家業と天佑

育った家の「家業」というものは、意外なカタチで人生を導くものである。
そのように強く思う「四人の人物」を紹介したい。
ここで紹介する漁師、藍物問屋、町工場経営者、映画館経営者の家で育った四人の子供達は、ソレゾレ何か天が味方する「天佑の人」であったように思える。
ところで、昨日(9月26日)に優勝を決めた楽天・田中将大投手は、今シーズン「驚異的な」活躍であったことは間違いない。
その「驚異の活躍」という言葉は、彼がその記録を60年の時を隔てて破った20連勝の日本記録をもつ西鉄ライオンズの稲尾和久にもヨクあてはまる。
今から5年前に亡くなった元西鉄ライオンズ・稲尾和久の名前が田中将大を通じて「蘇る」のはいいことである。
年配者の多くは1958年の日本シリーズで巨人を相手に3連敗の後、4連勝した鉄腕・稲尾のことを忘れられないであろう。
稲尾はその4勝の勝ち星をすべてをあげて、地元紙は「神様、仏様、稲尾様」という見出しをつけた。
1961年にはシーズン42勝の最多記録をつくった。さらにプロ通算で276勝を挙げて、「指導者」としても多くの名選手を育てた。
稲尾は、高校までは「無名」に近い存在だった。
出身は、現在の大分県立別府緑ヶ丘高校で、甲子園にも出場していない。
西鉄ライオンズに入団した当時の三原監督は、投手が少ないので「打撃投手」にでも使えるだろうグライの「期待」しかしていなかったという。
入団しすぐに「打撃投手」となったのだが、豊田泰光や大下弘、中西太ら「野武士」といわれた大打者と「対峙」する。
「打撃投手」は、真ん中に集めるとバッターが打ち疲れる。だからといって、ハッキリ判るボール球を投げると、練習にならないと叱られる。
ボールを散らせながら、しかもストライクかボールかギリギリのところに投げることに専心した。
結果的に身についたのが、針の穴も通すといわれたコントロールである。
稲尾は自分の役割にも腐ることなく、様々なことを吸収していった。
そのうち一流でも打ちにくい「鋭い」ボールがギリギリに投げられるようになる。
しかし翻ってみれば、稲尾を鍛え育てたのは、少年野球でもなくコーチでもなく「別府湾」であった。
稲尾は漁師の家に生まれ、別府湾で働く父に連れられて、海に慣らされるために突然海に投げ込まれたりした。
舟の艪(ろ)を漕ぐうちに腕力がついたし、小船の上に立ち続けることによって「バランス感覚」が身についた。
あの高々と足を揚げても崩れないフォームの基礎は舟の上にあったのだ。
後年の「鉄腕」は自然のうちに育った。
また荒波にもまれながら「自然を読む」ことを学んだ。
グランドにたって風向きを読み、投げるコースを変えるなどの術も自然に身についていった。
1シーズン42勝は、稲尾の「金字塔」だが、生まれ育った環境が生んだ「空前絶後」の記録である。
しかも、生涯の投球回数が3599回を数え、しかも生涯防御率が「1.98」という今では信じられない数字を残している。
そして、日本シリーズで、稲尾が「神様、仏様」と並び称されるキッカケとなった3連敗からの「逆転」の4連勝であった。
稲尾は7試合のうち6試合に投げて4勝を挙げた。
後年三原監督は、いくらエースとはいえ、7試合のうち6試合で起用ような無茶な采配は、シノビなかったと語っている。
「3連敗」してアトがなくなり、稲尾を出さずに負けようものなら、周囲になんと言われるか、しかし稲尾で負けたのなら皆が仕方ないと納得する。
そうして稲尾を投げさせたのだが、稲尾は自分の出場が「負け」の弁解になるのを拒み続けるかのように勝ち続けたのだ。

「人の本質」を一言で表すのはイツモ悩むところである。
最近売れた本で、日本の石油王・出光佐三を「海賊と呼ばれた男」と表した作家がいたが、個人的には「天祐の人」とよびたい。
この人物が何か大きな「意志」に導かれているよう気配スラするからである。
彼が最初の就職先から独立するに際して得た資金や、「オ-ダ-石油」の発想、満州鉄道でのヒラメキ、また彼の「一世一代」の大博打となったイラン石油の買い付けなど、人生の節目、節目に天が味方にしているようにも思うからである。
