ミスター・トルネード

人に恐怖を与え沢山に人が死ぬような「自然災害」を描いたような映画はあまり見ないが、今マデで一番心に強く残る映画というものは「圧倒的な自然」を描いた映画が多い。
例えば、デビット・リーン監督の「アラビアのロレンス」、「ドクトルジバゴ」、「ライアンの娘」などで、自然の優しさと同時にソノ「猛威」を描いている。
人間の側にも革命や戦争がおきているのだが、結局人間の理想やハカライのすべてを呑み付くし、埋もれつくしてしまうかのような「圧倒的な自然」が描かれている。
そんなことを考えると、「アラビアのロレンス」の主人公は沙漠であり、「ドクトルジバゴ」のソレは雪原であり、「ライアンの娘」のソレは海嵐ではなかったであろうか。
実際に、歴史の中で、圧倒的な自然を前に人間が敗れ去るような出来事はいくらでも起きている。
日本史では、鎌倉時代に起きた「元寇」という出来事がそれに近く、この出来事は太平洋戦争における「神風信仰」にまで繋がり、この「僥倖」がカエッテ日本人にワザワイをもたらしたともいえる。
エジプトの砂漠で勝利したナポレオンも、ロシア遠征での大雪には「大敗」した。
ナポレオンが率いる大陸軍がニーメン川をわたりロシアの領土に侵入したときの兵力は60万く、ナポレオン軍はほとんど抵抗を受けずにモスクワに入城し 、敵国ロシアの「首都」を制圧した。
ナポレオンはモスクワから、北方に逃げ去ったロシア皇帝に「降伏勧告」の文書を送る。
首都を占領したのだから、悪あがきはせずに、早く謝りに来い、というわけである。
ところが、ロシア皇帝からの「返事」が待てど暮らせど来ない。外交交渉が全く進展しないまま、モスクワで待機しつづけて、一月が経ったアル日、ナポレオンを驚かせる事件がおこる。
モスクワに「初雪」が降ったのである。
ナポレオンの予想以上にロシアの冬は早かった。初夏に遠征を開始したフランス軍は、冬の装備を持っていなかった。
ただでさえ飢えで苦しんでいるのに、このうえ寒さに襲われては、モスクワ占領は継続できない。
即座に、ナポレオンは退却を命令じた。
何の成果もないまま、ナポレオン軍はもと来た道を、引き返しはじめた。
退却時の兵力は10万、 ナポレオン軍が退却を開始すると、どこかに隠れていたロシア軍があらわれて、追撃を開始した。
寒さとロシア軍の攻撃にやられて、ナポレオン軍は激減していく。
死んだ仲間の服をはぎ取って身にまとう、死んだ軍馬の肉を、みんなで食らう。
暖をとるために軍旗を焼き、軍隊としての規律も崩壊していく。
60万ではじまったロシア遠征軍は、フランスに帰還したときは5千となっていた。
ロシア遠征は、「雪」に大敗したといって過言ではない。

1990年、日本プロ野球界は、大きく振りかぶってから背中を打者に向ける「新人投手」が注目を集めていた。
その投手・野茂英雄で、独特の投球フォームは、「トルネード投法」(竜巻投法)と呼ばれた。
1995年よりアメリカ・メジャー・リーグで活躍し、「ノーヒット・ノーラン2度達成」の偉業は、その後の日本人メジャー・リーガーにとって、越えることが出来ない「偉業」であることは間違いない。
この野茂英雄が6球団に指名され競合の末に近鉄バッツファローズに入団した1990年、アメリカ・シカゴ大学では、もう一人の「ミスター・トルネード」が定年の日を迎えていた。
「竜巻研究」の権威として世界にソノ名を残してきた、藤田哲也である。
藤田は、1920年、福岡県企救郡(現・北九州市小倉南区)生まれた。
旧制小倉中学(現小倉高等学校)に学び、旧制明治専門学校(現九州工業大学)機械科に進んだ。
卒業後は、明治専門学校で助手を務め、1カ月後には助教授に「昇進」した。
同じころ、小倉中学の代用教員として数学や物理を教えていたこともある。
「人の運命」というのはわからぬものである。
1945年、藤田は広島・長崎の原爆投下による「被害調査」に派遣され、現場の状況を観察し、原爆が爆発した「高度」を特定したこともある。
原爆は、もともと藤田が過ごした小倉の「軍港」を狙って投下される予定であったが、小倉上空が曇っていたため「急遽」投下目標が長崎へと変更になった。
そして、コノ藤田の「調査方法」についての講義を聴き、感動した学生達がいた。
現・九州工業大学時代の教え子らが、「藤田の業績」を多くの人に伝えたいと1999年に準備団体を組織し、その後「藤田哲也記念会」を設立した。
九工大戸畑キャンパスに開館した「百周年中村記念館」の一角に「藤田ギャラリー」をつくり、藤田が使用していた実験機器の多くが保管されている。
また、ここではシカゴ大などから集めた藤田博士の資料を展示している。
さらに、子供たちに郷土の偉大な先輩のことを知ってほしいと、記念会メンバーを中心に市内の小学校で藤田博士を紹介する「出前授業」なども行われた。
授業は、記念会のメンバーらが講師となり、竜巻の威力や藤田博士の研究内容を映像などもまじえて判り易く説明した。
メンバーは、北九州はモノづくりのまちだが、最近は理系に進む人が減っているため、藤田博士のことを知って、理系に興味をもってほしいと語っている。
ところで、藤田哲也の学問の最大の特徴は、世界が認めた「実証主義」にある。
