは、前年度もっとも高い収益をあげた業種(鉄鋼や電気など)に対して、大幅な賃金アップの要求を出し、その賃金闘争に総評が組織をあげて取り組み、賃金アップを勝ち取ると、それを「賃金相場」にして各企業交渉を行うというものであった。
これによって、企業の設備投資資金などプールしていた資本が労働者の賃金にも還流していった。
こうした「所得配分機能」の安定は、終身雇用制の定着とともに労働者の購買力を刺激することになったのである。
高度経済成長は現実に10年で「2倍以上」の給料増をもたらし、多くの国民の生活を「底上げ」していった。
人々が豊かになれば、誰も文句はいわなくなる。
革新的なことを言っていた人々も、自分の生活をできるだけ守ろうと「保守的」にサエなる。
「10年で給料2倍」は、人々のホンネの部分に強く働きかけ、人々をケンインする大きな「政治力」を発揮したといえる。
ココから、階級闘争(労使対決)が激化する戦後日本で、「政治の季節」が去り、「経済の時代」に突入したといえまいか。
少なくとも民間においては、労使は「一体化」していく。
「10年で給料2倍」は、人々の目を政治から逸らさせるに、なかなかのスローガンであったともいえよう。