ただし成功者というものは多かれ少なかれそういうものかもしれない。
出光佐三は福岡県宗像郡赤間に生まれた。
福岡市呉服町あたりにあった福岡商業から神戸高商にすすむが、門司にあった石油を扱う零細な商会に就職した。
そこで大きな志を秘めながら商人道を学んだ。
その後知人より「天祐のごとき」資金を得て独立するが、陸の石油販売店網はエリアが仕切られており佐三が入りこむ余地は少なかった。
そこで海上にでてポンポン船にコストが安い軽油を補給した。これが大当たりして出光商会発展の契機となった。
また出光発展の原因として「オーダー油」の発想があった。
それまで機械油は、親会社のものをソノママ納めていたが、石油の研究をしていた佐三は使用する機械に応じて「微妙に」配合を変えたのである。
こういう「オーダー油」の発想は藍問屋であった佐三の「実家の家業」と関係があるのではなかろうか。
佐三の父は徳島から藍玉を仕入れて商売をしていた。
藍で染める青色にも、濃淡その他の差が自然にある。
その取り扱いを業としていた父は絵心がありその「原料の配合」にも独特のものを出していた。
佐三は、父が藍玉を収めるのに注文主の織物の種類によって匙加減を変えていたのを覚えていたのかもしれない。
さらに佐三は、当時満州に進出していた日本軍の満州鉄道の車軸の油に注目していた。
満州で利用されていたアメリカ製の油は、気温が低い満州では適合せずに、鉄道はしばしば立ち往生していた。
佐三が納めた油によってそうした列車の停滞はホトンドおこらなくなっていった。
さらに出光の名を世界にとどろかせたのが、タンカ-による直接のイラン石油の買い付けである。
1951年メジャーを離脱し石油施設の国有化宣言を発表したイランは、石油の売り先を探すのに苦労していた。
他方、外国資本を入れない「民族資本」であった出光石油は、石油の買い手をいつもメジヤーにハバマレテきた経緯があった。
ここにイランと出光の利害が一致したが、この段階でのイランの「国有化宣言」はイランの一方的宣言であり、必ずしもイギリスや「国際的承認」を得たものではなかった。
もし出光の日章丸がイランの港に向かうならばイギリスによって、50余人の乗組員とタンカーは拿捕される恐れさえもあった。
この時、出光佐三は「男子一生」の決断を行った。
日章丸の行き先は船長にしか伝えられずに極秘のうちにススメラレタのである。
そしてイランの港に巨大タンカーを横づけした出光佐三は世界をアッと言わせしめたのである。
出光佐三は、神戸高商時代に水島教授や内池教授に薫陶を受け「金の亡者になるなかれ」や「従来の投機的な問屋的商人はいらなくなる」という言葉を金言として、生産者と消費者間の商品の円滑な流通に徹することを「商人のあるべき姿」として基本においたという。

育った家の「家業」というものは「意外な形」で人生を導くものかもしれない。
そう強く感じるのはiPS細胞の発見でノーベル賞をうけた山中伸弥・京都大学教授である。
山中教授は、コンピュータを駆使して「ある条件」にカナウ遺伝子をさがした。
なにしろ60超組の遺伝子からそうした遺伝子を「絞りこむ」ことは不可能といわれてきた。
iPSの技術は、そうして探しだされた「4つ」(または3つ)の遺伝子によって可能になった技術といって過言ではない。
山中氏は自分が柔道やラグビーで10回以上骨折したので、スポーツ選手を助けようと神戸大学で整形外科医になった。
しかしインターン時代に手術の手際が悪いので、「邪魔中(じゃまか)」と呼ばれて、やむなく「臨床」から「病理」に移ったという経歴を持つ。
山中教授の実家は、大阪のミシン工場であるが、大坂市立大学の学生時代に、実家の工場の「在庫管理」を手伝った折に、膨大な部品を整理したことが、こうした遺伝子発見に繋がったという。
人間、何が「幸い」するかわからない。
iPS細胞の開発以前に、万能細胞ともいわれたES細胞というのがあったが、山中教授はES細胞で働くものの「分化」していない伝子が24種類あることをつきとめた。
