棋勝院法重信士

最近では、現役プロ棋士(人間)とコンピュータソフト(機械)が対戦する将棋の「電王戦」で人間側の負けというニュースをよく見かける。
将棋のプロ棋士5人が5種類のコンピューターソフトと対戦する団体戦「第2回将棋電王戦」が最近、東京・千駄ケ谷の将棋会館で行われ、102手で先手の三浦弘行八段(39)が将棋ソフト「GPS将棋」に敗れた。
三浦八段は、平成8年7月に、当時の羽生善治7冠(42)から棋聖を奪い、全7冠の一角を崩したことでも知られる。
トップレベルの現役棋士がコンピューターに敗れたのは初めてという。
団体戦もプロ側が1勝3敗1分けで負け越した。
一方の「GPS将棋」は、東大大学院総合文化研究科の教員・学生が中心となって開発したソフトで、昨年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝した実績がある。
今回は東大教養学部の約690台のコンピューターと結んで、1秒間に2億5000万手と読みのスピードを上げて臨んだ。
ところで、一昨年のコンピューターソフトとの戦いで、元名人の米長邦雄氏と人工知脳「ボンクラーズ」との戦いは興味深いものがあった。
米長邦雄氏は、「定石」にないサシテで人工知脳「ボンクラーズ」をかく乱する作戦にでた。
するとボンクラーズは、同じマスメを右と左に駒を往復させるノミ、将棋名人の「かく乱」作戦は効を奏したかに見えた。
しかし、将棋名人が何手か駒を進めた頃合を見計らうように、ボンクラーズも駒を動かし始めたのだ。
つまりボンクラーズは、「かく乱」されたというよりも、将棋名人の「出方」を待っていたのだ。
そしてこの「膠着状態」を抜け出るや、徐々にボンクラーズが劣勢を挽回し、133手目にして将棋名人を負かした。
米長元名人は対戦後、「相手がミスするのを待つ、まるで棋聖・大山名人と戦っているような感じだった」と語っている。
ところでチェスには一手あたり平均35通りの「次の手」の可能性があり、一つの対戦では40手ぐらいだから、35の40乗、すなわち10の62乗となる。
一局面の評価に1000分の1秒かかるとすると、全数探索には10の54乗「年」ほどかかるという。
将棋は「81マスの宇宙」と呼ばれるほど複雑だから、コンナモノではすまない。
つまり人工知能がシラミツブシの探索で、「将棋名人」に勝とうとしても無理な話である。
では将棋名人に勝った「ボンクラーズ」とは、どんな「設計」がなされているのだろうか。
将棋名人の場合は、過去の経験から現在の盤面の何手か先にある「陣形」をイメージすることができ、そこへの道筋を容易に「逆算」していると考えられる。
単なる「計算能力」と「知性」の違いである。
これこそが「大局観」だが、こうした人間の「思考方法」が、米長名人と対戦した「ボンクラーズ」に取り入れられたのだ。
「ボンクラーズ」には、江戸時代から現在までのプロ棋士の五万局の対局のデータが入力されていたという。
記憶するだけでなく、プロ棋士がどんな時に有利になるかを分析し、優れた指し方の「原則」を見つけ、「未知の局面」でも自分で応用ができる能力や「取捨選択」の技術を身につけていたというのだ。
「ボンクラーズ」の名前では申し訳ないような「経験知」に裏打ちされた知性派ロボット誕生の日は、そう遠くない気がした。
そんな思いを持っていた頃、週刊誌で「大崎善生」という名前をみつけた。
大崎氏は大崎氏は「将棋世界」の元編集長で現在は作家である。
船江恒平五段とコンピュータソフト「ツツカナ」の対局を題材に見事に描き出していた。
