怪童および規格外

日ハム・大谷、阪神・藤波の活躍を見て、昭和の時代に「怪童」とよばれた二人の名選手がいたことを思いした。
先日、元東映フライヤーズの投手・尾崎行雄が亡くなった。一方、西鉄ライオンズの主軸・中西太は、いまだ健在である。
大谷や藤波がドンナに高い能力をもった高卒ルーキーであろうと、「怪童」という呼ばれ方はされない。
どこか「規格」に合った「超優れもの」という感じなのだ。
昔の野球選手は今と違い、早くから野球選手を目ざす選手は少なかった。
つまり管理野球とは縁遠い存在だったということだ。
ムシロ彼らの持ち味は、自然育成で出来上がった腕っプシと精神力ではなかったであろうか。
だから「野武士軍団」とよばれた西鉄ライオンズのようなチームが生まれたのである。
今から5年前に亡くなった元西鉄ライオンズの稲尾和久は、怪童とは呼ばれずとも「規格外」とよぶにフサワシイ人であった。
年配者の多くは1958年の日本シリーズで巨人を相手に3連敗の後、4連勝したことを忘れられないであろう。
稲尾はその4勝の勝ち星をすべてをあげて、地元紙は「神様、仏様、稲尾様」という見出しをつけた。
1961年にはシーズン42勝の最多タイ記録をつくった。
プロで276勝を挙げて、「指導者」としても多くの名選手を育てた。
稲尾は、高校までは「無名」に近い存在だった。
出身は、現在の大分県立別府緑ヶ丘高校で、甲子園にも出場していない。
西鉄ライオンズに入団した当時の三原監督は、投手が少ないので「打撃投手」にでも使えるだろうグライの「期待」しかしていなかったという。
入団しすぐに「打撃投手」となったのだが、豊田泰光や大下弘、中西太ら「野武士」といわれた大打者と「対峙」する。
「打撃投手」は、真ん中に集めるとバッターが打ち疲れる。だからといって、ハッキリ判るボール球を投げると、練習にならないと叱られる。
ボールを散らせながら、しかもストライクかボールかギリギリのところに投げることに専心した。
結果的に身についたのが、針の穴も通すといわれたコントロールである。
稲尾は自分の役割にも腐ることなく、様々なことを吸収していった。
そのうち一流でも打ちにくい「鋭い」ボールがギリギリに投げられるようになる。
しかし翻ってみれば、稲尾を鍛え育てたのは、少年野球でもなくコーチでもなく「別府湾」であった。
稲尾は漁師の家に生まれ、別府湾で働く父に連れられて、海に慣らされるために突然海に投げ込まれたりした。
舟の艪(ろ)を漕ぐうちに腕力がついたし、小船の上に立ち続けることによって「バランス感覚」が身についた。
あの高々と足を揚げても崩れないフォームの基礎は舟の上にあったのだ。
後年の「鉄腕」は自然のうちに育った。
また荒波にもまれながら「自然を読む」ことを学んだ。
グランドにたって風向きを読み、投げるコースを変えるなどの術もも自然に身についていった。
1シーズン42勝は、稲尾の「金字塔」だが、生まれ育った環境が生んだ「空前絶後」の記録である。
しかも、生涯の投球回数が3599回を数え、しかも生涯防御率が「1.98」という今では信じられない数字を残している。
そして、日本シリーズで、稲尾が「神様、仏様」と並び称されるキッカケとなった3連敗からの「逆転」の4連勝であった。
稲尾は7試合のうち6試合に投げて4勝を挙げた。
後年三原監督は、いくらエースとはいえ、7試合のうち6試合で起用ような無茶な采配は、シノビなかったと語っている。
「3連敗」してアトがなくなり、稲尾を出さずに負けようものなら、周囲になんと言われるか、しかし稲尾で負けたのなら皆が仕方ないと納得する。
そうして稲尾を投げさせたのだが、稲尾は自分の出場が「負け」の弁解になるのを拒み続けるかのように勝ち続けたのだ。

ホワィティングというアメリカ人が書いた「日米の野球文化」を比較した名著「和をもって尊しとなす」という本がある。
この本の中で、日本野球からヤヤ「浮き出た」感じのする元中日監督の落合博満氏の若き日のことがトテモ印象的に書いてあった。
落合は小学校の頃、長嶋茂雄や王貞治に憧れて野球を始めた。
1969年に秋田県立秋田工業高校に進学し、一応野球部に在籍していた。
しかし野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かったという。
特に「マイ・フェア・レディ」は、英語の歌詞を覚えたほどだったという。
それほどに、落合が好きになったコノ映画は、オードリー・ヘップバーン主演で、アカデミー賞を授賞した。
物語は、言語学専門のヒギンズ教授はヒョンなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣いの花売り娘イライザを「お嬢様」に仕立て上げることになった。
富裕階級のフレディーはそのイライザに恋をしてしまうが、一方ヒギンズ教授も初めは義務感でつきあっていたものの、徐々に彼女のことが忘れられなくなっている自分に気づく。
まだまだ「階級社会」の文化が色濃く残るイギリス社会を舞台に繰り広げられるロマンティック・コメディである。
この映画を7回も見たという落合は、日本の野球文化に「違和感」を感じ、木本がドコカ違う場所に飛びガチだったのではあるまいか、と推測する。