こうした遺伝子を「転写因子」とよんでいる。
山中教授は、この24種類の遺伝子についてマウスの皮膚細胞を使った導入実験を行い、4種類の遺伝子を体細胞に導入するだけで、ES細胞とほぼ同じ性質のiPS細胞をつくれることを世界で始めて発見した。
さらに翌年にはヒトのiPS細胞の作成にも成功して世界を驚かせた。
ではそもそも、iPS細胞とはどんな細胞なのか。「誘導多能性幹細胞」の略であるが、その胚を育てると、色んな「臓器」になるというスゴイものなのだ。
人間は、約270種類、60兆もの多種多様な細胞からなりたっている。
脳の細胞は長く伸びて糸のようになっており、電気信号をある場所から別の場所へ伝える仕事だけを行う。
皮膚の細胞は丈夫で弾力を持ち、体を外から包む役割をする。
骨の細胞は内部にりん酸カルシウムをため込んで、体をガッチリ支えられるほど硬くなっている。
一般に「胚形成」とは、ただ一個の細胞(受精卵)が、それがなるように運命づけられた複雑な多細胞の生体へ変わっていくことである。
もしも、一個の細菌細胞を食物のはいった皿の中におくと、細菌は分裂して2個の細胞になる。
4個、8個、16個と分裂していきこうしてただ一個の細胞から生まれた子孫の細胞が集まったものを「クローン」と呼んでいる。
この皿から細胞を取り出して違うサラにおけば、同様なクローンがつくられる。
神秘的ではあるが、細菌にとってこのように分裂を繰り返すことは、それほど難しいことではない。
高等動物でははるかに複雑なことであるが、細胞には完全な新しい個体になるためのすべての情報を含んでいるので、元と完全に同じ固体をつくりだすことは理論的には不可能ではない。
しかし生物は完全な一個の個体になることはできるが、生物がすでに分化した細胞を元に戻してそして受精卵に生まれ変わったように、自分自身のコピーを加えるなどという「野心」まではない。
例えば、皮膚の細胞が元の「胚」にもどって筋肉の細胞になるということはしない。自然はそういうことに統制を加えているといっていい。
ところがちょっとした「人為」で、そういうことが可能であることを証明したのが山中教授である。
山中教授は皮膚細胞に4種類の遺伝子を加えてみたとろ、その皮膚細胞が変化して筋肉や神経・血液なといった体の様々な組織の細胞ができる「新しい細胞」となったという。
この「新しい」の意味は、「初期化」された(元に戻った)細胞ということである。
ところで、細胞の核に潜んでいるDNAは、細胞の設計図を提供することがわかっている。
実はすべての細胞は分裂する際に、すべてのDNA(情報)をもう一つの細胞にコピーする。
DNAがソックリ同じであるにもかかわらず、別の器官に「分化」してくというのならば、DNAの情報により必要な物(タンパク)質の発現が「促進」されるものと、「抑制」されるものがあるということである。
だからDNAを文字に例えると、「読み取られていく部分」に応じて器官が分化し、「特殊化」していくといってよい。
だから読み取られない情報は、「黒塗り」の情報をたくさんもっているということである。
つまりスイッチが入ったり切れたりすることによって「分化」と「特殊化」が起こっているということだ。
しかし問題は、どの細胞がどんな器官になるかをどうやってその指示を与えるのか、ということだ。
胚形成の過程で生じる細胞の「差異」について、自分達は皮膚の細胞になる、あるいは筋肉の細胞になる、あるいは神経の細胞になることをどのように決定しているのか、すなわちスイッチの「入る」「切る」の判断がどうなされているかについては、いまだに「未知の領域」である。
つまり生体のグランドデザインは、いまだに未知といってよい。
iPS細胞において、皮膚細胞に入れる4種類の遺伝子の中には「発ガン」との関連が指摘される遺伝子を使わないと作製効率が大幅に落ちるという課題があった。
しかし、山中教授らは、「発ガン」との関連がない「グリスワン」という遺伝子を使えば従来よりも効率がよくなり、マウスなど100%がiPS細胞になったと発表した。
