高さとつまずき

人気ドラマのせいで「倍返し」という言葉が流行り、ドラマに見た「土下座シーン」が話題となった。
制作者もこれほどアタルと思わなかったそうだから、このドラマの一体どこか現代日本人の心の「ツボ」をオサエテいたのだろう。
しかし「人権的」に少々気になったのは、「土下座」ナルものである。
それは単なる「謝罪」を意味するのではなく「完全屈服」ソノモノであり、やらせた方はイタク「溜飲を下げる」かもしれないが、強要されたなら「人間の尊厳」を著しく傷つけるものであるに違いない。
厳しい経済環境の中で、ミスに対する許容度は狭くなり、かといって会社を去ることも出来ず、日頃から押さえつけられる一方という人が多くなる。
したがって、イツシカ倍の仕返しで鬱憤を晴らしたいという鬱屈のマグマが溜まっているということかもしれない。
また日本の武家社会において、「不祥事」に対して誰かが「切腹」して責任をとりコトが収まったように、「土下座」は現代社会において、「切腹」的機能を果たしているようにも思える。
高度成長期やバブルの時代に「倍返し/土下座」が果たしてハヤッタだろうかと思う時に、コノ時代に「特有」な現象なのかもしれない。
この現象に対して、聖書の中のイクツカの教えが浮かんでくる。
旧約聖書では、「目には目を、命には命を」(申命記19章)とあるが、オリエント社会のその後の「刑罰」の基本原則となったし、地域によってはソノママ今でも行われていると聞く。
ところで作家・佐木隆三氏には「復讐するは我にあり」という著作があり映画化もされたが、長崎の代々カソリック家庭に生まれた実在の連続殺人犯・西口彰の半生を記したものである。
西口がイカナル心の闇を抱き、何に対して「復讐」しようとしたのかは詳らかではないが、この「復讐するは我にあり」という言葉は、聖書にある。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(「ローマ人の手紙」12章) とある。
つまりここで使われている「我」という言葉は神を指している。
復讐は人がすることではなく、「神がする」ことだという意味である。
しかし、西口彰は聖書の「我にあり」の部分を誤解して「自分」であると解釈していて、刑務所で教誨師にそのことを教えられてショックをうけたらしい。
少なくとも新約聖書には「人が人に復讐せよ」といった意味合いは存在しない。
聖書に言うが如く「復讐する」は神にアルならば、人はどうすればよいのか。
聖書の続きの言葉には、次のトウリである。
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共2マイル行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者を断るな。」
まったく「倍返し/土下座」世界とは隔たった「倍与え」の教えである。
さらに続く「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」となると、人間の水準を越えた「天に属する」教えという他はない。
天に属するといっても、宙を舞っているような教えではなく、イエスがソレを「実践」してみせたのだから、しっかり地にツイタ教えなのである。
こういう教えはモハヤ「掟」や「戒律」というより、人は「素のまま」ではトウテイ「神の高さ」に達することはできない「不完全な存在」であることを思い知らされる為にあるように思える。
コノ「神の高さ」からすれば、人は誰しも所詮「不完全な罪人」であるという自覚をもつほかはない。
というわけで、土下座なるものは本来、神に対してのみ行うべきものかと思う。

「つまずく」という言葉は、歩く時に足先を物に打ち当てて前へよろけることで、ソレ以外にはそれほど使われる言葉ではない。
しかし聖書では頻出用語でキーワードともいってよい。
「神の高さ」ほど人々に「つまずき」を与えるものはない。
もっとも聖書は神の人類に対する救済の書(福音)の書であるとしても、「つまずき」以前に無関心ということかもしれない。
人はときに過ちを犯すにせよ、日々の反省で充分、お祓いとミソギ程度で浄められるし、すべては水に流そうという感覚である。
原罪とか救済とか何もそんなに深刻に受け止める必要はないし、クリスマスなどお祭り気分の楽しい部分だけは取り入れようというのが一般的な日本人の感覚である。
聖書の教えには、人間界の常識とぶつかる箇所がイクツモあって、それが「神の高さ」なのかもしれないと思う一方で、それが元でツマズく人もいる。
というよりイエス自身が「ツマズキの罠」といえるかもしれない。
例えば、「主は聖所にとっては、つまずきの石 イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩 エルサレムの住民にとっては 仕掛け網となり、罠となられる」(イザヤ書6章)とある。
聖書のいう「救い」と居合わせるかのように「つまずき」があり、シカモ「つまずき」は単に人間の側の失敗や思い違いを意味するのではなく、神の側があえて人間を試し選り分け、救われる者にはさらに「奥深い」洞察力を与える為の「試金石」であったりするのである。
聖書には「知者はどこにいるのか。学者はどこにいるのか。この世の論者はどこにいるのか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではないか」(Ⅰコリント1章)とあるように、ユダヤ社会のパリサイ人や律法学者、加えて故郷の人々こそがイエスにツマズイタ人たちなのである。