今、福岡と佐賀の境にある「背振山」は、国際リニア・コライダーの「建設候補地」して注目を集めている。
実は、藤田の「アメリカ行き」を決定付けたのが、コノ背振山における「実証研究」であった。
背振山は、元々「研究」や「実験」と縁のある場所であった。
1947年、脊振山の「測候所」で気象観測を続けていた藤田は、解析したデータから雷雲の下に「下降気流」が発生していることを発見した。
ソレを「論文」にまとめてアメリカ・シカゴ大学のバイヤース博士に送ったところ、藤田をアメリカに招待シタイという返事がきた。
1953年、藤田はアメリカに渡って以来、藤田は竜巻の研究に没頭していく。
その研究スタイルは、イウマデモナク徹底した「実証主義」にあった。
アメリカでは、1年間に数百個のトルネードが発生するという。
藤田は、竜巻が発生したと聞くや、何をサシオイテも「現地」に飛んでいく。
風と気圧の変化を「実地調査」をし、「被害状況」を詳細に分析し、その作業を通して、竜巻の「メカニズム」を次々と明らかにしていった。
藤田は多くのトルネードを分析した結果、トルネードが発生するには、まず親雲が存在することが前提条件であると考えた。
そして、親雲から発生した渦が地形と気象との関連により地上に達成した時、トルネードとして発生することを推論し、この「発生メカニズム」を実験室で再現して見せた。
こうした藤田の研究は、「竜巻の現場」に限らず、思わぬところで生かされることになった。
1975年、ニューヨーク・ケネディ空港で、イースタン・エアライン66便が着陸直前に地面に激突するという「大惨事」が起こった。
政府関係者が割り出した事故原因は、「パイロットのミス」であったが、これを「不服」とした航空会社が「再調査」に白羽の矢をあてたのが、藤田哲也であった。
調査の結果、墜落の原因は上空にあった雷雲から激しい「下降気流」が発生し、それが地面にぶつかって「放射状」に広がったためであるとした。
従来、空気のような粘性のない流体は、流れが弱いため、仮に「下向きの気流」が発生したとしても「地面に到達すること」ナドあり得ないとされてきたのだが、それが間違っていることを徹底した「実証主義」に基づいて明らかにしていった。
そういう意味でも、ソレハ当時の気象学界の常識をクツガエスものだった。
この強烈な下向きの風は、藤田によって「ダウンバースト」(下降噴流)と名付けられた。
さらに藤田は、ダウンバーストの動きを探知するために「ドップラー・レーダー」を活用するよう提言した。
この「ドップラー・レーダー」という名前に、「ドップラー効果」を思い浮かべる人も多いであろう。
「ドップラー効果」とは、ドップラー効果とは、波(音波や電磁波など)の発生源(音源・光源など)と観測者との相対的な速度によって、波の周波数が異なって観測される現象のことである。
ドップラー・レーダーとは、ドップラー効果による「周波数の変移」を観測することで、位置だけではなく観測対象の移動速度を観測する事の出来るレーダーである。
藤田の提言を受けて、世界中の空港に「ドップラーレーダー」が設置され、墜落事故は「激減」していった。
「ドップラー・レーダー」は、我が地元・福岡空港にも設置されていることを「目視」で確認することができた。
藤田のこうした「功績」が讃えられ、藤田には、フランス航空宇宙アカデミー金メダルをはじめとする「世界的な賞」がいくつも与えられた。
そしていつしか、人々は藤田のことを「ミスター・トルネード」と呼ぶようになったのである。
そして、1998年11月、生涯を竜巻の研究にささげた「ミスター・トルネード」は、シカゴでの地で亡くなった。享年78歳であった。
それは、アメリカ大リーグ界に、「トルネード旋風」を巻き起こした野茂のメジャー・デビューから3年後のことであった。
そして、 ミスター・トルネードと呼ばれた「世界の藤田」は、故郷・小倉の曽根の地に眠っている。

ニュートンとか、パスカルって人の名前が「単位」となっているものが多い。
電気の単位であるボルトにせよ、アンペアにせよ、ワットだって歴史上の人物名からとった「単位」の呼称である。
そこで、「日本人の名前」がついた単位はあるのかと気になった。
通常、宝石類は、「カラット」でその重さを表現することが多い。
このカラットとは、昔地中海から中近東、インドで採れるサヤの中の位置に関係なく重さがほぼ均一で1粒が約 0.2g の黒色の「いなご豆」 (通称カロブ CaroB) が「分銅」として使われた。
ギリシヤ語でこの豆をキャラテイオン(keration)と言い、いなご豆1個=1カラットとなったと言われている。
しかし、真珠だけは、違っていて「匁(もんめ)」で表わすという。
つまり、世界的に通用する単位として、「真珠」の重さの単位に「匁(もんめ)」があることを知った。
それは、世界に先駆けて真珠を「人工的」に作った三木本幸吉の「功績」の故であろう。
「真珠」は、アコヤ貝などの中に「砂粒」などが入り込みそれを貝が自分が傷つかないように、「固めた」ことによって出来ることがわかっていた。
しかし、貝の中にソノママ砂などを入れても、真珠が上手く出来ずに、真珠を人工的に作るのは「不可能」だと思われていた。