またiPS細胞は、本人の細胞から作製されるために、「拒絶反応」はないといわれ、まさに「夢の技術」が実現しようとしているのである。

芸能界における加山雄三と桑田佳祐の関わりは、あまり知られていない。二人の間には、遠く維新の功労者「岩倉具視」が介在している。
加山氏の(本名:池端)の母方の高祖父は、政治家の岩倉具視である。
加山の母は岩倉具視の曾孫にあたる女優の小桜葉子で、本名が池端具子で、旧姓岩倉である。
小桜葉子は多くの映画に出演したが、メロドラマの美男スターとして活躍していた俳優の上原謙(池端清亮)と結婚し、芸能界から引退した。
岩倉具視といえば明治維新当時、下級公家ではあったが新政府軍と連絡をとりながら維新へと導いた人物で、時に「妖怪」とさえよばれた「豪胆な」人物である。
岩倉が説く公武合体派が尊譲派におされたために、1862年より5年間洛北の地で蟄居生活を強いられたことがある。
維新後、この岩倉氏が建てたのが、湘南茅ヶ崎のパシフィック・ホテルであるが、岩倉具憲(小桜葉子の弟) が実際の経営を行い、俳優の上原謙と子息の加山雄三らが共同オーナーとなっていた。
開業当初は著名人が多数訪れたことで有名となった。
1960年代「若大将」として名を馳せた加山雄三だったが、けっして順風満帆な芸能人生を歩んだわけではなかった。
1970年のパシフィックパークホテル倒産時には、最大23億円もの借金を抱え、1個の卵を夫婦2人で分けあって、卵かけご飯を食べたという苦労も味わったという。
テレビ番組「クイズタイムショック」では、全問正解パーフェクトを達成したことをよく憶えているが、こういう賞金や賞品によってしか海外でバカンスを楽しめなかった時期のことであった。
パシフィックパークホテルは18億円で売却できたものの、加山氏がこれだけの借金を10年がかりで返済したというのは、岩倉具視の豪胆さを彷彿とさせるものがある。
ところで岩倉具視は鉄道と関係が深い。
岩倉が欧米使節として視察して一番痛感したことが、全国的な鉄道の敷設の急務であったという。
加山氏も鉄道マニアであり、西伊豆・堂ヶ島にある「加山雄三ミュージアム」には自身の鉄道模型コレクションが多数展示されている。
東京上野には「岩倉高校」という名前の学校があるが、1903年鉄道界の恩人、故・岩倉具視公の遺徳に因んで、「岩倉」の二文字を校名に冠し、鉄道員を育てる目的で「岩倉鉄道学校」としてスタートした学校である。
ところでサザンオールスターズの曲には岩倉氏と加山氏が共同オーナーだった「パシフィックパークホテル」のことを歌った「ホテルパシフィック」という曲がある。
またサザンオールスターズと研ナオコの歌った「夏をあきらめて」にも、このホテルの名前が登場する。
♪潮風が騒げばやがて雨の合図/悔しげな彼女と逃げ込むパシフィック・ホテ~~ル♪
サザンオールスターズの「ホテルパシフィック」は、2000年夏に茅ヶ崎公園野球場で開催されたサザンオールスターズ茅ヶ崎ライブの記念曲として制作・発売されたものである。
桑田圭祐の父親は、茅ヶ崎で映画館や飲食店を経営していた。
加山の父で俳優の故上原謙が経営にかかわった会社に桑田の父親が勤めていたこともあり、お互いの父親はマージャン卓を囲んだり、一緒に旅行に出かけるほど親しかったという。
桑田佳祐も幼い頃から遊びに行き、加山との古くからの知り合いで、桑田は「嘉門雄三」を名乗って音楽活動をしていたこともあるほどだ。
いわば加山家(本名:池端家)と桑田家は家族づき合いであり、そうしたことが桑田氏の「音楽活動」を大きな刺激を与えたということである。
桑田佳祐は、少年時代パシフィック・ホテルの「全盛期」を眺めて過ごし、後にこのホテルでアルバイトもしていたこともある。
桑田氏の音楽活動にとって、パシフィック・ホテルはきってもきれない存在であり、その意味でいうと桑田氏のサウンドは、明治維新の元勲が「お膳立て」をしたということになるのである。
それも、桑田圭祐の「天佑」というべきものかもしれない。