そもそも、記憶力や計算力などヒトがコンピュータに遠く及ばないのは当然で、チェスの世界では1997年に世界チャンピオンがIBMコンピュータに負けている。
だが、将棋はなかなかそうはいかなかった。取った駒を再び使える複雑さがコンピュータにはネックになる。
1秒に数億手も読む演算力があっても、数値化が難しい形勢判断では人間力の方が上だといわれていたからだ。
ところが、観戦しているプロ棋士の誰もが「船江優勢」と判断する局面を、コンピュータの各有名ソフトは「船江劣勢」と見ていたという。
大崎氏は「もしこのコンピュータの判断が正しいのだとすれば、長い年月をかけて人間が築きあげてきた、定跡や常識や形勢判断といったものが、ただの経験的な先入観に過ぎなかったということになってしまいかねない」と書いた。
しかし、結果はコンピュータに軍配が上がる。
コンピュータは「感情」にいっさい左右されることなく、黙々と演算をこなしていく。
大崎氏にとって最大の関心事は、そんなコンピュータが強いのが解ったとして、果たしてそれを見ている人間側がソノこまの動きに、心を動かされるかということだった。
「コンピュータの指し手によって心を動かされるのだとすれば、それは単なる演算ではなく、”芸術”の域に達しているといっていいのではないか」ということだ。
数学で問題を解くときに、解けたか解けないだけではなく、解き方の「美しさ」にセンスが問われるのと同じである。
そして、実際、大崎さんはツツカナの一手一手に大きく心を動かされたと告白している。
大崎氏は「ツツカナという人工知能は人間の心を動かしただけではない。自ら疑問手を指すことにより、絶対的な演算から解放され、揺らめきさえ見せたのだ」と書いている。

コンピュータの淡々とした「指し手」に対して、人間の「指し手」には、人生が煮詰まっている。
そのことを誰よりも教えてくれた作家の大崎善生は、日本将棋連盟に職をもち雑誌「将棋世界」の編集長を勤めた経歴をもつ。
「パイロット・フィッシュ」という鮮やかな青春恋愛小説を世に送り出した作家でもある。
「パイロットフィッシュ」以前には、「聖の青春」や「将棋の子」など、才能ゆえに「戦う」ことを余儀なくされたた天才少年達を描いてきた。
「戦い」とは、将棋という世界で年少の子供達が繰り広げる「生き残り」の戦いのことである。
わずか一手の「違い」よる夢の途絶など、小さな胸に抱いた苦悶や苦闘は、本人と身近な者でしか知りえないことである。
大崎氏のデビュー作「聖の青春」は悲運の天才棋士・村山聖(さとし)の勝負に「賭ける」壮絶な人生を描いている。
聖少年は5歳の時にネフローゼという腎臓の難病にかかり、ソノ病の中6歳の時に将棋に出会う。
めきめき頭角をあらわし、中国地方の子供名人戦で5年連続優勝を果たした。
中学1年で上京してたまたま勝負した伝説の棋士を破り、プロ棋士を目指すことにした。
1983年、「奨励会」入会後に、異例のスピードで四段に昇進し、1986年、17才の時プロ棋士となった。
師匠にあたる森信雄は、病身ながら単身で暮らす村山を親身に支えた。
村山は生来負けず嫌いで、ライバル棋士たちに対しては「盤外」でも敵意剥き出しのところがあり、「奨励会」入会の際にトラブルを起こして、一度入会を見送られている。
村山は「怪童丸」の異称で呼ばれ、奨励会・会員時代から「東の羽生、西の村山」と並び称された。
しかし持病からくる体調不良で実力を発揮できない事が多く、実績では羽生に遅れを取ることとなった。
1992年に「王将」位への挑戦者となるも、谷川浩司王将に敗れている。
その後、病と闘いながらもA級八段まで昇りつめたが、血尿に悩まされながらの順位戦で、1997年春B級1組に「降級」している。