それは次のような故郷の人々の驚きの言葉に代表される。
「この人は、この智恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか、この人は大工の子ではないか」
イエスは、民衆が生きる「民衆知」の世界と律法学者の生きる「学問知」の世界の両方に通じ、両者ともに見事に対応していく。
そしてイエスは、キリストは民衆に神の国の到来をつげ、戒律を守り神の国への「準備万端整った」ハズのパリサイ人・律法学者ら「指導者階級」を徹底的に批判する。
イエスは律法学者やパリサイ人に対しては、旧約聖書の言葉を引用して権威あるもののごとく対抗し、民衆にたしては、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」など生活のレベルで語りかけるのである。
また「天国は良い種を自分の畑に蒔いておいた人のようなものである」というように数々の「たとえ話」をもって、人々の心へと働きかけるのである。
そして、「イエスは多くのことを彼等(群衆)にたとえで話してきかせた。すると弟子たちが近寄って来てイエスにいった。”何故、彼等にたとえでお話しになったのですか。”イエスは答えていわれた。”あなた方には天のみくにの奥義を知ることがゆる されているが、彼等には許されていません。”たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。” 」(マタイ13章)というのである。
「聞く耳を持つものは聞け/悟るものは悟れ」というかんじである。
さらには、イエスは、最後の晩餐の後にオリーブ山へ向かった際に弟子たちに向かって、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と「つまずき」の予告した。
それまでは何とか従ってきた弟子達に、イエスが呑もうとする「盃」が呑めるか、という言葉の意味を真に理解することもなく弟子たちは頷く。
しかしイエスは十字架を前にして、弟子たちが皆イエスについて行くことが出来なくなることを知っていた。
最後の晩餐で「ユダの裏切り」だけではなく、オリーブ山ではすべての弟子が「つまずく」ことを予告したのだ。
しかしペトロを始め弟子達が、この時イエスのいう「盃」の意味をまったく理解できず、そのことをさかんに否定した後に、疲労のために眠りこけてしまう。
つまりこの段階で身近にいた弟子達全員がイエスが聖書の預言に応じたメシアであることを充分に見抜いておらず、まして彼らのこの直後の行動が預言者ゼカリアの「わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう」(ゼカリヤ書第13章7節)という預言の成就であることに気づいたものナド、イルはずもなかったのである。
イエスには直接選んだ12使徒の他さらに行動を共にした70人の弟子たちがいた。その他に、イエスに従っていた婦人たちがいた。
そしてさらにその周りに、イエスについていけば「何かいいことあるかも」と期待を抱いていた群衆がいた。
しかし群衆ばかりではなく弟子達も、イエスが自ら「十字架」に向かうという「我が目」を疑うような結末にツマズイた。
それまで群衆は、イエスを王に担ごうとしてツキ従ってきたといってよい。
ローマ帝国を打倒してユダヤ人の王をたて独立を勝ち取れば、今のような屈辱的な生活から逃れられると思っていた。
たまたまイエスが十字架にかかった日は過ぎ越しの祭りの日で、当時ユダヤには刑にかかる者の中で一人を恩赦する習慣があった。
イエスを裁いたローマ総督ピラトはイエスのどこにも罪がないことを認めつつ、熱心党のバラバかイエスかのどちを解放してほしいか、と民衆に問題を投げ渡した。
「イエスかバラバか」というのは、ある意味で全人類的な「問いかけ」にも聞こえる。
イエスに失望して民衆は、ローマからの独立闘争の指導者バラバの方に期待をかけ、「バラバを解放せよ、イエスを十字架へ」と叫んだのである。
この応答はとてもシンボリックで、群衆が望んだことは結局はコノ世における「解放」であり、「永遠の命」や「神の国」などに関心があるはずもなく、当面の現状を変革しようとしないイエスにほとんど人々が「つまずいた」のである。
重要なことは、「旧約聖書の預言の実現」としてイエス・キリストの生涯があるということである。
イエス自身、聖書の預言の対応箇所を引き合いに出しながら、行動している。
こんな「生涯」は他にあるだろうか。
イエスの一家がベツレヘムからナザレに転住した際には「このことはナザレ人とよばれるという言葉が実現するためである」というように、つまりイエスは聖書が自分という救世主(メサイヤ)について書かれていることを「公言」しているのだ。
ところで聖書の預言は、モ-セやイザヤ・エレミヤなどの預言であるか、なんとイエスの時代から15世紀も前に溯るものさえある。
そしてその膨大な預言アーカイブと自分を「参照」させながら、イエスは自らを世に表している。
ソレデモ当時の人々にとって、イエスは神の「冒涜者」と映ったのである。