しかし、御木本幸吉が世界に先駆けて、「真珠の養殖」に成功した。
そこで、全世界で、その業績に「敬意」を表して、その当時日本で、重さを計る単位として使っていた「匁(もんめ)」で真珠の質量を表そうとなったのである。
ちなみに「もんめ」は、歌「はないちもんめ」に歌われた「花一匁」で、花を一匁(花を買うときの単位)のことである。
最近「世界的に使われている日本語」として、ひとつ気になったのが、サザンオールスターズの歌にもある「TUNAMI」という言葉である。
実は「TUNAMI」という言葉は、意外なことに、静岡県焼津を気に入りしばしば訪れたことのあるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によって初めて使われた言葉なのである。
今や「TUNAMI」(津波)は世界標準の言葉になっている感があるのだが、ではなぜ津波を「Tidal Wave」という英語ではだめなのだろうか。
そして「TSUNAMI」という用語に「修正すべき」だという見解が広がっている。
というのは、数年前にインドを襲った「巨大津波」はインド洋の海底プレートの断層の大規模なズレが原因であり、「月の引力」による潮汐現象によって引き起こされたのではない。
そして、地震頻発地帯にある日本で「津(船着場)」に打ち寄せる波を指す言葉として使われてきた「津波」という言葉を引用した「TSUNAMI」の方が適切だということになったのである。
地震では権威ある米地質調査所も、「TSUNAMI」を地震や地すべりなど突然の「地殻変動」によって引き起こされる波動と定義するとともに、「Tidal Wave」は誤った表記とされてきた。
海外のウェブサイトも、近年のアジア各地を襲った津波を「Tsunami」と記述しているものが多い。
前述のとうり、「TUNAMI]を最初に使ったのが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)といわれている。
1897年著した「A Living God(生ける神)」の中にこの言葉を使用している。
その部分を紹介すると次のとうりである。
”Tsunami!” shrieked the people; and then all shrieks and all sounds and all power to hear sounds were annihilated by a nameless shock heavier than any thunder,~/ 津波だ!と人々は悲鳴をあげた。それからすべての悲鳴、音、音を聞く力がどんな雷よりも言うに言われない激しいショックにかき消された。/

藤田哲也が渡米した当時、トルネードが多く発生するアメリカにおいて、発生の回数は記録されていたが、その「規模」等は記録されていなかった。
そこで藤田は、ミズーリ州カンザスシティの気象予報センター長で と共に、トルネードによる建物の破壊の程度などからその最大風速を推定する方法を考案した。
「ミスター・トルネード」こと藤田哲也の「最大の功績」は、この竜巻の大きさ(強度)を表す「Fスケール」の創案であるといってよい。
この“F”は、Fujitaの頭文字であり、この「Fスケール」こそは日本人の名前が冠された唯一の自然科学上の「単位」といっていい。
藤田は、竜巻の強度を「F0」から「F12」までの「13段階」に分けて示し、今では世界基準の「気象単位」として各国で採用されてきた。
しかし、この藤田の「13段階」は現在修正(「改良藤田スケール」)されて、竜巻の被害状況から風速を推定する基準で、F0~5の6段階からなっている。
具体的な被害状況でいうと、「F3」では5秒間の平均風速が毎秒70~92メートルで、家が倒壊し大木の大半が折れたり倒れたりする。
「F4」以上は日本では確認されていないという。
先日、米南部オクラホマ州の州都オクラホマシティー近郊のムーアを襲った巨大竜巻で、少なくとも24人の死者を出し、237人が負傷した。
この巨大竜巻について、米国立気象局は竜巻の強さを表す「6段階」の「改良藤田スケール」で最も強い「EF5」に該当すると発表した。
この「EF5」は「住宅が跡形もなく吹き飛ばされる被害」などと定義されている。
アメリカで「EF5」を記録した竜巻は、今回で9例目で、大きな被害を出したものでは、2011年5月に米ミズーリ州で158人が死亡した竜巻がある。
テレビで「EF5」がどのような水準のものであるか、実験装置で「実演」していた。
家屋の中にあるものは、人間を含めて家電も家具も「ミキサー」の中に放り込まれた状態といってもいい。
すべてが飛び回っている状態であるからである。
オクラホマの被災者の声の中で印象に残ったのは、竜巻がやってきたときにマルデ「電車」が通るような音がしたというものだった。
竜巻の幅は約2・1キロ、風速は最大で秒速約90メートルに達し、約40分にわたって約27キロを移動したという。
上空からの写真で見ると、それはまるで巨大な電車がすべてをナギ倒して通過していったような「跡」が残っている。