ソレは、落合のその後の「俺流」生き方に表れている。
さて、ソンナ映画好きな落合選手がマトモに練習に打ち込めるはずがない。
先輩による「理不尽」なシゴキに耐えかねて野球部を退部した。
しかし投打共に落合ほどの実力を持った選手は他にはおらず、試合が近づくと部員たちに説得されて「復帰」した。
落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していた。
落合はナントは野球部を7回「退部→復帰」を繰り返している。
1972年、東洋大学に進学するも、「体育会系」の慣習に馴染めず、わずか半年で野球部を退部して大学マデも中退してしまった。
秋田に帰ってボウリング場でアルバイトをしつつ、プロボウラーを志すようになった。
ところがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まり、反則金を支払ったことで「受験料」が払えずコレモ挫折してしまった。
1974年、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めで、東京芝浦電気の府中工場に「臨時工」として入社した。
同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わり、ここでの在籍5年間でようやく頭角を表した。
1978年にアマチュア野球全日本代表に選出され、1978年ドラフト会議で25歳にしてロッテオリオンズに3位指名されて入団した。
プロ野球選手としては遅いスタートとなった。
さて、この落合選手が少年時代に友人達と川べりで棒切れに石ころアテテ飛ばす遊びをしていた。
友人達は、その時の落合少年の姿が強く印象に残っていると語った。
皆が力任せに棒切れをふって石ころをタタイテいたのに、落合はヤワラカク棒の芯に当てていた。そしてその石ころは誰よりも飛んだという。
落合選手には誰からも教わらない、天性の「センス」が備わっていた証拠である。
また別のテレビ番組で見た、落合がバッテイング・センターでマシーンの「正面」に立ちはだかってボールを打ち返すミートの確実さには「驚嘆」という他はなかった。
ところで1984年、稲尾和久がロッテ監督になった年、落合との関係がはじまった。
その時落合はスデニ、ロッテの主砲で、不動の4番打者、1981年から3年連続で首位打者を獲得した。
またソノ2年前には、「最初の」三冠王にも輝いていた。
球界を代表するスラッガーとして勢いに乗っていた。
しかし、稲尾は監督就任した年、落合はこれまで経験したことのない「大不振」に陥っていた。
特にシーズン序盤、打率はなんと1割8分台にとどまっていた。
ある日稲尾が、いつものように試合から1時間以上もたって球場を後にしようとした時、掃除のおばさんが「まだ残ってる選手がいて掃除ができない」とボヤいているのを耳にした。
こんな遅くまで、誰が残っているのだろうとロッカールームに行くと、そこでは落合が大鏡に向かってヒタスラ素振りをしていた。
稲尾は人目を避けて黙々と練習する落合の苦悩を見てとり、落合に「お前が4番を外してくださいと言わない限り、俺は外さない」と声をかけた。
落合の不振はその後も続き、コーチからも落合を4番から外すよう進言されたものの、稲尾は落合を4番で使い続けた。
落合自身も、ついに最後まで「外してください」とは言わなかったという。
ところが落合はシーズン後半から復調して打ちに打ちまくり、オールスター以降の打率は4割をマークした。
シーズン打率も最終的には3割台に乗せる。
稲尾は落合の練習をズット見守り、しだいに「俺流」の落合が稲尾を師と仰ぐようになった。
また、当時二人は監督と選手という立場を越えて、よく二人で飲みに行って「野球談義」に花を咲かせた。
といっても和気アイアイというわけではなく、17歳の年齢差を越えて「激論」となったことも多くあったという。
その席で監督の采配批判もしたが、落合が稲尾から一番学んだことは、「打者視点」では分からない「投手心理」だった。
1986年オフ、稲尾監督の「解任」が発表されると、「もうオレがロッテに残ってる理由はなくなった」と言い残し、世紀の大トレードで中日へと移籍した。
この世紀のトレードとは、ロッテ落合と中日牛島和彦投手、桑田茂投手、平沼定晴投手、上川誠二内野手の「1対4」のトレードのことである。
稲尾は2007年、落合監督が「日本一」になったのを見届けるかのように亡くなっている。
落合によれば、野球のことを教えてくれたのは何といっても稲尾であったという。
稲尾は西鉄時代らも含め、監督としては大した「実績」を残してはいない。
しかしロッテ監督時代の「稲尾イズム」は、落合監督に受け継がれ「オレ流采配」に生かされることになったにちがいない。

スカイツイリータワーがよく見える「隅田公園少年野球場」には墨田区教育委員会によって、次のような言葉が刻まれた「石碑」がたっている。
//「この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に"少年に明日への希望を"スローガンとして、 有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、 中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。昭和61年3月」。//