このモーセ以来、1500年以上にもわたって預言されたメシヤ(救世主)がイエスであったことは、生前には全く理解されずにきたが、十字架の死後に、数々のイエスの「復活の証人」が現われ、イエスがようやく聖書の預言されたメシアであったことが理解され認知されるにおよびエルサレムで「教会」が成立する。

聖書には、人々を「つまずかせる」ような箇所がたくさんあるが、タトエバ次の言葉はどうであろう。
//この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
しかし、聖書に書いてあるとおり、”目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた”のである。(コリントⅠ・1章)//
聖書に現代科学ではありえないことが書いてあれば、ひとまずその部分をフィクションとして読んでおくのが一般的態度かもしれない。
しかし、イエスを神または神の子としてプロデュース(創作)しようとするならば、三文作家でサエもっとうまくヤルだろうと思う。
しかしそうはしない。だからこそカエッテ「真実味」を感じられないだろうか。
科学と露骨に衝突する奇跡物語だけではなく、聖書の多くのエピソードにそれが当てはまるのだ。
イエスが神でないとしたら、こんな言葉が出るはずもないと思ったり、人には考えつかないような場面はいくらでもある。
例えば、イエスに頭から高価な香油をかけたなんとも無思慮・無遠慮なマリアという女性がいた。
傍らの男が、その香油を貧乏人に与えたらどんなに人助けになるだろうと女をたしなめると、イエスは彼女は良きことをしたのだ、私の弔いの準備をしてくれたのだ、といって彼女の行為を称えるのである。
人間のレベルで神の子をプロデュースしようとするならば、イエスにこんなことを言わせないだろう。
人間が考える神のイメ-ジといえば弱きの味方だから、傍らの男がいったように、香油を売って貧乏人に施せぐらいがセイゼイなのだ。
またそう言わせた方が、神の子らしい宣伝にもなるし、「一般受け」もするに違いない。
マリアの行為が自分の「弔いの準備」などと人間の「創作」で思いつくことさえできそうもない。
そしてこの言葉を「神の高さ」と受け取る一方で、ツマヅク人もいるに違いない。
そもそも新約の福音書には、神の子イエスが馬小屋で生まれたとか、大工であるとか、十字架に架けられたとか、神の「威厳」を損なうことばかりが書き連ねてあり、およそ「権威付け」とか「神格化」とかいうものから「逆行」することバカリなのである。
また、イエスの復活劇などいかようにも華々しく粉飾できそうなのに、聖書はこの核心的出来事でさえも、感動的なぐらいに「淡々」と語っている。
また、新約聖書の出だしの「イエス・キリストの系図」のナント「起伏」に富んでいることか。
系図の中にボアズという富豪もいればダビデという国王さえいる、なのに同じイエスの系図の中には、ラハブという売春婦も入っておれば、異邦人(モアブ人)ルツもはいっている。
ラハブを起点とすれば、エリコにいた売春婦(遊女)であった彼女が、たまたま城砦を攻めようとしたイスラエルの斥候(スパイ)を匿い助けたために神の祝福を受け、その血統から富豪ボアズや王ダビデが生まれイエスが誕生するという信じがたい血脈の展開なのだ。
しかし「人間レベル」で思考すると、こういう系図は神の系図としてマズイと判断し、書き換えや削除もしたくなるのが普通であろう。
日本史において、大名に成り上がった者が自らを権威づけるためには、「家系図の書き換え」や売買などがいくらでも行われたようにである。
イエスの系図にはそういう「作為」が全くみられないのである。
しかし、そうだからこそ反対に「神の高さ」を感じ取ることはできないだろうか。
ところで、日本語で「つまずく」と訳された言葉のギリシャ語(原語)は「スカンダロス」で、この言葉は英語の「スキャンダル」の語源となっている。
「スカンダロス」は、「憤った」とか「嫌悪の念を抱いた」とかいう意味で、当時の人々がイエスの何につまずいたのか、何に「嫌悪」の念を抱いたのか、ということである。
当時のユダヤ社会は律法を正しく知り守ることこそが神に近づく道と考えられていた。
イエスが誰かの家で食事の席について居る時、多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人(注:遊女など)や取税人たちと食事を共にしているのを見て、弟子たちに言った。
「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。
当時のユダヤ社会の中で、何らかの影響力を行使したいと思うならば、イエスのような行動がいかにマイナスの行為であるか、もっといえば正気の沙汰でないことは明白である。
そもそも取税人なる輩は単なる税金取りではなく、ローマ帝国がユダヤ人の中から選んでその仕事をさせ、取税人はきまった以上の税金を絞りとって甘い汁を吸っているものとして人々に「嫌悪」されていたのだ。
つまり取税人はローマによる分裂支配の象徴的存在であり、当時のユダヤ社会の中にあっては「鼻つまみもの」であったのだ。
その取税人の頭とイエスは交わりをなした。
さらに、天国で席につくのは取税人や遊女ような者であるなどと言ってのける(マタイ21章)のであるからして、イエスのような存在にコノ世は耐えることができなかったということだろう。
当時のユダヤ社会の中で、イエスそのものが「スカンダロス」であった。