その後、進行性ガンが見つかり膀胱を全摘出する大手術を受けるが、休場することなく棋戦を戦い続けた。
その間、脳に悪影響がでないように、抗がん剤・放射線治療を拒んでいた。
1998年春 A級復帰を決めたが、ガンの再発・転移が見つかって休養を発表し、3月の最後の対局を5戦全勝で終えて、対局から姿を消した。
1998年8月8日、入院先の故郷・広島の病院で29歳にて他界している。
葬儀終了後、その死が将棋界に伝えられ大きな衝撃を与えた。
日本将棋連盟はその功績を讃えて九段を追贈している。
「聖の青春」を書いた作家・大崎氏の妻・高橋和(やまと)さんも「病と闘った」人である。
4歳の時に交通事故に遭い、左足の切断も考えざるを得ないほどの重傷を負った。
父親は娘に生きる術を与えんと7歳の時に「将棋」を教えた。
14歳でプロ・デビューし、優勝などの戦績はないが、事務所所属のタレントとしてテレビへの出演などを通して、「女流棋士」のアピールに一役買った。
プロ棋士としての戦績よりも、子供達への普及活動にに専念するため、2005年2月、現役を引退している。
大崎氏は、妻である高橋和と難病に苦しむ少年との交流を描いた「優しい子」を書いている。

「プロ棋士」になれなかった一人の男の話を紹介したい。
この人物は、「真剣師」とか「新宿の殺し屋」と呼ばれた伝説の棋士・小池重明である。
小池は、1947年愛知県名古屋市に生まれた。
父親は健常者でありながら傷痍軍人を装い物乞いをしては博打に明け暮れる不定職者であった。
小池は小学生の頃、父親から「男なら博打の一つも憶えておけ」と言われて、将棋を教わり熱中するようになった。
やがて、小池はメキメキ将棋の腕を上げ、その強さは10代半ばにして地元では「敵なし」となった。
各地を転々としながら「賭け将棋」で腕を磨き「アマチュア日本一」にもなった。
新宿の「将棋道場」に籍を置いた小池は賭け将棋で連戦連勝、間もなくして「新宿の殺し屋」の異名を持つ凄腕の真剣師として恐れられた。
真剣つまり「賭け将棋」をすると勝ち目がないので、誰も小池と勝負したがらなくなった。
プロ棋士を相手にも次々と勝ち星を重ね、「プロ殺し」の異名をとった。
雑誌の企画での大山康晴名人との対局(角落ち戦)にも勝利した。この戦いには小池らしいエピソードが残っている。
プロ名人の大山康晴との対局の前夜、泥酔して暴行事件をおこし、留置所に監禁されてしまう。
知り合いの都議に連絡をとって出所し、対局に間に合わせることができた。
将棋自体は「角落ち」ながら、中盤から小池が圧倒し、短時間で勝利した。
あまりの大差に周囲が顔色を失うほどであったという。
この事がきっかけとなり、アマチュアからプロへの編入の話が持ち上がるなど将棋界に旋風を巻き起こした。
しかし脚光を浴びたが故に、カエッテ将棋道場の金を着服するなどの問題行動や女性関係のトラブルなどが露呈してしまい「プロ編入」の話は日本将棋連盟により却下された。
小池はコレに大きなショックを受け、しばらくの間将棋界から身を退き、肉体労働などで生計を立てていた。
とはいっても、小池は普段の生活の中でも将棋の研究などは一切行わず、ソモソモ自宅に「将棋盤」さえ置いていなかった。
もちろん、事前に対戦相手の対策をネル事もしない。
ある大会に小池が出場した際、明らかに酒に酔った状態で会場入りして控え室で寝てしまい、対局直前になっても目覚めないため係員が揺り起こした。
なお、この対局は寝起きであるにも関わらず、小池の圧勝に終わった。
プロ将棋は幼い頃から「奨励会」という養成所で学びそこから選抜されてきた特殊なエリートたちで成立している社会である。