王少年の銅板プレートが、この石碑が刻まれており、荒川博との出会う話も、この野球場のことである。
王選手といえば、素質に優れるとともに、野球への並み外れた執念の持ち主だったというのが「定説」である。
しかし、荒川コーチは意外なことを書いている。
王は「怠け者」だったというのだ。
当時の川上哲治監督に、「王を育ててほしい」と呼ばれて巨人のコーチになったのは1962年だった。
その前の3年間、王のホームランは「7本、17本、13本」であった。
また、打率も2割5分前後である。
川上監督からは「ホームラン25本、打率2割7分を打てるバッターに育ててくれ」というものだった。
荒川氏は、ソレデモ大変な仕事を引き受けてしまったと思ったという。
キャンプで王を見ていると、トス・バッティングでも空振りするほどだったので、巨人に入ってバット・スイングをしたことがあるかと聞くと、グラウンド以外ではタマにしかやらないという答えだった。
その時、荒川氏は「銀座通い」を欠かしたことがないという王の噂は本当だったと悟ったという。
ただ荒川氏が見て王のスゴサは習う際の「素直さ」で、それは他の選手にはないものだった。
普通の人は少しウマクなると、もうつらい修業はいい、自分でやっていける、と考えるようになる。
しかし、王はそうではなかった。
「3年間」の修業が終わり、55本という最多本塁打の記録を作った65年の12月荒川氏は王に言った。
「もう何をしてもいい。解放するから俺のところに来なくていい」と。
そうしたら王は正座し直して「今まで以上にしごいてください」と言った。
王の「規格外」の素直さに、荒川氏は二人三脚で「世界記録」を取ってやろうと思ったのだそうだ。
結局荒川氏は、怠け者だった王に「努力の仕方」を教えてあげたということである。

プロ野球選手の「記憶」と深く結ぶつけられる地方球場がある。
例えば、東京多摩の一本杉球場は、夏の甲子園西東京大会の地区予選が行われる球場だが、コノ球場は江夏豊の「引退式」が行われた球場として「記憶」されている。
その日、落合博満・福本豊・高橋慶彦・山本浩二・大杉勝男・江藤慎一などの名選手と数多くの「江夏ファン」が集まった。
昭和歌謡「別れの一本杉」に符合するかのように、江夏豊と熱烈ファンとの「別れ」の球場となったのである。
対照的に、埼玉県大宮球場は、無名の高校生・長嶋茂雄の存在をハジメテ人々に「鮮烈」に焼き付ける球場となった。
長島茂雄が千葉県・佐倉一高校時代に公式戦で打ったホームランは「たった一本」だったというのは誠に意外な話ではある。
埼玉県の大宮球場コソは、長島茂雄がに公式戦でたった一本放ったホームランの場所である。
1953年8月1日、埼玉・千葉の8強でく甲子園出場を決める試合だった。
大戦相手は昨年準優勝の熊谷高校である。
熊谷高のピッチャーは後にプロ野球入りする福島郁夫で、前日練習を見に行ったOBからは4番の長島だけは気をつけろといわれていた。
カウント1-1からの3球目、ナチュラルに内角に喰いこむハズの球が真ん中高めにいった。
ライナー性のボールが、そのままバックスクリーンに飛び込んだ。
福島本人によると、まるで投手が投げたボールのように「ストライク」という感じでバックスクリーンに突き刺さったという。
佐倉一高の監督も「ボールが見えないくらい速かった」 と証言している。
この「規格外」のホームランは当時の新聞(千葉版)に「長嶋 大本塁打を放つ」という見出しが躍り、長嶋自身も自著で「そう新聞にのったことで無名の高校生が世に出るきっかけとなった」と語っている。
すぐにプロ球団が長嶋のもとへ挨拶にきた。
父親は、大学を出てからでも遅くはないという考えであった。
実は佐倉一高の監督は、イマダ立教大学の4年生で、怪我で1年生のうちに野球部を辞め、ずっと母校の指導に当っていたのだという。
この監督は、立教大学の野球部の動機や先輩に、「ガッツとセンスが素晴らしい。ぜひ長嶋を立教に」という話をしていた。
その動きが、大宮球場での「一撃」で本格化していった。
立教の関係者が長嶋家を訪れて父を説得し、長嶋はソノ冬の立教野球部セレクションに合格した。
実は大宮球場の試合の1ヶ月前までは、4番ショートだったという。
ところが3年生になり体がおおきくなるにつれてショートでの動きが苦しくなってきた。
そしてエラーが目立つようになり、「4番サード長嶋」にしたのだという。
その後、打撃に迷いがなくなり、あの「特大ホームラン」に繋がったといえるかもしれない。
そして長嶋父子にとっても大宮球場のホームランは「特別」の意味をもっていた。
町役場の収入役で多忙だった父親が、初めて息子の「野球観戦」をした日だったのである。
ただし、息子を緊張させまいと長嶋には知らせず、外野で観戦したという。
立教大が進学が決まった後に息子は父親に「神宮へ観戦に行きましょう」と約束をした。
しかしこの約束はカナワなかった。
長嶋の立教大学進学2ヵ月後に、父は亡くなっている。
長嶋の父親にとって、あの大宮球場での試合が最初で最後の「観戦」となったのである。