アウトローの小池には入る余地がなかった。
作家であり将棋ファンである団鬼六は官能小説作家を引退して将棋雑誌「将棋ジャーナル」を発行していた。
小池は、団を頼ってアマチュア将棋に復活した。
団は、彼の必死の懇願と天才的ともいえる将棋の腕を見込んで活動の後援を「約束」した。
しかし、団の本当のネライは違っていた。
実は小池を目の前で惨敗させ、二度と将棋界に立ち入れないようにするつもりだったという。
しかし小池は同年のアマチュア名人を相手に圧勝、それまで数年間のブランクを感じさせないものだった。
小池は団に「借金は真剣(賭け将棋)で返します」と言ったが、「小池重明と真剣で指す相手なんて日本中何処を捜してもいない」と一喝したという。
団と小池が一緒に旅行した際、地方の旅館に一泊した翌朝に小池が「これは先生の取り分です」と団に現金を差し出した。
小池は団が眠っている間に同じ宿の博打好きの旅行者らに声をかけ、賭け将棋で片っ端から負かしたのだと言う。
小池は眠っている団の姿を対戦相手に見せ、「あの人が自分の雇い主で、自分が負けたらあの人が金を払う」と言っていた。
事情を知った団は呆れて「負けたらどうするつもりだったんだ」と尋ねたが、小池は笑いながら「素人に僕が負けるわけがないじゃないですか」と答え、「こんな田舎なら僕があの小池だとは誰も知らない」と言ったという。
団はアマチュア六段の実力者だが、「飛車落ち」の手合いで小池とおよそ五十局真剣で勝負し、全敗したという。
対局中「よければ持ち駒を売りますよ」と小池に声を掛けられ、熱くなっていた団は言われるままに駒を買った。
それでも小池の巧みな指し手に手も足も出なかった。
小池は40代に入り、突然吐血するなど体調悪化を訴えるようになる。
入院、検査の結果重度の肝硬変と診断され、かつて「殺し屋」と恐れられた面影はスッカリ消えいていた。
それでもなお将棋への想いを口にする小池に団は「相手は用意する。やってみるか」と尋ねると、小池は「是非お願いします」と答えた。
小池は病院を抜け出し、団の自宅で当時アマチュア将棋界のホープと評された天野高志との対局に臨む。
そして団の立会いの元、小池は二連勝を収め完勝し、この時小池は団にか細い声で礼を言い、病からくる苦痛に耐えながらも「笑顔」を見せたという。
ソノ姿に団は小池が自らの最後の対局になる事を悟っていたと感じだ。
そして天野高志との対局の数日後、病院に戻った小池は再び吐血し容態が急変した。
最期は病室のベッドで体に繋がれたチューブを自ら引きチギッテ死亡したといわれている。
羽生善治が小学生の頃、偶然に小池の対局を目撃している。
羽生は小池の将棋は生き様の如く型破りそのものであった。そして、滅法強かったという事を鮮明に憶えていると語っている。
小池の戦法は異様で感覚的でかつ「古い」と評される。
序盤はモタモタして、とても勝てそうにないと思わせ、後半ものスゴイ勢いで追い込んでくる。
小池の伝記を書いた団鬼六は、「小池の序盤のまずさは技術開発がなされていなかった江戸期の将棋感覚だが、彼の終盤における的確さも江戸期の将棋に似ている」という。
将棋で連戦連勝だった小池重明は、酒に負け、競馬に負け、女に負ける。
徹夜で酒を飲んで試合場に現れるのだが、将棋には勝つ。なにもかも負けてしまう分を「補う」ように将棋で勝ち続けるのだ。
一方、コンピューターは、疲れない。腹も減らない。それに加えて、後悔しない、怖がらない、相手を見くびることもない。
小池重明がもう少し長く生きて、コンピュータとの勝負を見てみたいものだ。
享年44歳、小池の墓は、東京・清澄白河の共同墓地に作られた。
戒名は、棋勝院法重信士である。